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好友会 日本語教室

長野県飯田市 竜丘公民舘に教室があります。
中国語を母語とする方の日本語学習をお手伝いします。

教材用マンガをたくさん描きました。

2006-06-06 13:18:29 | Weblog
第二報目です。
マンガの主人公は「PEN」にしました。
私のPENは鉛筆です。
昔よく使った緑色の「三菱鉛筆」です。
哲人が「ペンは件より強し」とか、
食事と痛い注射以外は何もない毎日、体重は2kgほどやせたようです。
やせる理由はないのですが、やせるほうが体のためにいいのだと誰かがいっているようです。
私は入力速度が遅いので100円硬貨の追加投入がよく要求されます。
本日はこれまで。
病院にて、
K.T.

検査入院中

2006-06-05 17:24:30 | Weblog
肝心がやられて、目下検査入院中です。
不良部分は2箇所退治しました。
医学の進歩は家電の発達のよるとこらが 多いのでしょうか?問題部分を電子レンジの原理で焼き殺してしまいました。
レア、ミディアム、ウェルドダンで処理していったようでした。
始まったとたん、とたんに熱くなるのですが直ちに鎮痛剤が注入されて何とか耐えられました。
何とか、たつおか日本語計画通り下旬から開始したいとおもっています。
関係者のかたに迷惑かけてすみません。
T.K.

行政と外国籍住民の会議

2006-03-24 13:25:00 | Weblog
行政と外国籍住民の会議
 表題の会議が去る19日飯田市役所で行われた。今回初めて企画されたもので、今後飯田市もより積極的に外国籍住民に関わって行きたいとの姿勢が表明された。新聞記事を一部抜粋紹介する。
(南信州新聞3月21日より)
飯田市と外国籍住民が話し合う「第1回外国籍住民会議」が、同市役所で開かれた。 ブラジルや中国、フィリピンの国籍を持つ10人が参加。日ごろ困っている点を訴え、学校などの便りに振り仮名の付記を呼び掛けるなどが協議された。
会議では、①国民年金の仕組みが分かりづらい、②市に中国国籍者の相談窓口がない、③地域とのつながりがほとんどないなど、2時間にわたって活発な意見が交わされた。中でも、言葉への配慮を求める声が多く、「④市立病院にポルトガル語を話せる職員がいなくて、とても不安。⑤学校で配布されるお便りは振り仮名がなく、辞書で意味を調べることもできない」と訴えた。終わりに、市のポルトガル語窓口を務めたNさんから「今一番必要なのは、⑥同じ国の人たちが会を作り、気軽に参加すること。皆で集まる場がすごく必要」と呼び掛けがあった。市の担当課長は「行政も一生懸命取り組んでいくので、力を貸してほしい」と締めくくった。又、来年度は、市に中国語窓口を新設するとともに、保育園や学校へ文書に振り仮名を付けるよう働きかけていくという。

「入管戦記」を読んで

2006-03-12 06:36:31 | Weblog
 外国の人と関わるボランティアをやっていて、いつも心に引っかかる問題に「外国人犯罪」がある。最近でも、偏見や誤解からと思われる幼児の殺人事件、飯田でも発生している外国人同士の傷害事件など、確かに外国人が関係する事件は多い。時には、新聞は「外国人」を殊更強調して報道しているようにも見える。借金によるトラブル、窃盗団、車上狙いなど金にまつわる事件が圧倒的に多いが、不正な入国が原因で不法滞在となり、挙句の果て、食い詰めた上での犯罪が後をたたないようだ。
昨年講談社から発行された表題の単行本は、元東京入国管理局長が退官を前に書きまとめたものである。しばしば、入管での入国者に対する非情な取り扱いを読んだりするが、その裏にはこんな戦いがあったのかと気付かせてくれた。その局長が「共生」について述べている。紹介しよう、、
「特捜部を新設した理由」(P28~)
前述したように、新宿出張所の発足は、東京入国管理局の不法滞在外国人への宣戦布告であり、また私の執念の結晶でもある。
では、なぜ私がこの新宿に出張所を設け、外国人犯罪に毅然たる態度で臨み、外国人犯罪組織に楔を打ち込もうと思ったのか。
ここで、その理由について少し触れておく必要があろう。それは、この本のテーマでもある「日本人と外国人の共生」という未来の問題と切り離して考えることはできない。
結論からいえば、私は、日本は外国人と共生する社会を目指さないかぎり将来はないと思っている。少なくとも、日本人と外国人の関係のいかんによって、日本の未来は大きく左右される。この点については、誰にも異論はないであろう。
その未来は大きくふたつに分かれる。ひとつは、日本人と外国人との間で諍いが絶えず、互いに誹謗中傷を繰り返し、互いに被害者意識を増幅させながら、双方がマイナスイメージの再生産を続けてゆく未来・・・・。
もうひとつは、日本人と外国人が互いの長所を認め、自らの短所を克服し合いながら人間性を高め合う、プラス思考の魅力あふれる社会を築く未来。
ふたつの未来のどちらに向かうかは、日本人自身が今後どのように外国人のことを考え、彼らと接するかで決まる。単純にふたつの未来を示されれば、後者が理想的だと考える人が圧倒的だろう。しかし、人間は将来の理想よりも目の前の問題に左右されやすいものであることも一面の真理である。しかも問題は山積している。
日中関係を例に取ろう。小泉首相の靖国参拝をめぐる是非は、いまや日中双方の国民レベルで感情的な問題になりつつあるし、尖閣諸島などの領土問題や、天然資源が眠るとされる経済水域などについても、両国ともに、一部に過激な行動に出ようとする人たちがいる。こんなとき、日本人と中国人が、どうすれば理解を深め、互いの関係を好転させることができるのか。あるいは、どんなことが起これば、ますます悪化するのか。悪化する理由は、じつに簡単なことである。日本人が、外国人を脅威に感じ、嫌悪の感情を募らせる原因は何か? それは間違いなく「外国人による犯罪」である。そうでなくとも、日本人は、内弁慶というのか、多民族が混然と暮らす社会には無縁で、外国人との接触に免疫がない。そこに、近年外国人が増えて治安が悪化したという事態の急変があり、それが日本人に排外的な感情を呼び覚ます原因となっていることは否定できないだろう。つまり、私の決意とは、日本人の「外国人」観を悪化させないため、取り締まるべき外国人犯罪に対しては一歩も譲歩せず徹底して取り締まり、日本に入ってきてもらうべき外国人に対してはきちんと門戸を開いて受け入れるというものである。

外国人健診

2005-11-28 08:56:09 | Weblog
 昨日(11/27)、長野県飯田市の健和会病院で下伊那地方在住の外国人を対象にした健康診断が行われました。来られた受診者は90余名でした。医療関係者20名余受診者とドクターとの通訳約40名そして一般の付き添いボランティア約120名の方々が朝早くから夕方まで熱心に対応されました。
 仕事があったり、育児に忙しいお母さんたち、そして言葉の問題で日頃病院に行けない人達が来られました。付き添いのボランティアは始めの受付から、身長、体重、血液検査、尿検査、X線検査などの後、内科、小児科、歯科、健康相談など最後まで付きっ切りで対応しました。 ドクターにより、通訳を通してしっかり健康診断を受けることが出来たようです。
 付き添いを通じ、日本人のボランティアと外国人との間で草の根の交流もありました。意義深い催しでした。


文化祭(続き)

2005-11-20 05:40:25 | Weblog
私たち日本語教室の公民舘文化祭展示ブースは一番小さいものでした。でも、一生懸命作りました。教室で出している新聞も並べました。興味をもって持っていってくれる人もありました。
 文化交流といいますが、先ず「会い」、「話し」、「あっ、又会いましたね!」から全てが始まると思います。昨日放映された「高倉健が出会った中国」にもそんな流れを見ることが出来ました。

実はそっくり

2005-10-31 17:21:50 | Weblog
Profileにある私の顔は、実はそっくりなのです。
2年ほど前、日本語教室である子供が書いてくれたものです。もう彼女は女子高等学校にいっています。教室には縁がなくなってしまいました。日本語の日常会話をやっている教室なので、来る必要がないのです。
なるほど漫画チックですが、特徴をよくとらまえています。写真より、私らしさが出ていて、始め見たときびっくりしました。
著作権は彼女にあるのでしょうか? 
研究したいと思っています。

街には色々な声が

2005-09-17 04:45:45 | Weblog
 いま全国的に商店街はひっそりしています。でも、大型店に押されっぱなしの商店主たちも頑張っています。街には色々な音なき声があふれていました。
 飯田の街の小さな一杯飲み屋さんでの話です。昼は食堂になっていて、簡単な定食をだしています。孫を連れて動物園に行った帰りに三人でその定食を頂きました。テーブルの傍の壁に小さな貼り紙ありました。私のようなかつて製造現場の人間には見慣れた標語でした。現場では「3S」とか「5S」とか言うものでしたが、ここのは食べ物屋さんの「7S」でした。
1.Service(奉仕)   2.Sanitary(清潔)
3.Smile(笑顔)     4.Speed(迅速)
5.Speciality(特色)6.Sense(感覚)
7.Safety(安全)
品質と言えば「モノ」の品質ばかりを考えますが、サービス業や飲食業の「品質」はもっと複雑で難しいものだと気がつきました。
 何十年も前、「暖簾」とい舞台を大阪で見たことがあります。とても印象的で、「のれん」の大切さを私に教えてくれました。
 上の7Sを毎日毎日積み重ねていくことでこの「暖簾」が築かれていくのだなー思って眺めていました。
 最近でも、時々ニュースで取り上げられる「嘘つき表示」は、100年200年の暖簾を誇る大会社でもあっと言う間に破産状態になってしまいます。世間の人達を欺く行為の報いは本当に計り知れません。「九仞の功一簣欠く」ですね。

飯田 りんご並木

2005-09-16 17:40:15 | Weblog
 今赤くなりだしたりんご並木の話
 私は飯田に来た当初から銀座にあるその床屋さんに行き続けている。何故そこに行きだしたのかは思い出せない。多分、昔平安堂の本店がその近くにあったからだと思う。二代目のおじいちゃんは訥々と話される方で、飯田に来たての私は色々なことを教えて頂いた。おばあちゃんは傍らで床を掃いたり、熱いタオル等を用意したりして手伝いをされていた事を懐かしく思い出す。お二人とも今はない。 
 三代目の息子さんは私とほぼ同じ歳である。奥さんと四代目に当る娘さんとでしっかり家業を継いでいる。
 昨日は、ご主人が留守で娘さんに散髪をしてもらった。
「うらのリンゴ並木、もう五十年になるんですか?..新聞でみましたよ」
「そうなんですよ。丁度今日その記念式典を午後だかにやるって言ってました。飯田の大火からだから、もうそんなになるんですね」
「今日日、生えてる稲まで刈り取って盗んでいっちまう世の中に、飯田のリンゴ並木、未だに盗む人がないって いうんだから たいしたもんだ」
「ところで、かしのさん、『夢みのれ 真珠の願い 青空に』って知ってますか?」
「しりません」
すると、娘さんは教科書にも載ったという、飯田リンゴ並木にまつわる話をしてくれました。帰宅途中、近くにある図書館によって「りんごになった茂くん」という本を借りてきました。抜粋して紹介しましょう。
 これは四国高知県に住む有安勇さんのお話です。有安さんは前の戦争で一人息子の茂さんをなくしました。手紙で知らせてくれたのは茂るさんの軍隊での友達でした。
 手紙には、「茂くんは、昭和21年2月5日の朝、お気の毒にも病気で 亡くなりました」、病気の寝床で「お父さんと、お母さんは、いつもリンゴを 食べさせてくれた。ああ、リンゴが、たべたい。」
と書かれていました。亡くなったのは中国の東北地方でした。この手紙を読んで ご両親は 肩をふるわせて なきました。
 有安さんは太平洋の見える丘の上に、茂さんのお墓を作りました。好きだったリンゴも供えてあげました。
 有吉さんは洋服屋さんです。茂さんのいない暮らしはさびしくてさびしくてなりません。洋服をぬうことも、人と話をすることも あまりしなくなりました。
 数年が経ちました。有安さんは昭和30年10月14日の朝日新聞に、次のような記事を見つけました。そして何回も何回も読み返しました。
 長野県の飯田東中学校の生徒たちは、昭和22年の大火で殆ど焼けてしまった飯田市の大通りにリンゴ並木を作ろうと相談しました。
「リンゴは きっと盗まれる、泥棒をつくるようなもんだ。」と大人たちは反対しました。でも、熱心に説きふせ、昭和28年の秋、47本の木を植えました。2年目には49個のリンゴが赤く色づき中学生を喜ばせました。ところが、花火大会のよる、次々と盗まれついに5個だけに なってしまいました。大人たちは「リンゴは、並木に適さない」といいました。けれども中学生たちは負けませんでした。そして、もっと手入れに励みました。
 有安さんはこの記事に、今までの暗い気持ちが、さっと明るくなりました。「そうだ!この中学生を自分の子供だと思って応援してあげよう」。「みんなの勇気に感激しました。どうか力をあわせて、リンゴ並木を育ててください。 ビンゴ・なみ」
 毎月14日になると、リンゴ並木をもじった「ビンゴ・なみ」という匿名の手紙を中学校に送り続けました。中学生たちはラジオやテレビでその人を探そうと呼びかけました。初めての手紙を受け取ってから10年目にやっと有安さんを探し当てました。その後有安さんと生徒たちの文通が始まりました。
 そのせいか、飯田では街のリンゴを盗む人は、一人もいなくなりました。生徒たちは収穫したリンゴを有安さんに毎年送りました。「茂がリンゴになって 帰ってきたんだ。」 
 有吉さんはそれを全部お世話になっている人たちに配ってあるきました。死んだ息子がリンゴに化身したと信じる 有安さんは自分では一つも食べませんでした。

 四代目の床屋の娘さんが思い出したように言いました。「私も有安さんから貰った手紙をもっていますよ。大事にしまってあります。」  
 有安さんと生徒たちとの間で心を通わせた文通が続いたそうです。
何千もの手紙を出し続けた生徒さんたちに有安さんは一つ一つ毛筆で返事を書いてくれたそうです。
 有安さんは俳歴60年の俳人でもありました。飯田のリンゴ並木に句碑がたっています。娘さんが言ったのは、昭和30年秋有安さんが初めて生徒さんたちに送ったその俳句のことでした。
「夢みのれ 真珠の願い 青空に」
 この句碑は私も見たことがあったのですが、こうした物語があったことを知らなかったので、つい気にも留めていませんでした。
                 「竜丘日本語教室新聞 2003年」より


昔台湾で聞いた話

2005-09-13 03:27:56 | Weblog
台湾の35年に及ぶ戒厳令を収束させた、寡黙な総統将経国は台湾の人達に以外と根強い人気があった。
一年の内100日以上、台湾各地を歩き島民と接し、民意を常にくみ上げる事に心をそそいだ人であったと言う。
ある時、一人の農民が総統の来訪を慶んで、肉まんを大皿に盛り上げ差し出した。するとお伴の者が、総統の糖尿病を気遣ってそれを制しようとした。 その時、総統はその制止を強く払いのけ、その肉まんをムシャムシと食べ始めたと言う。
「農民が私の為に、一生懸命作ってくれたものを断れるはずが無いではないか!」と言いながら....
そしてやがて病も重くなり、足を切断し(?)、寿命さえ縮めていった、と言う。