芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エドワード・W・サイードの憤怒と正論

2015年12月13日 | 言葉
      

 中傷され,裏切られた民主主義。賞賛されながら、実際には面目を損なわれ、踏みにじられた民主主義。一握りの男たちが、この共和国の運営を掌握するようになったからだ。…この政府が…合衆国の国民をほんとうには代表していないからだ。アメリカ人は、メディアが基本的に一握りの男たちに支配され、政府に対する懸念や不安を少しでも引き起こしそうなものはひとつ残らず削除しているため、正しい情報を与えられていない。


    
 サイードの「オリエンタリズム」論は、西洋が東洋に対する思考の様式であり、さらにM・フーコーのディスクールを援用して、西洋の東洋に対する支配の様式のディスクールとした。
 彼はフランツ・ファノンよりずっと知的な穏健派であったが、彼の生涯は、イスラエルの不公正・不正義を擁護するアメリカと、見て見ぬふりをする西側社会、彼らがアフガン、イラク等に対して行った高高度の爆撃、戦争というテロへの憤怒に貫かれ、中東の悲劇に深く胸を痛めていた。
 湾岸戦争時、彼は言った。かつてナチスやフランス等のその同調者はユダヤ人を「テロリスト」と呼び、いまイスラエルやアメリカの人々はアラブ人、モスリムを「テロリスト」と呼んでいると。アメリカには700万人を超すモスリムが暮らし、うちアラブ人は200万人を超す。

              
                

競馬エッセイ 小さなダイヤの夢

2015年12月13日 | 競馬エッセイ
                                                             

 この夏(2015年8月22日)競馬で、久しぶりに爽やかな楽しい話を聞いた。場所は小倉である。
 2回小倉7日目第5レース2歳新馬戦で、オウケンダイヤという牝馬が勝ったのである。単勝は189.3倍もついた。彼女は11頭立て11番人気に過ぎなかった。この牝馬、86年以降のJRAの記録によれば、最軽量となる376キロしかなかった。
 彼女の母は2008年生まれのオウケンハートという未勝利馬である。父は2006年生まれの新種牡馬オウケンマジックだが、ほとんど無名で、現役時の戦績は27戦3勝、最後の勝鞍が2010年の3歳上500万下条件で、その後は1000万下の条件馬であった。
 普通、この成績では種牡馬になれない。またオウケンマジックはその血統を買われて種牡馬になったわけでもない。オウケンマジックの母はオウケンガールという1勝馬に過ぎない。
 オーナーに強い「思い入れ」があり、どうしても種牡馬にしてその血を残したかったに違いない。オウケンマジックの産駒は2013年生まれのこのオウケンダイヤと、全弟となるオウケンハートの2014の二頭しかいないという。
 この二頭の姉弟の母オウケンハートは、馬格は460から70キロ台と普通だが、2戦して未勝利。新馬戦は16頭立て、上がり40.3、大きく離された殿負け。未勝利戦は16頭立て、上がり42.0、大きく離された殿負け。これは全く走る気がなかったと言ってよい。おそらく「何で走らなければならないの? 何で競走しなければならないの?」…彼女はそのまま引退したのである。

 オウケンダイヤのレースを映像で見てわくわくした。先ずこの新馬戦、珍名が二頭いて微笑ませてくれる。先ずはコイハオヤスミ。この勝負服、ご存じ小田切有一氏の所有馬である。そしてもう一頭、以前から珍名ぶりではオダギリ馬に次ぐ森中蕃(しげる)氏の所有馬で、シゲルキハダマグロ。なんじゃこりゃあ? 魚市場か、である。市場は市場でも証券市場で、氏は元々光証券の社長、会長である。シゲルの冠名にその年ごとに株用語篇、役職篇、果実篇、祭り篇などをくっつけるのだ。2013年生まれの馬はサカナ篇としたらしい。
 またオウケンダイヤの鞍上は2014年デビューの松若風馬騎手である。この騎手の騎乗ぶりも注目だ。
 ゲートが開く。1番人気のタガノフォルトゥナは先行好位置を進み、オウケンダイヤは最後方である。レースは結構早いペースで進んでいるように思われる。小倉の1200メートルは二度坂を下るので、どうしてもハイペースになりがちなのだ。4角手前、オウケンダイヤと松若騎手は最内を突いている。直線を向いてホームストレッチにかかると、あとは平坦で、各馬一杯になりながらも追い競べが激しい。オウケンダイヤは後方の8番手あたりである。実況アナはその馬名すら呼ばない。
 松若騎手はすっと馬を外に出した。この子は上手い。動きが滑らかである。カメラフレームからその姿が消えた。ゴールは目前である。一頭素晴らしい脚で外からグイグイと伸びてくる馬がいた。他の馬が止まって見えるほどの脚色である。オウケンダイヤで、あっという間に1番人気のタガノフォルトゥナに1馬身半差をつけてゴールした。これは強いではないか。上がり3ハロン35.5だが、2着に残ったタガノフォルトゥナの上がりが36.8だから凄い脚に見えるのである。しかし小倉の直線の長さは293メートルと短い。オウケンダイヤはわずか1ハロン(200メートル)ばかりで、前にいる7頭の馬を躱したのである。これだけ猛然と馬を追ったのに、松若騎手の姿勢はほとんど揺れなかった。素晴らしい騎乗フォームである。
 
 スポーツ紙によると、松若風馬騎手は「4角で気合いをつけたら、しまいは反応してくれた。手応えが抜群でした。まだまだ伸びしろがあります。本当に小さな馬で非力なので、小倉の1200は合っていますね」と応えている。しかしオウケンダイヤは口向きが悪く遊んでいたという。
 西村調教師や松若騎手は、小柄で非力だから、短距離、マイルまでならと考えているらしい。しかし、オウケンダイヤは血統的に中・長距離馬ではなかろうか。無理をさせず、3歳春に400キロ台に成長すれば面白い。あの名牝トウメイも小さかったが、古馬となったとき420キロ台に成長していた。牡馬のエリモダンディーも390キロ前後の小柄な馬であったが、4歳(現馬齢3歳)秋には420キロ台まで成長していた。そして重賞も勝った。
 福井オーナーは「思い入れのある馬で勝てて嬉しい、ロマンですね。お父さんも小倉で勝って、相性が良かったんですよ」と感激した。
 オウケンダイヤの血統表を眺めると、その「思い入れ」は誰にでもわかる。
どうしても「思い入れ」てしまうはずなのである。

 父オウケンマジックの父は1999年生まれ、2002年のダービー馬タニノギムレット、その父はブライアンズタイム。オウケンマジックの母オウケンガール(5戦1勝)の父はマーベラスサンデー(15戦10勝、宝塚記念優勝、有馬記念2着2回)、その父はサンデーサイレンス。オウケンガールの祖母は公営史上最強牝馬と呼ばれたロジータである。
 母オウケンハートの父は1998年生まれ、2001年のダービー馬ジャングルポケット、その父はトニービン。オウケンハートの母ローレルプリンセスの父はサンデーサイレンス。つまりサンデーサイレンスの3×4のクロスなのである。
 ブライアンズタイム、トニービンは、サンデーサイレンスと共に、まさに日本の競走馬の実力を世界レベルに引き上げた三大種牡馬と言ってよい。その産駒はG1レースに鎬を削ってきた。それが結集し、しかもサンデーサイレンスの3×4…。しかし現在はトニービン系、ブライアンズタイム系の血は風前の灯火で、隆盛を誇っているのはサンデーサイエンス系となっている。
 オウケンガール、オウケンマジック、オウケンハートは、いずれも新冠の高瀬牧場生産。仔分けで預託したのだろう。オウケンマジックは音無秀孝厩舎に入った。オウケンダイヤとオウケンハートの2014は浦河の辻牧場生産、これも仔分けであろう。オウケンダイヤは西村真幸厩舎の管理馬となった。
 
「オウケン」の冠名のオーナー福井明氏は、子どもの頃、ブルース・リーに憧れて空手を始めたらしい。クリエーターで商品デザインの会社を経営し、大阪天王寺区の桜拳塾という空手道場の師範・道場主でもある。
 当初、一口馬主で数十頭に投資していたが、97年に馬主資格を得て、単独で馬を所有し「オウケン」の冠名で走らせるようになった。2002年、オウケンガールの新馬勝ちが、彼の所有馬の最初の勝利であった。オウケンガールへの強い思い入れは当然である。
 やがて音無厩舎に預託したジャングルポケット産駒オウケンブルースリが、菊花賞を制覇した。馬名はもちろん「ブルース・リー」から付けられている。オーナー初のG1制覇である。ジャングルポケットにもまた、思い入れが強いのは当然である。その娘オウケンハートへの思い入れも強いのは当然だろう。
 オウケンブルースリ後、これも音無厩舎のオウケンサクラがフラワーカップを勝ち、福井氏の重賞3勝目を挙げた。しかし彼の所有する馬の数はさほど多くはない。オウケンダイヤは、まさに福井オーナーの「思い入れ」の馬である。小さなダイヤは、キラっと輝く夢(ロマン)なのであろう。

 さて、松若風馬騎手である。名前も良い。まだあどけなさの残る紅顔の少年で、スター性がある。今後、松若風馬に注目しよう。
 彼の父は装蹄師で、小さな頃から父と一緒に競馬場や厩舎に行き、馬と接し、小学生になると乗馬を始めたという。昨年(2014年)、競馬学校の三十期を卒業し、音無秀孝厩舎に所属した。3月1日に騎手デビューすると、翌日に初勝利を挙げた。新人騎手最多勝の47勝を挙げJRA賞最多勝利新人賞を受賞した。しかも騎乗停止処分が一度もない。つまり馬を真っ直ぐ走らせることができ、ラフプレーがなく、他の騎手のプレーを妨害することがなかったのである。また鞍上で上下に揺れることなく、進路の変え方も滑らかで、騎乗フォームが自然で柔らかである。若手ナンバーワン騎手と言ってよい。
 この夏の8月9日、小倉記念で17頭立て6番人気のアズマシャトルに騎乗し、初重賞勝ちをしている。能力の高い馬、血統馬、人気馬に乗って上位に来るのは普通で、全く人気の無い、どう見ても非力な馬に乗っても上位に来る、自在に乗るのが天才型なのである。松若風馬はそんなスター騎手になりそうな期待を抱かせる。

                  

人のとなりに 安曇野

2015年12月13日 | エッセイ

 この一連の「虹の橋文芸サロン」に、「私は風だ…」という一文を書いた。
 大江健三郎の子息・光君はラジオから流れる野鳥の声に癒やされ、その優しい囀りと交歓していたのだろう。彼は脳に重い障害をもって生まれたが、耳に入る野鳥の声を通じ、何者かからのメッセージを受け止めていたにちがいない。彼はそのメッセージを伝えるため、「使命」を担って生まれたのだろう。
 壮大な交響詩のような丸山健二の「千日の瑠璃」も、重い障害をもって生まれた少年・与一が、オオルリの幼鳥と出会うところから始まる。与一少年も、自分の両の掌に収まった、ちっぽけな、今にも死にそうな小鳥の温もりと、この世のものとは思えない美しい瑠璃色の羽根に感応したのだ。保護したオオルリは元気になり、やがて全身で、この世のものとは思えない美しい声で鳴くのだ。少年の損なわれた身体は、彼が居る日常的な風景を差異化する。オオルリからの啓示に感応した彼が身を置いた風景は、一篇の詩のように差異化するのだ。
 丸山健二は安曇野の小さな町に暮らすという。その碧空や満天の星空が、湧水やそれが作り出す清流が、そして彼と共に風景を見続ける愛犬(真っ黒なムク犬として描かれている)が、彼を夢中にさせる植物との格闘のような作庭が、彼に文学的な啓示を与え続けているのだろう。

 安曇野の名が全国に広まり一般的になったのは、臼井吉見の十年の長きに渡って書かれた長編小説「安曇野」に負うところが多いとされる。彼は南安曇郡三田村(現安曇野市)に生まれた。
「安曇野」は明治の青壮年を描いた歴史小説、青春文学で、登場人物は実在の人たちである。同地出身の相馬愛蔵、彫刻家・萩原碌山、松本出身の社会主義者・木下尚江、愛蔵の妻で仙台出身の良などである。良はその号を黒光という。
 愛蔵・黒光夫妻は当初、安曇野で養蚕事業を営んでいたが、黒光の病気療養のため上京し、そのまま本郷で中村屋というパン屋を開業した。彼等は本邦初のクリームパンを売り出し評判となった。中村屋はその後新宿に移転し、同じ場所に今日まで続いている。
 愛蔵・黒光夫妻は文学や芸術に親しみ、また社会事業やキリスト者として知られる。夫妻は萩原碌山などをはじめ、多くの芸術家を支援した。店の裏にアトリエを作り、そこはさながら文化人のサロンとなった。文化人ばかりか、革命家や志士も集まった。夫妻は右翼の領袖・頭山満に頼まれて、インド独立運動の志士ラース・ビハーリ・ボースを匿った。ボースはインドカレーを夫妻に教えた。これが中村屋の名物となり、やがてカレー料理は日本全国に広まっていったのである。また、愛蔵・黒光夫妻はロシアの亡命詩人ワシーリ・エロシュンコを自宅に匿い、盲目の彼を保護した。

 そう言えば、井上真央主演のNHK連続テレビ小説「おひさま」は、安曇野と松本が主要な舞台だった。病弱な母親のため安曇野に移り住んだ一家、嫁ぎ先の松本の蕎麦屋、そして戦後、主人公の家族は再び安曇野に移り住むのである。その舞台は蕎麦畑が広がり、湧水がつくり出す清らかな小川が流れ、かたわらに絵本そのままの家が建っているのだ。

 画家でエッセイストの玉村豊男は東京生まれである。パリやロンドンの喧噪や裏町をゆるりと旅し、緻密なイラストをあっさりと描き、エッセイを達意の文章で軽妙洒脱に書いた。彼が表現する食べ物はいかにも美味しそうに思え、「ゆとり」が彼の雑学に深みとコクを醸し出す。まるで彼の周りにだけ、ゆっくりとした時間が流れているようであった。つまり玉村豊男は時間遣いの名人なのだ。
 その彼が二十数年前に、長野県のゆったりとした町に移り住んだ。おそらく、もっとゆったりとした時間や、叢生する木々や草花に囲まれた自然が、彼をその地に呼び寄せたのだろう。彼はそこで草花の絵を描き、小さな農園を営み、大好きなワインを自ら作り、採れたての野菜を使って料理を作り、仲間たちと健康な美食と談笑を楽しむ。何と贅沢な時間だろう。しかし、そうした時間はつくり出せるものらしい。玉村豊男はその時間つくりの達人なのだ。

 田舎に転居した有名人に俳優の柳生博がいる。彼は茨城県の出身で、時代劇でおなじみの「柳生新陰流」を創出した柳生宗厳の末裔らしい。柳生家に伝わるしきたりに、「十二歳になった男子は一人旅に出す」というものがあったらしい。彼も十二歳で一人旅に出た。そこは山梨側の八ヶ岳の麓であった。
 テレビの画面が白黒だった頃、シャンソン歌手・旗照夫主演のNHK夕方の連続ドラマに、柳生博はその友人役として出演していた。やがて彼は、日本のレコード歌手第一号・佐藤千夜子の半生を描いたNHKの連続テレビ小説「いちばん星」で、童謡詩人の野口雨情を演じた。これは茨城出身だった雨情の木訥な語り口に、同県出身の柳生がぴったりだったからだろう。
 その後柳生博は、八ヶ岳が望める山梨側の大泉村(現北杜市)に引っ越し、田舎暮らしを始めた。そこは彼が初めての一人旅で訪ねた所である。その地で始めたのは、雑木林に愛着した作庭である。雑木林は実はゆたかな風景なのである。日々、森歩きと野鳥の囀りを楽しみ、作庭と植林と菜園にいそしみ、囲炉裏端で家族や仲間たちと談笑し、エッセイを書く。クイズ番組やバラエティ番組、ナレーション出演の仕事で上京するのにも全く不便は感じない。大事なのは、欲しかったのは、そういう環境や時間なのだ。森はいろいろなことを教えてくれる。
 こうして彼はギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」開き、陶芸家などの作品を展示し、家族や仲間たちと作庭や植林、散策路づくりを楽しんでいるという。そして彼は日本野鳥の会の第五代会長となった。

 おそらく自然は想像以上に厳しく、田舎での暮らしはそう容易いものではあるまい。しかしその労以上の楽しみや、ゆたかな風景、ゆたかな時間、ゆたかな自然との交歓が得られるのだろう。