今回は、長野県南佐久郡小海町の景勝地“松原湖”その湖畔に鎮座する松原諏訪神社上社と下社の紹介です。
松原湖へは、国道141号を北上しJR小海線 松原湖駅の西 県道480号(松原湖高原線)より2キロ 自宅からは40分ほどで行く事が出来ます。
「松原湖」は、猪名湖(いなこ)・長湖(ちょうこ)・大月湖(おおつきこ)という3湖の総称ですが一番広い猪名湖が一般的には、松原湖として認識されているようです。
887年の仁和地震により、天狗岳山体が崩壊し、岩屑なだれにより丘陵地の窪地を流れる大月川がせき止められて氾濫し、生成された自然湖なんだそうです。釣りのメッカでこの日もたくさんの釣り人で賑わっておりました。
湖畔沿いに周遊できるようになっていて我々は左回りにまずは下社を参拝しに行きました。
御陵鳥居 位置的に下社一の鳥居と思われますが鳥居の手前は松原城址の一画で、民家とその奥は山林が続いていたので、かつて甲斐国と信濃国との物流の重要街道だった佐久往還道(今の国道141号) からの参拝路があったのでしょう。
木橋を渡った松原湖の対岸には、上社が鎮座しています。
対岸のその奥には八ヶ岳の天狗岳が聳えます。
松原諏訪神社下社
こちらは、上社と比較すると質素です。
拝殿越しに本殿を望む
覆屋の中にある本殿 一間社流れ造り杮葺で、左右の壁には、大きく特徴的な諏訪紋でもある梶の葉の彫刻があしらわれています。
祭祀:建御名方命・事代主命・下照比売命
御柱が一本 本家と同じく七年に一度盛大に執り行われます。
境内社 白山宮
湖畔の傍らにポツンと祀られていた石祠
再び周遊路をぐるっと対岸に鎮座する上社へと向かいます。
上社 一の鳥居
こちらは裏参道にある両部鳥居
拝殿
本殿 一間社、流れ造り、杮葺
拝殿と本殿
由緒:
天智天皇(てんちてんのう)600年代の御字の創立と云われて居るが御宝霊(おほうれい)には天慶二年八局十五日(939年8月15日)、文和元年六月十七日(1352年6月17日) (いずれも北朝の年号)延文二年七月廿三日(1357年7月23日)とあり上下両社共、朱雀天皇(すざくてんのう)の天慶の元号を最古として夫から降って幾つかの年号を銘記してある。以前延喜式神名帳の撰上になったのは延長五年(927年)である。
又、建久五年十月十五日(1194年)源頼朝の時代となり、のちに説明する龍伝説の畠山重忠・梶原景時の奉行たらしめ華表を建立せられたとも諏方神社再建の趣旨書にある。(別項 龍伝説参照)
観応三年(1340年)松原神社文書に『伊那古松原大明神縁起』なるものがあり、『諏方大明のご神体が伊那古神社に飛来した奇瑞があった』とその時の神主(和泉太夫)の筆で、現在の佐久市に有った前山城の城主だった伴野長房が時の将軍足利尊氏に報告され、尊氏は文和元年(1352年12月)に『これは神の威光(いこう)なので崇めるように』といった御判教書が下されている。
このとき古有の祭神は諏訪神に移行したものと思われる。
野ざらしの鐘 以前までは本当に野ざらしだったようですが今は東屋の中に置かれてます。
野ざらしの鐘 解説(写真クリックで拡大)
御柱一本 下社と同じく盛大に御柱祭りが執り行われているそうです。
かつての諏訪紋が入った鬼板
道祖神の御神木
境内社 山宮(桜の宮)
境内社 熊野権現宮
境内社 弁財天宮
ここで、松原湖に伝わる龍伝説を紹介します。
むかし源頼朝がライ病にかかったとき、龍の生き肝を飲めばよいという神のおつげが夢に現れた。そこで頼朝は、畠山重忠に龍の生き肝を取って来いと命じた。重忠はどこへ行けば龍がいるかわからないので困ったが、これもまたある夜の夢に信州松原湖に住む龍の生き肝をとるがよいと教えられた。重忠はすぐに出掛けて、松原神社から弁天島へ下る大弥太坂で母に行き会った。重忠は母に頼朝の命を話すと「私が湖の中に入って、蛇体となるから肝をとって主君に奉れ」と言って入水した。たちまち水面に水柱がたったと見る間に、大蛇の姿が湖上に現れてた。重忠は今はもう躊躇する時ではないと、ついにこれを殺して生き肝を取り頼朝に差し上げた。頼朝は病気がたちまち治ったので、長湖湖畔の神光寺の境内へ重忠の母のために5重塔をたてて供養したという。また頼朝の病気が治るよう、重忠の母が松原湖の主の龍に身をささげて祈ったから頼朝の病気が治ったのだともいう。(引用先:松原諏訪神社HPより)
背後にあった巨石
ここから見る松原湖の景観が本日のベスト1でした。
境内社 八幡宮
(撮影:2023-9)
【マップ】
長野は本当に大きくて広いですよね。
駒ヶ根いかれたのですね。
小海町や先日訪れた川上村も駒ヶ根とは真逆の同じ長野でも東の端っこですからね。
それでも諏訪信仰は、全国各地に広まっているわけで人の信心とは奥深いものがありますよね。
次回も楽しみにしています。