ハチは知っている

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O・ヘンリーを知っていますか?

2013年03月10日 | 文学

日本では英語教材として、必ずと言っていいほど使われるO・ヘンリーだが、名前は知っていても、どんな人だったかはあまり知られていないのではないだろうか。

O・ヘンリーの代表作のひとつ「賢者のおくりもの」―クリスマスの前日、貧しい夫婦は互いに贈り物を買うお金がなく、妻は自慢の長い髪を売って、夫が大切にしている金時計にぴったりの鎖を買った。一方、夫は大切にしている金時計を売って妻のために美しい櫛を買っていた―こんなふうに、人生とは時に皮肉で、思い通りにはいかないものであるが、どこか

に救いがある。この夫婦は、お金では買えないすばらしい贈り物をしたのだ。「彼らこそ真の賢者である」とO・ヘンリーは言うのである。彼の作品にはそんな人生観が随所にみられ、心を打たれるのであるが、このような人生観を持つに至ったO・ヘンリーの人生とはどのようなものだったのだろうか。

 

△『賢者のおくりもの』より

 

「O・ヘンリー」というのはペンネームで、本名はウィリアム・シドニー・ポーターといい、アメリカ南部のノースカロライナ州で生まれ育った。早くに母親を亡くし、文学好きの叔母に育てられたことが、彼の文才を育んだと思われる。

家が貧しかったため15歳で薬剤師として働き始め、その後、波乱の生涯を送るのである。

 

1.テキサス時代

 肺が弱かったらしく、空咳に苦しんでいたO・ヘンリーは、転地療法のために空気の乾いた西部のテキサス州に移り住む。

 

1882年

19才

テキサス州の牧場で働くようになる

1885年

23才

州都オースティンで不動産会社の帳簿係として働く

1887年

25才

土地管理局の仕事に就く

 

 

この頃結婚し、家計を助けるために文筆活動を始める

1891年

29才

銀行の出納係に転職

 

 

銀行勤務のかたわら、新聞社を立ち上げて独自の新聞発行を手掛ける

銀行を辞めて新聞づくりに専念するが、経営不振で1年後に廃刊

1895年

33才

ヒューストンで新聞記者となる

1896年

34才

勤めていた銀行で発覚した資金横領の容疑で起訴され、出廷する途中で逃亡する

 

 この横領疑惑については本人が一切弁明をしなかったため、資金不足を指摘された銀行が出納係をしていたO・ヘンリーに罪をきせたという無罪説と、自身が経営していた新聞社の赤字補填のために資金を流用したという有罪説とがあり、今も真相は明らかになっていない。

 

2.逃亡と服役時代

逃亡したO・ヘンリーはニューオーリンズからホンジュラスを放浪し、6か月後、妻の容態が重篤と知り、家へ戻る。その後、家族に説得されて自首をするが、妻の看病のため保釈される。

 

1897年

35才

看病の甲斐なく、妻死亡。

1898年

36才

懲役5年の判決を受け、服役

1901年

39才

3年3ヶ月に減刑され、出所する

 

服役中は従順で誠実な模範囚だったので、所内の診療所で薬剤師としての任務にあたっていた。真面目な働きぶりで医師や職員から信頼されていたO・ヘンリーは、検閲を逃れて新聞社や雑誌社に短編小説を投稿していた。そこで、本名ではなくペンネームを使うのである。服役前の小説はアマチュアの部類であったが、服役中とその後に書いたものはプロの作品になったと言われる。彼がどんな気持ちで判決を受け、服役したのかは知る由もないが、この経験が「小説家O・ヘンリー」を生んだと言えるだろう。実際、彼が服役中に書いた作品10編以上が出版されている。

 

3.ニューヨーク時代

 出所後、義父母の元で暮らすが居心地が悪く、執筆した作品が出版物に掲載されたのを機に、ニューヨークに移転。また、この頃から、服役中には断っていたお酒を連日飲むようになったらしい。

 

1902年

40才

ニューヨークで本格的に執筆活動

月間雑誌や新聞の日曜版に短編小説を書く

1904年

42才

短編集も出版され、不動の人気を得る

1905年

43才

再婚するが、飲酒と浪費で生活は逼迫

1909年

47才

肝障害に糖尿病、心臓病も併発しており、ナッシュビルで1年間静養

1910年

48才

ニューヨークに戻るが、3か月後に生涯を終える

 

 以上がO・ヘンリーの生涯である。

彼は、アメリカ南部、西部、逃亡、服役、そしてニューヨークと移り住んだ多種多様の経験と、そこで見聞きしたことを基に作品を書いている。ゆえに、フィクションでありながらいかにもありそうな物語であるのが興味深い。そして物語の最後は予想外の結末となり、その人生観に感心させられるのである。

しかも、O・ヘンリーの作品はすべて2000~3000語で収まる短編で、小説など読み慣れていない人でも、気楽に読んで楽しめると思う。これを機に、是非一度あるいはもう一度、O・ヘンリーを読んでみませんか。

 

  1909年のO・ヘンリー

 △ 『 「最後の一葉」はこうして生まれた』より

 

参考資料:  『 「最後の一葉」はこうして生まれた』 斉藤昇/著 角川学芸出版 930/ヘン (臨川所蔵他)

              『 English Journal 2004.3月号~5月号[特別企画] 朗読で味わうO・ヘンリーの世界』

アルク(区内所蔵なし)

 

 写真引用:『賢者のおくりもの』 リスベート・ツヴェルガー/画 冨山房 ヤング/726/ヘ (中央所蔵他)

              『「最後の一葉」はこうして生まれた』 斉藤昇/著 角川学芸出版 930/ヘン (臨川所蔵他)


原宿駅 その3

2013年02月12日 | 地域

宮廷ホームとお召列車

原宿駅にはもう一つ歴史が有り、現在では国内唯一の施設として宮廷ホーム(皇室専用乗降場)があります。病弱だった大正天皇の為に造られましたが、大正天皇は大正15(1926)年8月に葉山御用邸に行かれる際にご利用になられたが、同年12月に静養先の葉山にて崩御された為、大正天皇の宮廷ホーム利用は1度のみとなったようです。

 

                  完成当時の宮廷ホーム

大正天皇のご遺体は霊柩列車にて宮廷ホームに移され、昭和2(1927)年、大喪の儀は宮廷ホームではなく新宿御苑に仮停車場を設けて行われました。

宮廷ホームは、山手貨物線(現・埼京線)に接続していますが、昔は蒸気機関車が牽引する貨物列車が走っていました。宮廷ホームに蒸気機関車の煙がかかってはいけないとのことで緩やかな上り坂になっている渋谷・原宿間では煙を出さない様に機関士は難しい操作を強いられたと言います。

宮廷ホームはその後、昭和天皇など皇族が、多摩御陵(現・武蔵野陵墓地)に参拝する際などに使用されましたが、お召列車を運行する際、他の列車はお召列車との併走・追い越しなどを禁じられた為、大幅にダイヤを変更しなければならず、現在の今上天皇は国民の生活に支障を来たすことを嫌い、お召列車を原宿駅から運行する事はなくなっています。また現在、皇族の多くは飛行機や新幹線を使用しています。

 

おわりに

 今回、通勤に使っている原宿駅を取り上げようと思ったのは、2階のレファレンスカウンターに入った時、その駅舎の外観と歴史に興味が湧いたからです。駅舎は、普段は竹下口を利用している為、あまり、目にすることは無かったのですが、そのクラシックな外観は特徴的で昨今、画一的なデザインの駅舎・駅ビルが多い中で非常に個性的で地元の人達から保存の要望が上がるのも解る気がしました。

また、私は以前、八王子市に住んでいてお召列車が来る日は、朝から中央線線路沿いや甲州街道沿いに多数の警官が、警備にあたっていた記憶がありますが、宮廷ホームや明治神宮など原宿駅と皇室の所縁の深いことが良く解りました。今まであまり、関心の無かったお召列車のことなども調べることが出来、この様な機会を与えて下さったことに感謝いたします。

 

〔参考・引用文献〕

『鉄道ファン 2011年1・2月号 大正浪漫の駅』 S72  中央図書館所蔵

『山手線は廻る 環状鉄路の誕生』 NPO市民フォーラム著 686/ヤ 中央図書館所蔵

『五反田駅はなぜあんな高いところにあるのか』 長谷川 裕著 686/ハ 中央図書館所蔵

〔掲載写真〕

『鉄道ファン 2011年2月号 大正浪漫の駅』より転載

 


原宿駅 その2

2013年02月12日 | 地域

設計者 長谷川 馨とハーフティンバー様式

 

 原宿駅駅舎を設計した長谷川 馨は、明治20(1887)年に福井県に生まれ、明治43(1910)年、名古屋高等工業学校・建築科を卒業した後、鉄道院(後の鉄道省)に採用され、大正5(1916)年に東部鉄道管理局で横浜駅(2代目)・川変電所などを設計しました。横浜駅は中央の八角塔やアシンメトリーな平面などに原宿駅との共通点が見られるそうです。そして同時期に鎌倉駅改築工事の現場監督を務め、ハーフティンバー様式の駅舎を手掛けた事が、ハーフティンバー様式を原宿駅に採用したきっかけの様です。

 完成当時の原宿駅はハーフティンバー様式の木造平屋建てで改札口と車寄を竹下通り側と表参道側に設けたアシンメトリーな外観となり、屋根はスレート葺きで中央に換気を兼ねた八角塔が立てられ、屋根にはドーマー窓がありました。竹下通り側改札口を常用とし、表参道側は混雑時のみ使用されていたようです。

 

         

 完成当時の駅舎

               

ハーフティエンバー様式は中世にフランス北部ノルマンディー地方で誕生し、北ヨーロッパ(英・独・仏)の木造建築に多く見られる建築様式で名前の由来は壁と木造の部分が半々になる為とも材木を外部に見せる為とも言われています。木骨により軸組(柱・梁・斜材など)を構成し、その間を塗壁や煉瓦で埋めて軸組を装飾材として半分、外部に露出される建築様式です。

 前述の様にハーフティエンバー様式が、原宿駅に採用されたのは設計者・長谷川 馨の経験がきっかけですが、その他に大正に入って海外の田園都市思想が紹介され、郊外や自然、健康的住環境への関心が高まったこと、また大正デモクラシーのような民主主義的思想や大正浪漫に代表される理想主義的な考え方の普及により明治時代より自由な気風が尊重され、鉄道省建築課が若手技術者を積極的に起用し、その自由な発想を尊重した事も採用された理由の様です。

ハーフティエンバー様式の木造駅舎は、原宿駅以外では日光駅(JR日光線)、奥多摩駅(JR青梅線)などがあります。

〔参考・引用文献〕

 『鉄道ファン 2011年1・2月号 大正浪漫の駅』  S72  中央図書館所蔵

 『見直したい日本の「美」 日本の駅100選』 主婦の友社編  686/ニ 中央図書館所蔵

『にっぽん木造駅舎の旅100選』 萩原 義弘著  686/ハ 中央図書館所蔵

ウィキペディア「ハーフチェンバー様式」

 ウィキペディア「原宿駅」 

 〔掲載写真〕

 『鉄道ファン 2011年1月号 大正浪漫の駅』より転載

 


原宿駅 その1

2013年02月09日 | 地域

原宿駅の歴史

 

 原宿駅は明治39(1906)年10月に開業し、初代駅舎は現在より約500m代々木より現在の宮廷ホームの近くに造られました。当時の原宿は豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿と呼ばれ、駅の1日乗降人員は50人程であったと言います。                 

 

大正9(1920)年、明治天皇御陵墓の代わりの施設として明治神宮が鎮座し、その後、山手線の旅客貨物線分離の為の複々線化工事に伴い、現在地に駅を移転、現在の2代目駅舎は大正13(1924)年6月に完成。ハーフティンバー様式という建築様式を用いたイギリス風木造建築で現在、都内最古の木造駅舎となっています。また、取り壊された初代駅舎の古材は日野駅(JR中央線)の建築に使用されたそうです。            

                        

現在の原宿駅

 

大正14(1925)年、東京駅の混雑化と大正天皇の健康上の理由により代々木よりに皇室専用の「宮廷ホーム」(皇室専用乗降場)が完成します。その後、明治神宮の最寄駅として参拝客の為、昭和14(1939)年、神宮側に臨時ホームが完成し、大戦中には空襲により駅舎に10発の直撃弾を受けましたが、全て不発の為、焼失を免れました。                                   

 

戦後は東京オリンピックの開催の為、駅前を改修。当時の1日の乗降客数は約4万人であったが、昭和45(1970)年にはレナウン・本田技研などの本社が原宿周辺に移転した事により乗降客が急増し、昭和51(1976)年頃には10万人に達しました。東京オリンピックの頃より駅員の増員・駅舎の改築が度々提案されたそうですが、地元住民の要望により国鉄本社が、原形保存指定建物に指定し、建築当時のままの姿で今日に至っています。現在は従来からの神宮参拝駅と若者文化・ファッションの中心地原宿の表玄関となっています。

 

〔参考・引用文献〕

『原宿駅関係資料 渋谷区立笹塚図書館編』 S72  中央・笹塚図書館所蔵

『鉄道ファン 2011年1・2月号 大正浪漫の駅』 S72  中央図書館所蔵

〔掲載写真〕

『鉄道ファン 2011年2月号 大正浪漫の駅』より転載

 


ダイヤモンド富士

2013年01月24日 | 地域

 渋谷駅の近くに宮益坂という坂があります。この坂はその昔、富士見坂とよばれていました。江戸時代には、その場所から富士山が見えたのです。

現在は高層ビルやマンションが立ち並び、富士山が見える場所は激減してしまいました。しかし、渋谷区のなかでも場所によっては、今でも富士山を見ることができます。

京王新線の幡ヶ谷駅から5分としない場所から、富士山を望むことができます。

            △2012年2月2日西原図書館スタッフ撮影

歩道橋の上から、線路の先に富士山が見えます。空気の澄んだ冬には特に綺麗に見えます。

また、年に2回、2月と11月に、この場所からダイヤモンド富士を拝むことができます。ダイヤモンド富士とは、富士山頂からの日の入り、または日の出の瞬間に、富士山頂がまるでダイヤモンドのように輝くことから命名されました。

 上の写真は、2012年の2月にダイヤモンド富士を撮影しましたが、少しシャッターをきるのが遅かったようです。

 今年も2月3日前後にダイヤモンド富士がみられる予定です。ぜひこの機会に幡ヶ谷にてダイヤモンド富士をみてみませんか?

 

【参考文献】

『新修渋谷区史 上』渋谷区 禁帯S12(中央所蔵他)

『富士山を知る事典』日外アソシエーツ 291.5フ(西原所蔵)  

 

 


 

 

 

ダイヤモンド富士をみにいこう!

 

図書館から歩いて10分

富士山の見える場所があります。

 

日時  2013年2月2日(土)

午後4時30分しゅっぱつ

     5時20分ごろ西原図書館にかえってきます。

 

集合  西原図書館に

午後4時25分までに集まってください。

 

注意事項

雨天中止です。また、東京の天気が晴れていても、

富士山のまわりの天気により、富士山が見えないこともあります。

あらかじめご了承ください。

当日は、あたたかい服装でお越しください。

 

お申込み

期間: 1月14日(月)から2月1日(金)

受付: 西原図書館カウンター

 

お問い合わせは西原図書館までお願いします。

TEL 03-3460-8535