芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

高々と「たいまつ」を掲げて

2016年08月22日 | エッセイ
              

 武野武治は大正四年(1915年)、秋田郡仙北郡六郷町に生まれた。家は小作農家だったが、両親は集落の農家の作物を町に売りに行く仕事を始めた。町に行く前に、農家から町で手に入れて欲しい商品の注文をとり、町でそれを仕入れた。御用聞きでもある。また、双方から様々な雑用も引き受けたらしい。武野家は小作農家から非農民に移行していったのだろう。
 武治はこのように農民に囲まれて暮らし、育ったのである。

 彼は横手中学校から東京外国語学校スペイン語科に進んだ。ふと、彼がスペイン語を選んだ理由を想像してみる。たった一人で巨大な風車、強者に挑むドン・キホーテの物語から触発されたのか。あるいは、ヘミングウェイが「誰がために鐘がなる」で描いたスペインの内戦と、人民戦線政府を助けるため世界中から集まった義勇兵への憧れでもあったのか。
 外語学校卒業後に報知新聞に入社し、社会部の記者となった。その頃であろうか、近衛文麿や有力軍人などを取材、インタビューしている。昭和十五年、朝日新聞に移った。
 彼は朝日時代に、同僚や社内の空気が急速に変化していく様を目にした。中国戦線の拡大や外交政策に批判的だった社の空気が、どんどん変化していくのである。もちろん日本の新聞各社は、発禁や軍部の強硬姿勢、それを支持する右翼勢力の暴力を恐れ、批判的記事は鳴りを潜めていったのである。日本の新聞各社はさらに自主規制を始め、積極的に提灯記事、国威発揚記事を書くようになり、国民の戦意を煽ったのである。言論統制ははますます強まっていった。そして日米開戦を迎えた。
 彼もまた東條英機などをインタビューし、中国、東南アジア特派員として従軍し、戦地を取材した。
 どんなに大本営発表の記事で戦意を煽ろうとも、撤退を転進と言い換えようとも、あるいは玉砕と美化しようとも、もはや日本の敗戦は自明であった。彼は痛切な自責の念にとらわれていた。自分も積極的に国威発揚記事を書いた。なぜ、そうなったのか。なぜ新聞は批判記事を書けなくなったのか。戦争への新聞の責任とは何であったのか、記者の責任とは何であったのか。ジャーナリズムはどうあらねばならなかったのか。ジャーナリストとして、その責任を取らなければならない。終戦後、彼は朝日新聞を退社した。

 昭和二十三年の元旦、彼は妻子を連れて秋田県横手市に帰郷した。その翌月にタブロイド版二ページの週刊新聞「たいまつ」を発行した。発行人・主筆は彼「むのたけじ」である。社員は彼と妻の美江さん、そして復員兵士の竹谷幸吉の三人である。
 ただの週刊の、二ページだけの、地方紙に過ぎないが、天下国家を論じ、反戦と平和を社のテーマとして高々と掲げた。あまりにも小さく、細々とし、一部三円。当然のごとく定期購読者はゼロから始まったのである。「たいまつ」は創刊の宣伝のための無料配布をしなかった。「タダのものは真面目に読まれない。読まれぬものは初めから作らぬほうがよい」
 むのをはじめ、三人で新聞の束を抱え、雪深い農村を歩きながら一軒、一軒売って回った。やがて鉄道弘済会の売店でも売ってもらえるようになった。しかし購読者が増えるにつれ、配達の苦労はいや増したのである。購読者の六割は農民である。彼らは歩き、配達して回ったのである。
 部数も二千部となった。こうして田舎の豆新聞は維持されていくのである。夫人は着物を入質した。翌年には社員も一人増えた。
 昭和二十六年、自社印刷を目指し、朝日新聞から中古活字を譲り受け、美江さん自ら素人植字を始めたのである。それもこれも赤字続きの「たいまつ」の経費削減のためであった。当時、日本には四千社の地方新聞があったそうだが、一番貧乏だったのは「たいまつ」であったろう。
 むのは、やがて自らの「口による新聞づくり」を開始した。横手を中心に、その外に出かけて行き、「たいまつ」主催の講演会を始めたのである。「たいまつ」の主筆はよく語った。聴衆が一人しかいなくても、熱心に語った。農民の皆さんに知ってもらいたいこと、知らなければならないこと。そして講演会に顔を出した人々に、「皆さんが、世の中に対して、何か伝えたいこと、言いたいと思うことはありませんか?」と。
 新聞の行商を兼ねた講演会は、取材も兼ねていたのである。読者の声を大きく取り上げた「たいまつ」は、実に個性的なタブロイド版のローカル新聞であった。
 やがて、むのは「たいまつ十六年」と「雪と足と」を刊行した。すると彼の元に、この二書に感動した日本中の読者から、千四百通もの手紙が届いたのである。そのほとんどは若者たちであったという。若者たちが心を揺さぶられたのである。彼はその熱い魂が書かせた手紙を集め「踏まれた石の返書」を刊行した。
 
 享年百一歳。彼の死は、リオオリンピックでのメダルラッシュに沸く日本では、あまり大きく報道されなかった。彼の反戦・平和の言葉の数々を、日本のメディアは政権の意思を忖度し遠慮したか、あるいは、今さらどうでもいいだろう、という判断であったのだろう。…民の沈黙が戦争をまねく。戦争は報道の自主規制から始まる。…