芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし 花に舞う

2016年08月26日 | 競馬エッセイ
           この一文は2009年3月24日に書かれたものです。


   春三月 縊り残され 花に舞う
 三月二十日、駅に向かう途次、道沿いの小学校の桜の木を見上げ、つぼみのふくらみぐあいを見た。ふとこの句を思い出し、それを呟いた。妖しくも美しい句である。
 1911年の一月、大逆事件の幸徳秋水や管野すが等が絞首刑となった。その春、大杉栄はおそらくその生涯で唯一の俳句を詠んだ。大逆事件のおり赤旗事件で獄中にあった大杉は、奇しくもそれがアリバイとなって、近代天皇制の国家暴力から免れ得たのだった。近年、地球温暖化の影響で桜の開花は早まっているが、この年の開花も早かったのであろう。三月に舞う花びらの下にたたずみ、大杉は死んだ秋水や管野すが等を思ったに違いない。

 今回の話は、大杉栄や大逆事件、日本近現代史の癌である近代天皇制などという大それたものではない。たんなる競馬の話なのである。
 その日、新聞社会面の片隅に安田伊佐夫の小さな訃報記事を見つけ、また「春三月 縊り残され 花に舞う」という句が脳裏をよぎった。
 安田伊佐夫については2007年の暮れに書いたことがある。それは「元JRA騎手に有罪判決」という報に接してのエッセイである。元JRA騎手とは穴のヤスヤスと呼ばれた安田康彦のことであり、彼の父が安田伊佐夫だった。

 安田伊佐夫はシンザンで著名な、かの武田文吾調教師の弟子としてデビューしている。その後、島崎厩舎の騎乗依頼を受けることが多くなり、主戦騎手となった。やがて一頭の馬に出会った。タニノムーティエである。この馬はフランスの至宝シカンブルの血を引く。シカンブルは1948年生まれ、競走成績は9戦8賞。フランスの大レースを総ナメにした。典型的な底力血統である。
 その子ムーティエも大レースの勝ち馬だったが、気性と健康に難があって、「血統の墓場」日本に来た。気性と健康の難とは、つまり気違い馬だったのである。ムーティエには「身喰い」という悪癖があった。身喰いは自傷行為である。彼は自分の胸の肉を噛み切るような馬だったのだ。

 タニノムーティエも気性の激しい馬であった。しかしデビューから連戦連勝、圧倒的な強さを見せた。そして東上し、これまた連戦連勝の東のアローエクスプレスと激突した。彼らはトライアルレースを含めダービーまで、まさに一騎打ちの死闘を続けた。皐月賞、ダービーのアローの鞍上は関東のリーディングジョッキー、闘将・加賀武見だった。
 当時ラジオ関東の競馬実況に、ガナリのとっつぁんと親しまれた窪田康夫アナがいた。彼の名実況は忘れるものではない。「アローとムーティエがまたやった!アロー!ムーティエ!アロー!ムーティエ!やっぱりムーティエだっ!!ムーティエが強い!!」
 皐月賞、ダービーを制したのはタニノムーティエだった。狂気の名馬タニノムーティエを得て、安田伊佐夫は颯爽と二冠ジョッキーとなった。
 三冠も期待されたタニノムーティエだったが、その後は喘鳴(のど鳴り)のため全く精彩を欠いた。走る彼の喉からは、ヒューヒューという悲しい笛の音がファンの耳にも聞こえた。彼は引退し種牡馬になった。しかし、アローエクスプレスが種牡馬として大成功したのに引き比べ、彼は全く精彩を欠いた。彼らの戦いは、現役時代とは全く逆転したのである。

 年月は飛ぶように流れる。安田伊佐夫は引退し調教師となった。そしてハイセイコーの子のライフタテヤマの調教師として健在ぶりを示した。やがて息子の康彦も騎手としてデビューした。康彦はなかなかいい騎乗センスを見せた。また度胸もよく、大レースで大穴を出し、それなりの活躍をしていた。インタビューを受けて見せる笑顔は愛嬌もユーモアもあった。父が管理していたメイショウドトウで宝塚記念も制した。秋華賞も制し、よく重賞レースで人気薄の馬に騎乗しては大穴を開けた。ファンは「穴のヤスヤス」と呼んだ。
 しかし彼については、その素行の悪さが噂にのぼるようになった。二日酔いで調教を休んだり、酔ったままで調教に乗って調教師等から叱られた。またレース当日になって理由なく騎乗をキャンセルした。失踪騒ぎも起こした。こうして厩舎とのトラブルが絶えなかった。
 2000年の夏、康彦は札幌市内を酒気帯びの危険運転とスピード違反で現行犯逮捕された。2ヶ月間の騎乗停止処分を受け、騎乗が決定していた大レースを棒に振った。その後、彼は次々と有力なお手馬を降ろされ、騎乗数が激減していった。康彦の素行はますます荒れた。酒に溺れ、荒んだ生活を送った。馬主も他厩舎の調教師も、そしてついに父も彼を見放した。伊佐夫は自厩舎の馬に武幸四郎を乗せるようになり、康彦を騎乗させなくなった。

 これは私の想像に過ぎぬが、ある晩、父は子を激しく詰り、伊佐夫はついに息子に手を挙げたのではないか。康彦も酒に酔って暴れ、ことによると父伊佐夫に暴力をふるったのではないか。その晩康彦はふらつく足で家を飛び出したのではなかったか。
 おそらく翌日、伊佐夫は康彦の引退届を提出したのだ。突然の康彦の引退はファンを驚かせた。何があったのだろう。そう言えば康彦は最近さっぱり騎乗してないな…。
 その後、康彦の失踪が伝えられた。行方知れずだという。2007年初秋、康彦は京都市内のコンビニ店で店員に難癖をつけ、「殺すぞ」と恐喝の上、五千円未満の商品を奪ったことで逮捕された。このとき記者たちに取り囲まれた伊佐夫は「すでに勘当し、親子の縁を切っております」と言った。暮れに京都地裁は康彦に懲役二年、執行猶予三年の刑を言い渡した。

 短い記事によれば、伊佐夫は京都の大学病院で息を引き取ったとのことである。享年64歳、病死だという。まだまだ若いと思う。彼が息子の康彦のことを思わなかった日はあるまい。その悲しみが彼の命を縮めたか。康彦とは和解したのだろうか。康彦は父の死に目に会えたのだろうか。
 親族だけの密葬らしい。その席に康彦はいるのだろうか。「お別れの会」が京都のホテルで開かれるとのことだが、ぜひその会場に、がなりのとっつぁんの実況録音のテープを流して欲しい。
「アローとムーティエがまたやった! アロー!ムーティエ! アロー!ムーティエ! やっぱりムーティエだっ!! ムーティエが強いっ!!」…
 
 なぜか「春三月 縊り残され 花に舞う」という句が、私の脳裏から去らない。

                                                               

荷風と個人主義

2016年08月25日 | エッセイ
                                                                                             

 自民党の人たちは、憲法から「個人」を消して単に「人」としたいらしい。個性を持った個人ではない。犬猫牛馬のような種としての「人」である。日本国憲法に個人主義が入ったせいで、日本から社会的連帯が失われたので、新憲法では個人主義を排するのだそうである。
 個人主義は、彼らが言うような戦後にアメリカから持ち込まれた観念ではない。彼らが戻したい明治維新後に、西欧から持ち込まれた社会の基盤を成す近代思想の一つであろう。彼らは明治維新すら否定し、奈良時代の律令社会に戻らねばなるまい。
 また、個人主義という言葉はなかったものの、江戸時代の奇人変人、粋人の多くは、相当に個人主義的な人ばかりであった。つまり、わがまま勝手な人たち、他人の目をとんと気にもとめず、自分のやりたい放題という人たちである。松尾芭蕉も平賀源内も、山東京伝も、菅江真澄も、そうであったと思われる。
 勝海舟も個人主義的な人間であった。海舟は言った。「なあに、国だ国だと言う、その憂国の士ってえ連中が国を滅ぼすのさ」
 彼の元にやってきた坂本龍馬もかなり個人主義的だったように思える。龍馬に尊皇意識は薄かったであろう。攘夷思想もなかった。鎖国と攘夷は一体だ。尊皇攘夷を唱える連中を、幕藩体制や鎖国を破壊する道具と考えていたに違いない。彼は勤王派とも幕府方ともうまく付き合った稀代の策謀家である。龍馬の狙いは、尊王攘夷で倒幕を果たし、新政府を樹立して一気に開国させる。龍馬は海外と自由な交易をする商社を作りたかったのだ。
 福沢諭吉も徹底した個人主義に思える、片田舎の中津藩、その貧しい下級武士から出て、己の立身のための学問、蘭学を身に付けるため大坂に出た経緯と自己主張、さらに江戸に出て英語を身につけようとする猛烈な自己主張。維新後も官に身を置く気持ちはさらさらなかった。官などに縛りつけられてたまるか、ということだろう。
 安政六年生まれの坪内逍遥も、慶応三年生まれの夏目漱石も、個人主義者であった。

 明治十二年東京小石川に生まれた永井荷風(本名・壮吉)も、若くして徹底した個人主義者であった。荷風の自由で吝で好色で、個人主義的我儘は、戦前からかなり評判が悪く、批判を受け続けてきた。
 荷風の父・永井久一郎は、プリンストン大学、ボストン大学に留学経験もあるエリートで、高級官吏を経て、日本郵船に天下りして役員を務めた。山の手の裕福で気品のある家庭である。母親は邦楽や歌舞伎好きで、壮吉少年を連れて出入りしたため、これが青年となった荷風に強い影響を与えた。
 荷風は長男として父親の期待を集めたが、この父親を困らせることに熱意を持っていた。故意に一高を落第し吉原通いをした上、広津柳浪を訪い、その門弟となって小説家を目指しながら、すぐ飽きて清元を習い始め、その次に日本舞踊の稽古に通う。舞踊に飽きると尺八を習い始めた。さらに噺家の朝寝坊むらくに弟子入りし、朝寝坊夢之助の名をもらって高座にも上がった。
 次は福地桜痴に弟子入りし、歌舞伎座の座付作者見習いとなった。この頃からエミール・ゾラに傾倒し、勉強嫌いの荷風としては珍しく熱心に、フランス語を学んでいる。二十一歳のときである。
 翌年の明治三十四年、「やまと新聞」の記者となり、雑報を拾って歩いた。この自由気儘な道楽息子を、父の久一郎は何とかしたかった。正業・実業に就けと勧めたのである、それもアメリカで。荷風は喜んでその提案に乗った。
 日本郵船の船で渡米し、タコマやカラマズーで英語やフランス語を学び、ニューヨークとワシントンDCの日本大使館で下級官吏となり、さらに正金銀行に勤めたが、どうしてもフランスに渡りたい。彼は父のコネを借りようとした。そのとき彼は、街娼イデスと熱烈な恋に落ちていたのである。
 そんな荷風は、父の力でリヨンの正金銀行に移ることが可能となると、さっさと身を焦がすような恋を捨てた。こうして荷風は、当時のヨーロッパの金融の中心地、リヨンに渡った。
 しかしリヨンでの銀行勤めを八ヶ月で辞め、パリに移り住み、繁くオペラや演奏会に通った。彼のこの経験が、日本に西洋音楽の傾向や現状、注目の音楽と音楽家紹介をもたらすのである。シュトラウスやドビッシーを日本に紹介したのである。

 足掛け六年の外遊から帰国した荷風は、森鴎外から推挙され、慶應義塾大学文学科の教授となった。真面目な講義ぶりだったという。そして荷風は「三田文学」を創刊した。
 ところが明治四十二年に事件が起こった。荷風の「ふらんす物語」「歓楽」が発禁処分を受けたのである。荷風は初めて国家権力という強大な敵を身近に知った。
 明治四十三年、大逆事件が起こった。幸徳秋水とその妻・管野スガら十二名が死刑を宣せられた。
 荷風は文学者として何もできず、傍観するばかりであった。荷風は愕然とした。荷風にとって文学者とは、「なにものよりも強い自由な人格」のはずであった。日本の文学者、知識人もただ拱手傍観するばかりで、意気地がなく全く行動を起こさなかった。
 荷風は慶應大学出勤の朝、刑場に向かう秋水らを乗せた馬車と出会い、それを立ちすくんだまま見送ったのである。彼は自分も、日本の文学者、知識人も情けなく思った。
 大逆事件はフランスの「ドレフュス事件」そっくりである。荷風は彼我の文学者、知識人の差を思い知った。
 1893年、フランスで「ドレフュス事件」が起こった。フランス陸軍参謀本部付きのユダヤ人の大尉アルフレッド・ドレフュスが、スパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。
 このときエミール・ゾラは新聞に「私は弾劾する」という大見出しの大統領宛の公開質問状を掲載した。これを機に世論も動き、多くの文学者や知識人もドレフュスを助けようと立ち上がった。ゾラは名誉毀損罪で告発され有罪判決を受けた。一時イギリスに亡命を余儀なくされたが、その運動は「人権擁護連盟」を結成して、自由と平等、正義と真理、軍国主義批判を展開したのである。
 ドレフュスは有罪となったが、その後特赦された。彼はその後も冤罪を主張し続け、やがて無罪判決を勝ち取り、その名誉を回復した。ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派がフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく安定した。

 大逆事件を境に、荷風が師と仰ぐ森鴎外は、歴史物ばかりを書くようになった。他の文学者たちも政治向きのテーマを扱わなくなった。東京と大阪に特高警察が生まれた。
 荷風は「自分は文学者の資格を失った」と思った、意気地なしの弱虫であると考えた。「以来、わたくしは自分の芸術の品位を江戸作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」
 こうして荷風は春本や春画の戯作者のように、堕落しようと決意した。彼は大学からの帰りに、花柳の巷で遊ぶようになった。そこで新橋芸者の富松(本名・吉野こう)と出会った。荷風は左腕に「こうの命」と入れ墨し、富松もまた「壮吉の命」と入れ墨した。しかし一年も続かなかった。富松が大金持ちに落籍されたのである。
 その後の荷風は好きになった女は、いち早く身請けし妾とした。次から次へとである。正妻はおらず、妾だらけとなった。一時妾の一人を市川左団次の媒酌で妻としたが、すぐ離婚した。彼は女たちを愛さなかったが、女たちもすぐ荷風を裏切った。
 荷風にとって女たちは、所有しているだけで嬉しかったのである。瀧井孝作が荷風を評した。「永井荷風氏は、女好きで、それは好色家、漁色家の風とはちがい、釣好き、釣道楽に似た風で、女の耽蕩とした気分が好きで、女の性質が可愛くて憐れでたまらないようです。」
 荷風はつとに日本の文学者を見限っていたが、やがて女たちも見限るようになった。荷風は二、三を除けば、その身辺に誰も近づけなくなり、いよいよ偏奇となり偏奇館主人と自称した。

まつりごと

2016年08月24日 | コラム
                                                                 

 また2012年1月に書いた雑文から。「カダフィの死から」という題であったが、再録に当たって
「まつりごと」と改題した。


 「まつりごと」

 リビアのカダフィが、血にまみれて兵士たちに引きずられていくニュース映像を見た。「ああ、これは『血まつり』だな」と思った。
 兵士たちは制服を着用していないので、反カダフィ、反政府に参集した「ボランティア兵士」たちである。制服を着た兵士は、カダフィ派(正規の政府軍)か傭兵たちである。
 かつてチェ・ゲバラは村の青年たちに「制服を着た者たちを憎め。彼等に引き金を引け。彼等を撃て。制服を着た者たちは敵なのだ」とアジ演説をぶった。ゲバラは制服を権力の象徴としたのである。軍人や警官たちである。

 カダフィが引きずられて行く模様を撮っているカメラは、激しく上下して揺れ、その場がいかに混乱し、興奮状態にあったかを伝えている。カダフィはもみくちゃにされながらも、自分の足で歩いていた。何か叫んでいたが、「どういうことだ、これはどういうことだ。こんなことは許されない」と喚いていたらしい。
 その直後カダフィは死んだ。ボランティアの兵士が撃ったのであろう。国民評議会が発表する「銃撃戦」によるものなら、引きずられて歩いていた直後に銃撃戦が起こったことになる。

 だいぶ以前、日本語学者の大野晋が「日本語の年輪」という分かりやすい本を書いた。
 その一項に「まつり」がある。
「日本では、政治をとることを『まつりごと』という。…日本の『まつりごと』は、『まつる』という言葉から起こってきた。『まつる』とは、神に物を差し上げる場合にいう言葉であった。」
 そして大野は「平家物語」の義経の戦闘を例に引いた。

「判官防矢(ふせぎや)を射ける強者ども二十余人が首切りかけて戦神にまつり、喜びのときをつくり、門出よしと宣(のたま)ひける」

 つまり、義経は矢を射た敵の二十余人の首を切り、これを物に架けて軍神に差し上げ、喜びのときの声を上げ、これは幸先がよいことだと宣したのである。これが「血まつり」である。
 神様を喜ばせるための舞踊や音楽や遊びがつき、「お祭り」が行われる。信仰より遊びの要素が大きくなると「お祭り騒ぎ」となる。リビア全土ではカダフィ死後、ずっと「お祭り騒ぎ」が続いているらしい。

 日本では大阪府知事選と大阪市長選が同時選挙となり、早くもパフォーマー候補者とマスゴミ各社による「お祭り騒ぎ」が始まろうとしている。
 ちなみに大野晋の「日本語の年輪」には「ゆゆしい」という一項もある。それによれば、「ゆゆし」はポリネシアで使われるタブーという言葉と同じ意味を表すとある。
 タブーとは「神聖な」という意味と「呪われた」という意味を持つという。どちらも「触れてはならない、不吉だ」ということらしい。
「ゆゆしい」はやがて「はなはだしい」「たいへんだ」という意味となる。日本の現状は、まさに「ゆゆしい」事態といえる。
 
 この「日本語の年輪」では、「ゆゆしい」の次の項は「いまいましい」である。

地球物理学者の随筆

2016年08月23日 | コラム
 パソコン内を整理していて、2012年の1月17日付で書いた雑文を見つけた。とりあえず、プログに移すことにした。

 「地球物理学者の随筆」

 年末に久しぶりに何冊かの新刊の新書本と文庫本を買いこみ、これらを大晦日から正月三が日にかけて読んだ。読書テーマは「通貨」「恐慌」 「TPP(三冊)」「貿易」「農業」、そして「明治」(新撰組の永倉新八が見た明治維新の本質、明治天皇と元勲)、「猫小説」である。
 さらにひとつは寺田寅彦の「天災と国防」である。むろんこれは3.11後に緊急に復刻・文庫化として企画・刊行されたものであろう。
 私は寺田寅彦の随筆や、語り伝えられるその人柄が好きで、自分で書くものに彼をしばしば登場させてきた。彼の随筆の中でも特に素晴らしかったのは 「どんぐり」である。随筆なら「どんぐり」、小説なら中島敦の作品は、私が理想とし憧憬する文体である。 

 以前グレッグ・アーウィンさんの童謡絵本出版の企画中、イラストレーター候補として彼が一冊の本を私に示した。それはピーマンハウスという出版社が出 した寺田寅彦の「どんぐり」で、絵は「しもゆきこ」とあった。その随筆は昔読んだものだったが、私は「しもゆきこ」の絵に心を奪われた。これは版画であろうか。シンプルで太い線で簡略化された絵ながら、描かれた童女の姿態の愛くるしさや、その指先や足のつま先のリアリティに目を奪われた。これは素晴らしい実力派の絵描きである。
「しもゆきこ」はグレッグさんの友達の友達らしく、その友達からの推薦らしかった。グレッグさんはその絵にあまり 気乗りしない様子であったが、私が縷々絶賛するとようやく納得した。

 さて「天災と国防」である。この本は彼の死の三年後に、岩波書店から刊行されたものである。寺田の主な研究分野は地球物理学であった。その地球物 理学者による関東大震災、昭和八年の三陸大津波、九年の函館大火、浅間山噴火など、地震、津波、噴火等に関する随筆である。
「天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発露するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはも う少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないか…」
「…新聞で真っ先に紹介された岸壁破壊の跡を見に行った。途中ところどころ家の柱のゆがんだのや壁の落ちたのが目についた。…石造りの部分が滅茶 滅茶に毀れ落ちていた。これははじめからちょっとした地震で、必ず毀れ落ちるように出来ているのである。 
…この岸壁も、よく見ると、ありふれた 程度の強震でこの通りに毀れなければならないような風の設計にはじめから出来ているように見える。設計者が日本に地震という現象のあることをつい 忘れていたか、それとも設計を註文した資本家が経済上の都合で、強い地震の来るまでは安全という設計で満足したのかもしれない。地震が少し早く来 過ぎたのかもしれない。」
「…関東大震災のすくあとで小田原の被害を見て歩いたとき、とある海岸の小祠で、珍しく倒れないでちゃんとして直立している一対の石灯籠を発見し て、どうも不思議だと思ってよく調べてみたら、台石から火袋を貫いて笠石まで達する鉄の大きな心棒がはいっていた。こうした非常時の用心を何事も ない平時にしておくのは一体利口か馬鹿か、それはどうとも云わば云われるであろうが、用心しておけばその効果が現れる日がいつかは来るという事実 だけは間違いないようである。」
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」

 長い引用ばかりとなったが、ほんとうは全文引用したいくらいである。「強い地震が来るまでは安全」とは、まるで原発の設計者や安全神話を強烈に皮肉ったかのようである。千二百年に一度が、存外(想定外)「早く来過 ぎたのかもしれない」…と。
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたり」とは、まるで今の放射能ヒステリー、原発ヒステリーを言っているかのようである。表題作や「火事 教育」「災難雑考」「流言蜚語」「神話と地球物理学」「津波と人間」など、ぜひ一読をお勧めしたい。「通貨」「恐慌」「TPP」等については次回にしたい。


 ※そういえば「エッセイ散歩 何おかいわんや」でも、寺田寅彦の「天災と国防」を取り上げたことがあった。
                                                                 

高々と「たいまつ」を掲げて

2016年08月22日 | エッセイ
              

 武野武治は大正四年(1915年)、秋田郡仙北郡六郷町に生まれた。家は小作農家だったが、両親は集落の農家の作物を町に売りに行く仕事を始めた。町に行く前に、農家から町で手に入れて欲しい商品の注文をとり、町でそれを仕入れた。御用聞きでもある。また、双方から様々な雑用も引き受けたらしい。武野家は小作農家から非農民に移行していったのだろう。
 武治はこのように農民に囲まれて暮らし、育ったのである。

 彼は横手中学校から東京外国語学校スペイン語科に進んだ。ふと、彼がスペイン語を選んだ理由を想像してみる。たった一人で巨大な風車、強者に挑むドン・キホーテの物語から触発されたのか。あるいは、ヘミングウェイが「誰がために鐘がなる」で描いたスペインの内戦と、人民戦線政府を助けるため世界中から集まった義勇兵への憧れでもあったのか。
 外語学校卒業後に報知新聞に入社し、社会部の記者となった。その頃であろうか、近衛文麿や有力軍人などを取材、インタビューしている。昭和十五年、朝日新聞に移った。
 彼は朝日時代に、同僚や社内の空気が急速に変化していく様を目にした。中国戦線の拡大や外交政策に批判的だった社の空気が、どんどん変化していくのである。もちろん日本の新聞各社は、発禁や軍部の強硬姿勢、それを支持する右翼勢力の暴力を恐れ、批判的記事は鳴りを潜めていったのである。日本の新聞各社はさらに自主規制を始め、積極的に提灯記事、国威発揚記事を書くようになり、国民の戦意を煽ったのである。言論統制ははますます強まっていった。そして日米開戦を迎えた。
 彼もまた東條英機などをインタビューし、中国、東南アジア特派員として従軍し、戦地を取材した。
 どんなに大本営発表の記事で戦意を煽ろうとも、撤退を転進と言い換えようとも、あるいは玉砕と美化しようとも、もはや日本の敗戦は自明であった。彼は痛切な自責の念にとらわれていた。自分も積極的に国威発揚記事を書いた。なぜ、そうなったのか。なぜ新聞は批判記事を書けなくなったのか。戦争への新聞の責任とは何であったのか、記者の責任とは何であったのか。ジャーナリズムはどうあらねばならなかったのか。ジャーナリストとして、その責任を取らなければならない。終戦後、彼は朝日新聞を退社した。

 昭和二十三年の元旦、彼は妻子を連れて秋田県横手市に帰郷した。その翌月にタブロイド版二ページの週刊新聞「たいまつ」を発行した。発行人・主筆は彼「むのたけじ」である。社員は彼と妻の美江さん、そして復員兵士の竹谷幸吉の三人である。
 ただの週刊の、二ページだけの、地方紙に過ぎないが、天下国家を論じ、反戦と平和を社のテーマとして高々と掲げた。あまりにも小さく、細々とし、一部三円。当然のごとく定期購読者はゼロから始まったのである。「たいまつ」は創刊の宣伝のための無料配布をしなかった。「タダのものは真面目に読まれない。読まれぬものは初めから作らぬほうがよい」
 むのをはじめ、三人で新聞の束を抱え、雪深い農村を歩きながら一軒、一軒売って回った。やがて鉄道弘済会の売店でも売ってもらえるようになった。しかし購読者が増えるにつれ、配達の苦労はいや増したのである。購読者の六割は農民である。彼らは歩き、配達して回ったのである。
 部数も二千部となった。こうして田舎の豆新聞は維持されていくのである。夫人は着物を入質した。翌年には社員も一人増えた。
 昭和二十六年、自社印刷を目指し、朝日新聞から中古活字を譲り受け、美江さん自ら素人植字を始めたのである。それもこれも赤字続きの「たいまつ」の経費削減のためであった。当時、日本には四千社の地方新聞があったそうだが、一番貧乏だったのは「たいまつ」であったろう。
 むのは、やがて自らの「口による新聞づくり」を開始した。横手を中心に、その外に出かけて行き、「たいまつ」主催の講演会を始めたのである。「たいまつ」の主筆はよく語った。聴衆が一人しかいなくても、熱心に語った。農民の皆さんに知ってもらいたいこと、知らなければならないこと。そして講演会に顔を出した人々に、「皆さんが、世の中に対して、何か伝えたいこと、言いたいと思うことはありませんか?」と。
 新聞の行商を兼ねた講演会は、取材も兼ねていたのである。読者の声を大きく取り上げた「たいまつ」は、実に個性的なタブロイド版のローカル新聞であった。
 やがて、むのは「たいまつ十六年」と「雪と足と」を刊行した。すると彼の元に、この二書に感動した日本中の読者から、千四百通もの手紙が届いたのである。そのほとんどは若者たちであったという。若者たちが心を揺さぶられたのである。彼はその熱い魂が書かせた手紙を集め「踏まれた石の返書」を刊行した。
 
 享年百一歳。彼の死は、リオオリンピックでのメダルラッシュに沸く日本では、あまり大きく報道されなかった。彼の反戦・平和の言葉の数々を、日本のメディアは政権の意思を忖度し遠慮したか、あるいは、今さらどうでもいいだろう、という判断であったのだろう。…民の沈黙が戦争をまねく。戦争は報道の自主規制から始まる。…