はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

伝統医学・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師・・

江戸時代の医学-人面瘡(4)-

2011-02-12 13:45:11 | 江戸時代の医学

 さて、桂川甫賢(1797-1845)は人面瘡を見ましたが、どうだったのでしょうか。今回もちょっと原文は省略して、翻訳しながらみていきましょう。


 瘡口が一つあったが、それは以前骨が露出していた場所であった。瘡口は大きく膨れて開き、あたかも口を開いているような形である。周囲は薄赤く唇のようで、少しそれに触れると血がほとばしった。痛みは無い。口の上に二つの窪みがあり、その瘡跡は左右対称で、窪みの内側にはそれぞれしわがある。あたかも目を閉じて、含み笑いをしているような形であり、目の下には二つの小さな穴があり、鼻の穴が下に向いているような感じである。両旁には又それぞれ痕があり、痕の周りにそれぞれ肉が盛り上がって、耳たぶのようになっている。その顔は楕円形であり、瘡の根は膝蓋骨にあるようで、頭の形をしている。


 かつ、患部はゆっくりと動いており、まるで呼吸をしているようである。衣を掲げて一たび見ると、まるで何かを言おうとしている人に似ている。決して、それが人の顔と同じであると言っているのではない。強いてこれを人面と呼んでいるに過ぎない。そして脛の内のスジは腿と股に連なり、腫れは大きく一斗の枡のようで、青筋が縦横に浮き上がって見え、これを触ってみると、緊張してもいないし、柔らかくもない。その脈は速くて力がある。食欲は減ることなく、大便も小便も問題ない。


 したがって、この症は多骨疽と呼ぶのが適当である。多骨疽の症は、多くは遺毒から発生する。そして瘡の状態がこのようなものにまで至るものもあるのだ。ただ、瘡口の内部は汚腐して、瘡薬を塗りこめても効果が無く、餌糖も、たとえ貝母でさえも、「眉をあつめ口をひらく」効果が無かった。


 というのが甫賢の記した内容です。ちょっと分かりづらいところを読んでいきましょう。「脈は速くて力がある」というのは、脈診という診断法の結果です。脈の拍動の状態を診ることで、その人の身体の状態を察するのです。脈拍が速ければ、一般的に体内に熱がある状態であり、力があれば、病邪が激しく、また抵抗力も残っている状態を示唆します。


 多骨疽というのは、『病名彙解』によると、「足脛ナドニ疽ヲ生ジ、腐乱シテ細骨ヲ出ス也、一説ニ此疽ハ、母懐胎ノトキニ親類ト交合スレバ、生マルル子ニ発スルト云へり」とあります。当時は原因不明の病気が顕われると、それは両親から受け継いだ毒によるものと説明されることが、多々ありました。当時流行していた、天然痘が胎毒で発生するという説もその一つです。因果応報の観念が入り込み、親の悪い行いが、子供に病気となって顕れるというもので、人々はそれを治療するため、胎毒下しを行ないました。それは生まれたばかりの胎児にマクリと呼ばれる湯液を服用させて、毒をウンチと一緒に出そうという試みでした。これは現在でも所々で続けられている習慣です。本当にそう信じていたかは分かりませんが、母親が妊娠中に親類と密通すると多骨疽が生じると、書かれています。この胎毒はここでは「遺毒」と呼ばれています。


 餌糖は甫賢の四代前の甫筑が使った、紫糖(黒糖)のこと。貝母は「江戸時代の医学-人面瘡(1)- 」で出てきました。まるで人面瘡の特効薬のように扱われていた薬です。「眉をあつめ口をひらく」とは、『伽婢子』に出てきた人面瘡が、貝母を口に入れられそうになった時に、「眉をしじめ、口をふさぎて食らはず」抵抗したことを受けた表現です。人面瘡が薬で苦しみ死ぬと(治癒すれば)、抵抗することがなくなり、「眉をあつめ口をひらく」のです。結局今回は、薬物治療は効果がありませんでした。治癒したか否かは記載されていません。桂川家はオランダ流の外科術が得意であったので、もし治療したのであれば、手術をしたことでしょう。また、もし劇的に治癒したのであれば、喧伝したとしてもおかしくありません。実際はどうだったのでしょうね。



(ムガク)



最新の画像もっと見る