今赤くなりだしたりんご並木の話

私は飯田に来た当初から銀座にあるその床屋さんに行き続けている。何故そこに行きだしたのかは思い出せない。多分、昔平安堂の本店がその近くにあったからだと思う。二代目のおじいちゃんは訥々と話される方で、飯田に来たての私は色々なことを教えて頂いた。おばあちゃんは傍らで床を掃いたり、熱いタオル等を用意したりして手伝いをされていた事を懐かしく思い出す。お二人とも今はない。
三代目の息子さんは私とほぼ同じ歳である。奥さんと四代目に当る娘さんとでしっかり家業を継いでいる。
昨日は、ご主人が留守で娘さんに散髪をしてもらった。
「うらのリンゴ並木、もう五十年になるんですか?..新聞でみましたよ」
「そうなんですよ。丁度今日その記念式典を午後だかにやるって言ってました。飯田の大火からだから、もうそんなになるんですね」
「今日日、生えてる稲まで刈り取って盗んでいっちまう世の中に、飯田のリンゴ並木、未だに盗む人がないって いうんだから たいしたもんだ」
「ところで、かしのさん、『夢みのれ 真珠の願い 青空に』って知ってますか?」
「しりません」
すると、娘さんは教科書にも載ったという、飯田リンゴ並木にまつわる話をしてくれました。帰宅途中、近くにある図書館によって「りんごになった茂くん」という本を借りてきました。抜粋して紹介しましょう。
これは四国高知県に住む有安勇さんのお話です。有安さんは前の戦争で一人息子の茂さんをなくしました。手紙で知らせてくれたのは茂るさんの軍隊での友達でした。
手紙には、「茂くんは、昭和21年2月5日の朝、お気の毒にも病気で 亡くなりました」、病気の寝床で「お父さんと、お母さんは、いつもリンゴを 食べさせてくれた。ああ、リンゴが、たべたい。」
と書かれていました。亡くなったのは中国の東北地方でした。この手紙を読んで ご両親は 肩をふるわせて なきました。
有安さんは太平洋の見える丘の上に、茂さんのお墓を作りました。好きだったリンゴも供えてあげました。
有吉さんは洋服屋さんです。茂さんのいない暮らしはさびしくてさびしくてなりません。洋服をぬうことも、人と話をすることも あまりしなくなりました。
数年が経ちました。有安さんは昭和30年10月14日の朝日新聞に、次のような記事を見つけました。そして何回も何回も読み返しました。
長野県の飯田東中学校の生徒たちは、昭和22年の大火で殆ど焼けてしまった飯田市の大通りにリンゴ並木を作ろうと相談しました。
「リンゴは きっと盗まれる、泥棒をつくるようなもんだ。」と大人たちは反対しました。でも、熱心に説きふせ、昭和28年の秋、47本の木を植えました。2年目には49個のリンゴが赤く色づき中学生を喜ばせました。ところが、花火大会のよる、次々と盗まれついに5個だけに なってしまいました。大人たちは「リンゴは、並木に適さない」といいました。けれども中学生たちは負けませんでした。そして、もっと手入れに励みました。
有安さんはこの記事に、今までの暗い気持ちが、さっと明るくなりました。「そうだ!この中学生を自分の子供だと思って応援してあげよう」。「みんなの勇気に感激しました。どうか力をあわせて、リンゴ並木を育ててください。 ビンゴ・なみ」
毎月14日になると、リンゴ並木をもじった「ビンゴ・なみ」という匿名の手紙を中学校に送り続けました。中学生たちはラジオやテレビでその人を探そうと呼びかけました。初めての手紙を受け取ってから10年目にやっと有安さんを探し当てました。その後有安さんと生徒たちの文通が始まりました。
そのせいか、飯田では街のリンゴを盗む人は、一人もいなくなりました。生徒たちは収穫したリンゴを有安さんに毎年送りました。「茂がリンゴになって 帰ってきたんだ。」
有吉さんはそれを全部お世話になっている人たちに配ってあるきました。死んだ息子がリンゴに化身したと信じる 有安さんは自分では一つも食べませんでした。
四代目の床屋の娘さんが思い出したように言いました。「私も有安さんから貰った手紙をもっていますよ。大事にしまってあります。」
有安さんと生徒たちとの間で心を通わせた文通が続いたそうです。
何千もの手紙を出し続けた生徒さんたちに有安さんは一つ一つ毛筆で返事を書いてくれたそうです。
有安さんは俳歴60年の俳人でもありました。飯田のリンゴ並木に句碑がたっています。娘さんが言ったのは、昭和30年秋有安さんが初めて生徒さんたちに送ったその俳句のことでした。
「夢みのれ 真珠の願い 青空に」
この句碑は私も見たことがあったのですが、こうした物語があったことを知らなかったので、つい気にも留めていませんでした。
「竜丘日本語教室新聞 2003年」より