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芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

不偏不党を嗤う

2016年02月29日 | コラム
 この一文は2006年の七夕の日に書いたものである。当然、書かれている話題は古びている。まだ松井秀喜は現役の大リーガーであった。私は彼が打てないことに苛つき、ずいぶん酷いことを言い、彼のファンたちから顰蹙を買って叱られたものである。しかしそれらはテーマの周辺のことであって、本質は今も重大である。


 さて最近NHKは、さっぱりNYヤンキースの二流スラッガーでミスター・セカンドゴロとして人気も高い松井秀喜の近況を報道してくれない。ゴジラの手首がどうなったかホントに心配だ。淋しいではないか。
 なにせ彼が怪我をしたときは、2日間にわたってトップニュースで報道するほどの大ニュースだったはずではないか。NHKにとって重大なのは、北朝鮮のテポドン2より松井の手首ではなかったのかネ。

 あの時私は、NHKにはジャーナリストはいないのかと嘆じたが、よくよく考えれば端からいないことは明らかだった。NHKにジャーナリズム精神を期待することが誤りであったのだ。NHKは「不偏不党」「起こった事実のみを公正に」淡々と伝えていくのみ。
 つまり御上から記者クラブに配られる報道資料を、記者がリライトし、アナウンサーが読み上げるだけなのだ。だから「経済成長には自由貿易が欠かせないことから…」と、何ら正当性や納得のいく説明もなく、全く疑問も抱かず、ただ読み上げるのみなのである。
 しかしジャーナリストとは、沸々と滾る反逆精神が必要で、常に権力を監視し、疑い、批判する存在でなければならない。

 17世紀初めトーマス・ホッブズは国家を巨大な怪物「リヴァイアサン」に譬えた。この大著は人類最初の近代的国家論であり、自然権としての生存権、平等な個々人の社会契約を語った。ホッブズは個人・人権と国家・国権の「緊張関係」を初めて語った哲学者だった。彼によって近代的国家と国民(市民)の関係、権利等が哲学の視野に捉えられたのだ。彼の後にジョン・ロックが続いた。
 シュテファン・ツヴァイクは「ジョセフ・フーシェ」の中で、フーシェについて「夜こそ、彼の本質」と書いた。フーシェはその濃い影の巨大さ故の象徴に過ぎない。権力・政治・政治家の本質は、夜=闇なのである。
 民主主義は本質的に危うい制度であり、民衆はポピュリストやアジテーター政治家によって、いとも簡単に誘導される。権力は常に情報操作に腐心し、民衆世論の誘導を考えている。また権力は「民は愚かに保て」「知らしむべからず、由らしむべし」と考えている。権力は時とともに腐るのではなく、最初から饐えているものなのであり、その本質は卑劣なのである。そして国家とは狂気を孕んだリヴァイアサンなのである。

 近現代の個人とその人権、国家とその権力の相関は、常に本質的な緊張関係が存在し、また緊張関係が必要なのだ。国家とその権力は、常に監視の眼と批判・批評に曝されなければならず、そのために世界の現代的憲法権利として「The right to know 知る権利」がある。これこそ民主主義国家の言論報道の自由や、情報公開制度を正当化するための個人(市民・国民)の憲法権利なのである。 
 「知る権利」は「accountability 説明責任・説明義務」と対をなす概念である。ちなみに見出し語数38万語と語源を含めた詳細解説を誇る英和辞典「ランダムハウス第2版」によれば「accountability は responsibility と異なり、果たせば報酬を伴う」とある。つまり、本来「accountability」は権力を持つ者、その権力を行使した行為で報酬を得る者、つまり政治家や官僚、経営者らに課せられる説明義務、釈明義務のことなのである。
 個人の権利、市民・国民の権利として、国の政治・行政に関する公的な情報、また権力を行使する者たちとその行使した事柄に関して、人々は知る権利があり、政治家・官僚・財界人等はそれらに応える説明義務がある。人々は彼らに「説明を求めること interpellation 、demand an explanation」ができる。この「知る権利」は権力を行使する者たちに対しての権利であって、決して他人のプライバシーを知る権利ではない。これを曲解し、あるいは知らず、全く品位と自制を欠いている今日この頃のマスコミである。

 ジャーナリストの監視の目と懐疑と批判精神は、本来は権力者に向けられるものなのだ。それが本質的には危うい制度である民主主義や、言論の自由や表現の自由を守ることにつながる。
 何度でも繰り返すが、権力は常に監視と懐疑と批判と批評に曝されなければならない。その監視と懐疑と批判がジャーナリストの仕事と精神である。民主主義下のジャーナリストの要諦は、権力への徹底監視と懐疑と批判精神にある。
 その精神は、古くは桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」の心意気であり、後の「他山の石」の精神である。また山田風太郎が喝破した「正義の政府はあり得るか」と言う権力への徹底懐疑精神や、フランスの哲学者でジャーナリストのレジス・ドブレイの「疑え、見抜け、疑え、見抜け」の精神なのである。
 腰の引けた「不偏不党」にジャーナリズム精神は存在しない。むしろ全ての権力に対し「旗幟鮮明」に徹底懐疑、徹底批判すべきである。疑え、見抜け、疑え、見抜け!

我が魂の凍土

2016年02月21日 | コラム
 この一文は、今から9年前の2006年12月20日に書かれたものである。
 昨年もロシアで反プーチンの野党党首が何者かに暗殺された。監視カメラには彼が射殺される様が記録されていた。しかしその場所を映し出す監視カメラは、ふだんは複数台設置されているというのだが、この日に限って1台を除き、全てが故障していたというのである。…そしてつい最近も、ロシアのドーピング検査機関の元最高責任者たちが、二人も相次いで不審な病死をしたのである。しかし、それを病死とみるロシア人は一人もいない。

                    

 象徴的なルビヤンカの犯罪であるジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの射殺に続いて、ロンドンでロシア連邦保安庁(FSB)のユトビネンコ元中佐がポロニウムで殺された事件が、世界の耳目を集めている。続いてガイダル元首相代行がアイルランドで毒を盛られた。
 プーチンの指令か、彼の意を酌んだクレムリンの徒党の陰謀か、反プーチン派の謀略か、ロシア・マフィア=ロシア新興財閥の陰謀か。
 実はそんなことはどうでもよい。諜報機関の暗躍や秘密…それらの推理は数年後の船戸与一の作品に任せよう。

 私がこの一連の事件報道で想起するのは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」が描いたロシアの魂のことである。
 とどまることのない物欲と権力欲、途方もない富の独占と蓄積、歯止めのきかぬ欲望のスパイラルと、澄明な精神性との相克のことである。これらは全て国家という枠を破砕しかねぬ内なるアナーキズムであり、ナイリズム(虚無主義)である。これらは全て、ロシアという風土的、歴史的な、極北の精神性の表出であろう。
「我が魂の凍土(ツンドラ)」である。ちなみに「わが魂の凍土」は私が若い頃に文学、哲学、社会の縦断的・重層的評論を構想した際の表題である。無論、私はそれを多忙を理由に放擲したので、未完の幻の書である。

 かつて大江健三郎は自作の小説の登場人物に、「人間なら誰でもドストエフスキーを読むべきだ」と語らせた。賛成である。
 19世紀の末から20世紀初めに、ロシアの新カント派の文学者・哲学者のウオルィンスキーが、一連のドストエフスキーの研究論文を発表した。「白痴」を論じた「美の悲劇」、「カラマーゾフの兄弟」研究の「カラマーゾフの王国」、そして「悪霊」の研究「偉大なる憤怒の書」である。
 無論ドストエフスキーは偉大だが、このウォルィンスキーも偉大である。この「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」こそ、ドストエフスキーが露出させた近代ロシアの魂の混沌であり、近現代の人類の魂の虚無性である。そしてドストエフスキーは全ての角度から、全ての思想、政治機構に対して、嘲笑、侮蔑、激越な批判を浴びせかけたのである。その批判と嘲笑と侮蔑こそ、ドストエフスキーの虚無的憤怒なのである。

 スターヴローギンもキリーロフもロシア的明晰さと、ロシア的混濁を併せ持ち、また激発する精神と、脆弱さの裡に死に至る異常さを示す。ドミトリー・カラマーゾフは混濁の裡にあり、イワン・カラマーゾフは明晰な近代合理主義と知性を持ちながら、果てしない物欲に走り、しかも誰よりも苦悶しつつ攻撃的である。
 アレクセイ・カラマーゾフは優しさという弱さに震えながら澄明な目で事態を見守るしかない。ゾシマ長老は静かに、そして激しく「原理主義」の正義を批判し、彼の死の周囲に跳梁する人間の政治学(ポリテクス)が悲しく虚しく描かれていく。
 しかし、このロシア的虚無主義とアナーキズムは、ロシアという風土に突出して表出しただけの象徴に過ぎない。それは近現代人の魂の全ての象表なのである。

 この人間の政治学こそ、村上ファンドやライブドア、楽天の三木谷の欲望と裏切りの金銭ゲームであり、いっさいの価値ある物を生産することなく莫大な富を収奪するリーマンブラザーズたちのビジネスであり、またビジネスという名の交渉事であり、足の引っ張り合いとチクリ合いであり、単なる北の時間稼ぎに過ぎぬ無駄な六カ国協議というゲームであり、また死に至る地球環境を目撃しつつも止まぬ、経済成長という欲望のシステムと利己主義なのである。そのような人間の醜悪さは、ドストエフスキーが描いたゾシマ長老の周辺に腐臭を放って渦巻いていたのである。

 ユトビネンコ暗殺は、ロシアという風土に突出して表出しやすい、近現代人の魂の虚無の象徴的事件なのである。それは「我が魂の凍土(ツンドラ)」であろう。
 ちなみにウォルィンスキーの「偉大なる憤怒の書」(みすず書房1970年刊)の翻訳者は、あの「死霊」を最晩年まで書き続けた埴谷雄高である。またウォルィンスキーのドストエフスキー研究の三冊は、私が左手を書棚に伸ばせば、いつでも手に取れる位置にある。
                                              

食育について

2016年02月20日 | コラム

 今から9年前の2006年6月20日に書いた一文を、またブログに掲載することにした。当時私は強くWTOを問題視していた。NHKのドキュメンタリー用に「WTOを知っていますか?」という企画書を書いたこともある。WTOという言葉はニュースに頻出していたが、その細かな内容や問題性、危険性が報道されることは皆無で、ほとんど知られていなかったのである。単なる世界的な貿易自由化の枠組み交渉…、程度だったのである。
 WTOは一頓挫し停滞したが、それに業を煮やした巨大グローバル企業は、当該政府にロビー活動を展開して圧力をかけ、WTOに代わって、2国間あるいは3カ国で、ほぼWTOと同じ内容の貿易協定FTAを結び、その協定数をさらに数カ国、十数カ国と増やしてネットワーク化していけば、WTOと同じ、巨大グローバル企業のみを利する新自由主義、自由市場原理至上主義の自由貿易協定ができるわけである。
 TPPは当初、弱小3、4カ国で進めようとしていた小さな貿易協定を、アメリカが乗っ取る形で参入したのである。そしてWTO的発想の太平洋の巨大な一ブロック経済圏協定としたのである。
 当時と全く同じで、TPPの問題点、危険性を細かく分析したり、報道することはほとんどなされていない。しかもTPPはWTOをより過激にしたものである。おそらく日本にとっては劇薬、毒薬に近い。清原が溺れた覚醒剤と等しく、一時的な高揚感はあるかも知れないが、やがて日本をボロボロにしてしまうだろう。本当にこのままでいいのだろうか? 
 さて、この一文は「食育」についてである。
 
                  

「21世紀新農政2006…」と題する、農水省官僚が書いた農政スキームをチャート化した文書を興味深く読んだ。世のジャーナリストはこれを「玉虫色」と評するのだろうが、内面の苦渋と外面の笑顔に満ちた「股裂き政策」であることは間違いない。批判はさておく。この文書は優れもので、最近読んだ活字の中では最も面白かった。

 この文書と併せて「食育基本法」なる法文を読んだ。これらは食育について企画を立てるための資料なのだが、思えば世の中は、「食育」なる概念あるいは定義を、セグメント化し矮小化しているようなのだ。
「食育」に関する専門家がいる。例えば医師や管理栄養士である。あるいは日本の食文化の研究家である。あるいは地産地消運動家である。あるいは食農産業クラスターの推進者である。
 しかし、ある一分野にセグメント化されたスペシャリストは、この世界の全体像を視界に入れて理解することに欠けているきらいがある。いわゆる専門家は、世界の全体像が把握できないのである。市場原理主義の経済学者や金融工学の専門家には、環境問題も農業問題も視野にはない。栄養学や有機農業の専門家にはWTOは視界にない。環境問題の専門家には国際競争力向上の施策や、子供の栄養バランスに関心がない。
 世の中には何事かにスペシャライズした人間を重んじる傾向がある。専門家を尊重することに関して、私は人後におちない。しかし専門家になる以前に、全体を視野に入れ、把握する能力を持ってから後、専門家となるべきだろう。
 実は「食育」とは、優れて世界を視野に入れた教育であって、ごく一分野の教育ではない。ましてや、農業全体を視野に入れることは大きすぎる問題なので、とりあえず「食育」という小さな分野を…などという程度のものではないのだ。繰り返すと「食育」とは、優れて世界の全体像を視野に入れることが可能な教科となりうる。食育は世界の全体像を教えることができるのだ。

 食育は食育基本法に則した「教育イシュー」である。地元の食材、地元の食文化を学ぶ。農林水産業の大切さ、大変さを学ぶ。ありがとう、いただきます、もったいないを学ぶ。食べ物、栄養バランスの大切さを学ぶ。農水産学校の活性化の問題もある。

 食育は「健康イシュー」である。予防医学は食から始まるのだ。安全な食品の問題もある。当然、栄養バランスの問題でもある。キレる子供、学級崩壊の問題は、栄養バランスの改善で、ある程度は治癒できるのだ。

 食育は「環境イシュー」である。美味しい水は豊かな森から生まれ、それは厖大な保水力を持つ。豊かな海は豊かな森が育てる。豊かな河川や湖沼も同様である。田圃は膨大な貯水力を持ち、多くの小生物を養う。鳥も飛来する。豊かな自然があって、その地に特有な多様な動植物が保たれる。本来自然界にはゴミは存在しない。そこからゼロエミッションと産業クラスター構想が生まれる。口から摂取される環境ホルモンの問題もある。「奪われし未来」もテキストとなるだろう。

 食育は「社会イシュー」である。この社会イシューの概念には、地産地消、地域経済と地球経済システム、食糧自給率、食糧安全保障、フェアトレードと南北問題が含まれる。
 地産地消。農林業、水産業、食品加工業を核に地場の産業クラスター化サイクル。バイオマス燃料を含むバイオマス産業、飼料産業、肥料産業、ユビキタスのトレイサリーシステム(これは情報産業と言えるだろう)、ユビキタスチップ製造業、生物分解可能プラスチック産業、排熱・排水利用…。これらは地方に雇用の創出をもたらす。
 しかし、例えば地産地消運動は、WTO的な見地に立てば「非関税障壁」であり、行政が地産地消運動に補助金を出せば、明らかにWTO違反となる。例えば森林の保全のために、間伐や下草刈り等の人件費に補助金を支出すれば、これもWTO違反となる。海外の木材輸出業者にとって、それは不公平な補助金と見なされるのである。それを食育においても伝えなければならない。
 食育はWTOと貿易の自由化の犠牲となる農林水産業、食の安全を問題にしなければならない。国際政治と国際経済を知らなければならない。新しい地球経済と地域経済の有り様を模索しなければならない。フェアトレードについて再論しなければならない。国際競争力向上と、経営効率(産業クラスターサイクル的)を考究しなければならない。「なぜ世界の半分が飢えるのか」「バナナと日本人」「エビと日本人」「アップサイジングの時代」「フェアトレード」は優れたテキストになるだろう。
 食育は子供たちに、自分の健康と、自分の周りの地域と環境と、世界の全体像を教えることができる優れた教科となり得るのだ。


                       

永井式「音響オルゴール」について

2016年02月19日 | コラム
                    

 オルゴールのマイスター永井淳さんにお会いしたのは、今から12年も前になる。ゲートシティホールでの夏休みイベント「オルゴール展」であった。彼のブースだけは完全クローズの部屋で、他のコーナーからの雑音は遮断されていた。
 オルゴールと聞けばピンピンと金属の櫛を弾く音で、ちゃちなオモチャかそれに類いするもの、あるいは装飾過多な宝石箱のようなものであった。
 しかし、永井式オルゴールは「楽器」なのである。それはこれまでのオルゴールのイメージや概念を変えるものであった。
 楽器としてのオルゴールの秘密は、振動を共鳴させる木の箱にあり、バイオリンやチェロ、ピアノと同じ、楽器なのである。響板にはこれらの多くの楽器に用いられているスプルス材を使用しており、また少しぜいたくだが、全て無垢材を使用している。無垢の木材だから出せる良質の響きがあるのだ。今どきのオルゴールのほとんどは合板を使用しているのである。
 音は木の繊維を伝わって響く。響板木の繊維をできる限り途切れさせないために、日本の伝統工芸「江戸指物」の技術が生かされている。釘は使わず、接着剤も使わない。それが至高の音質を可能にしている。
 「江戸指物」は質実剛健で装飾も少なく武家に愛用された。一方「京指物」はどこか華やかで、飾り彫りや透かし彫りのものもある。これは木の繊維を途切れさせてしまう。装飾過多では良い音は出ないという。
 「江戸指物」の永井式オルゴールの塗装は、音の響きに影響を与えないように、楽器に使用されているセラックニスだけである。自然が作り出した木の色や木目の美しさを際立たせるように、無色透明の食用セラックニスというこだわりである。厚い漆塗装や、ラッカー塗装を施すと、響きに影響を与えて良い音が出ない。ラッカー塗装は経年劣化で硬化し、ひび割れが入ることもある。
 永井式のシリンダーオルゴールの箱は三本脚である。このオルゴールはサウンドボックス(共鳴台)の上に置いて使用する。共鳴台はどう置いても同じ圧力がかかるように、これも三本脚にしてある。ピアノの三本脚と同じ理由からである。
 この箱を重ねると、高音から低音まで広がりと深みのある音が奏でられるのだ。これは驚きだ! これが本当にオルゴールなのか! オルゴールとはこういう音色が出せるのか。高音がきれいだ、低音がずっしりと心地よい。
 ディスクオルゴールは、バイオリンと同じ造りのサウンドボックスを、外箱にはめ込んでおり、繊細かつダイナミックな音が大きな特徴となっている。このオルゴールはディスクを取り換えるだけで、色々な曲を楽しむことができる。
 一番大きなディスクオルゴールは音響機器(マイクやスピーカー等のPA機器)を使わずに千人収容のホールの一番後ろの席まで響き渡るのである。オルゴールとはこんなに大きな音が出るものなのか! 実際に中野ゼロホール(千席)でオルゴールのコンサートをやっている。
 永井氏はこともなげに言う「ピアノやバイオリン、チェロなども、PAを使わずに後ろまで届くでしょう」
「スピーカーから出る音は直線的に向かってくる音。オルゴールなどの楽器は、人を包み込む音なんです」…優しく、柔らかな、温かい音色だ。これは心地よい。
 楽器としての永井式「音響オルゴール」はNHKの「美の壺」に取り上げられた。また「おもいっきりテレビ」でこのオルゴールを取り上げた みのもんた氏は「これ本当にオルゴール?」と言った。日テレが みの氏のアナウンサー生活40年を祝って何かプレゼントを贈りたいと申し入れると、彼は「永井さんのオルゴールが欲しい」と言った。日テレは永井式音響オルゴールをプレゼントした。「ちい散歩」の地井武男氏は永井さんのアトリエを訪ね「これ、本当にオルゴール?」と感嘆した。「ぶらり途中下車の旅」の出演者も永井さんのアトリエを取材し、眼を丸くしている。
 本当に「これ、オルゴール?」と言わしむる、オルゴールのイメージと概念を変える至玉の音色なのである。

                     

憲法とは

2016年02月09日 | コラム
                                              

 現代の国際的な憲法思想、人権思想の元となった「自由論」を書いたJ.S.ミル。彼は吉田松陰とほぼ同世代である。
 権力の根拠となっている「人民の意志」が、実際には「多数者の意志」に過ぎず、もし歯止めを設けなければ、その権力によって「多数者の暴虐」が発生する。「多数者の暴虐」は少数者に対する抑圧だけに止まらない。「権力を選んだ多数者」と「多数者によって選ばれた権力」は同一の存在ではないので、権力による暴虐は往々にして多数者にも向けられる、とミルは考えた。
 ミルによれば、権力というものは、例えそれが国民の厳粛な信託に由来するものであったとしても、絶えず歯止めをかけていく必要があると言うのだ。この「権力の手足を縛る歯止め」が重要なのである。
「…支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して、制限を設けること」、その制限こそ市民の「自由」を保証するものなのであり、「政治的自由または権利と呼ばれる、ある種の責任免除を承認させること」で、もしも支配者が「これらの責任免除を侵害したならば、特定の反抗または一般的反乱が容認されうること」とミルは書いた。後にこれは「憲法による抑制」として確立された。

 つまり本来憲法とは、権力者らに「これをしてはいけない」「これを破ってはいけない」という「抑制」として確立されたものである。さらに憲法は、その社会の「理念」「理想」を謳ったのである。もう「戦争はしない」は理想である。「平和」は人類の理念である。「基本的人権が守られる」は当然の理念である。
 かつてカントが唱えた「永遠平和のために」は理想である。ウッドロー・ウィルソンはそれを国際連盟に政治化し、理想主義者と呼ばれた。それらは確かに理想であり、また確かに脆かったが、哲学者が、指導者が、政治家が、理想や理念を語らずにして何を語るのか。バリ大学の入試論文に出されそうである。「人を理想主義過ぎると言って批判することは正しいか、論ぜよ」

 憲法にはその国の理想や理念を語り、その下に、歪曲や拡大解釈ではない現実的な法や条例、実務的要項、段取り、手順を整備することだろう。
 理想や理念が、退嬰的な・祭政一致などを謳うナンタラ会議に唆され、王政復古的、太政官令的後退、大日本帝国憲法的な改変など、世界のもの嗤いだろう。
 安倍夫人が感銘した幼稚園児による「五箇条の御誓文」暗唱だが、あれは三条・岩倉等の宮廷クーデター派が、女官に囲まれて育った幼弱な十五歳の少年を抱え、取り急ぎ作文したものである。岩倉などは遣欧使節団の船中で「そうそう、そんなものも作ったなあ」「あったあった」と笑い合っている。
 幼稚園児による「五箇条の御誓文」「教育勅語」暗唱は、まるで北朝鮮の園児たちだ。現為政者たちはいったい何を目指しているのか? ちなみに日本の右翼が縁あって北朝鮮の平壌に行って感じたことは、平壌に「天皇御親政の理想を見た」であった。