ハチは知っている

渋谷区について広く・浅く知識を深めよう♪
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エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話 その2

2013年08月01日 | 地域

エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話

その2

 

 ボビーが7歳になった頃、エディンバラでは結核やチフスに加え狂犬病が蔓延し、首輪をしていない犬は野犬狩で処分され始めていました。ボビーを可愛がっていた人々が心配して飼育許可料を出し合おうと決めると、この話を聞いたエディンバラ市長はボビーの忠犬ぶりに心打たれ、自身が許可料を支払い、野犬でないことの証明に首輪をボビーに贈ったそうです。首輪はMuseum of Edinburgh(エディンバラ郷土資料館)に展示されています

グレーのお墓を守り始めてから14年という長い歳月がたち、16歳になったボビーは、体力も落ち、夜はもっぱらトレイル夫人の家で過ごしていました。トレイル夫人というのは、ボビーとグレーがよく通ったレストランの4代目の夫人です。そして1872年1月14日、ボビーは夫人のひざの上で静かに息をひきとりました。

        

④ボビーの銅像と台座   台座の装飾も美しかったです。                        

銅像の銘板には、“グレイフライアーズ・ボビーの愛情ある忠誠を褒め称える。1858年、この忠犬はグレイフライアーズの墓地の亡き主人に付き添い、1872年に死ぬまでその場を離れようとはしなかった。許可を得て、バーデット・コウツ公爵夫人により建てられた”と記されている。

 

⑤ボビーの銅像を囲む人々 ハチ公を思い出しました。

 

⑥スカイテリア エディンバラでは犬を連れている人を多く見かけました。通りは犬の落し物?等で汚れることもなく、清潔でしたよ。

スカイテリアの性格は、警戒心が強く頑固者。体高♂26cm前後、♀24cm前後。体重8.5~10.5kg。好奇心が人(犬)一倍強く、興奮すると誰にも止められなくなくなる程根っからの狩猟犬。家族にはとても愛想が良く明るく無邪気。

 

ボビーが、人間で言えばおよそ80歳で天寿をまっとうするまでの14年間、厳冬の空の下、病気が蔓延する不衛生なエディンバラで、大きな病気もせずに戸外の生活を続けられたのは驚異的でした。グレーへの強い思慕や、周りの人々からの愛情、生まれつきの頑強な体が彼の生活を支えたとも考えられる一方、スコットランド産のテリアの特徴によるところも大きいのかもしれません。受けた好意や恩を忘れることなく、一途に報いようとする性質があり、スカイテリアは特にこの傾向が著しいそうです。また居心地の良いバスケットの寝床よりも、土に掘った穴を好むという意外な性質も、スカイテリアの特徴の一つなんですって。 

 

 

 ⑦ボビーの記念碑 “彼の献身と忠誠心をわれら人類の教訓に”と刻まれています。

 

                        

⑧ボビーとジョン・グレーが眠っているグレイフライアーズ教会ボビーの銅像の裏手にあります。(観光客がボビーの記念碑を囲んでいます)

 

   

 ⑨この高さ50cm程のテーブル石の下にボビーは毎晩うずくまっていました。テーブル石の右にある赤石がグレーの墓石です。

 

参考文献

『公認ガイドが語るスコットランドこぼれ話』LuathPressLtd.、日本人ブルーバッジガイド共著 

『エディンバラのボビー』KTC中央出版、鷲塚貞長著、祖父江博史画 

『日本と世界の愛犬図鑑2011』辰巳出版株式会社、645.ニ(西原図書館所蔵)

 

 ④~⑨(⑥以外) 西原図書館スタッフ撮影(2012年9月)

 ⑥ 『日本と世界の愛犬図鑑2011』辰巳出版株式会社645.ニ(西原図書館所蔵)より引用


エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話 その1

2013年07月07日 | 地域

ディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話

 

渋谷で多くの人に愛されているお馴染みの犬、といったら真っ先に思い浮かぶのは忠犬ハチ公ではないでしょうか?そのハチ公の生きていた頃からさかのぼること60数年、スコットランドの首都エディンバラで、一頭のスカイテリア犬が人々の話題になっていました。今もエディンバラの人々に愛されている忠犬ボビーのお話をご紹介したいと思います。

 

街そのものがユネスコ世界遺産に登録されているエディンバラは、エディンバラ城北側のニュータウン(新市街)と南側オールドタウン(旧市街)の調和が魅力の一つの街です。美しい新市街は18世紀以降に区画・建設され、貴族、商人、聖職者や学者等の富裕層が移住しました。一方庶民や低所得者層が住んでいた旧市街は、中世の混沌とした趣のある街並みを現在も残しています。この都市は古来、傑出した発明家や作家、学者、作曲家や俳優等を多く輩出して来ました。                                      

                 

①    絵本『エディンバラのボビー』 (鷲塚貞長/著、祖父江博史/画)

 

 

②『公認ガイドが語るスコットランドこぼれ話』(日本人ブルーバッジガイド共著)

 

③ボビーの銅像は思ったより小さかったです。  観光客達がボビーの体を撫でているのが印象的でした。

        

忠犬ボビーが生きていた時代は1850年頃ですから、日本では江戸時代末期のことです。

イギリスで始まった産業革命が全盛期に入り、北の古都エディンバラの社会の仕組みも大きく変わりつつありました。続く天災でスコットランド北部のハイランド地方の農民達が、家や財産を失い、エディンバラのスラム街にぞくぞくと移り住んできていました。ジョン・グレーと妻、息子のジャックもその中の一人でした。幸運にもグレーは巡査の仕事を見つけ、13歳のジャックも配達の仕事につき、一家は旧市街の路地裏にある粗末な共同住宅の一室に落ち着きます。当時の巡査は武器を携帯せず、巡回時には必ず警察犬を連れていました。あてがわれたテリア系の犬をグレーは大変可愛がりますが、3年後その犬は狂犬病で命を落とします。グレーは家族を失った様に大変悲しみました。

後任は生後 6ヶ月の雄のスカイテリアで、ボビーと名づけられました。巡回には夜勤や長時間勤務があり、業務も危険でとても厳しいものでした。エディンバラの冬は日が短く、午後3時過ぎに日没、午前9時頃に夜明けです。強風に雨、更に冬の寒さが加わります。市場ではスリや泥棒、犬のけんか、家畜商や農民間のもめごとも多く、ボビーはグレーを守り、常に傍らに寄り添っていました。こうしてボビーとグレーの絆は日に日に深まっていきました。

ところが2年がたった1858年2月のある雪の日、グレーは肺の病で45歳の短い生涯を終えてしまいます。当時教会は犬の立ち入りを禁じていた為、葬儀の参列者に紛れていたボビーは墓地の外に追い出されてしまいます。餌も口にせずじっとしていたボビーは、夜の10時が近づくと突然遠吠えとともに家を飛び出して行きました。巡査が墓地の門の鍵を開ける時間を(グレーとの2年間の巡回で)覚えていたのでした。巡査達の足元をすりぬけ墓地に入り込んだボビーは、グレーの墓の盛土を抱きかかえるようにうずくまりました。この日からボビーは毎晩10時の開門と同時にやって来ては、グレーのお墓の傍らにあるテーブル石の下で過ごすようになりました。私が現地を訪れたのは9月半ばでしたが、風が台風の時のように強く、冷たいにわか雨も降りだすような天候で、現地の人々も厚手のコートやマフラーに身を包んでいました。長く凍えるような冬を、ボビーも人々も励まし励まされながら乗り越えていたのかなと感じました。実際、片時もお墓から離れようとしない健気な犬の為に、巡査も街の人々も餌をやったり寝床や風除けを作ったりして気遣ったそうです。悪天候の日には、近所の人々が自分達の家に連れて行くのですがボビーはいつの間にか元の場所に戻ってしまいます。グレーの家族は間もなくエディンバラを離れていきます。ボビーが心を許したのも、結局墓地のすぐ傍に住む住民ばかりでした。それほどグレーへの思いが深く、離れがたかったのでしょう。ボビーは近所の人から餌をもらい、相変わらず教会の墓地で毎日を過ごしました。墓地に侵入してくる猫や、いたずらっ子達を追いかけたり、枯葉と戯れたりしながらグレーのお墓を守り続けました。またときおり旧市街を疾走する姿が見られたとのことです。

ボビーが7歳になった頃、エディンバラでは結核やチフスに加え狂犬病が蔓延し、首輪をしていない犬は野犬狩で処分され始めていました。ボビーを可愛がっていた人々が心配して飼育許可料を出し合おうと決めると、この話を聞いたエディンバラ市長はボビーの忠犬ぶりに心打たれ、自身が許可料を支払い、野犬でないことの証明に首輪をボビーに贈ったそうです。首輪はMuseum of Edinburgh(エディンバラ郷土資料館)に展示されています

グレーのお墓を守り始めてから14年という長い歳月がたち、16歳になったボビーは、体力も落ち、夜はもっぱらトレイル夫人の家で過ごしていました。トレイル夫人というのは、ボビーとグレーがよく通ったレストランの4代目の夫人です。そして1872年1月14日、ボビーは夫人のひざの上で静かに息をひきとりました。

 


氷川神社

2013年05月05日 | 地域

渋谷最古の神社・氷川神社

今回は、渋谷氷川神社についてお届けいたします!

 

△東京都神社庁より

氷川神社は、渋谷駅からおよそ徒歩15分、國學院大學の向かいにある神社です。

緑少ない都会において、癒しのスポットですね。

境内はなんと4,000坪。

 

総本社は埼玉県さいたま市大宮区にある大宮氷川神社。

ご祭神はあの有名な素戔嗚尊(すさのお)、奇稲田姫命/櫛稲田姫命(くしなだひめ)、大己貴尊(おおなむぢ)※[別名]大国主命、天照大神(あまてらすおおかみ)。

それぞれ、

・素盞鳴尊:嵐/暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神

・奇稲田姫命:稲田の女神 ※スサノオ神の妻/オオクニヌシの母=一組みの夫婦神:縁結び 

・大己貴命:国造りの神、農業神、商業神、医療神

・天照大神:皇祖神のひとつ、太陽の神

といわれております。

気になるご利益ですが、恋愛系縁結び、全般系縁結び、出世開運、厄除、除災招福 他と実に多彩。万能ですね…。

いわゆるパワースポットでもあるようです。

確かに、渋谷区最古といわれているためか貫禄たっぷりの佇まいで、渋谷とは思えないほど静謐な空間です。

 

古くは氷川大明神といって、下渋谷村と下豊沢村の鎮守の森でした。今よりもさらに広かったようです。

景行天皇の御代の皇子・日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したことに始まるとされています(「氷川大明神豊泉寺縁起」)。

 

さて、なんといってもこの氷川神社、江戸郊外三大相撲の一つ「金王相撲(こんのうずもう)」と呼ばれる相撲が行われておりました。

金王丸がこの神社を信仰してあれだけの強力無双(誰も及ばぬほど強い力)の豪傑になったことにちなんで、毎年9月29日の祭りの日に行われていたそうです。

どれだけ有名だったかといいますと、「不作の年にこれを取止めても、自然に見物が集まり、又大天狗小天狗(村の腕自慢の人々)がまちかまえていて、自然に相撲が始まり取止めようがない、全くこれは神意(神様の御心)としか想われない」ということが「江戸砂子」や「新風土記」等の明和7年(約220年前)の記事に書かれるほど。日常の中の一部になっていたんですね。

平成15年5月には、相撲場を整備し、土俵に武蔵丸関を迎えて、平成の金王相撲が行われました。

現在でも、わんぱく相撲全国大会の渋谷区大会が催されていたりと活用されています。

相撲場跡は参道の左隣の「区立氷川の杜公園」にあります。

 

※ちなみに金王丸って?

 →『平治物語』(平治の乱について描かれた物語)に登場する源義朝の郎党のひとり。

  義朝の愛妾・常葉(常盤)御前に義朝の死を伝えた。桓武平氏秩父氏族の渋谷氏出身と伝わるが未詳。土佐坊 昌俊とされる説もあるが定かではない。

 

お祭りは、例大祭が9月に行われます。

山車やお神輿も出る、とても活気溢れたお祭りですよ!

 

近くの渋谷図書館に行ったとき、喧騒に疲れたとき、緑豊かな氷川神社で癒されてみてはいかがでしょうか?

 

所在地 (〒150-0011)東京都渋谷区東2-5-6

電話番号 03-3407-7534

 

参考資料

『渋谷むかし口語り』野村敬子著/渋谷区教育委員会  S13 (中央所蔵他)

『渋谷の歴史』樋口清之・田村善次郎編著/渋谷氷川神社 S12 (西原所蔵他)

『新日本古典文学大系 43 保元物語 平治物語 承久記』 岩波書店  N34/ホ (中央所蔵他)

【東京都神社庁】 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/index.html

【神社人】 http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=64


山本 幸久「渋谷に里帰り」

2013年04月10日 | 文学

 1.はじめに

  渋谷という街ほど、里帰りという単語と、なかなかそう結び付けづらい街は無いだろう。そもそも、渋谷はずっと流行の発信地であるし、ショッピングや料理や映画、そういった様々な文化や遊びを楽しむ町だ。と、この本を手に取った人は、誰もが思うはずだ。

  それでも、渋谷という場所が、昔からこのように派手で明るくて騒々しい場所だったわけではない。その昔、渋谷を代表する2つの坂、宮益坂と道玄坂が、旅人を接待する町場として栄え始める。そこから、神泉谷、丸山花街が色町として発展。そして商業空間として、百軒店が繁盛し、第二次世界大戦後には駅前にヤミ市ができた。賑わいの中心地を少しずつ移動させながら、1960年あたりから、若者が渋谷のセンター街に集まってきて、1975年頃からファッショナブルな街として認識されるようになった。時代ごとに、人々を引き付けるものは変わっていったが、新しい情報や文化の発信地であったことは確かである。結果、今ではセンター街だけでも、一日に6万人前後の人が訪れるほど、日々多くの人が行き交う繁華街となったのだ。

  オシゴト系青春小説という一見爽やかそうなキャッチコピーを掲げた、この「渋谷に里帰り」という作品は、たとえば出稼ぎに出ていて実家に帰ってきた話でも、昔は渋谷でやんちゃしていて、社会人になって久しぶりに遊びに来た、とかいう話でもない。渋谷で生まれ育った主人公、峰崎稔が、子供のときについたうそが原因で、引越して以来、足を遠のかせていた地元に、仕事を理由に久しぶりに帰ってきたという話である。帰ってきたところで、特に大きな出来事があるわけでもなく、感動の再会があるわけでもない。たんたんと進む話の中で主人公は、鬼門として遠ざかっていた約20年の間に、あまりのも様変わりしている渋谷に、寂しさを通り越して最早新しい街だと認識する。それでも、見覚えのある場所に出会うたびに、郷愁を感じるのだ。だから、里帰り、なのである。

 

2.今より少しだけ昔の渋谷

  「渋谷に里帰り」というタイトルにあるだけあり、作中には渋谷の様々な場所が描かれている。でも、そこはすでに今の渋谷ではない。この作品が書かれたのは2006年から2007年の間で、単行本が発売されたのが2007年10月である。つまり、ここに描かれているのはおよそ5年前の渋谷なのだ。たった5年と思われるかもしれないが、されど5年。下に、作中で渋谷やその周辺について触れた部分をいくつか抜粋してみた。作中ではまだ存在し、登場している店や建物が、今ではもう無いものもある。今の渋谷をよく知る人は、今の渋谷を、昔の渋谷を知る人は昔の渋谷を思い出しながら、辿ってみるのも面白いだろう。

 ・「山手線を降りて、ハチ公口をでると、スクランブル交差点だ。」(p.30)

・「右手に『三千里薬品』があるのに気づく。」(p.30)

・「前方の『渋谷西村』へ向かって歩いた。左手に『マルナン』を見つけた。」(p.30)

・「青地に白で大きく「1」と書いてあるビルがある。昔、ここはデパートだったように思うが、その名前までは思い出せない。」(p.31)

・「東急本店が見えてきた。ここがBunkamuraか。」(p.31)

・「いまふたりがいるのは渋谷の交差点間近の『マクドナルド』だ。」(p.45)

・千駄ヶ谷の改札口を出て、明治通りへ向かっている途中の神社。(p.53)

・宮下公園の手前の歩道橋から見える、ほぼ同じ高さを走る山手線。その向こうに見える電力館。(p.57)

・「『タワーレコード』のビルが見えるが、あれは昔からあそこにあったのだろうか。」(p.58)

・「恵比寿駅を降りたら、『第三の男』のテーマ曲が流れていた。」(p.72)

・「恵比寿にきたのはいったい何年ぶりか、見当がつかない。ホームから階段をのぼり、改札口をでて左に折れた。いくつかの店が立ち並ぶ通路を渡り、今度はえらく長いエスカレーターで下った。」(p.73)

・「宮益坂下の交差点で信号待ちをしているとき、銀座線の電車が高架の線路を走っていくのが見えた。地下鉄であるにもかかわらず、建物の三階にホームがあることが、昔はメビウスの輪にも似た奇妙な現象のように思えた。」(p.89)

・「銀座線の下に、渋谷駅から東急文化会館を繋げていた高架通路があるのが目に入った。」(p.90)

・渋谷駅東口のロータリーを右手、フェンスを左手に進み、右の方角にそびえる塔のような高層ビル『セルリアンタワー』。(p.92)

・「『恋文横丁此処にありき』と記された看板を掲げた薬局のビルが、取り壊されていた。その脇にあったレストランやゲームセンターも姿を消している。そこを通り抜けていくと道玄坂に面しているザ・プライムの裏口へ入れた。ビルの狭間というか隙間のような道があった。」(p.142)

・「京王線の笹塚駅を抜けて、甲州街道を渡って、さらに商店街に入っていった。米屋に魚屋、酒屋に靴屋、洋品店、八百屋に電気屋、寿司屋、中華料理屋にトンカツや。手作りのせんべい屋もある。個人経営の店が狭い道の両脇にずらりと立ち並び、チェーン店があっても、町の風情を乱す事なく、じょうずにとけこんでいた。」(p.165)

・ハンズの近く、NHKへむかう坂をあがる途中の輸入盤のレコード店『シスコ』

(p.201)

・東急東横店東館の屋上、『ちびっ子プレイランド』と『東横稲荷神社』。(p.211、p.214)

・円山町の映画館、ユーロスペース。(p.223)

・センター街の位置口左の『大盛堂書店』。(p.224)

・センター街の『HMV』や『さくらや』。(p.225)

・地下鉄半蔵門線の手前の『旭屋書店』。(p.226)

・「鉄仮面のような形の建物は交番だ。」(p.227)

・交番の裏にある、中華料理屋と台湾料理屋『龍の髭』。(p.228)

・「井の頭通りをすぐ右に折れ、えっちらおっちら坂をあがる。左手にパルコパート3が見えてくると、そこをまた左へ曲がる。そこの角のビルがなくなっていた。東急文化会館と同様に工事中をしめす白いフェンスに囲まれている。そのならびに『東急ハンズ』がある。」(p.232)

・「オルガン坂をくだり、井の頭通りにもどると、『東急ハンズ』を左手にまっすぐ、やがて右に折れ、BEAMを左手に歩いていくと、文化村通りへでた。」(p.242)

・「犬の顔が前の部分に描かれた小型のバスが、こちらにむけて走ってくる。」(p.247)

・「ハチ公バスは明治通りから渋谷駅東口に入る。左に東急文化会館の跡地が見える。こちらのバス停もバスターミナルにはなく、その通り沿いにある。そこから青山通りへとバスは走っていく。」(p.251)

・「バスは細い道を通り終え、ふたたび広い通りにでた。明治通りだ。曲がる瞬間、角に小さな神社を見つけた。」(p.253)

  

3.東急文化会館と電力館

  2003年に閉館し、なくなってしまった東急文化会館に思いを馳せ、その跡地を囲む白いフェンスに憤りを感じる主人公は作中で32歳。20年渋谷を離れているから、彼の思い出の中にある昔の渋谷は、1980年代の渋谷だ。そのころの渋谷といえば、バブルの真っ只中。1981年に渋谷センター街が整備され、同じ年にパルコパート3ができた。1987年には109-2(2011年に109MEN’Sに改称)も建ち、ファッションブランドを中心とした商業施設が次々とうまれる。渋カジ、ボディコンといった新しいファッションが広がり、渋谷全体が明るく華やかだった。そうして新しく大きなビルがいくつもできる中、主人公の周りの友だちも家の土地を高く売って、他の土地へと移り住んでいってしまう。そして、同級生の女の子が泣くのだ。町には誰もいなくなって、学校もなくなってしまう、と。

  作中では工事中だった東急文化会館の跡地には、今年2012年に新たな複合ビル、「渋谷ヒカリエ」が誕生した。ちなみに「渋谷ヒカリエ」ができることが発表されたのは2010年だそうなので、作中ではそのことについては何も触れていない。

  そして、営業先の顧客との待ち合わせ時間までに出来た空きに、営業の先輩に連れられて休憩しに入った電力館。ここは、2010年に大規模な改装工事で各階が順次閉鎖されていき、2011年3月20日に新装開館が予定されていたが、直前の2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴い、再オープンを延期した後、閉館となった。

 

4.おわりに

 慌しく忙しい日々を過ごしていて、渋谷のような人ごみの中では、周囲をきょろきょろと見て歩く余裕もない。立ち止まろうものなら、後ろの人に迷惑そうに避けられる。けれどそんな風に少し目を離している間に、大きな変化も含めて、渋谷という街は日々店が入れ替わり、そのたびにまた多くの人が訪れるのだ。この本が出て5年がたち、作中に存在する建物や場所も、実際にいくつも建て変わって様相を変えている。昔の記憶を持つ本として、この本は貴重な作品となるだろう。

 「渋谷に里帰り」は2011年に文庫版となって、主人公のその後の様子がちらりと描かれた「女房が里帰り」が書き下ろしで収録されている。峰崎稔は、今の渋谷を見てどう思うだろうか。来年2013年3月には、東急東横線が副都心線と直通運転を行うため、渋谷駅は地上ではなく地下となる。渋谷駅の外観や周辺の光景は、更に新たな変化を遂げていくはずだ。

 また、東急百貨店東横店は老朽化を理由に、東館を2013年3月末にて営業終了させる事を発表したので、作中に登場したデパート屋上遊園地『ちびっ子プレイランド』もなくなってしまうらしい。その前に一度行って、上から渋谷の町並みを眺めて、東横稲荷神社に参拝したい。

 

参考資料

「渋谷に里帰り」山本幸久 日本放送出版協会 x/ヤマ (中央他所蔵)

「2011年 渋谷区勢概要」渋谷区企画部広報課 S41 (全館所蔵)

「歴史のなかの渋谷 ―渋谷から江戸、東京へ― (渋谷学叢書第2巻)」上山和雄 雄山閣 291.3/ウ (中央他所蔵)


刀剣博物館

2013年03月22日 | 地域

刀剣博物館は、渋谷区代々木4丁目にある刀剣専門の博物館です。最寄駅は、小田急線参宮橋駅と京王新線初台駅で、そこからの所要時間は共に徒歩約7~8分となります。

(写真1)刀剣博物館入口

 

 

【アクセス】

(図2)高架下を超えると住宅街へ。写真の右の道へ進む。

実際、博物館へ行った時のルートは、まず参宮橋駅を出てから左へ進みます。西参道通りと高速道路が交差する参宮橋交差点に出たら、左に曲がり高速道路に沿ってまっすぐ行きます。代々木地域安全センター前信号機を超えたら、その先の曲がり角を左に曲がります。高架下を超えたところを右に曲がり、道なりに進んで行くと道路左側の刀剣博物館にたどり着きます。

 

 

【博物館・展示について】

刀剣博物館は、公益財団法人日本美術刀剣保存協会の付属施設として、昭和43年に開館しました。およそ190点の刀剣や甲冑、金工資料等の所蔵品が収められ、その中には国宝や重要文化財といった貴重品も数多く含まれています。本館1階は入口と休憩スペース、日本刀の製作工程と選定保存技術・日刀保たたらの構造の説明のパネルがあり、2階に受付と展示室があります。受付には、刀剣に関する資料の販売も行っています。

 

展示内容は、定期的にテーマを変え、それに合致する所蔵品を展示しています。現在は、本年6月26日から10月28日まで、『特集陳列 写しの系譜』という名称の展示を行っています。展示物の名称・紹介文には、英語表記のものもあることから、英語圏の見学者もたくさん訪れるようです。

(図3)企画展示

一般見学者は入ることができない別館は資料室で、室町時代の刀剣書の写本をはじめ、約1500点の刀剣関係古伝書を収蔵しています。

 

【日本美術刀保存協会の活動内容】

日本美術刀剣保存協会は、刀剣博物館での展示や展覧会、定例鑑賞会などの開催といった活動により、刀剣の鑑賞及び鑑定や知識の向上につとめているそうです。実際、伝統技術の保存と発展を目的に、現代に活躍する刀剣職人たちの作品を展示する「新作名刀展」や、「研磨・外装コンクール入賞作品展」などの展覧会を、博物館で毎年行っています。

 

世界に誇る独自の文化であり、日本人の魂の象徴とも言われる日本刀。よく見ると、年代・流派による刃の形の違いや刀装具のこだわりの細工等を発見できます。落ち着いた場所で芸術品としての日本刀を味わうには、お薦めできる博物館です。

 

 

【参考HP】刀剣博物館ホームページ{www.touken.or.jp/museum/}

【参考資料】刀剣博物館案内リーフレット『刀剣博物館』

                                               『選定保存技術・日刀保たたら』

                                『日本刀鑑賞の手引き』

                                               『特集陳列写しの系譜』