浜岡原発裁判日記 4月7日(土) 第4次原告団第2回会議で原告の思いを語り合いました
4月7日(土)午後、アィミティ浜松2F会議室で、浜岡原発永久停止裁判「第四次原告団」第2回会議が開かれ、第4次原告21人と弁護士1人が参加しました。
13:30開会~16:10閉会
13:30 あいさつ 原告副団長 渥美邦夫
経過報告 事務局長 落合勝二
補足 事務局員 中谷信和
三つの裁判の現状報告 杉尾健太郎
報告に対しての質疑
「住民投票」の運動へのよびかけ。この会にはないが、どうするか。
・5/12までという時間的制約あり。
・原発ゼロを目指すとか、再稼働させないとかいろいろな運動があるが、再稼働するか、再稼働しないかだけでの住民投票には限界がある。
・再稼働することに賛成の人も、再稼働反対の人も、誰でも署名をというのは、運動の方向性があいまいだ。
・弁護団にも申し入れがあったが、団としては対応しないで個々人が判断することにした。
・県連絡会も同様な見解だ。
・湖西の会では、運動の担当者をよんで、もっと趣旨を聞く機会を持つ予定だが、運動の進め方がよく見えてこない。
・西部の会でもいろんな意見があるので、会としての対応は一致できないので、個人個人が判断する。
→個々人での対応ということが確認された。
14:03 以下、交流会での原告の発言を紹介します。
○ 児童文学作家。昭和6年生まれ。ハルピンで終戦を迎えた。浜岡原発ができる時から反対してきた。未来の子どもたちのために廃炉にしていきたい。孫のいるドイツでは原発をなくす方向に舵を切った。命をかけてたたかいたい。
○ スズキの労働者がOB3人と現役1人が参加。相良に校内最大の工場あり。四輪のエンジンすべてを生産している。原発から4kmのところにある。産業を維持するためにも、JRや高速道路など交通網を維持するためにもあまりに影響の大きい原発は廃炉しかない。
○ 15の春で国鉄の車両修繕の仕事についた。鉄は折れる。新幹線も時速200kmで走ると、1年半から2年たって、本体に亀裂が走る。突然亀裂が発生する。国が原発の安全をいうが、まったく信用できない。原発の溶接も信用できない。
○ 25年前、福岡から浜松に転勤して来た。原発の事故が起こるまで原発のことは何も知らなかったなと思う。子ども孫のために原発はなくしたい。県母親大会で福島のお母さんの話を聞く会を持つ。母親の中には原発のことでは温度差がある。
○ スズキのゴルフ場裁判。17年かかった。浜岡原発事故があれば絶対生きられない。逃げられない。不安な気持ちでいっぱい。知らないことがいっぱいある。今日は参加したよかった。
○ 浜岡原発の取水口のこと。最大隆起7mの可能性あり。隆起すると取水できなくなる心配あり。
○ 新婦人。えらい人は安全というが、もう騙されたくない。母親は戦争で騙された。静岡空港も赤字予測していたけど騙した。しかしやっぱり赤字。孫もできたし、孫のためにも廃炉にもっていきたい。
○ 生活と健康を守る会。福島の原発事故が起こったが、石川の志賀原発に仕事で行ったことがある。タービン建屋に入った。靴下・手袋・作業着を着て作業する。終わると放射線チェックをする。異常があると他の場所で検査を受ける。一日も早く原発を廃炉にしたいし、使用済み核燃料の問題もある。
○ 湖西の会から。50番目の原告。海の問題、魚の問題、気候の問題がある。三上市長は、映画「ひろしま」上映運動をした。600人がチケットを買い、途中でチケット販売を止めたほど広がった。当日は450人が参加。1500人の署名が集まった。アンケートの87%が「原発をやめてくれ」だった。市長を支持する市議会議員は18人中で3人。しかし、2/6に原発廃炉の意見書の要請をして、3/21に市議会全会一致で意見書が採択された。情勢が変化している。これからどう運動を広めるか。鷲頭駅前では通行人は素通りしていく。署名集めは大変だ。
○ 平和委員会。地震のけた違いの大きさのもとでの原発は廃炉しかない。
○ 東京から浜松に昨年2月に来た。弁護団の一員。東京では、中国残留孤児裁判、原爆症裁判、「日の丸」「君が代」裁判等にとりくんだ。中国残留孤児裁判では、国が残留孤児を守らないことを学んだ。原爆症裁判では、戦争終結に何の意味もない原爆を落としたが、壮大な人体実験であった。国は被爆者を救済してこなかった。「日の丸」「君が代」裁判は、東京都が教員を締め付け、自分の考えを持たず、発言しない子どもを育てることが目的だ。東京から移る時、福島か浜松かであった。浜松を選んだが、不謹慎化もしれないが、もし福島を選んでいたらと思うと複雑だ。同じ事故を起こしたくない、3歳の自分の子どものためにも原発をなくしたい。
○ ゴミ環境ネットで10年。30年、原水爆禁止の運動をやってきた。放射能のことを一番知っているのに、なぜ原発のことをやってこなかったのかという深い反省がある。何ができるのか。まず放射線測定器を自分たちで買って測定していくことにした。自分で判断することの大切さ。核実験や原発の周辺では女性のがんが多くなっている。低線量でも危険ではないか。3・11から一年経った。原発推進者は原発を作る前に「人間の心」が壊れてしまっていると思う。原発推進は、心の闇がないとできない。
○ 原水爆被害者の会で浜松支部長。5歳で被爆した。63年後に胃がんになった。4分の3を切除して4年が経過。早期発見でよかった。3.11は原爆の時と同じ光景だった。原爆につながる原発はやめなくてはいけない。二度とやってはいけない。会として廃炉にしようと、中電、北陸電力に申し入れを行った。国が決まらないので何も言えないという。原発を海外に輸出していくことも問題だと再度申し入れをする予定だ。「ひろしま」の映画をみて、肥田先生が、この映画はよく原爆のことをよく表現されているといって通りだった。
○ 浜北からの参加。これまでの積極的に原告になった人の発言は立派だった。新婦人から原告を一人ということで不純な動機で原告になった。しかし原発はいらないという思いはもちろんあるし、なくなるることを元気なうちに見届けたい。
○ 工学部を出て、化学の高校教員。退職後4年経ってまた高校の授業で、核化学のことをやった。原発の原理は知っていたが、高文研の「原発はなぜ恐ろしいか」の本をきちんと読んで、開発のことから、なぜ日本に多く原発があるのか、恐ろしい存在であることなどを生徒に教えた。工学部では応用のことをやるが、エネルギーでも技術的開発に力を入れてほしい。ドイツでは、国民が原発をどう考えるのかをオープンに議論している。大須賀町の臨済宗の住職が、日本仏教会で原発をなくそうということを決めたという話をしてくれた。
○ 1963年から70年まで横須賀高校に勤務していた。浜岡原発から10km~20kmのところの生徒が通学していた。浜岡原発は67年に建設が決定された。反対運動もあったが、安全神話に浸っていた。反対運動に関われなかった。海水温での漁業の影響くらいにしか考えなかった。きちんとやってこなかったので、反省をしたことを少しでも生かしたい。
○ 新婦人平和担当。核兵器や劣化ウラン弾のことから原発のウランのことを知って原発廃炉の気持ちが強くなった。3・11事故で原発反対に確信を持った。3・1ビキニデーで、これ以上被爆者を作ってはならないと思う。原発の存在で、世界中の人が被爆者になる時代になった。核兵器と原発は切り離せない。核兵器も原発もいらない。
○ 天竜区から。田代弁護士からの話で、原告に入れてほしいと申しこんだ。消費者協会という団体にいるが、ネットワークとしての意味がある。電磁波や紫外線の調査をしてきた。放射線の聞き取り調査もしてきた。500ベクレルでも心配、71%の人が表示をしてほしいと希望している。天竜区の一年分のお茶を購入し、放射線の測定をした。県の委託金で静岡の放射線測定室が測定した値だと312ベクレル出た。声を大にして知らせたい。ドイツの「フクシマのうそ」という情報がある。いろんな団体があるが、横のつながりがないのが残念。
○ 原水爆禁止浜松市協議会の事務局長をしている。核兵器をなくそうと運動をしてきたが、原発反対の運動はやってこなかった。原発をなくすため、核兵器をなくすため、原子力のことや放射能について、みなさんと学習しながら運動を拡げていきたい。
○ 理科の教員として授業で教えてきたが、心底原発に反対してきたかと言えば忸怩たるものがある。何としても原発はなくさなくてはと、昨年の5月からの駅前署名には可能な限り参加している。文科省は「放射能副読本」を小中高校と配布しているが、原発事故のことはまったく触れていない。福島県教委は「副読本」からはみ出さないように教員を指導している。福島の親は、これでは不十分だという声と、不安をあおるなという逆の反応とがある。どちらの立場でも、事実としての放射線の数値を提示して、それをどう判断するかの力を国民が身に付けることが大切だ。