旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

椿神社

2024-11-12 17:59:39 | 鳥取
2024年11月11日、参りしました。
「詳細不祥」
鳥取県道190号線(金沢伏野線)の金沢公園北西に鎮座しています。
鳥取県鳥取市金沢
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鳥居の左に大きなイヌマキ



鳥居

扁額「椿神社末松大明神」

鳥居の西側
子どもを抱いた地蔵



参道の階段

狛犬



石灯籠

拝殿



本殿



たくさんの彫刻があります。





湖山川







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レーク大樹

2024-11-12 16:22:34 | 温泉、旅館、ホテル
2024年11月10日、利用しました。
湖山池の南側に位置するホテルです。渡辺水産グループが運営しています。プラン名はスタンダード会席でした。部屋は湖山池を一望する和室です。
温泉は天然温泉の単純泉です。で、5階に大浴場と露天風呂があります。朝夕は男女入れ替え制です。サウナ風呂は新型コロナ感染予防での使用不可となっていました。
鳥取県鳥取市金沢5
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外観



フロント

ティーラウンジ









お土産コーナー







エレベーターホール

廊下

部屋

おもてなし



眺望





夕食
前菜、イカの塩辛・サザエつぼ焼き・胡麻豆腐

刺し身盛り合わせ

茶碗蒸し

カレイ煮つけ

鍋物

天婦羅

デザート

朝食、酢の物・蒲鉾・海苔・ハム・鮭・納豆・ヨーグルト

湯豆腐

庭での湖山長者の像
「高草郡の湖山の里に、赤坂の長者と呼ばれるたいへん大金持ちの長者が住んでいました。この長者は、他のどの長者よりも、たくさんの田畑を持ち、宝物もどっさりと蓄えていました。さて、長者の屋敷では、毎年のように田植えがあります。今年も、長者の村では、村人みんなで田植えを一日で終わらせるのがならわしです。ところが、田植えの最中に、子どもを逆さにしたサルを見つけ、田植えをやめ、腰を伸ばしてそれを見ていた。すると、いつもは日暮れまでに終わるはずの田植えが、お日様が西の空にしずみそうになっているというのに、まだ大分のこっているではありませんか。『これはたいへんだ』長者は、いちばん大切にしている金の扇を持ち出し、沈みかけている太陽に向かい、扇を招きながらこういいました。『太陽よ、いっときの間戻ってくれ』するとどうでしょう。西の山へ沈みかけていた太陽が、ふたたび上りはじめたではありませんか。こうして、無事に長者の田植えは、いつものように一日で終えることができました。ところが、あくる日、長者が自慢の田んぼに行ってみると、昨日植えたばかりの田んぼが一夜のうちに大きな池となり、まんまんの水をたたえているではありませんか。人々は、長者がお日様を招いた罪で、大切な田んぼが池にかえられたとうわさするようになりました。その池が、ここ、湖山池なのです。」


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第96回明石公園菊花展覧会

2024-11-04 16:58:55 | 明石市
2024年11月5日、兵庫県立明石公園で菊花展がありました。
10月26日から11月17日までです。
様々なテーマでの展示で、学校園花壇、大懸崖鉢個別、意匠花壇、ドーム菊花壇、小懸崖鉢個別、三本立花壇(厚物・管物)、大菊切花、福助花壇、杉づくり鉢個別、ダルマ花壇、特作花壇、小品盆栽、盆栽花壇、秋色盆景、盆景花壇、大菊鉢組などです。広場では、肉フェアとして、様々な店舗が出店していました。




































































































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生野春日神社

2024-10-25 15:40:23 | 神戸市北区
2024年10月23日、お参りしました。
「当社は、往古『志り知社』と称し、天児屋根命・経津主命を祭祀し、氏の長者が神主となって奉仕してきた。その後、敏達天皇の御宇、聖徳太子が此の地に行啓あって、独菰山適射寺を創立し、『志り知社』の別当となる。1594(文禄3)年、舟越良左衛門殿古検地以前より除地として、祭神春日大明神を尊崇し奉ることは1671(寛文11)年11月12日調製の大地図に明らかである。1673(延宝元)年の頃より、『志り知村』の文字を改めて塩生野村と書き、元禄の頃(1688~)より塩の字を省き生野村となる。また、『志り知社』を春日神社と改称した。明治12年の神社取調べの際、村社に加列せられ、大正元年8月に生野村無格社天満神社を合祀し、生野村字門樋ノ尻へ社地を移転し現在に至る。本殿屋根は、古来桧皮葺であったが、平成10年10月銅板葺屋根とする。境内には、勧請年月不祥ではあるが、天照皇大神を祭神とする末社・神明神社が往古より鎮座し、御神体御箱破損再箱ら『宝永2年(1705)4月朔日」とある。当社は、小さな丘の中央に、松や杉樹の鬱蒼たる森林の中に鎮座しており、近くには摂津名所の一つである百丈岩や鎌倉狭、更に、北区内に供給する水源の千苅水源地があり、桜の名所となっている。」
神戸市北区道場町生野字宮ノ浦882
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鳥居

参道の階段が続きます。





鳥居

石灯籠



手水舎

狛犬



拝殿

本殿



末社


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大澤寺(ダイタクジ)

2024-10-25 15:22:47 | 神戸市北区
2024年10月23日、お参りしました。
「詳細不祥、当寺は曹洞宗の寺院、本尊は釈迦牟尼尊です。」
神戸市北区大沢町上大沢545
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寺標







鐘楼

銅鐘







本堂









庫裏

お寺のパン屋さんです。
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上大沢素戔嗚尊社

2024-10-25 14:49:26 | 神戸市北区
2024年10月23日、お参りしました。
由緒書より「当社の創建は不詳であるが、昔、播磨の国広峰神社の御分霊を勧請して平ノ森(現字池ノ口)に牛頭天王と称し奉祀したに始まる。1478(文明10)年に現在地に新造営して感神社と改めた。やがて、戦国の世になり赤松の一族小野三郎がケシ山(善入西山林)に居を構え、当社を鎮守神と仰ぎ厚く崇敬した。1580(天正8)年織田信長の臣羽柴秀吉が三木城主別所長治を攻略した時、士卒に下知して、神霊を背後の山中に匿遷したため兵火を免れた(当地をおかくれ屋敷と云う)。その後、1684(天和4)年に社殿改修、1764(宝暦14)年社殿再建された。やがて、明治維新となり、三田九鬼藩家臣小寺泰治朗氏を差遣し祭神取り調べの際に、威容厳然としていたので素戔嗚尊社と改称された。明治38年、本殿幣殿が新築された。氏子の出願により大正4年12月14日神職特置を許可され池上市松宮司が勤務された。4月3日の春祭には、地区農会長が籾種を持参し五穀豊穣祈願を行う。10月10日の例祭には餅撒きがある。」
神戸市北区大沢町上大沢字岸之奥357
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社標

鳥居

百度石

社務所

社殿

手水舎

由緒書

鳥居

狛犬



拝殿



幣殿、本殿



末社

八幡宮

平野社

稲荷社

末社


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中大沢素戔嗚尊神社

2024-10-25 11:03:21 | 神戸市北区
2024年10月23日、お参りしました。
説明書より「創建は室町時代以前、祭神は素戔嗚尊、月夜見尊、櫛福田姫命です。当町の鎮守本神社の当初は牛頭天王社、次いで感神社と称し現在名に至る。そして江戸時代までは本地として薬師如来と合祀奉っていた。口伝によれば、和田盛遠の子孫浪士和田善盛が当地に留まり、神社の側に日照山法寺庵と称する寺庵を建立し、良寛と改名して社坊となり、神社を管掌していた。しかし1580(天正8)年、羽柴秀吉の三木城攻略の際の兵火により本庵は焼失し、その後、石峯寺竹林院の管掌に帰したといい伝えられている。明治の神仏分離令に基づき、三田藩代官泰次郎による取り調べの結果、合祀していた薬師如来像・棟札等は焼却されたが、三祭神・本殿は安泰で現在に至っている。なお、本殿は寛永年代(1624~)に再建されたと伝えられている。神戸市歴史建造物調査会により『神戸建築百選』の一つに選ばれた。10月10日の大祭に、古儀旧慣の宵宮渡御がある。年交代で最も忌み穢れない氏子中の長男二人を選び、大幣と三宝を奉持させ、氏子青年始め老若男女が古例の歌謡を、「今年しゃ嬉しやよき雨もろて」と唄いつつ和し、笛・太鼓・笙・鉦にて囃しながら行列をなし神社二練り込む。境内に入ると、天狗・猿・於多福などがこの列に加わり『目出度~』の祝い唄を唄いつつ拝殿に進み、大幣と三宝を本殿に収め渡御神事を終える。」
神戸市北区大沢町中大沢字法寺庵杮蕗
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鳥居

社標

手水舎

由緒書

素戔嗚尊(すさのおのみこと)神社の社叢(神戸市指定天然記念物)
「ブナ科の照葉樹であるコジイが中心となっています。階層構造は5層からなり、高木層では高さが約20mのコジイが優占しているほか、同じくブナ科のウラジロガシが混生しています。第1・第2低木層には、モチノキ、ネズミモチが生育しています。この社叢は「コジイ-カナメモチ群集」に属し、瀬戸内の代表的な自然植生です。さらに、同群集の内陸部のシラカシ亜群集に属し、内陸部では数少ない照葉樹林の一つで、貴重な社叢となっています。その面積は、素戔嗚尊神社の背後、約3,000㎡に及んでいます。」

二の鳥居

狛犬







覆屋兼拝殿
「銅板葺、約21坪。」





本殿
「三間社流造、正面軒唐破風付、杮蕗」

末社・八幡神社

末社・稲荷神社

末社・弁財天社(左)、秋葉神社(右)
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ラコンテ有馬

2024-10-24 18:42:21 | 温泉、旅館、ホテル
2024年10月23日、利用しました。
ダイハツ健康保険組合野保養所ですが、一般客も利用できます。プラン名は<彩会席>季節の食材と肉料理を味わうカジュアルコース(夕朝食付)です。朝食はビッフェ形式です。お風呂は露天風呂が金泉(茶褐色)で内風呂は銀泉(透明)です。 部屋は10畳の縁とトイレ付でした。無料のウェルカムドリンクサービスがありました。
兵庫県神戸市北区有馬町字滝畑1582‐1
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外観

フロント

ラウンジ



館内











自販機

インターネット

浴室の前にウォーターサービス

お風呂あがりにリラックスルーム、電動マッサージチェアなど、無料です。

廊下

まんがが沢山置いています。



室内









窓からの景色、少し紅葉が始まっています。

少し早く着いたので、有馬温泉街の散策です。

















夕食は彩会席です。
前菜、魚介の冷製
本鮪中トロ・サーモンの塩麹タルタル・帆立貝・甘海老・柚子胡椒ジュレ・ポン酢ジュレ

火の物、ラコンテ流おでん
蛸・蕪・ロールキャベツ・鶉玉子・巻き鶏・結び白滝・人参・椎茸・有馬山椒

肉料理
国産豚低温調理仕立て胡桃味噌・南瓜・インカの目覚め・インゲン豆・赤黄パプリカ

食事
コシヒカリ米・赤出汁・香の物

甘味
バニラアイスと紫芋のモンブラン風・ミニケーキ・ベリーソースがけ・有馬名物炭酸せんべい
写真撮り
料理長は北畑雅英さんでした。
朝食はビッフェ形式です。







スクランブルエッグ、出汁巻玉子、唐揚げ、コロッケ、ミンチボール、キンピラ牛蒡、ポテトサラダ、ハム、サラダ、豆腐、カレー、ヨーグルト、パン数種、フルーツ、牛乳、ジュース、コーヒー等

ご馳走様でした。
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西宮市の今津砲台跡・今津灯台・六角堂

2024-10-06 10:56:23 | 尼崎・西宮・芦屋
2024年10月5非、西宮の酒蔵巡りに合わせて行きました。
今津砲台跡
阪神今津駅から南に約1.8kmの位置にあります。
 砲台は武庫郡今津村の海岸(現・西宮市今津真砂町)に建てられていました。記念碑の案内板には高さ10-12m、直径十数mの石造(花崗岩)で、2層目に空けられた砲眼より大砲で四方を狙うことが可能であったと記されています。
 幕末の頃、国防に不安を感じていた江戸幕府では勝海舟の建議を取り入れ、1863(文久3)年、大坂湾の海防のために和田岬砲台、舞子砲台、西宮砲台などと共に砲台の建設が開始されました。
 基礎工事(地杭打ち)では砂地へ1,157本もの松杭が打ち込まれました。建設に必要な御影石(花崗岩)は主に、備中小田郡の島々(現・岡山県笠岡市)より切り出し、海路にて運搬されました。熟練工を多く招集し突貫工事で建設が進められ、1866(慶応2)年に竣工しました。1868(明治元)年、陸軍省の所有となった今津砲台は、他の砲台と共に売却が宣告されたものの一旦は中止となる。だが1910(明治43)年に海軍省より民間へと払い下げられ、19151(大正4)年に解体、砲台の石材の一部を利用して「今津海岸砲台記念石」と刻まれた記念碑が作られ、福應神社へ奉納されました。その後1995(平成7)年の阪神・淡路大震災による同社の被災・復興を経て、記念碑はかつての砲台が建設された地域へ移設されています。

説明書

福応神社御旅所と石碑





大関今津灯台(西宮市指定文化財)
今津灯台(いまづとうだい)は、兵庫県西宮市に所在する民営(酒造会社の大関株式会社が運営)の灯台で、正式名称は大関酒造今津灯台です。現役の航路標識として使われている灯台としては日本最古のものです。現存する灯台は1858年(安政5年)に再建されたもので、高さ6m余り(基礎を含むと約6.7m)の木造袴腰付灯籠形・銅板葺屋根で、竜山石の基壇上に建てられています。
 灯火部分には格子が組まれているが、これは当初点灯に油皿を使用し、風雨を防ぐために油障子が貼られていた名残です。台石に刻まれた「象頭山常夜燈」の文字は、海上交通の守り神・金刀比羅宮に奉納された灯明台を意味しています。地元の人々からは「灯篭」愛称で親しまれてきました。







今津六角堂
西宮市立今津小学校内にあります。
1882(明治15)年に地元の方々の寄付で今津小学校の校舎として建築されました。洋式の小学校建築としては長野県松本市の開智学校についで古いといわれている明治時代の貴重な建物です。兵庫県からは「景観形成重要建造物」に、市からは「都市景観形成建築物」にそれぞれ指定され、県内においても重要な建築物として認められました。
兵庫県西宮市今津二葉町4-10
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西宮酒蔵巡り

2024-10-05 16:30:48 | 尼崎・西宮・芦屋
2024年10月5日、ぶらり酒蔵巡りをしました。阪神西宮駅から酒蔵をめぐり、今津駅に行きました。
 酒造りで有名な灘五郷、その中の西宮郷・今津郷はともに江戸時代より発展してきた酒蔵の街です。2020年、これら日本酒に関するストーリーなどが日本遺産に認定されました。江戸時代、伊丹・西宮・灘の酒造家たちは、優れた技術、良質な米と水、酒輸送専用の樽廻船によって「下り酒」と称賛された上質の酒を江戸へ届け、清酒のスタンダードを築きました。
 酒造家たちの技術革新への情熱は、伝統ある酒蔵としての矜持と進取の気風を生み、「阪神間」の文化を育みました。六甲山の風土と人に恵まれた地では、水を守り米を育てる人々、祭りに集う人々、酒の香漂う酒造地帯を訪れ、蔵開きを楽しむ人々が共にあり、400年の伝統と革新の清酒が造られています。
 この地域でつくられる清酒は、1936(昭和11)年に兵庫県で開発され、酒米の王様として知られる「山田錦」と、江戸時代に酒造適正が確認されて以来地域で守られてきた、西宮でしか汲むことができない「宮水」という優れた材料を使用しています。さらに六甲山から吹き降ろす冷たくて乾燥した北風「六甲颪」が生み出す酒造りに適した気候と、日本の清酒造りの基礎をつくった「丹波杜氏」たちの技術によって生み出されています。江戸時代の多い年には100万樽もの清酒が、西宮・大坂の港から樽廻船で江戸へ運ばれ、「下り酒」と呼ばれて人気を博しました。
阪神西宮駅の「おでかけ案内所」に立ち寄り、地図をもらいました。

西宮のマンホール

阪神西宮駅の南西徒歩10分650m、阪神高速3号線の少し南にある北山酒造へ、土曜日のためお休みでした。
北山酒造
「兵庫県小野市粟生町にて代々『ローズ味醂』と名付けた味醂を約200年に渡り、醸造販売していましたが、1919(大正8)年に、二代目北山丈蔵が清酒醸造に転業し『島美人』と名付け、主として東播・北播地域及び兵庫県の神戸市・姫路市にも販路を拡大していきました。1949(昭和24)年に、三代目北山丈蔵の相続と同時に株式会社に変更し営業を営んでいましたが、年々の増産により既存の工場が狭くなったこと、また設備が老朽化してきたことから、1962(昭和37)年に、兵庫県西宮市宮前町へ本社並びに酒造工場を移転しました。」
西宮市宮前町8-3
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少し南東に進みます。
松竹梅酒造
清酒「灘一」の販売をしています。
HPより「戦前の松竹梅酒造は故井上信次郎氏によって大正初期に設立され、扱う清酒はまぼろしの銘酒とも言われていました。昭和初期には醸造石数は9,000石にも達し、質、量ともに屈指の酒造会社でした。しかし第二次大戦の戦火拡大によって企業整理が進み、さらに軍需工場となり清酒の醸造は中止に至りました。
戦後、創業者である野田博は松竹梅酒造の復活に寝食を忘れ情熱を傾けた結果、昭和25年新たに松竹梅酒造を設立、ここに『灘一』の蔵元としての松竹梅酒造株式会社が再発足しました。」
兵庫県西宮市浜町13-10
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東に徒歩2分
白鷹



白鹿・辰馬本家酒造株式会社

白鹿酒造館
酒造館と記念館の拝観共通券は500円です。
1869(明治2)年建築の辰馬本家酒造旧本蔵を利用した酒造館では、灘の伝統的な日本酒造りの工程を見れます。酒造りの映像・酒造りの唄の試聴、酒造道具に触れるヒーナーもあります。展示している酒造用具一式および酒造用桶・樽づくり道具一式は、兵庫県および西宮指定の有形民俗文化財に指定されています。

































































































阪神淡路大震災で被災した道具など





白鹿記念館
日本酒と桜に関する資料、そしてさまざまな美術工芸品を展示
記念館には企画展示室、酒資料室、笹部さくら資料室の3つの展示室があります。酒資料室は、日本酒に関する史料や美術品、酒器などを展示しています。企画展示室は、酒造家・辰馬家が収集した美術工芸品や節句の人形をはじめ、西宮神社で有名な福神「えべっさん」や郷土資料を集めた「堀内ゑびすコレクション」など、季節に合わせた展覧会を開催しています。笹部さくら資料室は、生涯を日本古来の山桜・里桜の保護・育成に捧げた笹部新太郎氏が収集した、咲く瀬にまつわる美術工芸品や研究資料からなる「笹部コレクション」を展示しています。
館内は撮影禁止です。





白鹿クラシックス
白鹿のレストランと売店です。
酒や食品のほか、オリジナルスイーツ、酒器、お土産など。



案内図

宮水井







東に進みます。







日本盛酒造通り煉瓦館
蔵元でしか味わえないしぼりたての生原酒をサーバーから量り売りをしています。原酒の試飲や限定酒、酒器なども販売しています。





國産酒造
創業は文久元年(1861年)で、約140年ほどの歴史があります。戦前は覺心平十郎商店として、現在の所在地を中心に、10蔵で最高約1万石(1800kl)の清酒醸造高を記録していましたが、第2次大戦でその殆んどを焼失し、戦後昭和23年に組織を改め國産酒造株式会社を設立。戦災を免れた唯一の蔵「大新蔵」で清酒を生産していました。この「大新蔵」は、築後100年以上を経た、木造の大蔵で、阪神淡路大震災にも、倒壊を免れた強運の酒蔵でした。 昔は問屋の手印で出荷していた関係から色々な銘柄がありました。中でも主として使っていた「國産」印は、戦後社名となり大吟醸造酒「國産一」として受け継がれています。一方「灘自慢」は、昭和35年に新しく発売され、文学通り主産地灘五郷において、自慢できる酒として名付けられました。 つねに厳選された酒米を高精白に磨き上げ、天与の名水「宮水」で仕込み精魂を込めた技法によって、豊かな味わい深い「秋栄えの酒」に仕上げられています。
1995年の阪神淡路大震災で被災し醸造を断念、現在は大関(兵庫県西宮市)に醸造を委託しています。



大関
大関は今から約300年以上前、江戸時代中期の正徳元年(1711年)に、初代 大坂屋長兵衛が今津の地で清酒醸造を開始したのが始まりです。江戸時代は銘酒「万両」として樽廻船で江戸に運ばれ「灘の下り酒」として親しまれましたが、更なる飛躍を目指し明治17年(1884年)、当時大変人気のあった大相撲に因み、その最高位で覇者を表し、その韻が豊穣を意味する「大出来」に通じる「清酒大関」に改め現在に至っています。登録銘柄は、超特撰大吟醸長寿です。
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