原告の思い 2 大和忠雄さん(県被爆者の会西遠支部長)
(2012年3月5日の第4回口頭弁論での「意見陳述」に加筆してあります)
原水爆被害者の会の副会長兼西遠支部の支部長の「大和」と申します。1940年生まれで5才の時、広島で原爆に会いました。
1945年8月6日と9日に、アメリカ軍が投下した原爆は「爆風」と「熱線」により、30万人近い住民の都市を一瞬にして壊滅させ、同時に強力な放射線と放射線降下物からの残留放射能で地獄を生み出しました。
当時5才の子供だったが、あの当時の事は、今でも鮮明に覚えています。
突然地震のように、ぐらぐらと新築の家が動き、ガラスが飛び散り、何が起ったのか分らないまま、私の祖母がまだ敷いてあった布団を頭から被せてくれたので怪我もしませんでした。
郊外にあった私の家に市内から逃げて来られた人が5人程居られ、火傷には油を塗れば楽になるとの事で塗っていましたが、2人の方はその後何処かに行かれ、あとの3人の方は、死亡され、名前も住所も不明のまま、近所の公園で焼かれ、埋葬されました。
当時の光景は、地獄絵図のようでした。だから広島市内の公園には、慰霊碑が多くある筈です。
私の祖父も旧宅(爆心地から300m程度の場所)へ荷物を取りに行く途中、己斐附近で被爆し、夏なので、半袖の腕が出ている部分がケロイドになり、最後には内臓疾患で亡くなりました。
私の中学校時代の担任の先生ですが、体格もよくて、柔道もやっていた人が、2~3ヶ月入院するからとの話だったが、そのまま亡くなられました。後で原爆病だったと聞き、家もごく近所だった事もあり、ショックでした。
友人・知人達が広島に来た時、平和公園・原爆記念館・資料館を見せる度、当時の光景が浮かび、辛い思いをします。
63年経過した2008年に「胃ガン」になり胃を4分の3切除し、「原爆症」に認定されております。何故今になってと思いましたし、5才のことで何が原因かが思い当たりませんが、被害者の死体を焼くのを見ていて、その空気を吸ったためかと思っています。
私どもの団体は、日本原水爆被害者団体協議会、通称「日本被団協」と言います。一貫して核廃絶を掲げ、非人道的な兵器の使用によって地獄の体験をした私達は、再び同じ苦しみを地球上の誰にも味あわせては成らないことを、国の内外に語り伝え、語りついで行かねばと活動しています。
生きながらえた被爆者は、「家族」「友人」「住む家」も失い、職場も学校も失って悲嘆のどん底に陥れられながら、多くの苦しみを一つ一つ乗り越えて、ヒロシマ・ナガサキをよみがえらせました。
放射線の健康に与える影響に不安を抱き続けてきた、被爆者は同じ苦しみを地球上の誰にも決して味あわせては成らないと核兵器の速やかな廃絶を求め続けてきました。
この度の原発事故の深刻さに学び、全国の電力会社に私達被団協が原発操業停止と廃炉を求め申し入れました。2011年10月13日、中部電力に
新・増設計画を取りやめること。
現存する原発について年次計画を立てて操業停止・廃炉にすること。
自然エネルギー・再生エネルギー利用に大転換する事。
結果、中電の回答は「国策が決まらないので、私どもには何も回答できないとの事 でした。片一方では国策が決まらないと言いながら、1,000億をかけて防潮堤を 作る手配をしていることはどうかと思います。
原子力エネルギー利用に100%の安全性はありません。しかも2万発以上が存在する核兵器の廃絶も急がねば成りません。
放射性降下物からの放射性被爆で恐れなければ成らないことは、目に見えない程の微粒の放射降下物を、鼻や口から吸引、摂取する事による「内部被爆」です。この内部被爆は可能な限りさけねば成りません。放射性降下物による放射能障害は短期に発症するのはまれで、相当の期日後に発症する事が殆どです。
国民に放射能障害をもたらす、原発・核兵器の廃絶をこれからも求め続けます。