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芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

後の先

2016年09月29日 | 相撲エッセイ
 
 この一文はだいぶ前に書いたものだが、いつのものか忘れてしまった。白鵬の優勝回数が大鵬に並んだとあるから、その頃のものにちがいない。



 白鵬がついに大横綱・大鵬の優勝回数三十二回に並んだ。あとは前人未踏の記録に挑み続けるのだろう。
 彼は角聖と呼ばれた双葉山の「後の先」を理想としているそうである。「後の先」は柔道、剣道、相撲など、多少異なるようである。相撲における「後の先」とは、立ち合いである。
 少年たちは相撲部屋に入門するとすぐ、立ち合いのスピードを叩き込まれる。両者が仕切り線で睨み合い、相手より速く鋭く踏み込むことを叩き込まれるのだ。十両から幕内に上がると、立ち合いのスピードが全く違うと言う。さらに上で取るには、より鋭い力強い踏み込みが必要なのである。
 千代の富士や白鵬、日馬富士の立ち合いのスピードは凄まじい。かつて中京大学スポーツ科学の湯浅景元教授が千代の富士の立ち合いの速さを計測すると、それは陸上短距離の王者カール・ルイスのスタートと全く同じスピードだったという。
 相撲の、双葉山の「後の先」は、相手より遅れて立つ立ち合いである。しかし双葉山はすぐ自分の十分な組み手となって相手の動きを止め、相手を押し込み、仕留めるのである。白鵬は双葉山の古い映像を繰り返し見ながら、「後の先」の奥義を研究しているらしい。しかし白鵬でも、その「後の先」を年に数番しか見せていない。
 これは当たり前で、白鵬も角界入りした十代後半から、誰よりも速い、鋭い立ち合いを叩き込まれてきたのである。立ち合いでは本能のように身体が動き、その鋭さ、速さは素晴らしい。
 さらに、双葉山の「後の先」は、作戦としての立ち合いではないからである。それは相手より遅れて立ってしまったときに、本能のように対処する方法なのである。
 相手より立ち合いが遅れてしまっても決して慌てない。慌てて前に出ようとか、変化しようとか、腰高のまま攻めようとかしてはいけない。相手より腰(重心)を低く、下から、内から、スッと入る、差すのである。基本は重心の低さであり、慌てない不動心なのである。この双葉山の「後の先」は大鵬にも見られた。相手の突進を受けて立ち、組み止める。


ああ稀勢の里

2016年09月18日 | 相撲エッセイ

 初日の敗戦で、稀勢の里の秋場所は終わった。ファンの興味も半減した。いやファンの秋場所もほぼ終わったに等しい。
 それにしても稀勢の里ほどファンを苛々させる力士も珍しい。なぜ苛々するかと言えば、それだけ応援している、稀勢の里ファンだからだ。
 稀勢の里は過度に緊張するタイプで、緊張すると立会いで立てない。それがここ二、三場所は影を潜め、落ち着きが出て、バタバタする相撲が減った。危ない相撲も運で勝った。そのため下位の力士に取りこぼしが減った。しかしあと一つ、大一番に勝てない。
 場所前のインタビューに「今場所が集大成」と稀勢の里は答えた。しかし稽古内容はあまり良くなかったと伝えられている。出稽古もせず、部屋の高安ばかりを相手にしていたという。「稀勢の里関には何が足りないと思いますか?」と聞かれた横綱の白鵬と日馬富士が言った。「苦手な相手を求めて、もっと出稽古に行かなければ」
 今場所は白鵬の休場が伝えられた。これは稀勢の里に初優勝の機会が増えたということではないか。まあ、他人の休場は関係なく、自分の相撲を一番一番、と答えるにちがいないが。

 初日の一番は「ぬうぼー」とした隠岐の海である。身体も大きく、懐が深く、また柔らかい。その彼も大器と言われながら、ほとんど勝ちたい、大関や横綱になりたいという強い欲に欠け、とうとう30歳になってしまった。隠岐の海と親しい好角家によれば、彼は自分の出世計画を持っていたという。25歳までに大関に、27、8歳には横綱に…。彼にも意欲はあったのか。
 北の富士にとって隠岐の海は孫弟子に当たる。彼に大きな期待を寄せていたが、しかし、意欲が足りない、稽古が足りない、とバッサリと切り捨てた。
 稀勢の里はその懐が深く身体が柔らかな隠岐の海に対し、マワシもとれず、腰高のまま彼を抱えるように土俵際まで寄り立てた。勢いよく寄り立てたように見えるが、稀勢の里の腰が伸び、すんなりと回り込まれ、あとは簡単に寄り出された。なんという不甲斐ない負け方か。稀勢の里の欠点が全て出た。立ち合いから腰が高い。脇が甘い。不利な状態にもかかわらず、慌てて寄り立てる、つまり相撲にどっしりしたものが全くない。
 テレビで解説していた北の富士は、常に稀勢の里の優勝と横綱昇進に期待を寄せていた人である。しかし彼は言った。「もう無理だ」と。「もう稀勢の里には期待しません」と。
 初日は横綱審議委員たちも観戦している。そのうちの一人が吐き捨てるように言ったという。「場所前の稽古総見のとき、稀勢の里は下位の力士を相手に2勝10敗だった。案の定負けた。総見で2勝10敗ですよ。今場所、まあ3勝くらいはするでしょうけど…」
 稀勢の里は前半に早くも二敗を喫した。もう彼に期待しても無理だろう。
 かつて魁皇は、小結で一度、大関で四度優勝している。優勝後の綱取りの場所は怪我で休場したり、腰痛に苦しみ、ついに横綱昇進を果たせなかった。彼には型があり、全盛時は最強の大関で、その型になれば安心して見れた。
 稀勢の里はまだ一度も優勝していない。彼の師匠・隆の里は糖尿病と闘いながら、30歳11ヶ月で横綱に昇進した。「おしん横綱」と呼ばれた。横綱としては短命だったが、「強い」という印象が残っている。
 稀勢の里に関しては、あの北の富士ももはや見捨てた。これからの若手の期待力士は正代だろう。あの土俵際の腰の重さ、攻める姿勢、巧さもある。相撲に速さもある。さほど欠点も見当たらない。あまり体重を増やさず、怪我に気をつけて活躍してほしい。
 

                                                      

再び競馬と相撲の話

2016年09月01日 | 相撲エッセイ
   「再び競馬と相撲の話」は2004年7月14日に書いた一文である。
   その頃19歳の力士は、いまその晩年を迎えようとしている。



 二ヶ月程前、私は競馬と相撲に詳しいと書いた。覚えているだろうか。
 競馬に関しては、キングカメハメハという馬に注目して欲しいと書いた。我々は近年稀なる名馬を目撃することになるだろうと書いた。…ほどなくキングカメハメハは第71回日本ダービーを、驚異的なレコードタイムで楽勝した。それまでのダービーレコードは1990年にアイネスフウジンがつくった2分25秒3で、キングカメハメハはこれを2分23秒3で駆け抜け、あっさりと2秒も短縮したのである。競馬の1秒は5~6馬身差に相当する。つまり彼はスピード馬アイネスフウジンを、10馬身以上の大差でぶっちぎったことになる。…レースはまさに横綱相撲だった。
 後方から2着に突っ込んで来たのは、ハーツクライ(Heart's Cry)という名の馬で、善戦したと誉められながら名前の通り心では泣いていたのである。ハーツクライは凄まじい追い込み馬である。それまでの戦績とレースパターンを分析すると、上がり3ハロンのタイムが平均33秒台、34秒台という驚異的な馬である。しかし2着も多い。つまり騎手にとって追い出しのタイミングが最も難しいタイプの馬なのである。
 秋に京都競馬場で行われる三冠レース最後の菊花賞(3000メートル)には、キングカメハメハは出走しないだろう。この馬の適性距離は1600から2000メートルであって、限界距離はダービーの2400メートルだと思われるからである。したがって彼の次なるG?レースは、ジャパンカップ(2400メートル)か秋の天皇賞(2000メートル)なのだろう。
 ハーツクライは菊花賞で勝つかもしれない。33秒台の上がりタイムで勝てば、あのダンスインザダークを彷彿とさせるだろう。あるいはまた2着かもしれない。しかし最も心配なのは彼の脚である。彼が持つ、この一瞬の爆発的なスピードの才能に、彼の脚が耐えられるかが心配なのだ。かって菊花賞でダンスインザダークが一瞬のスピードを爆発させ、上がり34秒で他馬を抜き去り優勝した時、私は胸をかきむしられた。
 これでこの馬の競走生命が断たれたと確信したのだ。彼は表彰式の記念撮影も無事に済ませた。しかし案の定、翌朝の新聞には「ダンスインザダーク故障発生!レース後判明」「競走馬として再起不能の重傷、このまま引退か」と出た。屈腱炎を発症したのだ。ダンスインザダークは二度と競馬場のターフを走ることはなかった。

 さて相撲である。まだ19歳のモンゴル出身力士、白鵬の素質が凄い。宮城野親方はこのモンゴルから来た少年に、大横綱・大鵬の素質を見て、この四股名を付けたのだろう。今場所11日目までに3敗しているが、そのうちの二番は、勝ったと思い込んで土俵際で力を抜き逆転されたものである。まだ詰めが甘いのだ。
 白鵬はまさに第二の大鵬の素質を持つ。相手力士がどんなに強く当たっても突いても、その力を全て吸収してしまうのである。だから後ろに下がらない。土俵際でも余裕を持って逆転する。全体の柔らかさ、足腰の柔らかさ、膝の余裕、強靱さ、大きくなりそうなバランスの取れた身体、相撲勘の良さ、巧さ、安定感…もの凄い素質である。
 この柔らかな体質は怪我もしにくい。かって横綱・旭富士は「なまこ」と呼ばれるほど柔らかだった。双葉山を知る往年の相撲ファンたちは、旭富士の体質は双葉山にそっくりだと証言していた。しかし旭富士は技巧相撲に偏り、力強さを持たなかった。彼は双葉山になれなかったのである。しかも内臓を患い、短命の横綱に終わった。

 まだ23歳の朝青龍は、このまま優勝回数を重ねて千代ノ富士の31回、大鵬の32回に肉薄するだろうと思っていたが、おそらく無理だろう。来年の秋頃に白鵬は大関に駆け上がり、再来年の春から夏には横綱になっているだろう。その時点で、白鵬は朝青龍を凌駕するようになっているに違いない。彼の素質こそ、まさに大横綱・大鵬の再来なのである。大鵬や双葉山の大記録をも塗り替える可能性を秘める者は、この底知れぬ19歳に違いない。

長屋の相撲好き、苦言を呈す

2016年08月30日 | 相撲エッセイ
   「長屋の相撲好き、苦言を呈す」は2005年6月2日に書いた一文である。
   まるで「光陰、相撲のごとし」である。



 まだ私が三歳くらいの頃から、ラジオから流れる落語と相撲放送を、それはそれは楽しみにしていたものだ。
 おそらくあの頃聞いた落語は、桂文楽や古今亭志ん生、三代目・三遊亭金馬らで、ちっちゃな子供ですから、文楽の遊女ことばの艶笑噺や人情噺、志ん生の聞きづらい語り口や間の江戸の古典なんざ分かっちゃいねえはずなんで。…
まあ、それでも何が可笑しかったのか、ラジオの前でよくケタケタと笑っていたもんでして。…え~まあそのくらい私は年季の入った相撲ファンだってえことを言いたいだけの枕でして。何で噺家の語り口になるかって不思議なもんですな。

 ちなみに、千代ノ山や鏡里、吉葉山や栃錦が好きだった。
 大鵬に破られるまで最年少横綱昇進二十三歳六ヶ月の記録は千代ノ山が持っていた。年二場所、三場所の時代だから、彼の出世がいかに破格だったか察せられよう。彼が九重部屋(出羽海部屋)を興し北の富士を育て、さらに故郷松前から千代の富士を見出した。
 鏡里(時津風部屋)はまるで博多人形そのままの美しいアンコ型横綱だった。吉葉山(高島部屋)は最も生きの良い時期に出征し、五十キロにまで痩せて復員した。怪我に泣き悲劇の横綱と呼ばれた。土俵入りは不知火型であった。
 彼が興した宮城野部屋に、かって陸奥嵐という基本を無視した超個性的な力士がいて、大好きだった。吉葉山は既に亡いが、いま宮城野部屋には白鵬という角界の宝がいる。彼が横綱になったら不知火型を継ぐだろうか。
…千代ノ山も鏡里も吉葉山も栃錦も、非常に柔和な人格者で、人望も厚かったと後々まで伝えられている。横綱とは品格がなければならないのだ。同時代の大関・三根山(高島部屋)も人格者として名高く、彼が戦争孤児たちの慰問を続け、子供たちを相撲見物に招待したりしているというニューズもよく聴いた。

 さて年季の入った相撲ファンとしては、相撲界の行く末が心配である。それは二代目・貴乃花が引退後に父で師匠の二子山部屋をそのまま継承し、一代年寄「貴乃花部屋」を興し角界に残ったからである。その心配は二子山の死で予想通り露出した。
 この貴乃花という男は、どうしようもなく困った存在、やがて角界全体の癌となるだろう。
 先日「千田川は焼香できるか」というメールに対し、やはり大の相撲ファンである人形作家・石塚公昭から返信が来た。「全く完璧に同感です。あの了見、視野の狭さは病気の範疇と思えます。」…相撲ファンは皆心を痛め、貴乃花の思考と態度に怒りすら覚えているのだ。

 TVのワイドショーを見たら、斎場に千田川の姿がありホッとした。貴乃花は「喪主は自分が務めるのが部屋の総意だ」と言ったが、部屋の中でそんな非常識を言う者はいないはずだ。いま残る部屋付き親方は初代・若乃花勝治が育てた三杉里や隆三杉と、二子山親方が育てた穏健な貴ノ浪である。兄・勝と喪主で揉めていたら、叔父の花田勝治が「喪主は勝だ!」と一喝してやっと貴乃花が折れたのが真相らしい。
 現役時代から貴乃花が進もうとしているのは相撲の王道であり、それがために周囲と妥協を許さぬストイシズムとなっている、と一部の理解者は言うが、ただ聞く耳を持たず意固地なだけで、人格者でもなく人望もない。しんねりと、重く意味のあるかの如き発言をするが、その言葉をよく吟味すると、聞き心地はよいが全く空疎で意味のないガキの言葉であることが判明する。貴乃花は王道を気取り、懸命にその態度を演技しているかのようだ。
 二子山親方が親友の大島親方(旭国)の処へよく顔を出し、彼に深い苦悩を曝していたと言う話しは涙が出る。王道を気取りストイシズムと大物ぶりと威厳を演技する故の、他者の無視、たえない周囲との軋轢の数々…。

 力士生活の晩年が近づいたことを意識した貴闘力は、何かと声をかけてくれた一門の大鵬親方の部屋を継ぐ決意をし、将来の軋轢が予想された二子山部屋を出た。
 予想通り、部屋隆盛の功労者であり部屋付き親方として残った兄弟子の安芸乃島は破門し、叔父が一喝するまで「喪主」は部屋を継いだ自分だと言い張る。
 離婚し花田家を出た母親を葬儀に呼んだのは、兄の勝だったという。母親は貴乃花についてこう語った。「自分の姿勢を崩さないが、要領の悪さは光司らしいと思いました。一途に王道を突き進もうとするあまり、周りが見えなくなっている。十五歳という年齢から社会勉強を積まずに相撲だけをやってきた。三十歳を越えたのですから、自分を磨いて尊敬されるようになってほしい」
…貴乃花は相撲界の困りものである。

相撲社会の文化学

2016年08月28日 | 相撲エッセイ
                                                      
       
  パソコンのデータを整理していて、「相撲社会の文化学」という一文を見つけた。
  2005年7月26日に書いたものである。十一年も前だ。掲載しておこう。



 相撲界は封建制の遺風が残る旧態然たる社会のように思われる方が多いが、これは全く事実と異なる。相撲社会が古いのか新しいのかは措くとして、言えることは確かに特殊な社会であり、またオープンソサエティであることだ。だから欧米の文化学者や哲学者たちは数十年も以前より、日本の相撲社会のここに注目していた。彼らは相撲社会を日本の中の、最も異質な実力社会と捉えてきたのである。

 オープンソサエティとは字義通り開かれた社会のことである。オープンソサエティでは、誰もが機会を均等に与えられる実力社会なのである。この社会は芸能界や政界と異なり、親の七光りが全く通用しない。文字通りの裸一貫の実力社会であり、家柄も門閥も人脈も、通常の日本社会が持つ「封建の遺風」は全く通用しない。つまりこの社会には、いささかも「小さな天皇制なるもの」は存在しない。
 この相撲社会は、極めてアメリカ的、アングロサクソン的な「実力至上主義」が貫かれており、その意味に於いて、日本社会内では最も異質で特殊な社会なのである。古くから力士たちは、土俵の中に宝が埋まっていると聞かされてきた。それは努力と実力次第で全て得られるものなのである。

 相撲は五穀豊穣や平安を祈る神事として神に捧げられてきた。神事は礼式化して伝えられている。
 また親方とお女将さんと弟子の関係は親子としての関係であり、兄弟子と弟弟子は兄弟の関係である。そこには主従関係はなく、親や年上や先輩を敬う礼儀がある。
 現役力士は頭に髷を結い、髷のある間は土俵上で武士道を貫かねばならない。
 武士道本来の珠玉の理念は、封建の主従関係ではなく、彼が立ち生きる「場」において、いつでも「死ぬる覚悟」「潔さ」を言う。「葉隠」の冒頭に述べられる「武士道とは死ぬことと見つけたり」なのである。
 従って土俵は力士たちの武士道の場なのであり、ただ勝てばよいとして卑劣な手を使ったり、土俵を汚すような振る舞いに及べば、行司は斬り捨ててよいのである。この斬り捨て御免の行司は、真剣の脇差し帯刀を許されている。力士たちは土俵という場に死ぬ覚悟で立ち、己の武士道、相撲道に精進するのである。

 相撲社会に於いては番付が全てという方も多い。これも一面正しいが、実は本質的ではない。相撲社会は実力社会である一方、礼儀が非常に重んじられる。若い横綱や大関は、年上の平幕力士に対し礼儀を持って敬する。そして年上の平幕力士は若い横綱や大関の地位に対し、礼儀を持って敬する。
 しかし年上の力士も幕下以下の番付なら、若い関取の付け人をやらされる。それは「悔しかろう、口惜しかろう、だから頑張れ」というインセンティブなのである。それも力士の修業なのだ。

 相撲社会の実力には「人格」力も入る。横綱を極めても理事長になれるわけではない。
相撲社会は実力社会なので、人格力すなわち人徳や、協会の運営能力、経営能力、統率力が問われる。横綱・常ノ花が出羽の海理事長時代、その協会No.2に抜擢したのは現役時代に前頭二枚目が最高位だった親方であった(名前は忘れた)。実質上はその親方が相撲協会を経営した。
 さらに双葉山の時津風理事長が次期理事長に抜擢したのは、これも前頭筆頭が最高位だった武蔵川親方であった。彼は引退後に経理学校に通い、経理・財務に秀で、人望もあつく、数々の大胆な改革を断行した。
 次の春日野理事長が二子山の次の後継者に抜擢したのは、優勝回数も少なく一般には人気もなかった佐田の山(出羽の海)であった。
 佐田の山は優勝した翌場所に体力を残したまま引退し、実に潔い引退と言われた。彼も引退後に経理学校に通い、財務に明るく、また他の親方衆や力士たち、行司や呼び出したちの人望もあつかった。彼は理事長職に専念するため、出羽の海という大名跡を関脇・鷲羽山に譲り、自らは一介の部屋付き親方に過ぎない境川親方になった。年若くして理事長職に就いたため長期政権になると言われたが、数々の改革断行の中で「親方株改革」に失敗すると、さっさと理事長職を大関・豊山の時津風に譲った。なかなか潔い人だったのである。
 現在の協会理事に、前頭筆頭が最高位だった若藤親方(和晃)がいる。彼も人格者の評判が高い。また現在、数々の大胆な改革を実行に移しているのは元関脇・藤ノ川の伊勢の海理事である。
 相撲社会は実力と人格の高潔さが尊ばれるのである。相撲社会は、日本社会の中では異質のオープンソサエティであり、そして伝統の美風が残された社会のひとつである。