1月13日は咸臨丸出港記念日です。
1858(安政5)年6月19日に日本(江戸幕府)とアメリカとの間で日米修好通商条約が締結されましたが、その第14条にワシントンにおいて批准書を交換することが明記されていたことから、日米修好通商条約の批准書交換のため、江戸幕府が新見豊前守正興を正使とする77人の使節団をアメリカに派遣することになりました。 遣米使節団は、アメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦して渡米することになりましたが、その護衛の名目で随伴艦に選ばれたのが「咸臨丸(かんりんまる)」でした。
この時の咸臨丸の艦長は勝海舟、提督を務めたのが軍艦奉行の木村摂津守喜毅で、士官・水夫併せて総勢96人の日本人と米海軍ジョン・ブルック大尉以下11人の米国人が乗り組みましたが、その日本人の乗組員の中に福沢諭吉や中浜万次郎(後のジョン万次郎)もいました。 そして、1860(万永元・安政7)年の今日(1月13日)、咸臨丸は浦賀を出港してサンフランシスコに向かいました。
(咸臨丸とは)
咸臨丸とは、幕末期に江戸幕府が保有していた軍艦です。 黒船の来航に驚いた江戸幕府が10万ドルでオランダに発注し、1855(安政2)年7月にホップ・スミット造船所で起工、1857(安政4)年3月に完成しました。 その後、この船はオランダ人のファン・カッテンダイケの指揮で、同年8月に長崎に到着して幕府に引き渡されました。
長さ48.8m・幅8.74m・排水量625トン・最大速度6ノット、3本マストに100馬力の蒸気機関を備えた木造の蒸気帆船で、12門の備砲も装備していました。 当時の蒸気船といえば、船体の両側で水車を回して走る外輪船が普通だったのですが、咸臨丸はスクリュー推進の蒸気エンジンを装備するとともに、バーク型の帆装を備えており、汽船と帆走を併走できるようになっていた最新式の軍艦でした。
しかし、戊辰戦争が始まる頃には、他の軍艦に比べて装備が劣っていたため、本州と北海道との間を結ぶ物資運搬船として使われるようになりました。
そして、明治時代に入ると、咸臨丸は新政府により接収され、北海道開拓民の輸送船として使用されるようになりました。
1871(明治4)年9月19日、咸臨丸は約400名の人たちを乗せて仙台から函館を経由して小樽へ向かう途中、北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難してしまい、ついにサラキ岬の沖合で座礁し、乗船者は地元の人たちに全員救助されて難を逃れたものの、咸臨丸は数日後に沈没してしまいました。
(サラキ岬にある咸臨丸の姿を模した約1/5サイズのモニュメント)