北関東ばんがいち

ネットの極地に住む、ダメ大学生が日常と社会を淡々とつづるブログ。ネットで会ったおもろい人紹介アリ

一応それなりの実感から

2005-05-12 17:01:49 | 痛い人紹介
何度かオレは紳士様やコヴァを「学校秀才的」と指摘しているんだが、一応それには
オレなりの裏付けがある。大丈夫、変な具体例引っ張ってくるいつものパターンじゃないからw

彼らのある種異常とも思える程度の「批判精神の無さ」。
それを読書経験やらゆとり教育やらに根拠を持って行くことはそれなりに説得力のある
意見なんですよ。でも、オレはここであえて踏みとどまりたい。
何て言うか、「個人の学力の資質が、思想の左右に関わる」というような古典的発想は
余りにも安易だし、結局、エリート=リベラル、大衆=保守的という最早実際そうなのか
と言われたら大きく疑問符が付く、学者好みの結論しか出せない気がする。
そして、それは多分絶対彼らに届くことはない。

オレは逆にある程度管理された「学校」というシステムの中では、彼らは良好な社会的関係を
維持できていたのではないか、と考える。勿論、学力面が優れていると言うよりは「教師」に
ひっついてある程度「良い子」をやっていたのではないかということなのだが。

実は、いわゆる内申書というシステムが強化され、それまで「模擬試験」という客観的学力に
よって判別されてきた高校入試が大きく「担任」という人間の裁量に左右されるようになったのが、
丁度現在20代前半から後半にかけての世代である。更にその下の世代は、ほぼ「内申書」という
恐怖のシステム(実はそうでもないんだけどね)のイメージが植え付けられて「良い学校に行くには
良い子でなければならない」という強迫観念がある世代である。
つまり、「内申書」は「良い子=良い学校」というイメージを作り出したのだ。

しかし、高校入試はそうやって乗り切ったとしても、大学入試はそれまで通りガチの世界である。
教師にすり寄ろうが国立大学の優先入学資格なんてモノはよっぽど優秀でない限り貰えない。
ここで、普通の人は上手く切り替えが出来るのだろうけど、そこで上手く「学校」から「社会」へ
発想が切り替えられない人が出てくる。
彼らの一部はそうやって生まれたのではないだろうか?

「学校で良い子」を演じる上で、「批判精神」なんて害毒以外の何者でもないからね。
でも、意外と切り替えできない人いるみたいね。別に菊地とかはもう出さないけれど、
大学のネット掲示板で「チャパツDQNを取り締まれ!」(ホントよ、まあ、五月蠅いのは
事実だけどね)なんて平気で書き込んじゃうような人間を見ると、書き込んだ本人の
将来が心配になったり。

オレに言わせれば、ああいう遊んでいるようなタイプのヤツの方がある意味プライドないし、
タフだし生きていくのはラクだと思ってるけどね。まあ、オレにはああいう生き方は出来ない
けど。
今回もメアド晒します。
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