この句の魅力は、あらかじめ散文的な文脈を解体された言葉が、定型のなかで新たな意味として再生する過程にある。まず散文的な意味を成立させようとすれば、一句は「水枕ガバリと/寒い海がある」という二部構成で読まれるだろう。前半が現実の場面、後半が想像の風景で、両者のあいだには断絶がある。その断絶にはすなわち省略があって、〈水枕がガバリと氷の音をたてると、その音によって寒い海の映像が頭の中に浮かんだ〉という . . . 本文を読む
去年の暮れから、このブログで「新興俳句スタディーズ」というシリーズを始めてます。
同名の勉強会「新興俳句スタディーズ」(企画:THC)に使った資料の掲載が主な内容です。勉強会の後、さらに付け足した資料もいくつかあります。
当初は「資料+短文」みたいな形式を考えてたんですけど、資料が面白すぎて、つまらない短文をつけるのがはばかられ・・・ひとまず自粛してます。
ただいま進行中の「西東三鬼スタディ . . . 本文を読む
昭和十年の冬のある日、私は高屋窓秋の家で、炬燵にあたって談していた。彼はその年の五月、すでに「馬酔木」を去っていたが、特色のある詠歎的な句風で、都会の矛盾と哀愁を詠い上げた「河」一巻が、徐々に胸中に流れつつあったのである。
私は窓秋と話しながら、身体に違和を感じた。疲労困憊していた。
俳句を始めてからの私は、新興俳句の疾風怒濤の中を、夢遊病者のように彷徨した。職業に専心せず、家庭は棄てて顧み . . . 本文を読む
昭和十年の春のある日、「京大俳句」の平畑静塔が、私の勤先に訪ねてきた。(『俳愚伝』)
静塔 懐旧談やろうか。三鬼・静塔初対面、あれはいつですか?
三鬼 そんなこと忘れちまった。昭和何年かな。九年か。神田の病院に勤めていた頃です。平畑静塔という方が御面会ですっていうから、へえ……と思って待合室に出てみると、初対面の静塔先生、今とおんなじ顔でね、一番初めに言った言葉覚えてるが「西東三鬼の西東もペン . . . 本文を読む
昭和九年の十月のある朝、私は勤先の外神田の病院に行くために、秋葉原の高架駅をあるいていた。歩廊の窓からは北は上野、本郷が見え、南は日本橋、京橋の家々がみえた。いつも見馴れた俯瞰風景であるが、私は明けても暮れても、新しい俳句とそれを作る人々の事ばかり考えていたので、屋根屋根をつらねたその朝の大都市を眺めた時、同じ東京の屋根の下に住みながら、そして同じ革新的志向を俳句に持ちながら、お互いに名前と作品を . . . 本文を読む
「走馬燈」は、昭和八年、清水昇子(現在天狼、青玄同人)のポケットマネーで創刊され、幡谷東吾(梢閑居)が編集にあたった。同人は十名程、十六頁の薄い俳誌、雑詠は草城選であったが、運営、研究などの点で、同人誌というべき性格を持っていた。
「走馬燈」の表紙の題字は誓子揮毫であった。それは誌名の「走馬燈」が、当時、幡谷らが私淑した誓子の第一句集の中の、連作の題名によったからである。
「走馬燈」の雑詠選者は、 . . . 本文を読む
その頃、東京の街々の貸席には、毎晩のように、何々吟社の運座が催されていた。現在の句会とちがって、そこに集る人達は、特定の俳誌に属しているわけではなく、ただ運座で高点をとって、賞品をせしめるのが目的であった。私の運座の経験は、一、二度にすぎないが、ある時の最高点の賞品は、炭俵が出されていた。それを貰った人がどんな方法で家まで持って帰るのか、私は不思議でならなかった(『俳愚伝』)
三鬼 それで当日 . . . 本文を読む
三鬼 そうかな。同じ事かな。まあいいや。小生、俳句に沈没するに至った、そもそもを一席やりましょう。あの神田の病院にね、四人でいつも通って来る下町の道楽息子がいたんだ。それが揃いも揃って慢性のトリッペルでね、当時、あの病気の治療は何ヶ月もかかった。そのうち外科の医者と友達になっちまったんだ。ところがその外科が、少年時代の投書家でね。その道楽息子共と俳句のプリントを作り出したんだ。小さな病院だから、僕 . . . 本文を読む
西東三鬼は、もつとも特異な經歴を負つた俳人の一人であります。三鬼の俳句の特異性は、一つには、彼が中年に至つて俳句をはじめたことから來てゐるようです。彼の俳句には、はじめから春性がありません。誓子や草田男や草城より一つ年長ですが、彼が俳句を作り出したのは、昭和六年、數へ年三十二になつてからです。その前は、大正十四年から昭和四年まで、シンガポールで齒科醫を開業してゐました。そのまま順調に進んでゐたら . . . 本文を読む