三鬼との出会いは、彼が俳句を始めたばかりの頃で私は十九歳でした。
助産婦学校で知り合った一人の友人が、来る日も来る日も変り者の歯科医の話をしてくれていたので、その病院に職を得て、事務長に紹介された時も、初対面のような気がせず、気障な男だなーと思った位です。
私は、赤十字看護学校受験に失敗して、知人の紹介で銀座五丁目にあった耳鼻科に勤め、暫く経って其処の副院長が芝の方で開業されたので従いて行き、 . . . 本文を読む
先生と言い、弟子と言つても、先生と僕との間は、会えばいつも作者と評者の関係であつた。僕が句帳を出すと三鬼はだまつてヽや○をつけた。ぼくも先生の句帳に同じようなことをした。どちらもあまりホメることはなかつた。それでも、すくなくともぼくは充分であつた。
ぼくは三鬼に俳句の骨格だけをおしえてもらうつもりで出会つたのに、彼はぼくの心に俳句以外の多くのものを強靭に、鮮明に残して永劫に消えた。
四月一日、 . . . 本文を読む
(三月――谷註)二十二日 今日の排便は泊楼と二人でさせる。上半身を、ふとんを積んでもたせかけるとスープでも何でも飲めるというので無理かと思つたが、ようやくのことでそうしてみた。十分位で元の位置に。「クソババア」などと、どなり散らし乍ら、人が居ないと、赤ちやんのようになるので、子供に話すようにしていると、「俺は赤ん坊と違うわい」とどなる。夕方からしきりに幻覚訴える。「昨夜同じ夢、何度も見た。気持わる . . . 本文を読む
(戦後の三鬼は、新俳句人連盟の分裂、「天狼」の創刊、「現代俳句協会」の創設などに積極的に関わることになるが、今回は割愛)
昨年(昭和三十六年――谷註)の夏、私は三鬼さんとT君とみちのくの旅を共にした。「河」の全国大会が仙台で開かれるのを兼ねての旅だつた。三鬼さんは東京大会、大阪大会にも出席したと得意だつた。実はひとり立ちのできない私が心配だつたからに違ひない。車中三鬼さんは癌らしいよと云ふ。そ . . . 本文を読む
昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。街の背後の山へ吹き上げて来る海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむ思いであった。その晩のうちに是非、手頃なアパートを探さねばならない。東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住いの女がいる筈である。私は外套の襟を立てて、ゆっくり坂を下りて行った。その前を、どこの横町か . . . 本文を読む
問題。以下は西東三鬼の俳句作品である。( )内に入る言葉を答えよ。
1.汗し食ふパン有難し( )の如し
2.( )来て家去れといふクリスマス
3.( )寒き砂丘に飛び出せり
4.体内に( )あり卒業す
5.蝮の子頭くだかれ( ) . . . 本文を読む
三谷 話はかわるが、三鬼というのは淋しがりやでね。こんな話があるんですよ。「天香」を始めた頃だったが、仲間がバラバラに暮しているんじゃあおもしろくないから、一緒に生活しようじゃないかと言い出したんだ。一緒に生活して、朝から晩まで俳句のことを中心に暮そうじゃないか、ということなんだね。それをもっと具体的にいうと、銀座あたりで支那饅頭を食わせる高級店を共同経営でやろうというんだ。あすこを買おうと店舗ま . . . 本文を読む
俳句新興の叫びが挙つて早くも八年を迎へた。微力ながら、われわれも先輩の驥尾に附して、その運動に加はつてきた。
(中略)
今にしてわれわれは強く思ふ。新興俳句の業績は決して微々たるものではなかつた。と。
(中略)
しかしながら、俳句新興運動の現段階には、一日も早く為さねばならぬ幾多の仕事が残されている。
曰く、真に傑れたる新人の発見紹介。
曰く、排他的結社主義の批判。
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さて、同じ年(昭和十四年――谷註)渡辺白泉と三橋敏雄が「京大俳句」に加盟した。すでに三谷昭、石橋辰之助、杉村聖林子と私は「京大俳句」の東京会員であったから、これに「土上」の東京三を加えた編集で、新興俳句の綜合俳誌創刊の気運が夏頃から起って来た。さて肝心の資金は、石橋辰之助の義兄が必要なだけ出すという。
辰之助の義兄は、親ゆずりの大地主の当主で、あらゆる道楽の果に、辰之助の真面目な性格と、俳句の才 . . . 本文を読む