興津宿から江尻宿はほぼ1里です。
興津宿は江戸から数えて17番目の宿場です。
本陣(東、西)2軒、脇本陣1軒、旅籠が24軒あったといいます。
東海道と甲州を結ぶ「塩の道」身延道の基点でもありました。
江尻宿は宿場のほか、清水湊の海運でも栄えた町です。
本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠が50軒ありました。
武田信玄が江尻城を建て、城下町だったこともあります。
興津駅を出てすぐの道。バイパスができるまでは、ここが国道一号線でした。
交番の横が宿場公園になっています。
旧東海道の道標がありました。
本陣のあとはもう残っていませんが、脇本陣水口屋は近年まで旅館を営んでいました。
現在は地元企業の研修施設となり、一部が資料館となっています。
先日、さわやかウォーキングで朝鮮通信使の方々が出発した清見寺(せいけんじ)。
撮影はこちらの方が早いのですが。
明治の元老、西園寺公望公が大正8年に建てた、座漁荘(ざぎょそう)。
これは平成になって復元されたもので、オリジナルは明治村にあります。
江尻に向かう途中の空き地に、カキツバタが咲いていました。
途中、江戸時代の松並木の松が1本だけ残されていました。
写真は興津方向を向いて撮影しています。
清水市内に近付いて行くと、道が分岐しています。
左側は旧国道一号線、右側は旧東海道です。
分岐点にある「ほそいの松原」です。
旧東海道の道沿い360メートルに206本の松が植えられていて、
「松原せんべい」を売る茶店があったと伝えられています。
松は太平洋戦争のときに航空機燃料とする松根油をとるため、伐採されてしまったそうです。
やっと見つけました!道の奥のほうに看板がポツンと・・・・
江尻一里塚跡です。
秋葉道入り口です。
これは遠州の秋葉神社への道ではなく。清水の秋葉神社への道です。
でも、看板だけで石碑があるわけでもありません。
こちらも看板だけの東木戸跡。
宿場中心部へ続く道。
廻船問屋も立ち並んでいたようです。
この道は「江尻から府中へ<前編>」へ続きます。
この旅は4月20日に行いました。
次回はいよいよ大井川越えをご紹介いたします。
興津宿は江戸から数えて17番目の宿場です。
本陣(東、西)2軒、脇本陣1軒、旅籠が24軒あったといいます。
東海道と甲州を結ぶ「塩の道」身延道の基点でもありました。
江尻宿は宿場のほか、清水湊の海運でも栄えた町です。
本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠が50軒ありました。
武田信玄が江尻城を建て、城下町だったこともあります。
交番の横が宿場公園になっています。
旧東海道の道標がありました。
本陣のあとはもう残っていませんが、脇本陣水口屋は近年まで旅館を営んでいました。
現在は地元企業の研修施設となり、一部が資料館となっています。
先日、さわやかウォーキングで朝鮮通信使の方々が出発した清見寺(せいけんじ)。
撮影はこちらの方が早いのですが。
明治の元老、西園寺公望公が大正8年に建てた、座漁荘(ざぎょそう)。
これは平成になって復元されたもので、オリジナルは明治村にあります。
江尻に向かう途中の空き地に、カキツバタが咲いていました。
途中、江戸時代の松並木の松が1本だけ残されていました。
写真は興津方向を向いて撮影しています。
清水市内に近付いて行くと、道が分岐しています。
左側は旧国道一号線、右側は旧東海道です。
分岐点にある「ほそいの松原」です。
旧東海道の道沿い360メートルに206本の松が植えられていて、
「松原せんべい」を売る茶店があったと伝えられています。
松は太平洋戦争のときに航空機燃料とする松根油をとるため、伐採されてしまったそうです。
やっと見つけました!道の奥のほうに看板がポツンと・・・・
江尻一里塚跡です。
秋葉道入り口です。
これは遠州の秋葉神社への道ではなく。清水の秋葉神社への道です。
でも、看板だけで石碑があるわけでもありません。
こちらも看板だけの東木戸跡。
宿場中心部へ続く道。
廻船問屋も立ち並んでいたようです。
この道は「江尻から府中へ<前編>」へ続きます。
この旅は4月20日に行いました。
次回はいよいよ大井川越えをご紹介いたします。
ここの近くの駿河健康ランドが釣りのお宿
にしていますわw♪
良い町ですよねェ~
テン
興津川の横にあるところですよね。
以前、小火騒ぎがありませんでしたか?
でも、食事はおいしそうでした。
釣り、頑張ってくださいね、期待しています。