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大聖寺の町並み散策

2017-09-27 17:05:07 | 石川
2017年9月24日、石川県加賀市の大聖寺の町並み散策しました。
 大聖寺は地名で、大聖寺藩の初代藩主は、前田利常の三男として生まれた前田利治。金山、銀山をひらいたり、九谷焼を興したりするなど、後の大聖寺藩の産業が栄えるもとを築きました。小堀遠州から手ほどきを受けた茶人でもあったと言われています。
 歴代藩主が茶の湯や能などをたしなんだからでしょうか。今も大聖寺は、お花やお茶を教えている人が多かったり、能楽をされる方がいたり、年代ものの九谷の器をそうとは知らずに普段使いしていたり。さりげなくスゴイことをしている人が多い町でもあります。
 大聖寺の町割りは江戸時代からほとんど変わらないままです。









時鐘堂







江沼神社
「前田家の祖先・前田利治と菅原道真をまつる神社、庭園は金沢の兼六園の構想を入れたものと言われています。境内には加賀市出身の作家で「日本百名山」の著者として有名な深田久弥の文学碑もあります。」

















拝殿

















船乗場





山口玄蕃首塚碑
「慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去したことで、天下は、徳川家康に従う東軍と石田光成に従う西軍の2つに大きく分かれて行きました。この加賀の地でも、金沢城の前田利長は東軍に、大聖寺城主であった山口玄蕃は西軍についたため、大聖寺城があった錦城山を舞台に激しい戦いがおきました。慶長5年(1600)7月26日、利長は、およそ2万5千の大軍を率いて、金沢城を出発しました。松任で2、3日逗留した後、8月2日の大聖寺城下の松山村の古城に陣を敷ました。当初は小松城の丹波長重を攻める予定でしたが、小松城の攻略は手間取ると判断し、急遽、大聖寺城を攻めることにしたのです。このとき、大聖寺城の玄蕃軍は勢力は僅か1200人でした。利長は玄蕃に対して石田光成方に味方するのをやめ、徳川方につくように説得しましたが、玄蕃はこれまでの豊臣家に対するご恩をここでお返ししたいと、討ち死に覚悟で一戦を交えることとし、これを聞き入れませんでした。前田勢力は、大聖寺城の鐘が丸に突入し、本格的な合戦となりました。そのすさまじい戦いによって、鐘が丸には血の川が流れ、骨ケ谷は屍の山となったといいます。その日の夕刻には大聖寺城は陥落しました。玄蕃とその子息、右京亮は城内で自害しました。この戦いで、前田勢はおよそ900名、山口勢は800名余の死者を出したといわれています。その後、首塚が建てられました。」



















本善寺











願成寺























蘇梁館
「大聖寺藩を支えた北前船主邸を伊地区したものです。」















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