芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

まつりごと

2016年08月24日 | コラム
                                                                 

 また2012年1月に書いた雑文から。「カダフィの死から」という題であったが、再録に当たって
「まつりごと」と改題した。


 「まつりごと」

 リビアのカダフィが、血にまみれて兵士たちに引きずられていくニュース映像を見た。「ああ、これは『血まつり』だな」と思った。
 兵士たちは制服を着用していないので、反カダフィ、反政府に参集した「ボランティア兵士」たちである。制服を着た兵士は、カダフィ派(正規の政府軍)か傭兵たちである。
 かつてチェ・ゲバラは村の青年たちに「制服を着た者たちを憎め。彼等に引き金を引け。彼等を撃て。制服を着た者たちは敵なのだ」とアジ演説をぶった。ゲバラは制服を権力の象徴としたのである。軍人や警官たちである。

 カダフィが引きずられて行く模様を撮っているカメラは、激しく上下して揺れ、その場がいかに混乱し、興奮状態にあったかを伝えている。カダフィはもみくちゃにされながらも、自分の足で歩いていた。何か叫んでいたが、「どういうことだ、これはどういうことだ。こんなことは許されない」と喚いていたらしい。
 その直後カダフィは死んだ。ボランティアの兵士が撃ったのであろう。国民評議会が発表する「銃撃戦」によるものなら、引きずられて歩いていた直後に銃撃戦が起こったことになる。

 だいぶ以前、日本語学者の大野晋が「日本語の年輪」という分かりやすい本を書いた。
 その一項に「まつり」がある。
「日本では、政治をとることを『まつりごと』という。…日本の『まつりごと』は、『まつる』という言葉から起こってきた。『まつる』とは、神に物を差し上げる場合にいう言葉であった。」
 そして大野は「平家物語」の義経の戦闘を例に引いた。

「判官防矢(ふせぎや)を射ける強者ども二十余人が首切りかけて戦神にまつり、喜びのときをつくり、門出よしと宣(のたま)ひける」

 つまり、義経は矢を射た敵の二十余人の首を切り、これを物に架けて軍神に差し上げ、喜びのときの声を上げ、これは幸先がよいことだと宣したのである。これが「血まつり」である。
 神様を喜ばせるための舞踊や音楽や遊びがつき、「お祭り」が行われる。信仰より遊びの要素が大きくなると「お祭り騒ぎ」となる。リビア全土ではカダフィ死後、ずっと「お祭り騒ぎ」が続いているらしい。

 日本では大阪府知事選と大阪市長選が同時選挙となり、早くもパフォーマー候補者とマスゴミ各社による「お祭り騒ぎ」が始まろうとしている。
 ちなみに大野晋の「日本語の年輪」には「ゆゆしい」という一項もある。それによれば、「ゆゆし」はポリネシアで使われるタブーという言葉と同じ意味を表すとある。
 タブーとは「神聖な」という意味と「呪われた」という意味を持つという。どちらも「触れてはならない、不吉だ」ということらしい。
「ゆゆしい」はやがて「はなはだしい」「たいへんだ」という意味となる。日本の現状は、まさに「ゆゆしい」事態といえる。
 
 この「日本語の年輪」では、「ゆゆしい」の次の項は「いまいましい」である。

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