北関東ばんがいち

ネットの極地に住む、ダメ大学生が日常と社会を淡々とつづるブログ。ネットで会ったおもろい人紹介アリ

あーふれだすーなみだならーいまはとめなくて(以下略

2005-09-19 11:59:24 | 社会とかそういうことについて
と言うことでトラバ先
http://blog.livedoor.jp/ex11_news4vip/archives/50266883.html

とうとう、起こりえる最悪の事態が起きてしまったかもしれない。
そして、もう引き返せないところまで俺たちは来てしまったのかも知れない。
と言うことで一席。

まあ、まだソース確定ではないし2ch内でしか言われていないことなので微妙
なのだけれど、とうとう好みを巡って殺人未遂ですよ殺人未遂。まあ、そうではない
としても「ヲタ?同士の言い争い」から人傷沙汰になったというのは恐らく史上初
ではないだろうか。そして、これはヲタの変質を意味しているような気がしてならない。

まあ「ひぐらしどうのこうの」と言うのは確定事項ではないとしてあえて触れないとしても、
ヲタ同士の友情?と言うのは実は微妙な緊張関係が常に続くモノだとオレは思っていたのだが
あなたはどう考えるだろうか。双方の趣味に対する等しい敬意と軽蔑の入り交じった微妙な
なれ合いとはかけ離れた緊張関係。それは個々が独立した関係であり、その人間関係は
まるで「国家間の望ましい関係」にも似たものであるような気がするのだが、それは
買いかぶりという気もしなくもない。それはともかく、しかし双方の知識を見せびらかす
ヲタ的人間関係というのは慣れてしまえばなかなか心地よいモノである。それがヲタが
ヲタである「根拠」の一端だと思っていたのだが・・・。

確かに、学生運動以後大学生が一カ所に集まって激論を自主的に戦わすなんて場は
ヲタ以外には失われてしまった久しいが、まさか、ヲタの世界にまでこういう「善悪
二元論」が踏み込んできたというのはやはり「ヲタ」の劣化というモノを感じずには
いられない。
個人的に「理論武装」から入ったタイプである故、実はキャラ萌えに関してはオレは
重点を余り置いていない。むしろ「安易な記号論だなぁ」と特定の傾向のゲームに
ついては十文字で切って捨てる姿勢を崩したことが全くないほどである。まあ、オレの
「こだわり」である「物語は必ず登場人物が成長するお話でなければいけない」と言う
「成長厨」テーゼから抜け出せていないというのもあるが(故に、私は「電車男」の
テーゼを肯定し、本田の「電波男」を否定する。後者には共感できる点があるにも
関わらずだ。また、アフタヌーンでいうと「ラブやん」を肯定し、「げんしけん」を
強く否定する)、やはり「変わること」は大切なのではないかと私は言いたい。

話が著しくズレた。多分、大日本帝国憲法の話と前後して江藤淳と本田透をリンクさせた
何かは書くつもりで居る。

で、元の話に戻すと、岡田斗志夫は「オタは熱狂はしない」と言った、しかし、オタが
「ヲタ」に変化する中で本質は変化してしまったようだ。丁度DQNのような「熱狂する」
主体へと。それはまるで「右」の言葉が若者へ受け入れられる中で「サヨクじみた」
言葉へごく自然に書き換えられ、自己意識を「国家単位にまで肥大させた」言葉が
紡ぎ出されたように、「オタ」が「ヲタ」に変化する中で元々あった「知識への欲求」
という本質は失われ、祭りに踊らされる「愚かな=DQNなファン」と言う質へ変化してきた
ような気がする。これは童貞だからとか童貞じゃないからとかは関係がない。「知」への
欲求の問題だと私は主張して、この駄文を終えたい。