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好友会 日本語教室

長野県飯田市 竜丘公民舘に教室があります。
中国語を母語とする方の日本語学習をお手伝いします。

元気なお母さん

2006-09-25 04:13:29 | 異文化交流
ある異文化交流の会合でフィリピンから嫁いできたNさんのお話を聞いた、とても積極的なおかあさんでいつも元気をもらっている。

「今私はフィリピン人であることを忘れている。
冷たい目を感ずることがある。自分自身にである。
かつて、日本に来た当初、近くに日本語教室など無かった。
町役場にいって是非日本語教室を作って欲しいと要望した。
じゃあ、勉強したい人を集めろということになって、声を掛けたら10人もの希望者があった。
その日本語教室のお陰で今の私があると思っている。
私は同じフィリピンから来た人達にもいつも言っている。「日本に住んでいるんだから、日本語を勉強しなくちゃだめ!」と。
4月から飯田でSASAEスポーツクラブをはじめた。
皆さん是非参加して欲しい。外国人も日本人も!。
もう一つ真剣に考えている夢がある。外国にいって色々なボランティア活動をしてみたい。」 と。


娘と私

2006-03-20 06:07:40 | 異文化交流
Rさんはフィリッピンから国際結婚でやってきました。国際交流会などではいつも積極的に参加する方です。12歳になった娘さんを一生懸命育てながら、日本の社会に溶け込み、隣近所のお付き合いも尻込みせずにやっている頑張り屋のお母さんです。先日作文をいただきました。ほんの一部個人名を伏せました。そのほかは誤字を除き原文どおりです。(筆者)
 
日本に来て17年目。文化や言葉の壁、習慣の壁等による不安や不便も当たり前のことですけど、私の場合はR家と親類を先頭に、夫のお友達や近所の皆さんの温かさと親切さに感動しました。ほめて、支えてのおかげで、自分らしい自分が今の私はあります。結婚5年目。初めて妊娠して、日本語の母親学級に学び、新しい仲間たちがどんどんできて、信頼関係、長いお付き合いのすばらしさに気持ちいっぱいで感謝をしています。皆さんのやさしさで、感動的な日本の美しい心を見つけて、大切にします。おかげさまで、ひとり娘は今12歳になりました。娘の同じ年ぐらいの私を、思い出すだけで笑顔が出てきます。幼い頃から、よく考えて、よく話し、何やっても愛情をこめて、責任もとって、家の決まりも守りました。親の心強い躾、厳しさに愛情いっぱいの家庭でした。学校でも一家族のようで楽しかった。いじめもなく、元気な毎日でした。先生も母のようで、よく怒りました。しっかり者で大好きでした。お休みの日に自然の中でのんびり遊びました。家事の手伝いもしました。身体の必要な休みもちゃんとやって、大事なことでした。本当に温かい思い出いっぱい、幸せいっぱいの時代でした。今の私は、娘との親孝行の時間を大切にしています。自然や動物に関心のある娘は、人間社会にも心を広げると…まあ、やっぱり娘は娘で自分なりに、自ら進んで幸福への道に自分からの力でできるとよいです。親として、娘の気持ちを大事に成長しながら見守ってあげます。見える幸せよりも、娘の健康と感じる幸せを祈っています。クリスチャンとして娘も洗礼をしました。毎日の習慣の一つ、夜寝る前に一日のこと忘れずに神様に感謝をしています。生きているだけで感謝!感謝!  
文化のどっちか、どっちも良いですが、でも日本で住んでますので、皆さんと同じ地域に暮らしながらいろんな形で地区や学校の活動に努力します、文化の強い日本の生活にいろんな苦労をしてます。泣いても、笑っても、必要相談、簡単ではありませんが、自分の弱さに負けないように、くだらないプライドに乗らないです。実は自分の中の強さがあります。諦めない気持ちで自分からすすんで前向きにしています。知らないうちに理解をできる日本の生活になりました。不思議に、すばらしい日本の文化、いっぱい見付けて、楽しいこといっぱいです。盆栽の楽しさに感動します。厳しく育てて、生長したら本当に立派ですね、人間と同じですよ~。まだ、まだ、すばらしさいっぱいです。日本の庭や花和服茶人の茶会(京・和)茶菓子焼き物やetc...
日本の“和”ということ、日本の心を、心に少しでも関心があれば、少しでも興味をもっていると日本の生活に住みやすくなる、日本人のやさしきも温かさも感じるようになる。お年よりの智恵をしっかりいっぱいもらって、子供達の元気も、若さもチャンスにつかって、これは時間と同じで一秒でも戻らないです。まあ、自分はフィリピン人という人間は忘れる訳ないです。フィリピンのすばらしい文化も、温かさの子育て、フィリビン人のやさしさもいつも心に大事な宝物です。フィリピン人で生まれて本当によかったです。
今の自分は、気楽にいろんな形で自分らしくうちの世話を先に活動をします。行ける時、出来ること、人のためにも役にたてば幸いです。そして、結論として、お互いを理解するために日本の方式を押しつけるのではなく、先に自分のことを知ることです。まず、日本の標準的な文化や生活習慣を知ってもらい、明るく、自分らしく、皆さんと暮らしながら、いろんなことに努力して、気楽にしましょう。その上でどの方式を選択するかは、本人に任せよう。


子供の絵本

2006-02-25 06:02:20 | 異文化交流
 今朝eメールを開いてみると、めずらしく飯田図書館からです。
『図書館をご利用いただきまして、ありがとうございます。ご予約された資料の準備ができました。お早めに、受け取りを希望された館まで借りにお出かけください。書名の確認は図書館のホームページから行ってください。』
 早速図書館のホームページを開いて見ました。
その本のタイトルは、「Guia da mamae」
ママのための育児ガイド(ポルトガル語版)「新生児から5歳までの育て方」
著者 中萩エルザ、 出版社 インターナショナルプレスジャパン、出版年月 2005年 です。
 昨年秋飯田市にある健和会病院で「外国人健診」が行われました。一昨年より受検者は減りましたが、それでも90余名の方がお見えになりました。その時参加頂いたドクターから、次のようなお話をうかがいました。「病院には平生外国の人達も来られています。特にブラジルの方は育児には苦労されているようです。」という事で前記の書籍を紹介されました。
 その時もう一つお話しがありました。病院の待合室には大人も子供もやってきます。小児科がある病院では絵本が置いてあって、お母さんたちが風邪でぐずっている子供に絵本の読み聞かせをして機嫌をとっています。ところが、ブラジルのちいさな子供たちにはそれがないのです。そんな悩みをおききしました。
そこに外国の絵本が置いてあれば小さな国際文化交流が生れる可能性もありそうです。


ほほえみ

2006-02-09 07:45:58 | 異文化交流
ほほえみ
 以前、インドに仕事で数週間滞在しました。時計の製造工場を立ち上げるお手伝いです。その工場はニューデリーから1時間ほど離れたところにありました。毎日ニューデリーのホテルからオーナー社長の息子さんが送り迎えをしてくれました。彼は工場の技術責任者です。技術指導は私の拙い英語でなんとか行いましたが、ライン女性作業員への言葉での作業指導は殆どお手上げです。「アッチャーイー」=yes、「アッチャーネー」=noの二つの言葉を教えてもらって、後は首を縦に振ったり、横にふったりです。そしてもう一つ大事な相互の伝達信号は「ほほえみ」でした。1人ひとりの作業はそれほど難しいものではありません、小さな部品をピンセットと素手で組み立てる仕事です。部品の持ち方、組み立てる方向、不良部品の見分け方、不良部品の置く場所などを教えます。時には直接作業員に良し悪しを伝える必要がでます。「アッチャーイー」「アッチャーネー」、そして微笑が返ってきます。物を作る厳しい目は勿論必要ですが、「ほほえみ」が育ててくれる「やる気」がそれ以上に大切だと思ったものでした。
 その時、工場は一部増築中でした。自家発電が大きな音を立てています。みると、工場内にひと張りテントがあって、一家族が住んでいました。その家族は建築作業の下働きをしている様子です。朝彼らが仕事をしている前を通って工場に入ります。家族に1人の男の子がいました。毎朝、彼は工場の壁を背に座り、決まった場所で私達を迎えてくれます。それに気がついた私は「微笑みの挨拶」を送りました。それからは、毎日、彼のほうから私に「微笑みのおはよう」を贈ってくれました。連日の暑さにまいっているわたしに「やる気」の灯をともしてくれるのでした。ダンニャワード、アリガトウ!


愛新覚羅溥傑

2006-01-26 09:23:23 | 異文化交流
愛新覚羅溥傑
「わが父、溥傑」のETV特集(1月21日)は私にとって殊更に興味をひいた。周恩来首相がラストエンペラー一族のその後の人生に与えた影響の大きさに改めて驚いた。彼が戦犯収容所につながれた溥兄弟を解放し、北京に住まいを与え、更に今回テレビの主人公をつとめた溥傑の娘(次女)等に日中往来の自由を与えていたという人間的物語は特に暖かいものを感じさせてくれた。周恩来はかつて日本に留学していたという。当時ロシア留学派が多い中にあって彼は数少ない知(親)日派であったのだろう。溥傑は過去を悔い、その後の人生を日中は決して戦ってはならないという思いを胸に、余命を両国の架け橋になることに費やしたといわれる。 溥傑の書く字はカイゼルひげを思わせる独特の書体である。その娘に与えたという書の場面をみて思い出した。 
飯田の郊外に昼神温泉がある。その奥まったところに「十字屋」という閑静な喫茶店があって、そこの亡くなったおじいちゃんが戦前北京に留学していた時溥傑の友達であったようだ。溥傑が日本に来た時おじいちゃんに贈った「書」が喫茶店の奥に飾られていた。殆どの客はその書には全く気がついていないようだった。おじいちゃんが亡くなってからそれはもう仕舞われてみることが出来ない。私の中国系米国の友人夫妻が一緒に飯田に来た時妻籠に案内した。行く途中この「十字屋」で休息をとった。おじいちゃんがまだ生きているときだった。おじいちゃんがコーヒーを運んできてくれたとき、私が「この奥さんは北京生まれですよ」と紹介した。二人は懐かしそうに昔の北京のことを北京語で話していたことをこのドキュメントを見ながら思い出した。

賽馬

2006-01-23 17:51:11 | 異文化交流
飯田市松尾公民館でニューイヤーコンサートが行われました。人の誘いがあって短い時間でしたが顔を覗かせました。豊丘村で「二胡なかま」を主宰する二胡奏者「うみたこ」さんとピアノの市橋恵美さんの共演でした。素晴らしい演奏でした。何故このコンサートのことを取り上げたかというと「二胡なかま」は私達が関係する宅老所ニイハオの母体「中国帰国者等のための介護・福祉の会 ニイハオ」の設立総会で、アトラクションとして駆けつけてくれたグループだからです。デーサービスなど色々な施設に演奏訪問されているそうです。二胡は中国の楽器です。演奏曲目の中に中国の曲も含まれていました。その中の一つがタイトルの「賽馬」です。日本語で言えば「競馬」のことです。
「うみたこ」さんの説明を聞いてまたびっくりしました。この曲の仕入先は佐々木ハスゲルさんだったからです。ハスゲルさんは数年前私達の竜丘日本語教室で日本語の勉強をしていた人でした。彼女は内モンゴルの出身でモンゴルの民族楽器を演奏します。飯田の佐々木さんと結婚してここ飯田の地にやってきました。とても故郷思いの彼女は、モンゴル楽器演奏によるチャリティーショーで集めたお金で故郷に医療設備を贈ったり、最近は故郷オルドスの砂漠化を何とかしようと飯田地方の人に呼びかけて植樹ツアーなども企画するなど、並外れた活動をされています。「うみたこ」さんと彼女の出会いは、お二人のこうした熱心な活動から生れたものと思います。モンゴル・草原の祭典ナーダムの催しには有名な相撲があるそうですが、もう一つ蒙古民族にとって大切な馬の競走が行われます。そして、今日の「賽馬」はその競馬の曲なのです。拍手鳴り止まず、アンコールには「故郷」が奏でられました。
「うみたこ」さん、来年も是非コンサートをやってください、と出口の募金箱に銀色の硬貨をいれてきました。少なくてごめんなさい。

飯田国際交流の夕べ

2005-11-25 17:28:52 | 異文化交流
11月20日夕方、長野県飯田市地場産業振興センターで「飯田国際交流の夕べ」が開催されました。飯田下伊那に住む十数カ国の600人あまりが集いました。見たところ日本人半分、外国籍住民が半分ぐらいでしょうか会場のあちこちで交流が行われました。
各国の踊りや歌を披露する「ワールドステージ」、腕によりをかけてこさえた、おいしい伝統料理の「ワールド縁日」。色々な文化が握手した素敵な催しでした。
フィリピンから来られたという車椅子のおばあちゃんとお話しをしました。私は話が出来ないので一緒に来ていた娘さんの通訳で話しました。とても楽しそうでした。言葉が通じなくてもその笑顔だけでお互いに気持ちが通じ合いました。

文化祭がおわりました

2005-11-15 05:09:44 | 異文化交流
無事文化祭が終わりました。
天気がよかったせいもあって、沢山の人がみえました。私達の日本語教室の展示ブースにも、一般の人が足を止めてくれました。文化祭の一つのテーマが「食育」だったので、私達も中国東北地方では今どんなものを食べているかを発表しました。小さなスペースだから、代表的なものだけ書き並べました。
「私の勤めている会社にも外国人の人がいますよ。みなさん、言葉に困っていますよね。食べるものも違うから大変なんでしょうね。」何人もの人が同じような感想を言ってくれました。
教室の生徒さんが幾人も顔を出してくれました。
「ああ、おいしそう! 来年は本物を一緒に展示して、たべさせて。」写真を見ながら談笑しました。
傍らではバザーもやっていました。生徒さんたちにとって教室のブースよりそちらのほうに興味があるようでした。 


文化祭準備

2005-11-05 04:57:01 | 異文化交流
「今年も、この日本語教室は、文化祭に参加したいとおもっています!。
企画テーマの一つに食文化があります。 日本の人達も興味があるので、生徒さんが多くきている中国東北地域のたべものについて発表します。
それぞれ、自分の家で毎日どんなものを食べていたかメモに書いてきてください。」
中国語や日本語で書かれたメモが続々集まりました。
油条、豆乳、おかゆ、餃子、麺条、、、饅頭、包儿、、、、。
「肉饅頭、聞いただけでよだれがでますね。」
「先生、中国では、饅頭には何もはいっていません。入っているのは包儿のほうです。」
「??」
「じゃあ、おやきは、包儿なんだ。中国に行って、肉まんのつもりで饅頭をたのむと中身が何もないってことになりそうだね。」
言葉の勉強が終わっても、食べ物の話が続きました。

教室こぼれ話~韓国の生徒さん~

2005-08-31 04:51:21 | 異文化交流
私の教室には、韓国から来た人が1人居ます。
とても、熱心な方で週二回もこられます。ご主人と二人だけで、キムチの製造販売をしています。いま、ご主人の健康状態がちょっと優れないので孤軍奮闘しています。味が本場モノで評判がとてもいいのですが、体がしんどいと言っています。
 私達の教室は文化交流の場でもあります。韓国にもスーパー銭湯があるらしいと言うお話しをGooブログ(日本語教室)で聞きました。いずれこれも話題に取り上げたいと思っています。