芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

早実の偉大な先輩

2016年01月12日 | コラム

 9~10年ほど以前に書いた雑文を見つけた。何枚ものCD-RWに保存していて、表題もなくその後開くこともなかったものだ。
 その一つに「早実の偉大な先輩」という、2006年の9月16日に書かれたものがあった。甲子園でハンカチ王子と呼ばれた斎藤佑樹投手が優勝した時である。苫小牧の田中投手は成功して大リーグに行き、斉藤はもはや引退の瀬戸際にいる。エッセイには亀田というチンピラボクサーについても触れているが、彼もすでに引退した。時の経つのは実に早い。まさに「光陰、馬のごとし」である。せっかく見つけたこのエッセイを、ブログに掲載することにした。


                    

 早稲田実業高校を夏の甲子園優勝に導いたハンカチ王子こと齋藤佑樹投手は、インタビューでも礼儀正しく爽やかな受け答えをしていた。駒大苫小牧の田中投手やその仲間の選手たちも、爽やかな若者たちだった。何しろあの、口の利き方も最低限の行儀作法すら知らぬ、亀田というチンピラにウンザリしていた後だから、その爽やかさは際だったのである。記者会見にモノを食いながら現れる無礼や、彼より年長者である記者たちに対する礼を失した口の利き方を、何故ボクシング協会の大人たちや記者たちは注意しないのか。何故TBSの面々は注意しないのか。TBSは馬鹿である。

 さて、齋藤裕樹投手は「偉大な王先輩や荒木先輩が達成できなかったことができて、本当に誇りに思います」と優勝の喜びを語っていた。齋藤投手は早実の偉大なもうひとりの先輩の名前を知らないようであった。おそらく学校側もその名前を出さぬようにしているのだろう。その名とは榎本喜八である。彼については以前書いた。
 榎本喜八は、野球の打撃道を極めんとする余り精神に異常を来したと噂されたプロ野球選手であった。彼は長島茂雄と同年生まれである。1955年、早稲田実業高校から毎日オリオンズに入団した。大学に進学した長島より先にプロ入りしたのである。そして榎本喜八の背番号は「3」であった。

 私が榎本喜八の名前を知ったのは小学生の頃である。当時私は殆ど理解できぬのに関わらず新聞を一面から社会面まで、眺め回すことを日課としていた。理解できたのはスポーツ面と社会面の事件記事くらいなものであった。スポーツ面で一番大きく出ていたのは野球だった。セとパがあり、ダブルヘッダーがあり、セは巨人が強くパは西鉄や南海が強かった。
 新聞にはセパの打撃10傑が紹介されていた。パの打撃10傑の1位か2位、悪くても3位には常に「榎本」という名前があった。しかし長島や阪神の藤本、南海の杉浦、西鉄の中西、稲尾、豊田らの顔は新聞に出ていても、ついに榎本の顔は知らなかった。
 何度かの首位打者、安打製造器、安打の職人という異名、2000本を超す安打、そしてオールスター戦の常連。しかし何故か彼は地味なのだ。やがて、ある時から榎本の名前が消えた。引退したのであろうと思っていた。しかも、あれほどの記録を残した名選手でありながら、彼は監督やコーチや解説者にならなかった。それが不思議だった。

 ある日、沢木耕太郎の「さらば宝石」というノンフィクションを読んだ。その主人公は榎本喜八だった。その作品で彼が監督にもコーチにも解説者にもなれなかった理由を知った。彼は引退後(本人は現役を引退したとは思っていなかったようだが)、精神に異常を来したと囁かれていたのである。現役時代から、榎本喜八は数々の伝説を持った選手だった。それは長島茂雄の陽性の伝説と異なり、野球道、打撃道を追求する男の鬼気迫るあまりの奇行と不思議な言動を繰り返し、人々から煙たがれ、やがてプロ野球史からも消えていった敗者の男の物語だったのである。

 榎本喜八について、監督の別当薫は「高校を出たばかりの打者で、全く手を加える必要のない完成されたバッティングフォームを持つ者が現れた」と舌を巻いた。
 入団1年目からレギュラー5番打者。彼はデビュー戦から敬遠された。その年は打率.298、16本塁打、67打点、146安打で新人王に輝いた。やがて1000本安打達成、日本プロ野球史上最短・最年少記録。2000本安打達成31歳7ヶ月の日本球界最短・最年少記録。そして引退するまでに首位打者2回、年間最多安打記録4回、生涯打率.298、246本塁打、979打点、2314安打、最高出塁率1回、年間1失策・守備率.9992の日本記録保持者、ベストナイン9回、オールスターに12回出場、2年連続リーグ最多四球記録…文句のない名選手の記録である。しかし名球会に彼の名はない。

 榎本の選球眼の良さを物語る記録とエピソードが残されている。1152四死球記録と、ストライクゾーンを微妙に外れるボールに対して、彼の構えたバットはぴくりとも動かなかったという伝説である。剛速球の鉄腕・稲尾は彼を抑えるためにのみフォークを覚え、彼にのみフォークを投げたと語っている。練習時、鏡の前でバットを構えたまま微動だにせず、30分間一度もバットを振らず、「今日はいい練習ができた」と言った。
 試合前に座禅を組むのが常であった。4打数4安打しても自分が納得しない場合は考え込んでいた。4打数無安打でも自分が完璧なスイングをしたと思った場合は高揚していた。1963年のある2週間は、彼の生涯最良の時であった。11試合で43打数24安打、打率.558。榎本喜八は自らの打撃を「神の領域」に辿り着いたと表現した。

 榎本は年齢と共に怪我が増えレギュラーから外れた。安打製造器の異名は張本勲に移っていた。榎本は引退とコーチ就任を勧められたが現役にこだわり、コーチ兼選手としてチームに残った。しかし彼は若い選手たちに不評だった。彼は選手たちに「心の眼でボールを見ろ」「心眼で打て」と教えた。選手たちは全く理解できなかった。 彼はコーチを解任され、自由契約選手つまりクビとなった。しかし彼はどこかのチームが自分を選手として迎えに来ることを信じ、毎日ランニングと打撃練習を続けていた。40歳を過ぎ、50歳を超えても、現役に戻ることを信じていた。どこかのチームが呼びに来る。きっと自分を必要とするだろう。…その孤独なトレーニング姿は鬼気迫るものがあったという。…ある日彼は、誰も自分を必要としていないことを知った。
                                                             

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