はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

屋久島 宮之浦岳

2019年10月14日 | 日本百名山紀行
山道を辿れば 第一部 FAC時代

19 屋久島・宮之浦岳  1970年11月05日~11月07日
<日本百名山 初めの一歩>
1970 11.5(金) 安房・安房観光ホテル 9:00 小杉谷荘 15:00 11.6(土) 小杉谷荘 4:30 ウィルソン株 6:00 大杉谷 7:00 縄文杉 7:50 高塚尾根鞍部 8:00-8:30 上の小屋跡 9:00 門の岩 10:00-10:15 平石 11:00 縦走路との交差点 11:40 宮の浦岳 12:10-12:40 翁岳鞍部 13:10 投石 14:10 黒味わかれ 14:30 花之江河 14:45-15:15 10キロ峠 15:15 鹿待ちの休み場 16:05 軌道終点(旧石塚歩道) 16:50 小杉谷荘 18:35 11.7(日) 小杉谷荘8:00安房安房観光ホテル14:00
[hagure1945] -- 屋久島・宮之浦岳(山登り新婚旅行の記)1998、9、13記 宮ノ浦岳は九州地方で一番高い山である。そして利尻岳と同様に島の山ではあるが、利尻のようにはでさがない。見えないのだ。だからこの山を詠んだ歌はまだ目にしたことがない。残念なことなのだが、いたしかたない。いずれ鹿児島の現地の人が詠んでいるであろうと思われる歌を探したい。これもまた新たな楽しみになる。
十七歳で山を始めた。高校三年生の時であった。FACという社会人の山岳会に入会した。昭和三十七年である。三十九年に深田久弥の「日本百名山」の初版本が出た。その本は山を登る者にとってくまなく日本の有名な山を知るのによい入門書であった。その本で屋久島の宮ノ浦岳が九州で一番高く、冬には雪をつける山であることを知った。北海道の利尻岳と並んで、山岳島の高山として憧れるものがあった。大学在学中は常に貧乏であって、山行きもままならぬものがあった。 山にも少し遠ざかりかけていた二十五歳のとき、結婚することになり、その新婚旅行に思いきって念願の屋久島行きを決めた。妻となる裕子とは、結婚前に一度上越国境の蓬峠をハイキングしたことがあっただけで、本格的な山にはいったことがなかった。それを無理やり私の計画に加担させてしまった。
 新婚旅行といっても変な旅行で、長崎の大村市に住む父の親友である一ノ瀬家に一泊世話になったり、後は国民宿舎を利用したり、山小屋泊の旅行である。世間一般の旅行とはかなりかけ離れていた。若いときというものは勝手なもので、世間一般と同じことをするなどということは敢えて拒否していた。もっとも予算がなかったこともあるが。
10.31(日)結婚式 東京発(あさかぜ1号)
11.1(月)博多~太宰府~西海橋(西海橋国民宿舎)
11.2(火)西海橋~大村(一ノ瀬宅)
11.3(水)大村~長崎~雲仙~鳥栖~(かいもん3号)
11.4(木)鹿児島~種子島 屋久島(宮の浦~安房) 
山へ行く荷物はザックと衣服を小荷物にして鹿児島駅までチッキで送り、当日、鹿児島駅で、身仕度をして屋久島へ飛行機で向かうことにした。前日鳥栖の駅から夜行急行のグリーン車に乗って、朝鹿児島に着く。車両のなかには新婚のカップと思われる服装の男女が何組もいて、駅に到着する案内にあわせて車掌が、駅前の悪質なタクシーの客引きにあわないよう注意していた。それも一組ごとに、なのに我々二人は新婚旅行とは見られずに、車掌は素通りしてしまつた。妙に残念な気がした。ういういしさがなかったのだろうか。
   西鹿児島へ
    誰からも新婚旅行と見なされず逃避行する若い二人か  
 早暁の終着駅に桜島茜の空にけむりたなびく
鹿児島空港は街の外れにあり、小さい空港であった。そこから東亜航空のYS-11で種子島 まで行き、そこで十六人乗りの飛行機に乗り換えて屋久島に着いた。曇り空ではあったが、どこか南国の雰囲気があり、暖かい。空港からバスで安房へ。今日の宿、安房観光ホテルへ。安房川のほとりにある小柄のホテルであった。その夜の魚料理、蟹の大きいのがでてきて感動ものだった。新鮮で美味い。
       機上より
    海上に山また山の島を見るその高山を覆う雲あり
    名にしおう屋久島という嶽の島目前にして恐れいる

11.5(金) 安房・安房観光ホテル 9:00 小杉谷荘 15:00
十一月五日、ゆっくり食事をとって、午前9時、小杉谷にむかって、軌道歩きの一日がはじまった。帰りにも世話になることをホテルの人に頼んでおいたので気をつけていってらっしゃいと、送られた。 今回の山旅のためにザックや靴も裕子のために新調した。小屋での自炊のための道具や食料も東京で揃えた。 小杉谷荘へは十六キロの道程である。軌道はあるきづらい。いくつかの鉄橋を渡り歩き、途中通過する営林署の森林軌道車を横目でみながら、ひたすらてくてくと歩く。
      小杉谷
    屋久島の島奥深く分け入れる森林軌道の黒いレールは
    山深く集落なせる人々の生活支える細い軌道は

 山深い島の森林に依存する生活が目の前に展開している。その雰囲気にしたりながらひたすら歩く。弁当はホテルでおにぎりをつくってもらった。 どこで食べたかは記憶にない。もうはるか昔のことだ。ゆっくり歩いて、午後二時ごろが、小杉谷に着いた。ここは営林署関係の仕事の集落で、学校もあり大きい。住民はみんなトロッコを利用しているようだ。
からは小杉谷荘までわずかだ。多分三時頃だと思うが、煙突から煙りのでている軌道の脇に建つ木造の一軒家に到着する。 小屋の前の軌道の脇に三代杉が立っている。 小屋番の小母さんがいた。いつもは旦那と二人で番をしているのだそうだが、町に用事があって一人だという。
 入口は土間で奥が板張りと畳敷きの広い一間になっていた。裕子は早めに寝てしまった。翌朝は暗いうちから出発しなければならない。夜の深まりは早い。
十一月六日。午前四時起床。食事の支度をしていると、小屋番の小母さんがやってきて、昨晩は気がつかなかったが中年の女性がいて、その人を同行してやって欲しいとたのまれた。見れば山のスタイルではなく、ジャケットにズボン。靴はズックである。歳は四十過ぎだと思う。ともかく本人は高千穂山にも登ったからだいじょうぶだという。持ち物はハンドバックである。水筒はもっていた。断わるわけにもいかず、小母さんも頼むというので、夜も明けないうちにランプをつけて出発する。大杉谷の入口まで歩いたところで、その女性が忘れ物をしたというので、小屋にとって帰る。もどってくるまで待つ。なんということか。二人の記念の山旅にとんだおまけがついたものだ。
 三十分以上時間をロスして、ウイルソン株に到着する。この株は根回り32.5メートル切り口の直径は13メートル、洞底は約十畳、樹齢は推定 三千年だという。なかに入ってみると、ほんとに広い。この杉をどうやって切り・したのだろうか。 株を見物してからまた高塚尾根への道に入る。ここで軌道と離れる。急な山道を登り、一時間ほどで大王杉、根回り41メートルもあるという。さらに途中夫婦杉、小一時間ほどで縄文杉に出会う。これも巨大だ。千年の樹齢だという。屋久杉は三百年以上の杉をいい、それ以下は小杉という。いま歩いているコースは大杉谷ということで、このような大きな杉が多い。

     縄文の神代に芽吹いた杉の霊凜として四方の森を治める

杉の樹木に目をうばわれながら高塚尾根鞍部に着く。ここは宮ノ浦の集落からの道が合流する。ここからは尾根通しの道になる。朝九時頃であったが、天気はどんよりとしている。確かに屋久島は八重岳の島である。黒味岳、永田岳、そしてめざす宮ノ浦岳が黒々と見える。門の岩をすぎ、縦走路との交差点までくる。昼時となった。
 永田岳への分岐で、永田から登って来たという二人づれに出会った。聞いてみるとこの人たちも新婚旅行で登山にきたという。私たちだけではなかったようだ、変わり者は。永田岳は岩の山のようで、めざす宮之浦岳は大らかな感じである。時間がないので永田岳には寄らないことにした。宮之浦岳の山頂で食事をとる。多分このときの昼飯は小屋でおにぎりをこしらえてもらったのではなかったかと思う。中年女性も一緒だったから。彼女は足の方は確かで、裕子より達者であった。あまり言葉を交わすことはなかった。深く立ち入ることはしなかった。念願の屋久島の最高峰にたどりついた感激はあった。しかし海が見えない。島の山に登って海が見えないということは、いかにこの山が深いかということだ。そして山頂は森林限界に達していないにもかかわらず、樹木はなく、笹原であり、アルプスの高山の様子をもっていた。そして見渡すかぎり山が重なっているのである。
      宮ノ浦岳にて
    海よりは見ることのない宮ノ浦岳雲いにありてまじかくに見る
    宮ノ浦岳山頂のその草原に寝転べはついに来た念願の山に
    新妻と南の嶽なる峰踏みて淡いひかりにつつまれている
    新妻の微笑みににて穏やかな草つきの峰宮ノ浦岳は

宮之浦岳から花之江河へ向かう。花之江河は美しい庭園のような場所であるということで楽しみにしていた。山頂からはなだらかな道で、展望もあり楽しい散歩となったが、黒味岳も登らずに花之江河に至る。ここに至る道で稜線には結構大きな巨石がころがっているので奇っ怪な感じがする。花之江河で小休止する。
   花之江河草枯れていて水もなく夏の盛りのいきおいもなし
 持参のみかんが一つあり、半分を中年女性にあげた。この花之江河には屋久杉の立ち枯れが池のマッチした景観をつくりだしていることになっているのだが、時節がら池に水がなく、期待したような景色ではなかった。時間も午後三時をまわっているので、小杉谷に急ぐことにする。大分冷えてきて手がつめたい。 (花之江からは旧石塚歩道と呼ばれている道を歩いて小杉谷山荘に戻る)

    南の島とはいえど屋久島は真冬に深く雪積む嶽ぞ

下山の途中で軍手の片方をその女性に使うようにあげた。片手は・ケットに入れながら歩く。日没は遅いとはいっても、山の中であり、下山路は展望も効かない。ひたすら下る。途中天皇杉という直径二メートルもある杉に出会う。軌道の終点に着く。ここから軌道の上を歩いたり、登山道でカットしたりして下る。かの女性は先をとことこと行く。私たちは少し距離をおいて歩いた。軌道をカットして登山道を下るとまた平坦な軌道に出会う。左右どちらが小杉谷への道が迷うところがあった。勾配をよくみて右へ軌道の上を歩くことにした。ここからが長かった。すっかり周囲も暗くなり、急いでいるわりにはあの女性にも出会わないのでおかしいと裕子と話しながらランプを灯して歩く。正直気があせる。

   暮れてゆく山道暗く雲もでてただひたすらに歩を早めゆく
   わが妻と呼ぶ女に疲労みえ気は焦るまま闇の山道
    闇のなか吊橋渡ればぽっつりと小屋の灯りともれる

遠くに小屋の灯りがぽつんと見えたときにはほっとした。大きなつり橋を渡ると、小屋は近かった。六時をとっぷりまわった頃小屋に着いたのだ。小屋番の小母さんに、中年女性は戻っているかと尋ねたが、帰っていないという。どこで見失ったのかわからないが、多分軌道の道を左に行ったに違いないと思った。裕子も私もくたくたになってしまって、裕子は疲労のため食事もとらないで寝てしまった。小屋番のおばさんはとうちゃんが町に行ってもどってこないから手のほどこしようもない、多分明日になればわかるからとたいして気にもとめていない。こちらは少し気がかりではあったが、疲労には勝てない。その晩はぐっすり寝てしまった。
私たちも新婚旅行にとんでもない出来事が起きたらと心配をした。生きていてくれれば喜劇になっていい想い出になるのだが。

11.7(日) 小杉谷荘8:00安房安房観光ホテル14:00
 明けて七日、朝食をすませ、小母さんにどうかと聞くと、まだもどってないという。どちらにしても私たちは今日の予定があるので安房に下ることにした。また長い軌道歩きである。小杉谷の営林署の集落はかなり大きいもので、雑貨屋や飲み屋などもある。子供たちが遊んでいた。この軌道はここで暮らす人たちには重要な交通手段で、町に出るときには乗車していくようだが、一般の人は乗せてはならないことになっているのだ。山間の生活を覗き見するような思いで軌道の上を歩いた。何年か前にFACのメンバーと南アルプスの縦走をして、聖岳から下山のおりに長い営林署の軌道をいたが、山で暮らす人たちの生活は同じように大変だと思う。
後からゴトゴトと音がした。軌道のトロッコ列車がやってくるのだ。私たちは山側に身を寄せて森林鉄道のトロッコ列車が過ぎるのを待つ。小さなジーゼルカーが先頭に、後には伐採して長さを揃えた太い大きな杉の木を何本も積んだトロッコが続く。山師がその上にまたがっている。乗せていってほしいと思うけれど決まりだから見送るしかない。窮屈そうに細い線路と急なカーブを悲鳴に似たような音を時々出して下って行く。十一月とはいえ下ってくると暖かい。周りのの木々も広葉樹で青々している。秋の気配を感じることがない。汗を滲ませながら来た道をひたすら歩くだけだ。しかし頭を過ぎるのはあのおばさんのことで、無事帰れたのだろうかと気をもんでいた。
裕子は私の後について歩いている。時々振り返りながら裕子の様子を見る。まだ夫婦という実感はない。この人とどんな人生が待っているのか予測もつかないが、この旅から二人の生活が始まるのだと思いながら歩きずらい軌道の道を歩いた。
雨もふらず良い天気にめぐまれてよかった。再び歩きにくい軌道の上を歩いて、午後三時ころ安房のホテルに着いた。かくして憧れの宮之浦岳への登山は終わった。再び安房観光ホテルに一泊する。
「こんにちは。帰りました。またお願いします」
「お帰りなさい。山はどうでしたか」
「天気もよくてよかったです」
「部屋で少し休むといいでしょう」 と言って宿の女将さんは我々を迎えてくれた。
宿で過ごすには時間があるので、安房の野天風呂に行くことにした。町はずれにあるようなので歩いて出かける。散歩もかねて。共同風呂はすぐにわかった。木造のこじんまりした建物だった。覗いてみると誰もいない。昼下がりの時間だからまだ風呂の時間には早いだろう。ただ湯船は一つで男女混浴だ。
「入っちゃおよ」
「うん」
二人裸になって湯につかる。夫婦だから恥ずかしがることはないが、妻となった若い女の体を見るのに照れた。湯は気持ちのよい温度で疲れが抜けていくようであった。少しして、ガラっと音がした。誰か来た見たいだ。
「あっ、まずいなー」と思った。 まもなく湯船に男性が一人入って来たようだ。挨拶することもないが男性が湯船につかっているときに裕子は上がっていった。
「いいお湯ですね、町の人はいつでも入れるんですか」などと話をして男性の目をそらせる。私も風呂からでて宿へもどった。
「私、どうしようこまったわ、と思ったの」と裕子。
「むこうの男の人も戸惑ってみたいだね」
共同湯の少し戸惑った経験を残して安房の宿でぐっすりと寝込んで登山の疲れをとった。 11.8 (月) 安房安房観光ホテル~パイナップル農園やガジュマルの樹など島内を見学。宮ノ浦(国民宿舎)
翌日は尾之間のパイナップル農園に行き、それからバスで宮之浦まで行って灯台やガシュマルの樹を見て国民宿舎に一泊する予定で行動する。ゆっくりと安房を出て、バスでパイナップル農園に行く。この島の気候を利用した産業である。農園ではパイナップルが試食できる。農園と加工場などを一通り見終わって広場で休む。
道端を歩いていると、バスがやってきた。見ると窓から体を乗り出して手を振っている女性がいた。
「裕子、あのおばさんだよ」
「ほんとだ」
私たちの前をバスが通り過ぎていった。再び農園の施設へもどると、そこにあの女性がいた。
「いやー、よかった、心配してたんですよ」
「いや、どうもどうもありがとうございました。」
「どこに消えてしまったのかと心配したんですよ。先に歩いていったでしょ。軌道に出会った所で右か左か迷ったところがあったのですが。」
「そこを左に行ってしまって、わからずにどこまでもそのまま行ったんですよ。そうしたら営林署の小屋がでてきて、周りは暗くなるし、小屋に入ろうと思ったら、全部釘で打ち付けられていて入れないの…」
「それで」
「いやー、あなたがかしてくれた軍手、助かりましたありがとうございました」
「なぜです」
「人もいないし、心細くなるでしょう、どうしようと思っていたらトタンが一枚転がっていたので、そのトタンを巻いて夜の寒さを防いだの。そのときにその軍手をはめた手でトタンを押さえていたんです。だから軍手がなかったら凍えてました。ほんとお蔭様でありがとうございました」 彼女は「おかげ様で」と何度くりかえした。
「無事でなによりだ」と裕子も私も安心した。 かくして、新婚旅行登山の消えたおばさん事件は無事解決したのだ。私たちは再び安房にもどり、そこから再びバスで上屋久町の宮之浦町まで移動した。旅館やホテルは高いから国民宿舎で一泊。
国民宿舎の夕食は広い部屋でテーブルが並んだ役所の食堂みたいなものだ。私たちの隣に中年の男性が二人並んで食事になった。多くの客がいるわけではないが、ともかく裕子と二人で食事を取り始める。隣の二人の会話が、聴くとはなしに聞いていると、かいもく見当がつかない会話なのだ。箸ををとめてキョトンとしている私に気づいたのか、一人の男性が声をかけてきた。
「私たちの話わからないでしょう」と標準語で語りかけてきた。
「はい」
「どこから来られたの」
「東京です」
「鹿児島弁はわからないよね」
「はい、まったく外国語みたいで…」
「ははは…、そうだよね」 それを縁に少し言葉を交わしたが、二人は県庁の役人ということで、屋久島に出張とのこと。私たちは新婚旅行で屋久島の山に登ったことなどを話した。 「ともかく鹿児島弁がわかるわけないよね」 と二人は焼酎を飲みながら愉快そうに話した。 東北の訛りもききずらいけれど、これだけ完璧な鹿児島弁だとまったくの外国語扱いしてもよいくらいのものに感じた。標準語がなければ日本は言語的に統一されなかったかもしれない。お国ことばとはこういうものなのだ。
11.9 (火) 宮之浦国民宿舎 屋久島飛行場16:20TWA5 鹿児島空港17:00鹿児島19:40特急「あかつき2号」
いよいよ島を去る日が来たが、飛行機にのるまでの時間、宮之浦の灯台やガジュマルの樹を見にでかけた。 屋久島灯台で写真を撮ったが裕子は元気のない顔をしている。海辺で近くにいた人に二人の写真を撮ってもらった。この日は海も静かであった。ガジュマルの樹というのは屋久島や南方の島にあるもので樹の根が上から這ってくるものでとても大木だし珍しいものだ。そこで島のおばあさんと出会って親しくなった。二人が新婚旅行で屋久島に来たと言ったら、なぜかとても喜んでくれて家にいらっしゃいということになった。
私たちはちょうど昼時であったのだろうか、ともかく親切にされて、浜辺に近いおばあさんの家の縁側に座ってお茶を呼ばれ、さらに朝取れたサバを裂いて刺身にして出してくれた。遠慮してもいけないと思って、口に運んだが、新鮮なものは味が違う。ともかく美味しかったので出された一皿分を食べてしまった。おばあさんはとても喜んでくれた。
サバをご馳走になって食い逃げではないが、空港への時間もあるのでお暇することにした。なんだか去りがたかったけれど止むをえない。何度も振り向きながら頭をさげた。 宮之浦からバスで、三時ごろ小さな屋久島空港に到着。鹿児島行きの便を待つ。午後4時20分の便で40分のフライトで鹿児島空港へ。 
鹿児島空港からタクシーで駅に向かい、大阪行きの夜行寝台特急「あかつき」に乗車。 11.10(水)新大阪10:44着11:05発ひかり 東京14:15着
東京にたどり着いた時、父と裕子の妹の佐和子さんが迎えにきてくれた。ポケットには硬貨が何枚かあっただけで、本当に有り金をすべて使い果たして帰ってきたのである。

 宮ノ浦岳に味わう苦労しみついた二人の生活(たつき)幕開きである
 
かくして、新婚旅行の宮之浦岳登山は終了し、私の登山もその後二十年近く中断されることになった。この山は、裕子と登る最初で最後の山となるはずだったが、きしくも夫婦で登る百名山の初めの山に位置すること




20 1974年08月11日(日帰り)
乗鞍岳(百名山-2)
畳平バスターミナル 10:00 山頂1150~12:00 畳平13:25(正確ではない) 
[hagure1945] -- 乗鞍岳(百名山-2) 1974年の8月長女がまだ2歳の夏、松本に宿泊して、11日の朝早く松本をでて、乗鞍へ行く。島々で乗り換えた。詳細な記録はない。 畳平までは晴れ、上はガスに巻かれていたが、妻と長女をつれて乗鞍山頂まで登った。妻は二人目を宿していたが元気だった。当時8ミリ映写機で撮影したフィルムが残っていた。とても肌寒むかった。お宮の前で、娘が他の大人たちにはやされていた。
鈴蘭高原の宿に泊まり、翌日上高地に遊んで、松本から帰った。
学生時代にすずらん高原でゼミ合宿をしたが、登っていない。 その後1986年娘二人と妻で自家用車で畳平まで行ったが登らず。それ以来乗鞍には縁がない。



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