芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

競馬エッセイ 障害レース

2015年12月04日 | 競馬エッセイ
                          

 実は私が一番どきどきする競馬は、障害競走なのである。
 まだ競馬にさほど詳しくなかった頃のことだ。障害競走に出走する馬の戦績を調べているうちに気付いたのである。彼等のデビュー時は、みな平地競走なのである。そして平地で成績が上がらず、障害競走に転向するのだ。なんだ、未勝利馬の、あるいは弱い馬の救済レースか、と軽侮の念を抱いてしまったのである(しかしレースは面白かった)。
 そのためイギリスのミステリー作家ディック・フランシスまで侮ってしまったことがある。彼の競馬小説を読むと、登場人物、主人公の多くは元障害競走の騎手であり、描かれるレースも障害競走なのである。そしてディック・フランシスは女王陛下の騎手だったというが、「なーんだ」障害騎手だったのかと…無知とはまことに恥ずかしいことである。

 しかしイギリス(ヨーロッパ)の障害競走は、決して平地で成績の上がらない馬の「救済レース」ではなかったのだ。ディック・フランシスは女王陛下の騎手として知られていた。
 イギリスの障害競走の最高峰グランドナショナルは、リヴァプール郊外のエイントリー競馬場で施行される。このレースはエプソムダービーを凌ぐほどの人気レースなのである。馬券の売上額はイギリス国内の最高を誇り、また日本の有馬記念の売上額をも凌ぐ。もちろんこの競馬場は障害競走専用であり、グランドナショナルのための競馬場と言って過言でない。
 グランドナショナルはハンデキャップレースだが、世界で最も過酷なレースなのである。コースに設置された障害は計16箇所で、4マイル4ハロン(約7242メートル)の距離を走りながら、その障害を合計30回飛越するのである。
 出走馬はスターティングバリアー後方に整列せずに待機し、バリアーが上がると同時に一斉に走り出すのである。映像で見ていると本当に面白い。どきどきする。出走頭数40頭のうち、完走できるのは10頭前後なのだ。完走5頭という年もある。
 グランドナショナルに優勝した牡馬は種牡馬になれる。イギリスでは障害競走馬の血統が確立しているのだ。グランドナショナルに勝つほどの馬は、飛越のための優れた筋肉と馬体、優れたスタミナと闘争心、そして何よりも強い忍耐力と、果敢な勇気があると認められるのだ。その忍耐力と勇気を引き継ぐ血統なのである。

 日本の障害競走は未勝利馬の「救済レース」のような感が否めなかったが、あるとき私はその考えが間違いだったと悟った。JRAのイベントの仕事をしていたおり、たまたま許可を得て、中山の障害コースを歩かせていただいたことがある。
「花の大障害」と呼ばれた春の中山大障害(現中山グランドジャンプ)、年末の中山大障害。…こんなきつい傾斜の坂を駈け下りて、また駆け上るのか。こんな高い障害を、いくつもいくつも飛び越すのか。飛越し、下を見れば水がきらめく水壕なのだ。水は濁っており、その深さを馬は分かるまい。
 大竹柵の下で感嘆した。凄いなあ、ここを飛び越すのか。大障害の高さに圧倒された。よく飛ぶ勇気があるものだ…。えらいなあ、馬も騎手も。勇気があるなあ、馬も騎手も…偉いなあ。
 またあるとき武豊騎手が話すのを聞いた。「障害の騎手は勇気があります。僕はとても…。競馬学校のときから、障害は苦手でした。障害レースは、馬も騎手も勇気がなければ飛べません。だから彼等をとても尊敬しています」
 そして障害レースは見ていて一番面白い。特定の馬を応援することすら忘れ、全ての馬を応援してしまう。それ、それっ! よし、あと残り三つだ! それっ…あ~…。
 グランドマーチスという強い障害のチャンピオンホースがいた。中山大障害を4連覇した。バローネターフも強く、中山大障害を3連覇し、天皇賞にも出走した。オキノサコンもいた。テキサスワイポンという美しい芦毛のチャンピオンもいた。テンポイントの全弟キングスポイントも暮れと春を連覇している。騎手は小島貞博であった。
 勇気のある名騎手がたくさんいた。寺井千万基、法理弘、平井雄二、根本康広、星野忍、平田秀也、大江原哲、大江原隆、熊沢重文…最近なら柴田大知騎手か。…彼等と馬は、互いにコミュニケーションを取りながら、その踏み切るタイミングや着地に、全神経を集中させる。しかし人馬は適度にリラックスもしていなければならない。みんな本当に度胸が良い。障害の騎手も馬も勇気がある。観戦する者にとってこれほど面白いレースはない。

 ちなみにだいぶ昔、ボルボ・ワールド・カップという馬術競技のイベントの仕事に関わったことがある。障害馬術の国際大会である。これはこれで、競馬の障害とはまた異なる面白さがある。やはり人馬は適度のリラックスと適度の緊張が必要なのだろう。彼等は呼吸を合わせ、全神経を集中させて飛越する。その緊張感がたまらない。彼等は規定の時間内に全障害を飛び、そのコースを回らなければならないのだ。
 むかしエリザベス・テイラーがまだ12歳頃の主演映画に「緑の楽園」(TVでは「走れチェス」)というのがあった。黒髪のすごい美少女ヴェルヴェットが、馬を駆っていくつもの大障害を飛越していくのである。彼女が出走したのがグランドナショナルなのであった。
 文豪ヘミングウェイは若くて貧しかったパリ時代、妻のハドリーと連れだって競馬場に遊びに行っている。特に障害レース専門のオートゥイユ競馬場である。博才はハドリーのほうがあったと思われる。彼女の買った人気薄の馬「黄金の山羊」は大差をつけて先頭を走り、あと一つの障害を飛越すれば、二人の半年分の生活費を手に入れることができるはずだった。しかし黄金の山羊は最後の障害で落馬してしまったのである。二人は芝生にヘミングウェイのコートを敷いて坐り、ワインを壜から交互に飲み、次のレースの検討をし、少し昼寝をした。…


正宗公の弦月鍬形

2015年12月04日 | 新・民話
            

むかーし、伊達政宗公の兜の鍬形は「弦月鍬形」と呼ばれていての、
えらーく、格好が良くてな。
それから370年も経った頃、
メリケン国に設立されたスポーツ用ズック靴の会社がの、
正宗公の弦月鍬形を…ロゴマークにパクったンだと。
もっぱらの噂じゃあ…

エッセイ散歩 「春秋山伏記」と「気違い部落周游紀行」

2015年12月04日 | エッセイ

 数年前、鈴木俊彦氏の「昭和を彩った作家と芸能人」というエッセイ集の編集を担当した。何の衒いも気負いもない、実に読みやすい文体である。これはかなり書き慣れた達意の人の文章であろう。
 鈴木氏は見かけが驚くほど若々しいが、すでに現役からはリタイアされていた。長く家の光協会に勤められ、雑誌「地上」の編集長をされていたという。大ベテランの書き手に対し、素直な文体であるというのも大変失礼な評ではある。
 彼はその記者、編集者時代から数多くの作家と深く交流し、また芸能人、スポーツ選手らに取材やインタビューを通じて、交流されてきたという。作家も芸能人もスポーツ選手も、みな誰もが知っている錚々たる顔ぶれである。彼はそれらの方たちとの思い出などを、ずっと書き綴ってこられたのである。昭和三十年代以降の世相が映し出され、なかなか楽しい。
 ある日、神楽坂の小体な料亭で夕食を御馳走になった。編集者時代からよく作家の先生方と利用された店だという。私には多くの作家たちについてお聞きしたいことがたくさんあった。
…やがて話は作家論、作品論となった。たまたま藤沢周平の、次々に映画化やテレビ番組化されていった作品についての話となった。
「たそがれ清兵衛」「用心棒日月抄」「蝉しぐれ」「隠し剣 鬼の爪」「秘太刀馬の骨」「武士の一分」等、数多くが映画化やTVドラマ化されている。いずれも見事に劇的である。作品集「時雨みち」の中の一遍「山桜」もそのひとつである。ところで藤沢周平は「時雨」が好きなようだ。「時雨みち」「蝉しぐれ」「本所しぐれ町物語」等がある。
 私は藤沢周平の最も地味な作品と思われる「春秋山伏記」が、いちばん好きだと彼に言った。これは1978年の作である。これまでに数度読み返してきたとも言った。すると、みるみるうちに鈴木氏の顔色が変わった。赤味を帯び喜色に溢れたのである。「あれは私が藤沢周平さんにお願いして『家の光』に書いていただいたものです! 私が担当しました。いやあ、嬉しい! 『春秋山伏記』は、本当に良い作品です! あの作品を担当したことは誇りです!」

 彼の作品の多くは故郷・庄内を舞台としているが、この作品もその一つである。無論会話は全て庄内弁である。時は江戸後期、東北地方(庄内)の小さな村に、羽黒山で修行したらしい山伏が住み着く。他の藤沢作品と異なり、少しも劇的でないのだが、ほのぼのとして、繰り返し読んでも飽きない。
 つまりこの作品の素晴らしさは、単なるストーリーではないからである。里山伏の大鷲坊が主人公のようなのだが、本当の主役は、つましく生きる村人たちと、その村コミュニティなのである。
 また里の四季をさりげなく描く藤沢の筆致は素晴らしい。ここに描かれる四季の情景こそ、日本の原風景なのではないか。この美しい抒情とユーモアこそ「春秋山伏記」の特長なのである。
 藤沢作品を文壇デビュー時から読んでいくと、どこか暗いやりきれなさが漂う作風が、「竹光始末」や「用心棒日月抄」あたりから変化を来しはじめる。自然風物の描写がきめ細やかになり、またそこはかとないユーモアも漂うようになる。「春秋山伏記」は、まさにそういった作風の確立期にあたるのではないか。本人が何かで書いていた「北国風のユーモアが目覚めた」のである。
「春秋山伏記」が映画化やTVドラマ化を免れているのは、おそらく少しも劇的ではないからである。しかし、村落の生活や自然を撮るドキュメンタリー的手法や、アンドレイ・タルコフスキー的な感性を持った優れた映画監督なら、感慨深い作品に仕立て上げるだろう。

 この「春秋山伏記」が描き出した村の人々の暮らしは、きだみのるの「気違い周游紀行」や、その続編の「にっぽん」を想起させる。このきだの二著は戦後日本の名著中の名著である。惜しむらくは二著とも絶版に近い状態になっており、おそらく今後増刷や再版されることもないだろう。
 それは題名の「気違い」「」という言葉が、差別用語とされるためなのである。それこそが過剰な差別反応であって、彼が使用したという用語は「被差別」のことではない。単に山奥の集落のことである。しかも舞台は東京からすぐそこの、山奥なのである(現在は八王子市に入っている)。
 登場人物たちの大真面目な生活と意見や村落のしきたりは、人々が大真面目であればあるほど、まさに抱腹絶倒もので、きだはこれを深い愛情と皮肉たっぷりのユーモアに包んで描出した。彼はパリ大学で古代社会学や人類学を学んだ社会学者であり、翻訳者、文学者でもあった。
 彼は奥本大三郎以前のファーブル「昆虫記」の翻訳者(林達夫との共訳)でもある。この「気違い周游紀行」もファーブル的観察眼と、社会学者としての視点で描かれたものである。さすがに社会学者の面目躍如とした優れた日本学であり、また抱腹絶倒、哄笑のエッセイでもある。その各段の小タイトルを見れば、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」を彷彿させる。つまり優れた哄笑の文学の系譜に連なっている。

「日本敗れたること、並びに国際的閉門に処せられること」「周游など面白からざるべしとの憶説とそれに対する疑い」「物が解るということ或いは解らないということ」「言葉を覚えると内容まで知ったと思う悪癖のこと」「日本人とは何かということについて」「新興財閥シン英雄のこと」「八百屋はいかにして財閥になったかについて」「祖先崇拝ということ、この感情は桜に及びシンさんは二十六代目の祖先が丸顔でありしことを誇ること」「の会話は社交界の会話と同じく多く意味のなきこと」「英雄ギダサン計らずもホッブスの言の真なるを証すること」「にも党派のあること、正義派と正義嫌い派、二音派と三音派」「権力はなくとも支配は出来ること」「の英雄たちは初めて一つの異論なしに一致すること、そして一致が後ろめたきものであることを発見す」「総理、要人は悪口をいわれるものであること並びに友人のなきこと」…。これは各段タイトルのほんの一例である。

「気違い周游紀行」のような、これほどの名エッセイ、名著が、下らない被差別意識・差別用語排除のために絶版に近い状態のままでいるということは、社会の文化的損失以外の何ものでもあるまい。
 藤沢周平の「春秋山伏記」は「気違い周游紀行」ほど抱腹絶倒とはいかないが、かつて日本に存在した風景、日本の村落の人々の暮らしや習俗、里の美しい四季を余すところなく描き出し、ほのぼのとしたユーモアをかもし出している。社会学、民俗学、日本学を学ばんとする者は、ぜひにも読むべきであろう。また、きだみのるの「気違い周游紀行」も読むべきだろう。
 ちなみに、きだの実娘は岩手の教師・三好京三の養女となり、彼はその養女の子育てを小説「子育てごっこ」として直木賞を得た。後にスキャンダルを巻き起こしたが…。それは別の話。


                 


特別強面外交官

2015年12月04日 | エッセイ
                    

 日本の外交官は目を剥くような高給取りだが、その能力は全くお粗末である。無論、外務大臣も総理も外交下手である、というよりソモソモ国際感覚が欠如しているのではないか。
 そこで画期的提案がある。外交官の3分の1を馘首し、彼等に替わって山口組や稲川会の強面の幹部連を外交官として起用したらどうだろう。警察庁や防衛庁(現・省)の官僚を外務省に出向させ、各国の大使館や領事館に派遣するよりは随分ましだろう。
 起用する強面外交官は、武闘派ばかりでなく市場原理社会でも八面六臂の活躍するインテリヤクザの企業舎弟、リーガル舎弟も採用したい。彼等の頭脳と交渉能力と交渉に欠かせない執拗さは外交には欠かせない。「嫌がらせ力」なら北朝鮮にも中国にも、どこにも負けない。また世界中のアンダーグランドに張り巡らした裏外交ルートも魅力的だ。
 さて、特別強面外交官が中国各地の大使館や領事館に派遣されていたらば、日本の大使館員の自殺はなかったであろう。むしろ中国外交部の何人かが、謎の変死体となって遼河や長江河口に浮かんだであろうに。
 また彼等の配下のチンピラや準構成員の暴走族による、尖閣列島移住と実効支配も急ぎたい。彼等は日の丸と菊の御紋が好きなのだ。
 現在の国連安保理の駆け引きや交渉でも、ロシアや中国の国連大使に対し、わが特別外交官は彼等の顔にグッと顔を近づけ、三白眼で下から睨みあげながら言うであろう。
「こらワレ、いー加減にしさらせヤ、あ゛~、てめぇ誰にモノ言うとンのじゃ、オ~」「アーティクル・セブンをハズシたったら北の奴らは痛くも痒くもなかろうがヤ、あ゛~ちゃうか?」「こらワレ、ライブドア事件の最初の犠牲者でノグチちう名を聞いたことあるか? そや、那覇のカプセルホテルでレッドオーシャンのバタフライや。哀れやの~。ア~はなりとうないやろ、ン。ウチの若いモンは気ぃ短いねン」「どや、ウチらの制裁決議案通したったれヤ、ア゛~。…ほならな、アンタらの顔も立ててやらんでもない、どや、ン。悪いよーにはせんで。…返事せんかいワレ!!」
 おそらく北朝鮮との拉致問題の解決もスムースだったであろう。「こらワレ、イー加減に拉致した全員帰したらんかい。北で生まれた子供らを含めりゃ千五百人はおるやろが、ン。分かってンのやで。…帰したったらナ、お前等の国の負担も減るやろ。…ほたらナ、お前等の国のシャブも偽煙草も偽ドルもウチらがぜえんぶ責任持って流通させたろやないか、ええ話しやろ。ウチ等はな、ごっつエー流通ルート持ってンねンやで、どや、ン」「コラワレ! この場でさっさと将軍様に電話して了解とらんかい! はよせや! ワレ!」…と、相手のソン・イルホ大使の頭をど突き回すだろう。…

          (だいぶ以前に栗唐紋太の筆名で書いたエッセイを抜粋)