はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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江戸時代の医学-人面瘡(3)-

2011-02-05 19:22:08 | 江戸時代の医学

 桂川甫筑は人面瘡を治療しましたが、結局、具体的にどのような治療を施し、予後はどうなったのか記録が残されていません。しかし甫筑の四代後の桂川甫賢(1797-1845)が人面瘡を治療した時の症例がくわしく残されています。これはちょっと長いので二回に分け、原文は省略して現代語に直して見ていきましょう。


 文政二年(1819年)の中元(7月15日)、仙台のある商人が、門人を介してこう言ってきた。


「ある人が遠くから治療して欲しいと頼みに来ました。年は三十五なのですが、十四歳の時に左の脛の上に腫物ができました。それが潰れると、膿が流れ出てきて止まることがありませんでした。ついに腐ったような骨が二三枚出てきました。それから四年ほど経つとようやく瘡口が収まってきました。ただ全部の腫物は消えず、歩くことが非常に困難です。だから温泉につかったり、委中(膝の裏のツボ)の静脈に鍼を刺して瀉血をしたりしましたが、どれもあまり効果がありませんでした。医者を数人換えて治療したけれど、とくに改善することもなく歳月が流れ、むしろその腫物は大きくなり、膝を囲んで腿にまで達し、再び膿が出る穴が数ヶ所できました。前の瘡口が再び開いたかのように見えましたが、その症状は以前とまったく異なります。ただ痛みを感じることがなく、今年になって、瘡口は一ヶ所にとどまっています」


 桂川家は幕府の奥医師をつとめる家柄で、蘭方と呼ばれるオランダ医学を専門にしているので、腫瘍や怪我などの外科的治療を得意としていました。奥医師というと将軍家の治療に携わるため、高い身分、諸国の大名ほどの地位が与えられていました。一般庶民がおいそれと診てもらうことはできません。この人面瘡の患者は仙台の商人に口利きを頼み、桂川家の門人を介して甫賢に診療をお願いしたのでしょう。なお門人とは、ここでは医学を学ぶ弟子のことであり、師と寝食を共にし、師のお城務めの時には家を守ります。その門人が商人から話を聞いたのでした。


 そんなわけで甫賢は人面瘡を診ることになりましたが、はたしてどうだったのでしょうか。


つづく


(ムガク)




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