芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

若羽黒

2015年11月23日 | 相撲エッセイ
     

 私は幼年時代を横浜で送ったこともあって、その後、若羽黒という力士を応援するようになった。若羽黒は横浜の出身だったからである。
 彼が大関に昇進し初優勝をした直後、少年漫画雑誌(当時、漫画雑誌は子供のものであった)に「若羽黒物語」が掲載された。どこかユーモラスな絵柄とともに、その漫画のストーリーはほとんど記憶に残っている。しかし誰の作画かは全く記憶にない。無論、当時の少年漫画には悪のヒーローは存在せず、若羽黒の弟子入りから大関優勝に至るまでの天衣無縫ぶりは、大らかにユーモラスに描かれていた。当時の相撲協会からすれば、若羽黒は天衣無縫というより、天衣「無法」だったと言わねばならない。彼は厄介者だったのだ。

 漫画「のたり松太郎」は作者ちばてつやによれば、行動が天衣無縫だった輪島と、怪力まかせに大きな相撲をとった北天佑がモデルだったらしい。確かに、のたり松太郎のしゃくれ顔は輪島に似、その厚い胸と筋肉質の肉体は北天佑に似ていた。しかし私には、のたり松太郎は若羽黒だったような気がしてならない。無論、顔も体つきも全く似ていない。

 クリーニング屋の身体が大きくなりそうな生意気な小倅が、父親の知り合いの行司の斡旋で(腹一杯ちゃんこが食えることを餌に釣られて)部屋見物に行き、別の行司に誘われて立浪親方に紹介される。その行司とは当時の木村庄三郎で、後に第十九代の式守伊之助となる。小柄だが白髭で知られた名行司であった。「髭の伊之助」と呼ばれ、親しまれた。
 これから北海道巡業に出る、お前も北海道見物に来ないかと言われ、未だ15才だった朋明少年は北海道に同行してしまう。北海道に着くとマワシを着けろと言われ、そのまま相撲取りになってしまうのである。親方たちは、この少年の並々ならぬ素質を見抜いていた。しかし、その性格は手に負えなかった。命令されることが大嫌い、稽古なんかしたくもない、誰に対しても物怖じせずズケズケとモノを言い、反抗的でもある。しかし新弟子の悲しさで凄まじいまでのシゴキに合う。気が付けば十両を順調に通過し、幕内力士になっていた。そして順調に出世していく。
 当時の立浪部屋には四天王と呼ばれた力士たちがいた。時津山、北の洋、安念山そして若羽黒である。時津山は重厚な四つ相撲で幕内優勝もした。北の洋は激しい相撲で、相手を一気に寄り倒した。安念山は技能派力士で彼も幕内優勝を果たした。しかし若羽黒は稽古嫌いだった。いつも稽古場から逃げ出し、あちこちで油を売っていたのだ。若羽黒はその中でも頭角を現し、やがて大関にまでなる。当時は栃若時代と呼ばれたが、栃錦に衰えが見え始めた。好角家たちは若羽黒の才能を認め「二若時代が来る」と期待した。
 恩人の髭の伊之助が定年で引退の場所、千秋楽に若羽黒は優勝を決め、伊之助から勝ち名乗りを受けた。伊之助の目に涙があり、さすがの若羽黒も神妙に見えた。若羽黒が親方衆や協会から叱られたりすると、伊之助は彼を庇ったり、強く叱ったりしてきたのだ。

 若羽黒はジャズと映画を愛する現代っ子で、その発言は周囲をハラハラさせた。しかし、その相撲は立浪四天王の中でもっとも地味であった。当時としては大きな丸い身体を丸め、左ハズ、右押っつけ、あるいはモロハズで下からモコモコと押し上げていくのである。特にスピードはない。つかまえて若羽黒のまわしを取ろうとすると、ますますハズ押しの餌食となり、はたいても落ちずにモコモコとついてくる。のど輪で身体を起こそうとしても、若羽黒には喉がない。彼は猪首のうえに顎を丸い身体に埋め込むようにして押してくるのである。
 若羽黒の身体的素質は、その身体の柔らかさにあった。何と言っても膝と踝の柔らかさがあったのだろう。だから突進する押し相撲ではなく、じわじわと前に出る典型的な押しの型がとれたのだろう。優れた競馬の騎手の身体的特徴は、膝と踝の柔らかさだと言われている。このため彼等は出前のバネ付き岡持と同様、騎乗中の背中にコーヒーをなみなみと注いだカップを載せても、一滴もコーヒーをこぼさないと譬えられるくらいなのである。

 若羽黒は親方から「もっと稽古をしろ、土俵には宝が埋まっている」と言われると、「埋まっているわけないじゃん」と嗤って口答えした。夏はアロハと短パンで場所入りした。「浴衣を着ろ」と諭されると、「浴衣よりアロハの方が楽だし涼しいよ」と応えた。さらに「アロハには品格がない」と叱られると、翌日からスーツにネクタイ姿で場所入りした。反逆児なのである。
 部屋付きの親方から「稽古しろ」と叱られた時、「親方、番付はどこまでだい。僕は大関だよ」と言って黙らせた。彼は自らを「僕」と呼んだ唯一の力士だった。
 ジャズが大好きで、本場所中もバーのジャズライブを聴きに行った。本場所中でもオールナイトの映画を楽しみ、大あくびをしながら寝不足のまま場所入りした。若い者には気前が良く、よく遊びに連れ出していたらしい。歌が好きで自ら「両国ブルース」を作詞作曲した。これは彼の付け人だった若浪が、後の慈善大相撲の際に歌っている。豪快さで知られた若浪は、兄弟子の若羽黒を強く慕っていた。若浪は後に玉垣親方になったが、若羽黒について「あまり稽古場では見かけなかった」と笑いながら言った。

 若羽黒は地味な相撲ぶりとは正反対に、行動も言動も派手で破天荒、天衣「無法」だったのである。そして当時多くの親方衆や関取衆が言うように、「まともに稽古をしていれば…」横綱の素質は十分あったのである。誰もが認めるように、素質的には天才だったのだ。何故なら呆れるほど稽古をせず、大関にまでなり、優勝した唯一の力士だからだ。
 横綱を期待されながら、怪我をすると稽古不足が祟って衰えも早かった。大関も転落した。三十歳で廃業し、三十四歳で死んだ。若羽黒は現代っ子関取と呼ばれ、型破り関取と呼ばれたが、彼は自ら言うように「反逆児」なのであった。

             (この一文は2006年9月27日に書かれたものです。)

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