空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

奈良の仏塔1

2024-06-08 05:58:54 | 日記

奈良県の仏塔を紹介する1回目です。

1.奈良市 興福寺五重塔

古都・奈良のシンボルになった五重塔と三重塔

2.奈良市 興福寺三重塔

長谷川周「仏塔案内 西国編」東京書籍 を参考にしました。

 

 

【子規365日】■6月8

若竹や髪(かみ)刈らしむる庭の椅子(いす)     1901(M34)年

夏井いつき【子規365日】朝日文庫

瀬戸内寂聴・齋藤愼爾「生と死の歳時記」知恵の森文庫 より 《竹》

《若竹》の俳句

今年生えの竹。緑の幹に白い粉を吹いている。明るい景。

・若竹や夕日の嵯峨となりにけり     芭 蕉

・若竹や鞭(むち)の如くに五六本     茅 舎

・若竹のかげのちらつく写しもの     風 生

横田正知編「写真 俳句歳時記 夏」現代教養文庫 より

 

 

谷口 幸璽さんのコメントです。

二月堂の一夜 (谷口璽照)

 私、中学二年の時、時計台の街・札幌から大仏さんの街・奈良に引越しましたので、興福寺や猿沢池は遊び場みたいなものでした。


 その昔、奈良の興福寺の家中で、ある武士(さむらい)の息子が、親の手にもおえない横着者で、或るとき同じ家中の若侍と諍(いさか)いになって、とうとう刀を抜いてしまいました。それから江戸に行って、ついには悪漢どもの群れに入り、身を持ち崩して病気にもなり、とんと世の中に五尺の身体の置き場もなく、誰一人相手になってくれる者はなし。


 そうなってみると、しみじみ心の底から淋しくなり、今まで忘れていた故郷のことを思い出し、東海道五十三次、あちらの軒に立ち、こちらの人の袖に縋り、或る時はお宮の拝殿に一夜を明かし、また或る時には他所の軒端に夜を過ごし、ようよう奈良の町に入りましたが、二十年ものその間、音沙汰もせず、人殺しの罪を負うて家を飛び出した身の上、父親の安否さえ尋ねたこともなし。


〽帰れない 帰りたいけど帰れない(夕焼け雲)。親の家へは帰りたくても帰られず、といって他に行き場もなく、かの二月堂の縁の下に薦(こも)を敷いて、取敢えず此処に一夜を明かそうと、横になってはみたものの万感こもごも。過ぎし昔のことを思い出してみると、「あゝ我が罪が恐ろしい。恋しい奈良の土地を踏みながら、親の家へ帰ることができないとは、何とした情けない身の上であろうか」。


あれを思い、これを思いしていると、夜は次第に更けわたり、闇の中に幽(かす)かに光るは二月堂の灯篭。すると向こうからとぼとぼとぼとぼと、人の足音。灯篭の明りに透かして見ると、杖をついた老人が二月堂へと歩いて来る。何か心願があって、この夜更けにお参りしているのだろうと思って見ていると、その老人は宝前に額(ぬか)ずいて、しばらく『法華経』の「普門品(ふもんぼん)」、『観音経』を読んでいましたが、
「南無大慈大悲の観音さま、この老人の心を憐れみたまえ。私にはたった一人の男の子がおりましたが、私の育て方が悪いため、身を放蕩に持ち崩した挙句、ついには人を殺(あや)めました。この土地を飛び出してから指折り数えれば最早や二十年。その永の年月、ただの一日たりとも倅の身の上を心配せぬ日はござりませぬ。今日はどこの里に迷っているか、今宵はどこの露に濡れているやら。思えば思うほど二十年がその間、心の休まる日とてありませんでした。


 どうか、倅がもしもまだ生きているのでしたら、会わせていただきとうございます。もし死んでいるようならば、死んだと一口お告げを蒙りたい。たとい世間からは極道者よ厄介者よと言われようとも、私にとってはたった一人の倅、そのような者にいたしましたは親の責任。たとえ私の命を縮めてでも、倅に会わせてくださいませ。南無大慈大悲の観音さま」
と、血にむせぶ声も絶え絶えに、我が命を縮めてでもと願う親心を、傍で見ていて聞かされた、息子の胸は張り裂けんばかり。


「あゝ悪かった、今のはまさしく御父(おやじ)さま。国許を出て幾歳か、風の便りもせないのに二十年がその間、この極道を一日半時たりとも忘れた暇(いとま)なしとは、何としたお言葉か。それにこの寒空の夜更けに、お年をとりなされた父上が、毎夜毎夜の観音さまへの参詣とは、ああ親というものは有難いものだなあ。あゝ知らなんだ知らなんだ、親の慈悲ということを、今の今まで知らなんだ。あゝ有難うござります」と、去って行く後ろ姿を伏し拝み、夜の明けるのを待って代官所へ出向きましたが、幸いにして罪は喧嘩から起こったことだから、もう昔のことだからと許されて、晴れて親子対面して喜んだとあります。


 昨日は東、今日は西。雨の降る日も風吹く夜半も、〽熱鉄焼ける炎天も 血肉の凍る寒天も 涙にうるむ声をあげ 鉦の響きもしめやかに 我が子を求むる哀れさよ(父よあなたは強かった)、気の毒さよ、また尊さよ。


 親の慈悲というものは偉いものです。老人の我が子に逢いたいという、その念力の強さ・深さ・いじらしさ。一目逢いたい話がしたい、手と手を取って抱きしめたい、頬と頬とを摺り寄せたいという、遣る瀬たまらぬ親心。


 この世の親でも、この通り。まして大悲の親様が、衆生可愛いの御一念。阿弥陀さまは、せめて一度でも親と思われたい、名を呼んでもらいたいとの切なさ・悲しさ・遣る瀬なさ。願いもせんのに五劫の思案、頼みもせんのに永劫(ようごう)の修行。いかにしぶとい私とて、いかに強情な私とて、助けにゃおかぬ救わにゃおかぬが、親様の念力・本願力。》

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二月堂の一夜 (谷口璽照)
2024-06-08 09:26:31
 私、中学二年の時、時計台の街・札幌から大仏さんの街・奈良に引越しましたので、興福寺や猿沢池は遊び場みたいなものでした。
 その昔、奈良の興福寺の家中で、ある武士(さむらい)の息子が、親の手にもおえない横着者で、或るとき同じ家中の若侍と諍(いさか)いになって、とうとう刀を抜いてしまいました。それから江戸に行って、ついには悪漢どもの群れに入り、身を持ち崩して病気にもなり、とんと世の中に五尺の身体の置き場もなく、誰一人相手になってくれる者はなし。
そうなってみると、しみじみ心の底から淋しくなり、今まで忘れていた故郷のことを思い出し、東海道五十三次、あちらの軒に立ち、こちらの人の袖に縋り、或る時はお宮の拝殿に一夜を明かし、また或る時には他所の軒端に夜を過ごし、ようよう奈良の町に入りましたが、二十年ものその間、音沙汰もせず、人殺しの罪を負うて家を飛び出した身の上、父親の安否さえ尋ねたこともなし。
〽帰れない 帰りたいけど帰れない(夕焼け雲)。親の家へは帰りたくても帰られず、といって他に行き場もなく、かの二月堂の縁の下に薦(こも)を敷いて、取敢えず此処に一夜を明かそうと、横になってはみたものの万感こもごも。過ぎし昔のことを思い出してみると、「あゝ我が罪が恐ろしい。恋しい奈良の土地を踏みながら、親の家へ帰ることができないとは、何とした情けない身の上であろうか」。
あれを思い、これを思いしていると、夜は次第に更けわたり、闇の中に幽(かす)かに光るは二月堂の灯篭。すると向こうからとぼとぼとぼとぼと、人の足音。灯篭の明りに透かして見ると、杖をついた老人が二月堂へと歩いて来る。何か心願があって、この夜更けにお参りしているのだろうと思って見ていると、その老人は宝前に額(ぬか)ずいて、しばらく『法華経』の「普門品(ふもんぼん)」、『観音経』を読んでいましたが、
「南無大慈大悲の観音さま、この老人の心を憐れみたまえ。私にはたった一人の男の子がおりましたが、私の育て方が悪いため、身を放蕩に持ち崩した挙句、ついには人を殺(あや)めました。この土地を飛び出してから指折り数えれば最早や二十年。その永の年月、ただの一日たりとも倅の身の上を心配せぬ日はござりませぬ。今日はどこの里に迷っているか、今宵はどこの露に濡れているやら。思えば思うほど二十年がその間、心の休まる日とてありませんでした。
 どうか、倅がもしもまだ生きているのでしたら、会わせていただきとうございます。もし死んでいるようならば、死んだと一口お告げを蒙りたい。たとい世間からは極道者よ厄介者よと言われようとも、私にとってはたった一人の倅、そのような者にいたしましたは親の責任。たとえ私の命を縮めてでも、倅に会わせてくださいませ。南無大慈大悲の観音さま」
と、血にむせぶ声も絶え絶えに、我が命を縮めてでもと願う親心を、傍で見ていて聞かされた、息子の胸は張り裂けんばかり。
「あゝ悪かった、今のはまさしく御父(おやじ)さま。国許を出て幾歳か、風の便りもせないのに二十年がその間、この極道を一日半時たりとも忘れた暇(いとま)なしとは、何としたお言葉か。それにこの寒空の夜更けに、お年をとりなされた父上が、毎夜毎夜の観音さまへの参詣とは、ああ親というものは有難いものだなあ。あゝ知らなんだ知らなんだ、親の慈悲ということを、今の今まで知らなんだ。あゝ有難うござります」と、去って行く後ろ姿を伏し拝み、夜の明けるのを待って代官所へ出向きましたが、幸いにして罪は喧嘩から起こったことだから、もう昔のことだからと許されて、晴れて親子対面して喜んだとあります。
 昨日は東、今日は西。雨の降る日も風吹く夜半も、〽熱鉄焼ける炎天も 血肉の凍る寒天も 涙にうるむ声をあげ 鉦の響きもしめやかに 我が子を求むる哀れさよ(父よあなたは強かった)、気の毒さよ、また尊さよ。
 親の慈悲というものは偉いものです。老人の我が子に逢いたいという、その念力の強さ・深さ・いじらしさ。一目逢いたい話がしたい、手と手を取って抱きしめたい、頬と頬とを摺り寄せたいという、遣る瀬たまらぬ親心。
 この世の親でも、この通り。まして大悲の親様が、衆生可愛いの御一念。阿弥陀さまは、せめて一度でも親と思われたい、名を呼んでもらいたいとの切なさ・悲しさ・遣る瀬なさ。願いもせんのに五劫の思案、頼みもせんのに永劫(ようごう)の修行。いかにしぶとい私とて、いかに強情な私とて、助けにゃおかぬ救わにゃおかぬが、親様の念力・本願力。
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