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芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

また相撲の話

2016年03月31日 | 相撲エッセイ
 10年以上も前の2006年9月に書いた「相撲の話」である。横綱昇進を前に、あの白鵬が足踏みをしていた時である。時の経つのは早い。「光陰、馬のごとし」という競馬エッセイ集を書いたが、今度は「光陰、相撲のごとし」でもまとめようか。そう言えば「頑な花」という一文も書いたが、データが見つかっていない。頑な花とは貴乃花のことである。          

 私は三歳の頃からの相撲ファンなので、当然相撲に詳しく、そして力士に厳しい。相撲界の親方のような、そして勝手にご意見番のようなつもりでいる。
 先場所の千秋楽、最後の取組で白鵬が朝青龍を敗った一番は実に見応えがあった。その直後、審判部部長は白鵬の横綱昇進を諮る会議を招集しないと発表し、私を激怒させた。彼等は前日、千秋楽の一番を見てから決めると言っていたのだ。何のことはない。既に前日に千秋楽の一番に関係なく、白鵬が勝っても横綱昇進見送りは決まっていたのだ。このファンの期待を裏切る審判部を許すことはできない…その晩、そう書こうと思った。

 さて今場所の初日、白鵬の負けぶりを見てがっかりした。先場所の初日に朝赤龍に土俵際ではたき込まれて潰された負け方と、全く同じ負け方を稀勢の里に喫したからだ。
白鵬の二日目、三日目の勝った相撲を見て私は断言した。今場所の綱取りはない。彼が横綱に昇進する機会は、おそらく来年の夏以降だろう。今場所は良くて11勝4敗、もしかすると10勝も難しいだろうと断言した。敗れる相手は露鵬、把瑠都、琴欧州、そして安美錦あたりの小物、さらに横綱・朝青龍だろうと予測した。そして今日、安美錦に負けた。これで綱取りは消えた。三歳の頃から鍛えた私の鑑識眼は凄いのだ。

 かつて柏戸は立った瞬間に相手の左前ミツを引きつけていた。それだけ立ち会いのスピードが凄かったのだ。そして一気に寄り切った。彼を土俵際でうっちゃって逆転できたのは大鵬と豊山くらいのものだった。
 千代の富士も立った瞬間に相手の左前ミツを引きつけ、次に上手を取り、タイミングのよい切れ味鋭い上手投げや、速攻の寄り切りを決めた。彼の立ち会いの瞬間スピードは、カール・ルイスの百メートル走スタート時の瞬間スピードと同じだった。

 白鵬は先々場所まで、立った瞬間に「浅い」左上手を取ることができた。これが彼に盤石の安定感を与えた。しかし先場所あたりから相手も研究し、彼に簡単に左上手を取らせぬようになったのである。白鵬は左上手を取ることにこだわるあまり、立ち会いに上体を伸ばし、相手と正対せずに左に変わりながら上手を取ろうとしていた。そのため立ち会いに鋭さがなくなり、上体と腰が伸びてしまうのだ。
 白鵬は気づくべきだ。「浅い」左上手とは、ほとんど左前ミツと同義である。横に飛んで取る左上手は位置として深すぎる。上手にこだわる必要はない。要は相手の動きを止める引きつけのための浅い左上手、もしくは前ミツなのだ。顎を引いて立て。再度当たる角度をチェックしろ。柏戸や千代の富士の古いビデオを見て研究しろ。大鵬の相撲…組み止めてから相手の引きつけ方と相手の肩にかける圧力と、投げのタイミングを研究して欲しい。相手の前ミツを取り、顎を引いて引きつけ、焦らずに腰を落として寄れ。…白鵬は一から出直すことになるだろう。

 魁皇の相撲から闘争心が消えた。明日から休場するそうだが、私は今場所限りの引退を勧告したい。栃東はおそらく今場所負け越し、来場所の角番も乗り切ることはできないだろう。これほどボロボロになった身体は、もう立ち直ることはできないだろう。彼もおそらく、来場所で引退することになるだろう。
 雅山は、突き押しにこだわるべきでない。彼の突きは重く、腰も重い。しかし突きで決めようとする限り安定感は消え、前に落ちる相撲が多くなる。雅山の体型に合った相撲は、身体を丸め下からモコモコとハズ押しで押しまくる相撲であろう。それは相撲の基本動作でありながら、実際に身体能力として刷り込める力士は少ない。
 以前すでに書いたが、天才・若羽黒のような押しである。身体を丸め、下からモコモコ、モコモコとハズ押しで前に出る。はたき込まれることなく、まわしも許さず、モコモコと前進し続ける。相手にとってこれほど嫌な押しはない。無論、誰もができる相撲ではない。
 若羽黒は派手さのないこの相撲で大関になった。しかし若羽黒が天才と呼ばれたのは、この相撲のためではない。若羽黒は、ほとんど稽古をせずに大関に昇進した唯一の力士だったからである。彼は稽古が大嫌いだったのだ。彼が大関に昇進し初優勝した時、「二若時代の到来」と言われた。もう一人の若は、初代・若乃花である。しかし二若時代は到来せず、身を持ち崩した若羽黒は破門同然で廃業した。やがてピストルの不法所持、賭博などで逮捕され、ヤクザの用心棒となったと噂された。ある日、愛隣地区で行き倒れとなっていた大男が病院に担ぎ込まれて死んだという報道があった。私はその男をずっと若羽黒だと思いこんでいた。しかし本当は、岡山の弁当屋さんで真面目に働いていたが、病気でなくなったらしい。それが若羽黒の最後であった。

白鵬に言いたい

2016年03月29日 | 相撲エッセイ
  

 私は三歳の頃からの相撲好きである。相撲放送のラジオの前に座り込み、アナウンサーの早口で興奮ぎみの取り組みの様子に耳を傾けていた。テレビのない時代である。
 新聞に載っている力士の大一番の写真を見て、その姿を目に焼き付けた。
お気に入りの力士は、固太りの見事に丸いお腹をしたアンコ型の横綱・鏡里、それより固太りと思われる見事に均整がとれた美男横綱・吉葉山、そして見事な筋肉質のソップ型で長身横綱・千代の山であった。
 鏡里は四つ相撲で、大きなお腹で相手を土俵外に寄り切っていた。吉葉山は悲劇の横綱と呼ばれ、両膝の怪我がもとで活躍できなかった。千代の山は豪快な突っ張りで相手を土俵外に突き倒していた。しかし千代の山も膝の怪我に苦しんでいた。その頃、たしか横綱・東富士が引退し、プロレスに転向していった。栃錦が大関から横綱に昇進し、若乃花はまだ小結か関脇であった。何を言いたいかというと、実は白鵬が気になるのである。

 白鵬は宮城野部屋である。この部屋は吉葉山が創設した。彼は高島部屋だったが引退後に独立したのである。後年、高島部屋は吉葉山の弟弟子の大関・三根山が継いだ。
 吉葉山は幕下優勝して十両昇進直前に応召され、戦場で二発の銃弾を浴びた。一発は貫通、一発は体内に残り、彼は死線をさ迷った。四年後にガリガリに痩せて復員したとき、高島部屋の人たちは幽霊が出たと思ったらしい。体重が半減し六十キロの骨と皮になっていたのである。すでに彼は戦死したものとされて力士名簿から消されていた。
 吉葉山には悲劇がつきまとったが、そこから横綱にまでなったのだ。彼の土俵入りは不知火型であった。写真で、その綱を締めた立ち姿や土俵入りを見ると実に美しかった。白鵬の土俵入りの不知火型は、その吉葉山に由来する。

 白鵬が十両に上がってきた頃、私は周囲の人たちに、この力士は必ず横綱になると断言した。相手力士の力を吸い取るような身体の柔らかさ、足腰の良さ、膝を折った重心の低さ、運動神経の良さ、立ち合いのスピードは抜群であった。これは大鵬だ。大鵬のような可能性を秘めた逸材だと見えたのである。幕内力士になり、どんどん昇進した。何という相撲勘、何という安定感。もしかすると大鵬の優勝回数32回を超えるのは、彼ではないかと思われた。白鵬がまだ優勝さえしていなかった頃である。
 白鵬は横綱になった。そして優勝回数を重ねた。すでに朝青龍とは互角以上になっていた。
 朝青龍の俊敏さと相撲力はともかく、その取り口の荒々しさは好きになれなかった。また素行の悪さをよく耳にした。彼は場所中にもかかわらず、毎晩六本木で浴びるように酒を飲んでへべれけとなり、あげく朝青龍を部屋まで車で送ろうとしたその酒場の店長を殴り、彼の鼻梁をへし折ってしまった。相手は一般人である。その男は暴力団の準構成員であった。朝青龍はその場所中に三千万円の示談金を払ったそうである。場所後に朝青龍の行動が問題となり、暴力団関係者との交際も囁かれ、相撲協会は彼に引退を勧告した。もしそれを断れば解雇するというものであった。朝青龍は退職金がもらえる引退を選んだ。
 白鵬はひとり横綱となって優勝回数を重ねていった。朝青龍が現役を続けていたとしても、すでに白鵬には敵わなかったであろう。
 その後の時津風部屋のしごき死亡事件、名古屋場所に弘道会のやくざ衆が土俵下をぐるりと占めた異常な事態(木瀬親方が捌いたチケットが弘道会に渡り、暴力団との付き合いを疑われた)、一年後に野球賭博に八百長問題が発覚し、大相撲は危機に陥った。
 それを横綱として、力士会会長として、ひとり支えたのが白鵬である。記録は無論、白鵬は真面目で、悠揚迫らぬ大横綱であった。

 その白鵬に関して、おやっと思わせはじめたのは昨年2015年の初場所からである。13日目、彼は稀勢の里を破り、大鵬の記録を抜く33回目の優勝を果たした。その記念すべき場所は全勝優勝である。
 千秋楽の翌日の記者会見で白鵬は「疑惑の相撲が一つある」と言った。その相撲は稀勢の里戦である。彼は立ち合いから稀勢の里を圧倒し西方に寄り立てたが、足が流れたのと稀勢の里の捨て身の小手投げが同時であった。軍配は白鵬に上がったが物言いがつき、協議の結果、取り直しとなった。
 この一番を白鵬は「疑惑の一番」と言ったのである。「勝っている相撲ですね。一番目。帰ってビデオを見たら、子供が見てもわかる。なぜ取り直しにしたのか」「ビデオ判定も元お相撲さんでしょ。もう少し緊張感を持ってやってもらえれば。簡単に取り直しはやめてほしい」「本当に肌の色は関係ないんだよね。髷を結って土俵に上がれば、日本の魂なんです。みんな同じ人間」とまで言った。おそらく、館内の稀勢の里の声援の凄さに苛ついたのだろう。誰も自分を応援していない。自分がモンゴル人だからか。
 さらに白鵬が言った。「大鵬親方が45連勝して勝った相撲が負けになった。それからビデオ判定ができたんじゃないの。なのにビデオ判定は何をしたのか」…これが物議をかもした。
 土俵下の審判団は「白鵬の右手と稀勢の里の左手とどちらが先についたか」を協議したが、ビデオ室の親方衆は「稀勢の里の体が飛んで落ちるのと、白鵬の右足の甲が返ってつくのと同時」と見て「取り直し」を妥当とした。
 私は三歳の頃からの相撲ファンである。白鵬に言いたい。相撲は足の裏以外の身体が先に土俵についた方が負け」なのである。何度その一番の映像を見直しても「白鵬の足の甲が返り土俵につくのと、稀勢の里が飛んで落ちるのが同時」なのである。土俵下の親方衆はその早く激しい動きは見づらかろう。ビデオ室でのスロー再生で判断し、土俵上で協議中の審判団に伝えた親方衆のほうが確実で正しいのである。
 この白鵬の審判批判に、彼が敬愛する大鵬の納谷幸喜さんが苦言を呈した。「審判に文句を言ってはいけない。そういう相撲を取った自分が悪い」
 また大鵬は自らが誤審で戸田(後の羽黒岩)に敗れたときもこう言った。「そういう相撲を取った自分が悪い」

 もう一つ白鵬に言いたい。イギリス人でコスモポリタンとして生き、相撲が大好きだった海洋科学者、生物科学者、哲学者ライアル・ワトソンの言葉である。
「日本の社会で、相撲界ほどオープン・ソサエティはない。日本では政治家も芸能界も世襲で、企業の組織もお役所組織でも決してオープンな社会ではない。人脈や、社長派や専務派だとか、誰某の引きで出世するとか、逆玉で社長になったとか、決して実力だけのオープン・ソサエティではない。しかし相撲こそ、裸一貫の実力社会なのだ。実力がなければ出世できない社会なのだ。大横綱の弟だろうが、名大関の息子だろうが、裸一貫の真の実力主義のオープン・ソサエティなのである。」
 ちなみにオープン・ソサエティは、ヘッジファンドで知られる投機家、哲学者、思想家のジョージ・ソロスの一番大好きなキーワードなのである。彼の財団は「オープン・ソサエティ財団」という。
 日本人でさえ相撲社会を封建的な世界と思っていたとき、ライアル・ワトソンは「日本の社会の中で最も実力だけのオープン・ソサエティ」だと言ったのである。ワトソンは海外向けのラジオ放送で相撲の解説をし、BBCでも相撲の解説を務めた。さらにロンドン場所を誘致した。

 白鵬に言いたい。相撲社会には人種差別はない。ヘイトスピーチで攻撃する者もない。ハワイ出身の高見山にも小錦にも曙にも武蔵丸にも拍手した。セントルイス出身で父は黒人だった戦闘竜は、いかにも力士らしい姿で激しい突貫と突きは格好よかった。春日王も韓国出身力士だったが、そのいかにも力士らしい気っ風の良い相撲や姿は格好よかった。モンゴル出身の旭天鵬もいいし、旭秀鵬は力士の中でも一番の美男力士で、その着物姿は美しい。
 親方衆も相撲ファンも、誰も人種差別はしなかったし、していない。琴欧洲も把瑠都も大きな声援と拍手を受けていた。癌が判明し幕下に陥落して闘病中の時天空に、多くの相撲ファンが胸を痛め、その完治を祈っている。そして白鵬の偉大さには誰もが拍手を送り、応援している。
 ただ、横綱として千秋楽の最後の一番で、しかも対横綱戦で、しかも優勝のかかった一番で、変化はないよ。もちろん私は里山や宇良のような小兵力士が「たまに」見せる変化には怒りは湧かない。ただし、身体も大きく前途洋々の大関・照の富士や、逸ノ城の変化は許さん。罵倒するよ。小兵だが横綱の日馬富士の変化も罵倒するよ。横綱や大関はその地位として、また大型力士はその身体が大きいという優位性から、変化をしてはいけない。
 もちろん、明らかに土俵を割って力を抜いた相手に、ダメ押しで土俵下に突き倒すのは、危険だし横綱の行為としては最低だ。特に白鵬のダメ押しは故意であろう。彼のここ数場所の取り口に見る荒い相撲と苛立ちは見苦しい。

 私は大の白鵬ファンである。三歳の頃からの相撲ファンなのである。

                                               

また貴乃花か

2016年01月29日 | 相撲エッセイ
            

 貴乃花は現役時代からトラブルメーカーだった。現役時代、彼は占い師か整体師か何かに洗脳されて、精神を患っているのではないかとさえ思われた。無理に太り、吹き出物がその無理を示していたが、怪しげな整体師以外の、誰の意見も一切聞かなかった。
 兄の三代目若乃花が横綱になると、なぜか兄と口を利かなくなり、事実上決別した。
 金にものを言わせて、現役時代から複数の親方株を手に入れていた。自分は一代限りの現役名で部屋が起こせるのに、何のために複数の親方株に固執したのか。金銭のため出世のため、野望のためだろう。兄の三代目若乃花は引退後に藤島を襲名したが、すぐに師匠に返上し相撲界を離れた。
 貴乃花は現役を引退すると貴乃花親方として二子山部屋の部屋付き親方となった。しかし、二子山親方に対し貴乃花はほとんど口もきかず、師匠の話や意見にも全く耳を貸さなかったという。
 彼は夫人の意見も入れた健康のための減量だったのであろう、無理に痩せた。異常な体重管理である。そんなに急激に痩せた身体では、自らマワシを締めて、弟子たちに胸を出してあげられないだろう。
 父で師匠だった二子山親方の体調が悪化し、長期入院した。貴乃花と安芸乃島の関係が悪化した。安芸乃島が二子山親方から約束された藤島親方株を、貴乃花はそんな話は聞いていないと主張したのである。貴乃花は藤島は自分が継ぐべき親方株だと主張し、安芸乃島と一悶着を起こした。
 安芸乃島は千田川株を入手し、他の一門への移籍を希望した。安芸乃島の移籍届けには親方の印が必要だが、貴乃花は押さなかった。そればかりか安芸乃島の二子山部屋からの破門を言い渡し、相撲協会に引退の届けを勝手に提出したのである。安芸乃島は若貴兄弟が藤島部屋に入門した際の、最も部屋を牽引していた兄弟子であり、二人に胸を出し、鍛えてくれた恩人でもある。さすがに協会はこの引退届け(廃業届け)を受理しなかった。千田川は病床の二子山親方の許可を得て、元大関・前の山の高田川親方の元に移籍することになり、協会もそれを認めた。安芸乃島は一門を出た。そして貴乃花と完全に絶交した。千田川は後に高田川親方となって部屋を継承した。

 その二子山親方の死にともない、葬儀をめぐって兄の勝や母親と悶着を起こし、完全に絶縁した。貴乃花は相撲界を離れた兄が喪主はおかしいと主張したのだ。しかし兄は長男なのだから喪主は当然だろう。現役親方が亡くなり、一般人の息子さんや夫人が喪主となる例は多くあり、むしろそのほうが普通なのである。この喪主騒動での貴乃花の主張と態度は、伯父の初代若乃花を呆れさせ激怒させた。「光司は人の話に全く耳を貸さん!」
 また貴乃花は理事長選をめぐって二所ノ関一門と悶着を起こし、一門と完全に袂を分かった。貴乃花はあれだけ固執した藤島を継ぐわけではなく、後に引退した武双山に売却した。また後に二子山も雅山に売却した。二所ノ関一門系の親方名跡だった藤島、二子山を出羽海一門系の武蔵川系に譲ったのである。伝統があり一大勢力の出羽一門は、やがて自分が理事長選に出た際に、協力してくれるだろうと読んだのだろう。

 彼は俺が俺がと異様に出世欲と金銭欲が強い。その背後に元アナウンサーの景子夫人がいると囁かれている。弟子とは同じ屋根の下で寝起きを共にせず、別の自宅マンションから通う。景子夫人が子どもの教育とお受験のために、相撲取りとの同居を嫌い、そうしたらしい。
 ちなみに二子山部屋は貴乃花部屋と看板が代わったが、そのまま移籍した弟子たちは、一人辞め二人去り、たちまちほぼ半数になった。激減である。彼らは貴乃花のエキセントリックな姿に嫌気がさしたのだろう。
 景子夫人と貴乃花は、「サポーター制度」という今風の会を立ち上げた。しかし二子山部屋時代からの古い後援者たちとは悶着を起こし、彼らも貴乃花から離れていった。しかし景子夫人と貴乃花は政財界に人脈をつくり、サポートをお願いし、それなりに成果を上げているらしい。
 貴乃花部屋からはなかなか関取が生まれなかった。貴乃花部屋は学生出身と外国人は弟子にしないと言っていた。それはそれでよかろう。しかし、ついにモンゴル人の弟子・貴ノ岩を取り、初めて関取が誕生した。彼は素質のある力士だが、まだ幕内下位を低迷している。ある方がブログに書いておられた。「貴乃花でも、モンゴル人力士なら育てられた」

 貴乃花はまたぞろトラブルを起こすに違いないと思っていたが、案の定である。
 彼の相撲協会改革案には、いくつも賛意を示したいものがあるが、あのトラブルメーカー的人間性はいただけない。理事や理事長は人望がなければならない。
 亡くなった父・師匠の二子山親方は病床を見舞った元・大関の貴ノ浪に「お前だけは、貴乃花をよろしく頼む」と言ったそうである。頑なでエキセントリックな貴乃花を案じたのだろう。貴ノ浪の音羽山(この株も貴乃花の所有だった)親方は、律儀に師匠との約束を守り、貴乃花親方の傍で部屋付き親方として彼を支えていた。しかし惜しくも若くして突然死してしまった。これは貴乃花にとって大きな痛手であったことだろう。
 いま貴乃花は貴乃花一門を形成し、改革に惹かれる若手親方衆を集めて一大勢力となっているらしい。しかし彼のこれまでのトラブルの数々を見ていると、とても理事長になる器でもなく、人望もなかろう。彼の引き起こした悶着は、端から見ても異常で、実に気持ちが悪い。できれば相撲界から追放したいくらいである。

相撲 世紀の誤審

2016年01月15日 | 相撲エッセイ

 私は相撲好きだが、これほど呆れる誤審はめったにない。
 豊ノ島が攻め立て、隠岐の海が土俵際で下手投げ。隠岐の海の足は俵の上で回転し残っており、逆転した。しかし軍配は豊ノ島。物言いもつかなかった。
 両者とも困惑した。審判長を務めた井筒審判部副部長は「流れ的には豊ノ島」と言ったが、流れは攻めていた豊ノ島でも、隠岐の海の足は完全に残っており、誰の目にも明らかに豊ノ島が先に落ちた。テレビ中継では何度もスロー映像が流れたが、何度見ても隠岐の海の勝ち。
 先に土俵に落ちた豊ノ島は負けたと悔しがり、隠岐の海は蹲踞して勝ち名乗りを待った。しかし行司の木村晃之助は豊ノ島を呼び上げた。5人もいる審判からは物言いもつかない。豊ノ島はあわてて蹲踞し勝ち名乗りを受けた。
 一番近くで見ていた粂川親方は、寝ていたのだろう。手を挙げなかった。テレビ中継で解説を務めた舞の海氏は「蛇の目の砂も飛んでませんよね。これは最低、取り直しでも良かった」と指摘した。井筒親方は審判副部長として不適格だろう。
「際どいが、豊ノ島が攻めていたので分があった。粂川親方も目の前にいたし、誰も手を挙げなかったので、これでいいのかなと思いました。流れ的には豊ノ島が有利。テレビで見るのと、ライブで見るのとは違う。僕は豊ノ島が勝ったと思った」…この発言からも、井筒親方は審判副部長として不適確だろう。粂川親方に責任転嫁。
 何のために五人の審判がいるのだ。何のためにビデオ室とつながっているのだ。何で物言いの手も挙げなかったのだ。何のためのビデオ判定の導入だ。物言いの手を挙げなければビデオ判定はされない。
 先に落ちた方が勝つのはおかしい。土俵際で残っても負けとされるのはおかしい。

若羽黒

2015年11月23日 | 相撲エッセイ
     

 私は幼年時代を横浜で送ったこともあって、その後、若羽黒という力士を応援するようになった。若羽黒は横浜の出身だったからである。
 彼が大関に昇進し初優勝をした直後、少年漫画雑誌(当時、漫画雑誌は子供のものであった)に「若羽黒物語」が掲載された。どこかユーモラスな絵柄とともに、その漫画のストーリーはほとんど記憶に残っている。しかし誰の作画かは全く記憶にない。無論、当時の少年漫画には悪のヒーローは存在せず、若羽黒の弟子入りから大関優勝に至るまでの天衣無縫ぶりは、大らかにユーモラスに描かれていた。当時の相撲協会からすれば、若羽黒は天衣無縫というより、天衣「無法」だったと言わねばならない。彼は厄介者だったのだ。

 漫画「のたり松太郎」は作者ちばてつやによれば、行動が天衣無縫だった輪島と、怪力まかせに大きな相撲をとった北天佑がモデルだったらしい。確かに、のたり松太郎のしゃくれ顔は輪島に似、その厚い胸と筋肉質の肉体は北天佑に似ていた。しかし私には、のたり松太郎は若羽黒だったような気がしてならない。無論、顔も体つきも全く似ていない。

 クリーニング屋の身体が大きくなりそうな生意気な小倅が、父親の知り合いの行司の斡旋で(腹一杯ちゃんこが食えることを餌に釣られて)部屋見物に行き、別の行司に誘われて立浪親方に紹介される。その行司とは当時の木村庄三郎で、後に第十九代の式守伊之助となる。小柄だが白髭で知られた名行司であった。「髭の伊之助」と呼ばれ、親しまれた。
 これから北海道巡業に出る、お前も北海道見物に来ないかと言われ、未だ15才だった朋明少年は北海道に同行してしまう。北海道に着くとマワシを着けろと言われ、そのまま相撲取りになってしまうのである。親方たちは、この少年の並々ならぬ素質を見抜いていた。しかし、その性格は手に負えなかった。命令されることが大嫌い、稽古なんかしたくもない、誰に対しても物怖じせずズケズケとモノを言い、反抗的でもある。しかし新弟子の悲しさで凄まじいまでのシゴキに合う。気が付けば十両を順調に通過し、幕内力士になっていた。そして順調に出世していく。
 当時の立浪部屋には四天王と呼ばれた力士たちがいた。時津山、北の洋、安念山そして若羽黒である。時津山は重厚な四つ相撲で幕内優勝もした。北の洋は激しい相撲で、相手を一気に寄り倒した。安念山は技能派力士で彼も幕内優勝を果たした。しかし若羽黒は稽古嫌いだった。いつも稽古場から逃げ出し、あちこちで油を売っていたのだ。若羽黒はその中でも頭角を現し、やがて大関にまでなる。当時は栃若時代と呼ばれたが、栃錦に衰えが見え始めた。好角家たちは若羽黒の才能を認め「二若時代が来る」と期待した。
 恩人の髭の伊之助が定年で引退の場所、千秋楽に若羽黒は優勝を決め、伊之助から勝ち名乗りを受けた。伊之助の目に涙があり、さすがの若羽黒も神妙に見えた。若羽黒が親方衆や協会から叱られたりすると、伊之助は彼を庇ったり、強く叱ったりしてきたのだ。

 若羽黒はジャズと映画を愛する現代っ子で、その発言は周囲をハラハラさせた。しかし、その相撲は立浪四天王の中でもっとも地味であった。当時としては大きな丸い身体を丸め、左ハズ、右押っつけ、あるいはモロハズで下からモコモコと押し上げていくのである。特にスピードはない。つかまえて若羽黒のまわしを取ろうとすると、ますますハズ押しの餌食となり、はたいても落ちずにモコモコとついてくる。のど輪で身体を起こそうとしても、若羽黒には喉がない。彼は猪首のうえに顎を丸い身体に埋め込むようにして押してくるのである。
 若羽黒の身体的素質は、その身体の柔らかさにあった。何と言っても膝と踝の柔らかさがあったのだろう。だから突進する押し相撲ではなく、じわじわと前に出る典型的な押しの型がとれたのだろう。優れた競馬の騎手の身体的特徴は、膝と踝の柔らかさだと言われている。このため彼等は出前のバネ付き岡持と同様、騎乗中の背中にコーヒーをなみなみと注いだカップを載せても、一滴もコーヒーをこぼさないと譬えられるくらいなのである。

 若羽黒は親方から「もっと稽古をしろ、土俵には宝が埋まっている」と言われると、「埋まっているわけないじゃん」と嗤って口答えした。夏はアロハと短パンで場所入りした。「浴衣を着ろ」と諭されると、「浴衣よりアロハの方が楽だし涼しいよ」と応えた。さらに「アロハには品格がない」と叱られると、翌日からスーツにネクタイ姿で場所入りした。反逆児なのである。
 部屋付きの親方から「稽古しろ」と叱られた時、「親方、番付はどこまでだい。僕は大関だよ」と言って黙らせた。彼は自らを「僕」と呼んだ唯一の力士だった。
 ジャズが大好きで、本場所中もバーのジャズライブを聴きに行った。本場所中でもオールナイトの映画を楽しみ、大あくびをしながら寝不足のまま場所入りした。若い者には気前が良く、よく遊びに連れ出していたらしい。歌が好きで自ら「両国ブルース」を作詞作曲した。これは彼の付け人だった若浪が、後の慈善大相撲の際に歌っている。豪快さで知られた若浪は、兄弟子の若羽黒を強く慕っていた。若浪は後に玉垣親方になったが、若羽黒について「あまり稽古場では見かけなかった」と笑いながら言った。

 若羽黒は地味な相撲ぶりとは正反対に、行動も言動も派手で破天荒、天衣「無法」だったのである。そして当時多くの親方衆や関取衆が言うように、「まともに稽古をしていれば…」横綱の素質は十分あったのである。誰もが認めるように、素質的には天才だったのだ。何故なら呆れるほど稽古をせず、大関にまでなり、優勝した唯一の力士だからだ。
 横綱を期待されながら、怪我をすると稽古不足が祟って衰えも早かった。大関も転落した。三十歳で廃業し、三十四歳で死んだ。若羽黒は現代っ子関取と呼ばれ、型破り関取と呼ばれたが、彼は自ら言うように「反逆児」なのであった。

             (この一文は2006年9月27日に書かれたものです。)