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中津城

2016-09-16 14:01:41 | 大分
2016年9月8日、行きました。九州3泊4日の最終日、富貴寺、宇佐神宮の後に寄りました。別府の鉄輪温泉に宿泊し、新門司港をめざし、北向きに観光しながら走りました。
「黒田孝高が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた。」
大分県中津市二ノ丁本丸
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黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
『右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び翌年築城を始めたことによる。軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のちに忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要塞の地であった。同時に畿内への重要な港でもあった。」







黒田官兵衛(如水)と正室光姫
「戦国時代の名軍師と謳われた初代中津城主黒田官兵衛(如水)は織田信長に認められ、豊臣秀吉に頼ににされ、徳川家康におそれられた戦国武将でした。秀吉の九州征伐の武功で豊前国6郡12万3千石の大名となり、中津城を築城。秀吉野天下統一に貢献。文禄・慶長の役では黒田24騎と呼ばれた勇猛果敢な家臣団が大暴れし、天下分け目の関ヶ原の合戦では天下をも窺おうとしたと伝えられています。生涯57戦無敗、家臣を愛しみ育てた希代の武将でした。戦に明け暮れたその波乱の生涯には、いつもそばに正室「光姫」が寄り添っていました。戦国時代には世継ぎが求められ、家を守るため側室を置くのが慣わしでしたが、官兵衛は側室を置かず、才徳兼備と家臣たちに慕われた正室「光姫」ただ一人を生涯愛し続けたのです。晩年には和歌や茶道を嗜み、穏やかな日々を過ごした官兵衛と光姫は夫婦和合の麗しき姿として後の世までも伝えられています。』



























































奥平家の説明書
『奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能と貞昌(後の信昌)父子の頃からで、天正3年5月(1575)の史上名高い「長篠の戦」において貞能・貞昌父子が活躍しました。武田勝頼軍1万5千人によって長篠城が包囲され、長篠城主貞昌は僅か500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約3キロの設楽原で、織田・徳川連合と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川連合が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で、貞昌には新たな領地が与えられたほか、信長からは信の一字が偏諱され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。享保2年(1717)奥平家七代昌成が中津10万石の領主として中津城に入りました。第15代昌遭までの155年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。』

奥平神社

由来書
「ご神体は、奥平家中興の祖奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀りしています。」







蘭学と中津



中津大神宮









由緒書
「明治14年9月伊勢の神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として鎮座」







お疲れ様でした。最後に北九州市の小倉城に行きます。

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