一応あぁちゃん病状memo

脳脊髄液漏れによる、様々な症状の記録を読んで下さり感謝。

Dr.美馬達夫Medical Tribune記事

2017年05月23日 | 症状関連記事

美馬達夫医師の記事を保存しておきます。

 

   【Essay】「でもしか医者」の私が脳脊髄液にこだわる理由(Medical Tribune)

   美馬クリニック院長(前・山王病院脳神経外科部長) 美馬 達夫

【Essay】「でもしか医者」の私が脳脊髄液にこだわる理由2017.05.14 ←

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田中瑞雄の母趾球歩きと薬ありの低糖質食 ブログに詳しい内容がUpしてあるのでその一部をリンクしておきます     https://blogs.yahoo.co.jp/tmizuo3333/35712389.html 

  >>「低髄液圧症候群(脳脊髄液減少症)」という病名は聞いたことがある程度。むち打ち症患者をあまり診る機会がなかったのと現役終了間際に突然話題になったものだから。それよりこのエッセイ読んで思うのは、「私はなんであのとき医学部に行ったのか」というあるときから心のどこかにこびりついてる疑問だ。ひょっとするとその答えは「でもしか医者」にもなり切れなかった後悔かもしれないな。(瑞雄)<<    『・・・先ごろ64歳になりました。ビートルズ世代なので「When I'm 64」を思い出し聴きました。まだ「losing my hair」になっていません。

 これまでを振り返ってみると、やっぱり、私は『でもしか医者』のようです。徳島の中学校から、神戸の灘高へ行きました(同級生に作家の中島らもがいました)。湯川秀樹のような「宇宙の真実」を探る物理学者になることが夢で、1学年二百人の灘高では百番以内なら合格ラインで、何とか東大理1に入りました。しかし、自分の才能のなさを思い知らされ、大学1年夏で退学し、医学部への受験勉強を始めました。私の灘高での成績では理3は無理だったのですが、幸い合格し駒場キャンパスの1年生に戻りました。

 皆が皆、長嶋やイチローになれるわけではありません。「競争」の中で、ほとんど全ての人が、「夢」にどこかで妥協を迫られる時が来ます。兄の友人の誘いで、甲子園の常連だった徳島商業野球部OB会のゴルフコンペに参加したことがあります。ある人が言った「ここにいる全員が中学校では、四番で、ピッチャーで、キャプテンだったからな」という言葉が印象的です。

 不遜な言い方ですが、私の医者としての出発点は「医者にでもなろう」「医者にしかなれない」でした。「転向」後、私には「宇宙」より「人間」が重大となり、必然的に「文化」「政治」へ関心を深めていきます。ひょんなことで東大医学部自治会委員長になり、立て看作りやビラを書いて配るなど、我ながら馬鹿らしいこともしました。『ハリソン内科学』が一挙に3倍価格になったことに抗議して廣川書店へ抗議デモをしたり、「もっと分かりやすい授業を」と何人かの教授に要求しに行って山川民夫教授(生化学)から「分からないのは君だけじゃないの?」と言われたりしました。

 そんな私が尊敬した医者は、佐久総合病院の若月俊一先生と水俣病患者のために力を尽くした原田正純先生で、特に原田先生には、初対面でご自宅に泊めていただいたことに始まり、何度も謦咳に触れることができました。原田先生は、飄々としながらも先を見据え、たとえ一人でも仕事を続けようとされた生き様でした。

 結局、私は脳外科医として歩んできましたが、基礎的研究にも従事することができた十数年があります。東大助手時代には茂野卓先生(前・関東労災病院部長)、そしてニューヨーク留学時代には三川隆先生(現・UCSF教授)、このお二人は素晴らしい上司で、大きな影響を受け、何よりも研究の喜びを教えていただきました。茂野先生から動物実験を教わり、私たちはエンドセリン発見者の柳沢正史先生とも脳血管攣縮の共同研究をし、またNGFが遅発性神経細胞壊死を防ぐことを見つけました。三川先生はニューヨークでの単なるテニス仲間の私を研究室に雇ってくださり、ウイルスによるFGF遺伝子導入のニワトリ胚(胎児)実験をしました。『でもしか医者』の私がかつて抱いていた物理学者の「夢」とリンクすることができた「幸せな時間」でした。

 4年間留学し、1994年から高知医科大学脳外科で研究室も運営しましたが、教授選に負けると、実験機材や研究費があっても、いかんともしがたい状態となり研究生活を断念し、2003年に東京に戻り山王病院で臨床医になりました。その頃、旧知の篠永正道先生が「交通事故後の難治性頭痛などは低髄液圧症候群(脳脊髄液減少症)が原因である」と提唱し、医学界からバッシングされ孤立無援でした。私には「目から鱗」で、脊髄からの髄液漏れを血液でふさぐブラッドパッチ治療を関東で初めて開始し、その後、慈恵医大から高橋浩一先生が加わり、山王病院はこの分野での「老舗」になりました。

 脳脊髄液減少症は、頭痛、めまい、倦怠感など多彩で不可解な症状があり、慢性疲労症候群、線維筋痛症、軽度外傷性脳損傷などとの関連性も示唆され、「研究者」気質の私には、とても「面白い」です。交通外傷での損保会社の非誠実な対応、裁判官の患者の窮状を直視しない態度、厚労省の役人たちの不勉強さ、等々に怒り心頭です。しかし、「研究」と「政治」が重なる、この脳脊髄液減少症は、これまでの経歴の私には「天職」だと思い、取り組んでいます。』


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