辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

バングラデッシュ、わたしの途上国援助の出発点、

2006-04-27 13:22:08 | Weblog


この1年にわたるバングラデッシュ滞在期間中は、4回は、パリへかえってきたが、1998年5月に、高熱がつづき、結核かとうたがわれたわたしは、気管支喘息が悪化し、パリの病院で治療をうけるためにパリへもどった。しばらく5年は、南アジアへいってはいけないといわれた。あんなに情熱をかたむけたのに、ずっと途上国の1カ国で、国際機関の、仕事をしていきたいとおもって、夢は実現するとおもってきたが、ここで挫折。

しかし、そこでであった、FAO当時バングランデッシュ事務所長だった、小沼代表に、日本のホテルで、であって、オムライスをたべていたわたしに、どうしてここへきたの、ときかれた。当時、毎日のように、シャルワズ、カミーンズというパキスタンドレスをきて、近くのスラム街や、貧しい地域へUNESCOの研究フェローとして、インタヴューへアシスタントをつれて、朝でかけ、夜かえってきていた。
小沼代表から、もっとも貧しいひとのすむ地域をみることは大事ですよ、と助言を頂いた。
FAOの事務所もおとずれて、タンガイルという、売春婦の子供たちを、集めた学校を視察した。歌を歌って歓迎された。ご飯をください、お水をください、おなかがすいているから、という内容の歌だった。おなかがすいていては、なかなか勉強はできないし学校に行けない実情はわたしには、経験したことのないものだった。開発は教育から始まるとおもしんじていたが、たべること、食料をかうお金がないのは、仕事がなく雇用がすくないからという経済事情にもよる。現金収入になる仕事が必須だと感じた。それで、開発援助は2本立てで、経済発展と教育発展が重要で、マイクロクレジットは、小型かしつけのため、週単位で返還する方法は南アジアの土壌にあっている。南アフリカへいったときは、月単位の返還が南アフリカの黒人社会でおこなわれていた、方法だった。

ダッカ女子大学に身をおき、途上国開発と教育の研究をしていたわたしのテーマは、マイクロクレジットと教育開発というテーマだった。グラミンバンクが、貧しいひとのための銀行として生まれ発展したのは、バングラデッシュだった。ASHAという2番手のNGOは、グラミンバンクとはまた異なり、貸付だけではなく、教育は保健医療といった、統合的プログラムもしていると現地へいってからきいて、興味をもったわたしは、現地のダッカ事務所を訪れた。もうひとつ研究したかったのは、カリタスという現地NGOだった。カリタスは、クルナという南の州で、そこでの現地OFFICEで、ホームステイをしたところだ。
日本人医師にであい、そのころ10時間くらいぶっつけで仕事をしていたわたしは、そんなに仕事をするとからだをこわす、といわれ、実際に熱があったわたしは、日本の抗生物質をのんでもきかず、パリからポールにたのんで、パリの主治医に電話してもらって、くすりの処方箋をかいてもらって、くすりをかいにいってもらって、ダッカまでおくってもらったが、ダッカ空港で麻薬とまちがわれて、10日くらい受け取れなかった。父の友人であるアマッドさんにいってもらって、取りに行ってもらった。何がしかのお金を、はらったのをおぼえている。パリからとどいた抗生物質で、危機はのがれ、発作で命をなくす人もいる喘息の病気は、なんとか、おさまった。

開発援助を語るのが困難なのは、それぞれの国で文化、宗教、言葉、慣習がちがうため、社会のシステムがちがうために、ひとつの理論があってすべての国に適応できる、応用できる理論があればいいのだが、そういう便利なものがない。それぞれの現場でたちあい、経験したひと同士で情報を共有することからはじめたらどうかと、思う。日本人はいい経験と知識を、それぞれの個人はもっていても、あまり共有するということは、苦手なのかもしれないが、これからは、インターネットもあるし、EMAIlで、世界とつなぐことができるのだから、体験記ももっと多くのひとがかいたらいいのではないだろうか。
バングラデッシュも、もう8年前の経験になった。出発点であり、また原点である。

 






スリランカ-津波地震復興プロジェクト

2006-04-27 13:15:43 | Weblog
てくてく海岸を歩く一人の女性。スリランカ女性。年代は50代くらいだろうか。
ファチマ、という名前の女性にであったのは、スリランカ、インドネシアの国連のミッションで、コロンボへいったときだ。
3月22日、ミッションの9日目にアポロ病院に急性気管支喘息炎で緊急入院し、その後3月26日に退院できた。その後、コロンボの近くで、そうとおくないところで、被害地をおとずれたいとおもった。1週間くらい休養したのち、まだ健康は100%回復していないのだが、まず、写真撮影と現地のひとにあって話しをしてみようと思った。スリランカでは、ゴール以外には、健康問題のため、ほかの被災地をおとずれることはできなかった。
現場をみないで、プロジェクトを机上で作成したら、国際官僚が、ローマ本部の涼しいオフィスで、コンピューターで、プロジェクトを作成し、現場へ行かない人と同じになるのでは、被災地をみにいったほうがいいというのが、スリランカで活躍している日本のNGOリーダーからの助言だった。

ファチマは、津波地震で、家族もうしない、家もない。毎日海岸を大きな風呂敷つつみを担ぎ、ルンギや、シャツ、ブラウス、よく海岸で外国人がはおっている、おおきな柄の、布地で、外国人がよく、泳ぎの合間にはおっている、おしゃれな洋服がるが、そういったものを、売っている。
グリーンや、赤や、黄色やピンクの布地で、スカートにもできるし、街でも、着ている女性がいる。外国人用のお土産店も津波の被害でなくなった。てくてくと、歩いてく女性が遠くからこちらをみている。最初は不思議だったが、海辺で海をながめて、次の視察場所を検討していた私の、前にきて、にっこりわらった。アシスタントに、中味はなにかときてもらった。彼女はルンギをみせた。きれいな色だった。ピンクの色のは自分用にかい、すると、彼女は、ああ、これで今日のご飯がたべられるわ、といった。きいてみると、すべてを失い、5人いた子供も津波にのみこまれた。ご主人もなくなった。テントでねているが、暑くてねれなし。40度以上なのだ。外でねているといい、津波の被害でこわれたお店に連れていってくれた。あとかたもない。海辺から5メートル。毎日あるき、ひとつでも、うって、いつか海辺沿いのお店を開けたらいいと語った。友人と同僚へのお土産としてかったいくつかのルンギは、将来、どこかで、フェアートレードの、商品になるかもしれないとおもってローマへもちかえった。その後パリの自宅にある。次回日本へ帰国したときに、もってかえることにしょう。300円くらいでひとつのルンギ、スカートで、男性もきている。家できるリラックス用だ。おしゃれにも使いようによっては、使える。


スリランカの海岸は、津波地震災害後にいったときに、自然は美しいが、脅威の前でかたして人間は何ができるのかと思った。スリランカでは、9メートルの津波。ゴールという、南の地方で、すべてのたてものが波につかったと聞いて、町は破壊され、普通の人間の生
活はできないだろう、でもやはり人間はいきていかなければいけないのだから、なんらかの回復力はありのではないかとおもったが、やはりおもった以上に、人間はたくましい。
町も活気をとりもどし、ゴールについたのは夜だったので車のライトで最初の目にとびこんできたのは、テントだった。その後、ごみの山。マーケットらしい、軒先。
海は暗く穏やかだった。翌朝、海岸沿いにたつマーケット。活気があった。4月20日すぎの満月になるとする、新年の、お祝いで、かいものをする、人たちでにぎわっていた。

ゴールでは津波後、3ヶ月たち、外国のNGOがはいって、協力して、現地の住民に、家の修繕、再建を指導していた。現地では、海岸のホテルはほとんど廃業になり、海岸沿いではなく奥にあるホテルはNGOのゲストハウスとなり、外国人スタッフが泊まっていた。

12月26日の時点でとまった、列車。BBCがきて、生存した一人の女性を、インタビューしたと聞いた
私が興味があって、写真をとったのは、破壊後、すげてはめちゃくちゃ、家も家族も財産もうしなって、でも復興、再建にむかうとき、人間は、前向きになり、でも過去はわすれることはできない。事故、災害後、ショック後のいきかたに、興味があるわたしは開発途上国で、内乱、戦争、お金をめぐるごまかし、癒着、など、貧しいひとたちに関わる際のヒューマニズム、それだけでは、解決できない。それから、国際開発、援助を、ビジネスにできるかという問いもでてきた。フェアートレードなどは、フランスでは完全の企業の形でしか存在しにくいし、いくらもうけるかの世界だ。わたしは、日本のNGOは独自な方法で、ビジネスと、ヒューマニズムのあいだで、なにか国際貢献の道はあるとおもっている。日本の援助は、国際機関でもお金を出す国として、有名になっているが、もっと知恵をだして、知的貢献に寄与することができるだろう。あるいは、市民レベルでも経済的貢献をするなら、国際MGOに寄付をする、いらなくなった衣類を預ける、アフリカアジアへ送ることをしているNGOに寄付をする。

国連の、プロジェクトは額が大きい。1億単位で、物事は進められる。人件費が多いのだが、
国連にしかできないことは、各国際機関の、独自なプロジェクトと、国際機関同士の協力とNGOの協力関係で、進められるプロジェクトだろうか。

日本のNGO,は今変わるべき時期にきている。これからは、現地にもいけるリーダー、そして国際会議でも堂々と日本のNGOの代表として、外国語をつかって外国のNGOと交渉できる人材育成が必要かとおもう。そうして初めて、国際的な協力ができるだろう。日本人の感覚では世界がうごいていないことをまずしってほしい。日本文化を相対的にみられるひとがこれから大事だろう。







外国人友の会と着物の夕べ

2006-04-27 12:58:01 | Weblog
外国人友の会と着物の夕べ


パリへきてから、生まれてははじめてきた着物。賞賛するフランス人友人たちからの質問や外国人学生の会で、日本のソワレ(夕べ)を開催した。会場へ行く前に自宅で着物の先生と、化粧を担当してくれた2人のパリで働く日本人女性だった。着付け、化粧、髪で、3時間くらい、かかったことを思い出す。1998年、秋だった。まだ私は、ソルボンヌ大学の博士課程の学生で、そのときは、母がパリにきてくれていたので、着物の夕べをしようということになり、着物をきることにしたが、人生で初めてのイベントに近いことだった。小さいときから、着物には縁がなかったし、日本をでる1994年9月までは、伝統に反抗して生きてきたので、
パリにきて逆にフランス人から日本の伝統文化について、質問をうけ、着物や浮世絵の美しさに開眼したのは、外国、フランスパリだった。

親友のミシェルも、ボー、ルビーコント城の持ち主の家族である、ムシュウ、マダム、ヂュボグエ、伯爵夫妻もきてくれた。

マダムとムッシュウとの出会いもわすれがたい。1997-98年のバングランデッシュの1年以上にわたる調査研究をへてかえってきて、フランス語を忘れた感じがし不安だったわたしは、外国人友の会に入会した。台湾人学生から、よくきいていたが、OECDでの研修とUNESCOの勤務で時間的に余裕のなかったわたしは、月曜日と水曜日の会合がある夜通う時間がなかった。入会したのが1998年9月。ある日マダムから電話がかかってきて、今年は日本人学生がいるときいて、家にきて夕食をどうかといわれて、日曜日の夜はあいているかときかれたわたしは、もちろんです、日曜日の夜は一番きらいですといったら、どうしてときかれ、日本にいるときには感じなかった、孤独をかんじるのが日曜日だからと答えた。そのあとから、規則的に、夕食にまねかれて、わたしのほうからは、大きな夕食会は学生だったのでできなかったが、日本映画へ招待し、高峰秀子(カルメン、故郷へ帰る)の映画や、小津安二郎(東京物語)の映画などだった。

着物は、大変好評で、50人くらい、集まった。外国人学生友の会の活動している場所は、ソルボンヌ大学の近くで、ゲイ、リュサックという通りにある。

発表は、ポールエリック、ロドルフ、私と、3人で担当し、ポールエリックは日本のまんがについて、ロドルフは、日本に関するクイズと、日本文化、歴史について一般的な話と、かれの体験した、東京について、語った。

大変好評で、その後、マダム、ムッシュウの娘で同じ日にうまれた、9月18日だが、
マリーと実家の家での夕食でであい、日本人外交官との昼食会にマリーを招待し、マリーのアパートへみき、という、ことを経て、ある日、結婚式に招待された。黄色を主にした日本の四季をえがいた、着物は外国人友の会できたが、結婚式には、フランスの国旗の色と同じ色合いの着物、絞りのもので、青、赤、白の着物をきていった。教会での式のあと、小さなカクテルパーテイとなり、貴族の結婚式にふさわしい、大きな帽子をかぶった、
マダムたちが多い式だった。

それから、1999年の夏には、マダムのお母さんが90歳代で、目が失明しかかっていて、ほとんど見えないが、プライベートのお城である、デズニーランドの近くのサン、フィアークル城で過ごすヴァカンスによばれて数日間を家族とすごした。ボー、ルビーコント城み、ムシュウのガイドつきで、案内してもらった。1999年1月1日は、友人と一緒にお正月をすごし、1999年のおおみそかには、同じ場所で、大晦日をすごした。
母も2回ほど、お城にいき、一緒にすごした。暖炉があり、おおきな庭があり孫たちがきてはあそんでいた。のびのびと過ごす子供たち。だが貴族のしきたりがあり、フランス語ではあなたというのは2通りある。ヴゥとチュだが、最初の言葉は丁寧語で、先生、上司、尊敬する相手につかう、あるいは、はじめてあったひとなど、でも、貴族の家族では親にたいしても、ヴゥを、マリーがつかっていたのをきいて、質問をしたら、ずっと慣習になっていると、おしえてくれた。チュで話すのが親子関係とおもっていたが、フランスのまた別の、面があることを知った。

博士号がおわったあとは、口頭試験の、あと、同じ日で、レストランへ10人くらいでお祝いのをしたときにも出席してくれた。
1998年から7年にわたる伯爵夫妻との友情は今でも続いている。













フランスボルドー地方のクリスマス(ノエル)

2006-04-27 00:23:52 | Weblog
親友ミシェルの家族と過ごしたフランスボルドー地方のクリスマス

親友ミシェルとはUNESCOのときにであってからの、仲良しだ。

彼女とは、UNESCOで仕事をしていたときにたすけてくれたひとだ。資料をさがしていて、困っていたときにたすけてくれたひとだ。その後、お茶をのもうとしてさがしたら、彼女の同僚からは、彼女は病気だときいた。でも住所も電話番号もきいていないので、
居場所がわからない。しばらくして、病気休暇がおわってから、オフィスへもどってきた彼女はとは、日曜日ごとにあい、映画をみるようになった。それからは、よくわたしの自宅へきてくれて、日曜日の午後、数枚の手紙をフランス語でパソコンを使って清書をしてもらった。当時博士号の一年目で、仕事と学位取得で大変だったわたしは、彼女から気分転換をするたいせつさを学んだ。

その後、1年くらい、バングラデッシュでの現地での調査研究で、途上国へ出発したのは、1997年4月。その後かえってくるまでは、パリには4回くらいかえってきたが、いずれも4-5日、長くて1週間くらいだったため、あまりあえなかった。

彼女は、今でも親友で、1996年からの友情は、9年続いている。
2002年のクリスマスに、彼女の家族をおとずれて、3日くらいとまった。

クリスマスはほとんどの友人がクリスマス休暇で、実家へ帰る。


その後、もう一度、彼女の家をおとずれたのは、母が、パリへきて、博士号取得のために、様子をみにきてくれて、一緒にミシェルの実家と彼女のお母さんにあいにいったのが、2回目だった。
そのころ、博士論文で、マダムニコルという、協力してくれた友人にであって、アルデッシュという、南フランスに位置する、ニコルの家に、論文しあげのために1週間くらいとまりがけでいったときに、ミシェルの家から近い、TGVの駅の、アジャンという駅で、2分くらい車がおくれたので、TGVにのりおくれてしまったので、駅で母とカフェにはいいて、論文の続きをパソコンで、書いたのも今となっては、いいおもいでだ。
フランス人は家庭に友人を招待する習慣が強いが、クリスマスという、日本でいえばお正月の一大イベントのような、家族で過ごすのが習慣となっている行事にあたるクリスマスはあまり、友人はよばないようだ。11年のなかで、フランス人の家には何回かよばれていったが、ノエルをすごしたのははじめてだった。

ノエルの木という、木を半分にきった形をしたケーキ。手作りのケーキだった。
彼女のお姉さん(長女)とご主人が30人くらいの、家族を招待しての、セレモニーだった。
料理も、見事だが、かざりつけも招待客のひとりひとりの名前がかかれてある、木でつくった、手作りの、名札をみて座る。わたしは、ミシェルや、ミシェルの、いとこやミシェルの妹やその相手と、話した。お兄さんとも、おねえさんとも話した。12月25日の夜中すぎまで、お祭りは、つづき、12時をまわると、サンタクロースがやってきて、それぞれの招待客に、プレゼントをおいていく。プレゼントは、わたあしにもおいてあって、名前がかいてあった。子供のころにまだサンタクロースを信じていたときを思い出した。ミシェルの家族も、サンタクロースは本当だと、子供たちには、言っていた。

彼女は6人兄弟の4番目でバランス感覚が優れている。彼女とはいろいろなことを話せる。留学1年目に、パリでフランス人で、一人でも何でも話せる友達を持つことは、とても大事で、落ち込み防止に役立つといわれたことがあるが、ミシェルは私にとって姉のような存在である。

12年のあいだ、法務大臣の秘書をつとめてきただけあって、外交的で、しかも、丁寧ないいまわしや、話しぶりで、相手をけっして不愉快な気持ちにはさせない点は、今でも彼女の魅力だ。法務大臣が日本へきたときも、妻で作家のエリザベート、バダンテールとの日本旅行日程は、彼女がすべて組んだものだと聞いた。私の弟がパリにきたときは、ガイドかわりをしてくれて、凱旋門とシャンゼリゼまで連れて行ってくれたし、母がきたときは、ルーブル美術館まで、連れて行ってくれた。今はパリにもどてきてから、定期的にあっている。





パリの日本伝統文化とお茶会

2006-04-27 00:08:24 | Weblog
パリの日本の伝統文化とお茶会

2003年、春、浴衣を着て、友人宅で、お茶会をすることになった。親友の内藤美知子さんから電話があり、今度友達のところで、お茶会とコンサートをするので一緒にいかないかと誘われた。ゆかたを着てきてくださいといわれ、友人の、小島玲子さんに頂いた花火の浴衣があったので、浴衣を披露するいい機会だと、簡単に承諾したものの、お茶自体本当は、はじめてだった。

テスト前の一夜漬けと同じで、急いで、お茶の本を読み、着物の先生であり、友人の岡部美里さんの電話で浴衣の着付けとお化粧を、お願いして、電話で、やりかたをきいて、着付けをしてもらっているあいだに、お茶碗のもちかたや、まわしかたをおしえてもらうという、それで、いきなり本番で、フランス人にやりかたをおしえることになったというハチャメチャなやりかただった。

パリでは日本の芸者の本やマリーアントワネットの日本の漆器のコレクションがかくれた日本ファンに、売れるように、フランスでは浮世絵が印象派以前からフランス絵画へ影響を与えた歴史があるためか、フランス人の美意識にかなったものが日本文化のあるのか、あるいは、まったく異質のものだからひかれるのか、まだ分析する時間がないが、これからのテーマとしたい。

3時間くらいのお茶会はアパートにジャンバチストという、フランス人の友人に、迎えにきてもらって、座布団とお茶会に必要なもので最小限のものを、風呂敷でつつみ、タクシーにのっていった。美知子さんもゆかたをもってきたので、着物の先生にきつけてもらって、お化粧してもらって出来上がり。

ゆかたと着物の区別や、帯はなぜ前にしないか、うしろだと、大変だろうとか、訪問先の、フランス人の子供に質問された。

花火をあしらったこの浴衣は夏にふさわしく、春だったが、よい天気で、音楽コンサートはバイオリン、ピアノと歌だった。わたしは、十八番の、シャンソンを浴衣すがたでうたった。きかせてよ、愛の言葉を、という、シャンソンだ。

フランス語で、さっきならったばかりの簡略なお茶の方法を説明し、日本人がみたら、きっとわらうだろうとおもいながら、でも入門の入門で、たのしかった。

静か、にというとフランス人は、なかなかできない。正座もつらいので楽にし、質問もうけながらやった。そうでないとフランス人に沈黙というにはつらいだろう。

抹茶と、どら焼き、と羊羹でお茶を頂く。

お茶会のあと、8人くらいだったが、ブーローニュの森を散歩し、日本の映画の撮影かとおもわれたくらいだ。

自宅へかえってから、美知子さんとジャンバチストと一緒に、7区と6区のリュ、ドウ、バックと、サンジェルマンデプレを散歩した。

その後、機会あるたびに、着物、浴衣、お茶、かけものについて、質問をうけているうちに、2003年6-9月まで、友人をたよって、お能の狩野先生の、稽古場をみせていただき、お能を、松隈昌子さんと、花小町だったかとおもうが見に行った。

お茶の師匠である、浜野先生のお母さん、浜野孝子さんは、私の母の同級生のお姉さんという関係で、1ヶ月ほど、東京近郊にあいているアパートにお世話になった。そのときお茶の先生で、アパートのとなりにある、教室をみにいき直接教えていただいた。裏千家流で、ポットを使ってする簡略式だった。浜野孝子さんは、書道が上手で、すばらしい書の作品をみせてもらった。亡くなったご主人と一緒に歌った、民謡大会で優勝した話など、面白かった。最後の日は、屋根から見た花火。きれいだった。


座禅を組みに、これは福井の宝鏡寺へ父といき、1日修行入門をしてきた。何回か父と座禅をしたが、フランス留学も、この座禅で決断したものだ。

三国節はパリでの友人にたのまれて、福井で、近藤みちぇさんのところに泊まったときに、三国祭りで、おしえてもらって、夜踊った。笠をかぶり、日本のお盆では、先祖の霊をなぐさめるために、本来は死者が踊るのだから、顔は隠して踊る、あまり笑顔は似合わないといわれ、おどろいた。

パリでは日本文化、浮世絵、日本語、茶の湯、いけばな、書道、日本料理もこの10年―15年くらいさかんだ。テレビでも日本料理のふぐの紹介、大阪の日本料理店が紹介されるなど、日本への理解が深まることはうれしい。私も、やっとパリへかえったのでこれから日本人であることを誇りにおもって、パリ、フランスで、真の日本の今と歴史を伝えたいと思う。