渋谷と短歌
渋谷は、「自然と文化とやすらぎのまち」とよばれるように多くの文学者が住まい、作品を生んできた。そのなかで与謝野鉄幹・晶子の短歌について取り上げる。
・与謝野鉄幹
△ウィキペディア・コモンズより
明治6年~昭和10年(1873~1935)
京都府出身。明治32年「新詩社」を創設し、翌年(明治33年)雑誌『明星』を創刊。
明治34年に渋谷で晶子と結婚した。渋谷を「新詩社」の拠点とし、近代短歌形成の先駆者として多くの活動を展開した。
渋谷に最初に居住したのは、明治34年渋谷村大字中渋谷272番地(現在の道玄坂2丁目)。『赤裸裸歌』や『夏草』はその頃を歌った作品である。同年渋谷村大字中渋谷382番地に転居。三度目の移転は37年渋谷村大字中渋谷341番地。この期間が東京新詩社の渋谷時代と呼ばれている。渋谷区内ではもう一度転居しており、千駄ヶ谷村大通549番地(現在の千駄ヶ谷4丁目)に37年から42年まで暮らしていた。
<作品>
赤裸裸歌
栗の花水に散る 渋谷の村の真昼 ひくき茅籠の下 鶏飼ふ家の東
五月の森の闇き眺めて 友と此の詩を吟ず 如何に君おもへ 栗の花の寒きに
栗の球の麁きに 人棄てて秋の実奪らずば 寧ろ其れ栗の幸か
*「明星」(明治34年5月)から
・与謝野晶子
明治11年~昭和17年(1878~1942)
△「明星」(明治34年5月)から
堺市出身。「新詩社」の社友となり、「明星」で短歌を発表する。34年に上京し、与謝野鉄幹と結婚。同年に歌集『みだれ髪』を刊行した。奔放な空想と大胆な恋愛感情をうたい、明治浪漫主義の新世界を切り開いた。渋谷を歌っている作品では、明治期から大正期にかけての何度かの転居による苦しい生活の中で、日常の生活うや引っ越しの前後の様子が渋谷の街の姿に重ねられつづられている。
<作品>
渋谷なるまづしき家に君むかへ見ぬ四年をば泣きて語りし
*「トキハギ」(明治42年5月)
渋谷にて
濃きむらさきのかきつばた 採ろとみぎはにつくばんで 濡れた袂をしぼる身は
ふと小娘の気にかへる 男の机に倚りかかり 男の使うペンを執り
男のするやうに字を書けば また初恋の気にかへる
千駄ヶ谷に住みて
場末の寄席の寂しさは 夏の夜ながら秋げしき 枯れた蓬の細茎を
風の吹くよな三味線に 曲弾きの音のはらはらと 螇斯の雨が降り掛かる
寄席の手前の枳穀垣 わたしは独り、灯の暗い 狭い湯殿で湯をつかひ
髪を洗へば夜が更ける
*『与謝野晶子全集』1・7・8巻(昭和47年10月 文泉堂刊)から
渋谷の街は、数多くの文学者たちが作品に取り上げている。近代以降文学者たちの連なりが受け継がれており、それは渋谷独特の文学風土と言えるだろう。
【参考資料】
・『渋谷と文学』 渋谷区教育委員会 S33 (中央・臨川所蔵)
・『新 渋谷の文学』 渋谷区教育委員会 S33 (全館所蔵)
・『与謝野寛・晶子年譜』 新川一男著 S33 (中央・西原・渋谷・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川所蔵)
【画像】
①ウィキベディア・コモンズ(2014.2/23最終閲覧)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tekkan_Yosano.jpg?uselang=ja#
②「明星(明治34年5月)」東京新詩社(区内所蔵なし)
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