辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

外国人友の会と着物の夕べ

2006-04-27 12:58:01 | Weblog
外国人友の会と着物の夕べ


パリへきてから、生まれてははじめてきた着物。賞賛するフランス人友人たちからの質問や外国人学生の会で、日本のソワレ(夕べ)を開催した。会場へ行く前に自宅で着物の先生と、化粧を担当してくれた2人のパリで働く日本人女性だった。着付け、化粧、髪で、3時間くらい、かかったことを思い出す。1998年、秋だった。まだ私は、ソルボンヌ大学の博士課程の学生で、そのときは、母がパリにきてくれていたので、着物の夕べをしようということになり、着物をきることにしたが、人生で初めてのイベントに近いことだった。小さいときから、着物には縁がなかったし、日本をでる1994年9月までは、伝統に反抗して生きてきたので、
パリにきて逆にフランス人から日本の伝統文化について、質問をうけ、着物や浮世絵の美しさに開眼したのは、外国、フランスパリだった。

親友のミシェルも、ボー、ルビーコント城の持ち主の家族である、ムシュウ、マダム、ヂュボグエ、伯爵夫妻もきてくれた。

マダムとムッシュウとの出会いもわすれがたい。1997-98年のバングランデッシュの1年以上にわたる調査研究をへてかえってきて、フランス語を忘れた感じがし不安だったわたしは、外国人友の会に入会した。台湾人学生から、よくきいていたが、OECDでの研修とUNESCOの勤務で時間的に余裕のなかったわたしは、月曜日と水曜日の会合がある夜通う時間がなかった。入会したのが1998年9月。ある日マダムから電話がかかってきて、今年は日本人学生がいるときいて、家にきて夕食をどうかといわれて、日曜日の夜はあいているかときかれたわたしは、もちろんです、日曜日の夜は一番きらいですといったら、どうしてときかれ、日本にいるときには感じなかった、孤独をかんじるのが日曜日だからと答えた。そのあとから、規則的に、夕食にまねかれて、わたしのほうからは、大きな夕食会は学生だったのでできなかったが、日本映画へ招待し、高峰秀子(カルメン、故郷へ帰る)の映画や、小津安二郎(東京物語)の映画などだった。

着物は、大変好評で、50人くらい、集まった。外国人学生友の会の活動している場所は、ソルボンヌ大学の近くで、ゲイ、リュサックという通りにある。

発表は、ポールエリック、ロドルフ、私と、3人で担当し、ポールエリックは日本のまんがについて、ロドルフは、日本に関するクイズと、日本文化、歴史について一般的な話と、かれの体験した、東京について、語った。

大変好評で、その後、マダム、ムッシュウの娘で同じ日にうまれた、9月18日だが、
マリーと実家の家での夕食でであい、日本人外交官との昼食会にマリーを招待し、マリーのアパートへみき、という、ことを経て、ある日、結婚式に招待された。黄色を主にした日本の四季をえがいた、着物は外国人友の会できたが、結婚式には、フランスの国旗の色と同じ色合いの着物、絞りのもので、青、赤、白の着物をきていった。教会での式のあと、小さなカクテルパーテイとなり、貴族の結婚式にふさわしい、大きな帽子をかぶった、
マダムたちが多い式だった。

それから、1999年の夏には、マダムのお母さんが90歳代で、目が失明しかかっていて、ほとんど見えないが、プライベートのお城である、デズニーランドの近くのサン、フィアークル城で過ごすヴァカンスによばれて数日間を家族とすごした。ボー、ルビーコント城み、ムシュウのガイドつきで、案内してもらった。1999年1月1日は、友人と一緒にお正月をすごし、1999年のおおみそかには、同じ場所で、大晦日をすごした。
母も2回ほど、お城にいき、一緒にすごした。暖炉があり、おおきな庭があり孫たちがきてはあそんでいた。のびのびと過ごす子供たち。だが貴族のしきたりがあり、フランス語ではあなたというのは2通りある。ヴゥとチュだが、最初の言葉は丁寧語で、先生、上司、尊敬する相手につかう、あるいは、はじめてあったひとなど、でも、貴族の家族では親にたいしても、ヴゥを、マリーがつかっていたのをきいて、質問をしたら、ずっと慣習になっていると、おしえてくれた。チュで話すのが親子関係とおもっていたが、フランスのまた別の、面があることを知った。

博士号がおわったあとは、口頭試験の、あと、同じ日で、レストランへ10人くらいでお祝いのをしたときにも出席してくれた。
1998年から7年にわたる伯爵夫妻との友情は今でも続いている。













最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。