はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

精神革命論(2)変貌する資本主義

2020年03月17日 | 思想史関係
精神革命論(2)変貌する資本主義

日経新聞の書評から、「資本主義」を取り上げて、前回の続きです。
どこに向かうのか?「欲望」が動かしてきた資本主義
HONZ特選本『欲望の資本主義』
2017.5.9(火)
 ゲーム理論の専門家で大阪大学准教授の安田洋祐氏がナビゲーターを務めるNHKドキュメンタリーの内容をまとめた本書『欲望の資本主義 ルールが変わる時』は、およそ経済活動に関わる全てのビジネスマンにとってmust readの一冊である。
欲望の資本主義 作者:丸山 俊一 出版社:東洋経済新報社 発売日:2017-03-24
本コラムはHONZの提供記事です
 最後の「あとがきにかえて」は、本番組を企画したNHKエンタープライズのエグゼクティブ・プロデューサーの丸山俊一氏が書いているのだが、本書の内容についてはここから説明するのが分かりやすい。ここで丸山氏が言う本書の問題意識は、「欲望とは何か?」「資本主義とは何か?」「私たちは、いつからこんな世界を生きているのだろうか?」という根源的な疑問である。
 そして、資本主義を動かしている原動力は人間の「欲望」ではないか、ケインズにせよシュンペーターにせよ、経済学の巨人達が取り組んだのは「社会の潜在的な欲望をどう解き明かすか?」にあったのではないか、そして近代的な価値観が揺らぐ今日において、欲望の背後にある人間の様々な思いを再考する経済学があっても良いのではないかというのが、丸山氏の指摘する所である。
れに呼応するのが、冒頭にある安田氏の「序文」である。安田氏は、リーマンショックを始めとして、この10年間に経済学者も驚くような想定外の現象が次々と起こり、その間に世界の人々の経済システムに対する信頼が大きく揺らいでしまったという反省を踏まえ、そうした人々の疑問に対して真摯に向き合うことで、何らかの「答え」につながるヒントを提示したいと言っている。
 しかしながら、安田氏は、主流派経済学である新古典派経済学を修正しながら騙し騙し進んでいる今の方向性がそもそも正しいのか、経済理論を精緻化しているように見えて、実はただのこじつけを行なっているに過ぎないのではないかとの本質的な疑問を呈している。
 他方、そうだからと言ってこの先、天文学における天動説から地動説に至るようなパラダイムの転換、つまり新たなグランドセオリーの発見があり得るのかどうかも分からない、要は今の時点で経済理論として何が正解なのかは分からないということも素直に認めている。
 勿論、安田氏は経済学者としてそうしたグランドセオリーの発見を目指すという決意を持っている。只、現時点でその即答を求めるのではなく、少しでも新たなヒントを探し出すために、安田氏が各界の巨人達にインタビューを行なったのが、本番組であり本書なのである。
スティグリッツ氏のアダム・スミス評
 先ず、最初に登場するコロンビア大学教授のジョセフ・スティグリッツ氏は、クリントン政権の大統領経済諮問委員会の委員長、世界銀行の上級副総裁兼チーフエコノミストなどを歴任した後、2001年に「情報の経済学」を築き上げた貢献によりノーベル経済学賞を受賞した経済学の巨人である。主な著書に『世界の99%を貧困にする経済』(徳間書店)などがある。
 スティグリッツ氏にとっての最優先課題は「格差問題の縮小」である。主流派経済学者としてノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ氏だが、行き過ぎた規制緩和のせいで、アメリカ社会は不安定、非効率、不平等なものとなり、その結果、先進工業国の中でアメリカの格差が最もひどくなってしまったと批判している。そして、今求められているのは、新自由主義的な「規制撤廃」ではなく、「良い規制」の導入なのだと主張している。
 こうしたスティグリッツ氏の発想は、1960年代にシカゴ大学でスティグリッツ氏が師事した、生涯をかけて社会の不平等を是正するために戦った「哲人経済学者」宇沢弘文氏の影響を強く受けているように思う。
スティグリッツ氏は、「アダム・スミスは間違っていた」として「(神の)見えざる手」を批判しており、本書の冒頭からいきなりのこのノーベル経済学賞受賞者の発言のインパクトは大きい。そして、「(神の)見えざる手」が我々に見えないのは、実際にそんなものは存在しないからだと言い切っている。
 但し、安田氏が番組放送後に自身のツィート(2016/5/29)で補足しているように、「スティグリッツ氏には『道徳感情論』について尋ねる(時間的)余裕がありませんでした。「アダム・スミスは間違っていた」とのくだりが強調されていましたが、あくまでその後広まった「見えざる手」や自由放任思想に関するものなので注意。」ということであり、スティグリッツ氏はアダム・スミスを真っ向から否定している訳ではないようだ。
「成長資本主義」こそが問題?
 次に、このインタビューの中で特に異彩を放っていたのが、チェコの経済学者のトーマス・セドラチェク氏である。セドラチェク氏は現在、チェコ最大の商業銀行の一つであるCSOBでマクロ経済担当のチーフストラテジストを務めている。「ドイツ語圏最古の大学」と言われるプラハ・カレル大学在学中の24歳の時に、初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの経済アドバイザーに就任している。
 世界的なベストセラーになった同氏の『善と悪の経済学』に見られるように、彼の主張は、哲学や宗教に関する深い造詣に立脚しており、様々な寓話を用いて現代の経済社会の欠点を浮き彫りにしている点で、実に分かりやすい。
 本書においてセドラチェク氏が特に強調しているのは、資本主義や成長そのものを否定するのではなく(スティグリッツ氏もこの点は同じ)、「成長資本主義」、つまり経済は常に成長していなければならないという強迫観念にこそが問題があるという点である。
 そして、民主主義に立脚した「民主資本主義」の本質的な意義は「資本所有の自由」であり、それさえ守られるのであれば、たとえ経済が成長しなくても、場合によってはマイナス成長でも問題はないと言い切っている。そして、アダムとイブが創造されたエデンの園の逸話を持ち出し、人類の原罪は過剰消費であり、彼らが欲望に負けて空腹でもないのに「禁断の果実」を口にした所から、この問題は始まったとしている。
 最後に登場するスコット・スタンフォード氏は、元ゴールドマン・サックスのバンカーで、ベンチャーキャピタルのシェルパキャピタルの共同創業者である。「テクノロジーの進化は止められないし、止めるべきではない」として、常にイノベーションによる社会の進化を信じている典型的な楽観的アメリカ人である。他方、テクノロジーによって不平等は是正されるかという安田氏の質問に対しては、それはテクノロジーの役割ではないが、社会全体を底上げするのには役立つだろうと答えており、社会的格差に対してそれ程大きな問題意識を持っていないように感じられた。
 こうした安田氏との様々な会話を通じて、私達がよって立つ現代の資本主義社会の本質に本書が何処まで迫れたのか、その答えと責任の半分は読み手である我々の側にあると感じた。つまり、その答えは、我々のこれからの行動に掛かっているのだと。
「おカネとは何か?」を語る3人
 その他にも言及したいポイントは山のようにあるが、最後に、この3人が「おカネとは何か?」という質問にどう答えたかを抜粋して、本書評の締め括りとしたい。
「おカネとは何か?」という質問自体がシンプルであるが故に答えるのが難しく、皆、ストレートには答えていないが、それぞれの考え方の違いがハッキリと現れていて非常に興味深い。
スティグリッツ氏:「「おカネ」と聞いてまず思い浮かぶのは、「カネは諸悪の根源」というアメリカの諺です。学生たちには、おカネは支払いの道具、計算の単位にすぎないと教えています。・・・大切なのは、バランスをとることだと思います。社会をうまく機能させるためには、おカネをモチベーションにしない人たちがいなければなりません。」
セドラチェク氏:「(おカネとは)結局は精神的なものです。おカネは合意書です。おカネは、それ自体としては存在しません。おカネは関係に根差したものです。おカネは人と人との間にしか存在しない。・・・おカネはエネルギーが形になったものでもある。私や私の労働の価値ではない。おカネは私が誰かに送ったり、誰かから送られたりできるエネルギーの形です。」
スタンフォード氏:「何に一番満足を感じるかは人ぞれぞれでしょうね。確かに、おカネはその一つでしょうけど・・・おカネのほかにも、何かあると思いますよ。社会へのインパクトを数値化するような“通貨”があったら面白いと思いませんか? 今やっていることじゃなくて、なんか違うことを始めるモチベーションになるような、おカネではない、何か他の基準を創り出す、クリエイティブな方法があるはずだと思うんです。」
 私自身としては、おカネとは信用を背景とした共通の交換手段であり、時間を超えて全ての事物を同一の物差しの上に並べることのできる、ギリシャ神話にある「触れるもの全てを黄金に変えてしまう」ミダス王のタッチ(接触)のようなものだと思っている。そしてこの万能の交換手段と市場経済が結び付いた時、初めて資本主義が誕生したのだと。
 読者の皆さんもこの問題を安田氏と一緒に考えて、是非とも自分なりの考えを整理して頂きたいと思う。
崩壊が迫る資本主義、今こそ「新ルール」が必要だ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

資本主義は我々にとって20世紀まで想定していたようなものではなくなってきている。
この10年間に経済学者も驚くような想定外の現象が次々と起こり、その間に世界の人々の経済システムに対する信頼が大きく揺らいでしまった・・・と言う問題意識が根底に作られた。
3人の経済学者へのインタビューを踏まえて、資本主義経済の変容に迫ろうと言うものだろう。
①スティグリッツ氏のテーマとした「格差の是正」について。
私はこれこそが新時代の経済学の課題だと言える。「近代」は「近代的人間類型」を前提にした概念なのだ。
そして、現実には「近代」と「前近代」の社会が同時に存在していると言える。「近代」を経験した「社会・国家」といまだ至っていない「社会・国家」群が同時に時間を共有していると言うことです。
「格差」は「近代的国家」=「非近代的国家」との間にあり、また家計においてもあることが問題となる。
企業に格差があるのは否定しない。企業は競い合うものと言う発想が根底にある。
この格差の縮小とか是正を考えるとき、次の問題について考えないといけない。
②アダムスミスの「見えざる手」の批判。
アダムスミスの「見えざる手」の機能は、これは同質的な人間類型を「前提」にしていると言える。つまりアダムスミスはプロテスタントのキリスト者の共同体を「社会」の前提としているのです。なぜかってイギリスを前提にすればイキリス国教会の教えを受けた国民が前提とされるのです。
古プロテスタントの経済行為は《合理的》で《計算可能》なものです。当時のイギリスを前提に書かれた音を思うと、これはアダム・スミス自身もプロテスタント的思考枠にあったと言うべきでしょう。
「近代資本主義」と言うのは合理的・倫理的行為をする経済人による貨幣経済のシステムで、政治的権力が介入することがなく、市場の原理で運営される経済制度であった。その前提は「経済人の同質性」であった。同じ考え方をすると言う前提があったと言える。
ところが、人間は誰しも合理的な行動をとるとは言えず、「欲望」のままに非合理的な経済行為をする人たちも存在していたわけです。ただこの時代はフランクリンの「若い人に与える書」に掛れたような「禁欲的・倫理的な行為」がその宗教的装飾消えて世俗化した格言となって「時は金なり」という言葉になる。
資本主義とは過去も現在も貨幣経済がある限り存続するもので、それ自体が「悪い」わけではない。
但し、「カネ」とは何かを言うとき、多くの宗教が「カネ」を敵視し、「利息」を「悪」とみなし、キリスト教も仏教もイスラム教も世界の大宗教は「カネ」とそれが生み出す「金利」とかを「否定」してきたのです。特に「利益」を出すことにも否定的でした。中世のキリスト教も、商人の宗教であるイスラム教も「金儲け」に強いプレツシャーをかけてきました。儒教だけは道徳的判断をしていない。ただ軽んじているだけだ。日本でも商人は階級的に最下位に置かれて、武士と商人が結びつくことを嫌った。それは「カネ」がいかなるものであるかがわかっているからで、武士が金で「腐敗」することを禁じたのだ。
イスラム教やヒンズー教では「喜捨」という行為が、利益を得たものに課せられる務めとされた。
いずれにせよ「貨幣経済の発展」に伴って、「カネ」を中心にした社会が出来上がる。「カネ」と言うのは人間が発明した偉大なものでしょう。中国では古くから銅銭が作られて貨幣経済がいち早く普及した文明だと言える。日本は銅銭を輸入しているから、日本も奈良時代から貨幣経済が発達していったと言える。
封建制度と言うのは、土地から上がる産物(米)を基本にしているが、それを金に換えなければならない社会が作られてくる。つまり、手工業や商業の発達で、カネによる「交換」が必要とされたわけです。
確かに古代から「カネ」は支払いの道具であり、価値を表すものであった。古代から人の生活が高度化するにつれて分業が発達し、それにつれて貨幣が必要とされた。
「カネ」はあくまでも人間の暮らしを変えていくための《道具》だった。それが前近代までの「カネ」の在り方だった。「資本主義」は当然ながらこの時から起こっている。カネを支配したのは「国家」を代表する「皇帝」や「王」などの権力者が握る。「国家資本主義」と言うのは古代エジプトから古代シナ帝国、その他の王国に起きた。
歴史の流れの中で、人間は「カネ」について道徳的判断とっして「悪」としていた。それ故に「諸悪の根源」と言われていたわけだ。
だが宗教改革が、悪とされていた「カネ」の役割をまったく変えてっしまう。つまり「禁欲」的生活と、神に奉仕する「倫理的な生活態度」が借りたものに利息を付けてきちんと返すことを生み出した。利息も正当な合理的なものとされた。ここに「信用」と言うものが生まれ、「アイディア」をお金に換えるビジネスが生まれる素地を作り出した。株式会社はインド会社から始まって、あらゆる事業の開発に広がっていく。ここから「金融」と言う「カネ」が「カネ」を増殖させる仕組みが生まれてくるわけだ。
「近代」と言うのは経済史的に見れば、「カネ」の自己増殖的法則を古い宗教的拘束から解き放って「自由」にしたのだ。そしてその「カネ」の管理を「近代人」にゆだねたのだ。つまり「近代人」とは何かと言う問題になるけれど、それは「カネ」の自己増殖の法則を倫理的にコントロールできる「人」であり、「神の世界をこの世に実現する」と言う高い理念を持って、「自分を律することのできる」市民たちだった。
市民社会と言うのは、一人一人の「人権」を生み出して「近代民主主義」を実現させた時代文明であり、反面、「カネ」の自立を許した時代となった。それと他方で旧弊の「カネ」を「悪者視」する価値観を変えたのだ。さらに「株式」と言う資本の独占を一般庶民(=市民)に『解放』する時代ともなった。
そして21世紀に入って、「カネ」の自立性=自己増殖運動を人間がコントロールできなくなって、我々の暮らしや生き方を改善するための《道具》で在ったものが、いつの間にか《主人》になって、我々の心を支配するようになったのだ。つまり「欲望」=カネになったし、カネ=幸福と言う図式に替えられたのだ。人間はカネの奴隷になった。
カネを独占するものが世界を支配する。そういう世界を《近代》が作り出したのだ。世界のすべての人々が「近代人」であり得たら、「カネ」を《道具》にしておくことができたか?2001年宇宙旅の「ハル」のように人間にはむかっているのが今の「カネ」なのだ。「カネ」が「神」になってしまった。その「カネ」をもとの位置に戻すことができるのだろうか?
何故「カネ」を神様にしてしまったのかと問えば、それは、<「成長資本主義」、つまり経済は常に成長していなければならないという強迫観念>と言えるだろう。成長が「善」であると言う考え方は「近代」のものだ。
《近代》と言う時代が生み出したものを考えた時に、評価され、これからもひきついでいかなければならない「価値」と、変えていかなければならない「価値」とがある。
第一の価値観として、「神の前に人間は平等である」と言う思想。このときにはユダヤ教的な選民思想は「歴史上のもの」にされないといけないだろう。
20世紀は《自由》と言う価値が第一の求められた。そして自由競争の結果、「カネ」と同時に人間の「欲望」が無制約に解放されてしまう。最初は亜厳しい制約のもとに始まったものが、宗教的な心理的緊張感を失って世俗化されることによって、カネも欲望も無制約に解き放たれてしまった。これは「近代社会」のアメリカに金融危機として現れたことが問題なのだ。
前近代のチャイナにあっては昔も今も変わらない「カネ」と「欲望」は拘束されたことが一度もない。そういう意味において」「近代社会のチャイナ化」が21世紀の恐怖なのだ。アメリカは今の事態をどこまで理解しているかは疑問なのだ。アメリカがチャイナ化したら、《近代》の遺産は失われていくだろう。
歴史は《自由》を勝ち取ってつぎに《平等》の実現へと向かう過程にあるのだけれど、ここでアメリカと欧州がチャイナ化したり、イスラム化していけば、ウェーバーが絵が開いた普遍的な価値観による合理化と「呪術からの解放」は達成されずに終わるだろう。
私は現代の世界を、チャイナに代表される「古代文化的価値観」がガラスでできたような壊れやすい『近代文化』を破壊しようとしている時代とみている。チャイナに対抗するためにアメリカも「近代的価値観」を放棄していくかもしれない。そうなればもはや世界は古代世界と変わらない。
我々は、この近代の没落から、何を救いだし、何をイノベーションすべきなのか。それを考えないといけないし、
チャイナの何を恐れるべきか、をみなければならないのだ。

経済制度としての資本主義は「万能の交換手段と市場経済が結び付いた時、初めて資本主義が誕生した」と言われるように貨幣経済と不可欠であり、また「市場」とお不可欠なのだ。その装置は「人間」が利用して意味をもつ。つまり人間にしか意味のないものでもある。猿には無縁の道具だ。

となると、私の言う「古代的文化価値観」とそれが襲う「近代的文化価値観」とは何が違うのかと言うことになる。
先月のブログで書いているけれど、孔子の思想を基にした儒教・儒学が古代の価値観の集大成であり、そこから新たなものをチャイナは生み出していないと言うことを指摘している。
2017年07月28日 皇帝・習近平の野望とは?中華思想が甦る中国
2017年07月29日 中国検閲はなぜクマのプーさんを禁止したのか
2017年07月30日 中華思想自体が「自分より優位な外部を持たない世界観」By …

中国はルネサンスのイタリアのような黄金時代を現在作り出してはいるけれど、ルネサンス以降のイアタリアは没落してしまう。産業化も遅れた。
チャイナとインドを、16世紀のイタリアと北欧と比較することができるかもしれない。
イアタリアはカソリックで古い伝統的価値観を持ち続けた。北欧はプロテスタントの宗教改革が起こって「精神革命」が起きた。それは「キリスト教原理主義」の運動となった。その運動を引き起した人々の思ったものとは違う社会を結果として作り出した。
カソリックもその後自己改革を進めて今に至る。
さて、中国とインドはイタリアとフランスにアルプスがあったように、大きなヒマラヤで分けられている。チャイナとイタリアの共通点は「世俗的」あることです。カソリックは世俗化されていた。チャイナは最初から「世俗的」であった。北欧は宗教改革で神の社会の実現のために「生活態度」を市民階級が変えたのだ。
インドはその土台に「宗教心」を持っていて、「敬虔さ」と「禁欲的な生活態度」「倫理的価値観」を持っている。だけど産業革命は引き起こせなかった。それは全く日本と同じなのだ。
インドと日本の類似性と相違性を言えば、気候風土と人口の多さであり、伝統習慣の相違だろう。日本もかつてはインドのように貧しかった。だが地政学的な幸運が現在をもたらしている。
インド人の精神性は、変える必要はない。変えなければならないのは外装だ。チャイナは精神性は変えないで外装を大急ぎで変えて「近代化したように見せる」ことに集中した。
日本は明治維新以降、「精神性」は変わらなかった。日本の八百万の神に、キリストと仏陀が加わったにすぎない。ヒンズー教も同様なところがある。インドと日本の大きな相違は、日本が独立国を保ったのと、インドはイギリスの長く植民地出会ったことだ。この明治維新から戦後の独立までの150年と言う時間が日本とインドを変えた要因だ。イギリスの殖民地政策がインドの発展を妨げたと言っていい。インドに投資をしたのは鉄道とかのインフレであったが教育には投資しなかった。
その150年間の教育の投資の差が、日本とインドの差になったといっていい。

近代後の社会のテーマの1つは、《格差の縮小》であり、《平等》の実現にあると言える。
2つは地球と言う我々の棲む星の維持である。もし、世界の人口が90億人いて、みんなが日本と同じ生活を矣ちなむとすると、地球が2個必要だと言う事を読んだ。つまり地球の資源は限られている。それをどのように配分してより良い暮らしを維持するかと言うことが課題になるだろう。つまり、資源の効率の良い《配分》が課題になる。
この2つのテーマを考えた時には、近代の「成長至上主義」がすべてと言う発想では成り立たなくなる。スティグリッツの言う<民主主義に立脚した「民主資本主義」の本質的な意義は「資本所有の自由」であり、それさえ守られるのであれば、たとえ経済が成長しなくても、場合によってはマイナス成長でも問題はないという発想にたどり着く。
実際の先進国や資源国の高度成長は終っており、むしろチャイナの6%の成長率が不自然なのだ。
21世紀になって、「西欧における《近代》の終焉」が明確になっている。そしてアジアや後発国が「近代化」の途上にあるが、《近代文明》を自前のものにできるかは未知数だ。
はっきり言ってチャイナ的な古代的文明のままでいる方が「安易」でいいのだ。「心理的な緊張感」を強いられる生き方は後発国には厳しいだろう。だけど、古い価値観のままでは、《近代文明》の遺産を引き継ぐことは難しい。どこかで「精神革命」を起こさないと、心理的に安易な方向に流される。
《心理的な緊張感》を失うと、安易な方に傾いて、「欲望」に身をゆだねるようになる。
(つづく)
2017-08-13 22:30:01(アメーバーブログ)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。