はぐれの雑記帳

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精神革命論(4)日本人の宗教を外国人が分析すると・・・

2020年03月20日 | 思想史関係
精神革命論(4)日本人の宗教を外国人が分析すると・・・

「日本人の宗教観」について、この記事は私が思う中では一番よく理解しているのではないかと思う。
これはまた日本人が自分たちの宗教心を考える点でも役立つ面白いと同時に適切な解釈だと思います。どうか読んでみてください。
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日本人の宗教観、海外と違うけど変じゃない?米メディアが探る日本人の心根
Sep 22 2015  Newsphere
http://newsphere.jp/national/20150922-1/
 お正月には神社に参り、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、お葬式には仏教に則る。こういった、生活のなかにいくつもの宗教が混在する日本人の宗教観を、ユダヤ−キリスト教の一神教を基調とする欧米人は理解し難いと感じているようだ。その背景にあるものを、いくつかのアメリカメディアが探っている。
◆宗教が生活の一部として存在している日本
 クリスチャン・サイエンス・モニター紙(CSM)は、宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事を掲載した。同紙は、世界の宗教に関するニュースを幅広く取り上げている。
 CSMはまず、調査会社WIN/Gallup Internationalが発表した信仰心に関する調査結果を引用し、日本は62%もの人が信仰はないとしているにもかかわらず、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を説明する。つまり、ある参拝者が述べるように「神社にお参りするのは、宗教を信じているのとは別」であり、「宗教が生活の慣習の一部として存在しており、聖と俗が分かちがたい状況にある」ということだ。

*日本人にとって特定の宗教団体に所属しない限り、自らは「信仰する神を持たない」と考えるだろう。海外では、入国に際して提出するペーパーに宗教を書く欄がある。最近は”SHINTO”と書いている。
外国にあっては、「宗教」と言うのは生まれた時から決まっているようなもの。日本では「宗教」と言うのはどっかの信仰グループに所属することのように考えている。つまりキリスト教のように「信仰告白」をする、または新興宗教教団に属するとかにおいて「宗教をする」と考える。そしてそういう行動=信仰=「宗教をもつ」と思われているところがある。
だが、多くの人は、家に仏壇や神棚があっても「宗教をしている」とは思っていない。
>宗教が生活の慣習の一部として存在しており、聖と俗が分かちがたい状況にある
という指摘は正解なのだ。言い換えれば「無意識に宗教的行動」をとることに不自然さを感じない。

 その理由の1つとして、CSMは日本人の神社へのお参りが現世利益主義的な側面が強いことを指摘する。明治神宮に飾られた絵馬には、さまざまな願いごとが書かれている。病気治癒や職場での昇進に、嵐のコンサートのチケットまで。宗教は、個人の信仰としてあるわけではなく、絵馬に書かれたように「願いごとがすべて叶いますように」と祈るためにある、というわけだ。
 またCSMは、2013年の伊勢神宮の式年遷宮の年には過去最高の1400万人もの人を集めたことに注目する。その理由として、特に若い世代での参詣者の増加について、将来への不安が背景にあるのではと推測する。伊勢神宮の神宮司庁広報課員の音羽悟氏は、20年もの不況で多くの人が目的を失い、将来について不安に感じているため「スピリチュアルな癒やし」を求めている、と同紙に述べている。

*神社について言えば、それぞれの神様が、それぞれの願い事をかなえるのに役割分担がある。
天照大御神を祀る伊勢神宮系の神社では「生命」(健康・長寿)と言う大本しか祈ってはいけないと言われており、その他の世俗的な願い事はその他の神様にお願いすることと言われている。
仏教が、葬儀仏教と言われるように、人間の「死」を扱うのは仏教の役割になっているのは、「墓」との関係で形成されているが、これは儒教と結びついた中国の《仏教》が日本に持ち込まれた結果なのだ。インドの仏教は「墓」はない。そもそも「祖霊崇拝」がない。それは儒教の宗教だから。
祖霊崇拝の儒教と妥協したインド伝来の仏教が日本に移入されて、死の世界と《救済》の役目を持った。阿弥陀仏信仰は、キリスト教と似た構造をもつ。
《魂の救済》を法華経に求めて『念仏』を唱えるだけで救われると言う教えは、日本人の体内に「溶け込んでいる」と言っていい。浄土真宗であれ、日蓮宗であれ、その他の宗派であれ「祈る行為」において《救済》と結びつく。また禅宗の禅の修行などにおいて>スピリチュアルな癒やしを求める行為も宗教的と考えられているけど、信仰と言う意識は薄いと思う。《修行》と言う行為自体に意味を見出しているのが日本の特徴だと言える。インドにヨガの修行に行くのと同じ発想だ。
「神の存在を信じる」こととは別に、「お祈り」することと、「修業的訓練」をすることなどの一つ一つの行為が、
>スピリチュアルな癒し、につながっている。日本人にとって「神の実相」などには関心がない。
《宗教的行為》そのものに意味があって、その行為をとることで「癒し」を得るのだ。
西欧や中東の様に、宗教の深刻さはないのだ。

◆八百万の神でもってして異国の神を受け入れる
 米公共ラジオ放送(PRI)は、日本の土着の信仰である、八百万の神を祀る「神道」に日本人の宗教観の背景を見出している。PRIに詳細を語っているのは、東京都の渋谷に位置する金王八幡宮の田所克敏宮司。彼の言によれば、「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう2つ加わった、というだけのこと」。田所氏はさらに、こういった日本人の受容性の高さを、天ぷらを使って説明する。もともと天ぷらはポルトガルから伝えられたものだが、日本人は受け入れ、文化の一部としている。
 田所宮司はさらに、次のように述べる。「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」。つまり、「この儀式(冠婚葬祭)はどう執り行うのか」が重要であるため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教の教会で挙げながら、問われれば即座に「仏教徒」と答える状況になっている、とPRIは論ずる。

*金王八幡宮の田所克敏宮司さんの話は分かりやすいね。
>宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」
この指摘は当たっていると思う。宗教の違いはその儀式の相違であって、ここから日本人の本質が見て取れる。
つまり、「神」と言う存在は「一つ」であり、つまり、「神」は「神」なのだと言うとらえ方が背景にある。だからどのような名前の神様だろうが、日本人にとっては問題ではないのだ。
インドで体験したことだが、ダージリンの町で親子に案内された小さな寺院には、イエスや仏陀や、アラーやマリ様からヒンズーの神までが祀られていて、インド人のお父さんが、「神様は一人なんだよ」と言った。
私たち日本人にはお父さんの説明には納得してしまう。だが世界では、イエスとヤファベとアッラーと競い合っていることなどその神様を区別して争う。

◆荒ぶる神を受け入れ、内面の糧とする日本人
 しかし、この高い受容性が別の面で発揮されているのを、別のアメリカのメディアPBS(Public Broadcasting Service)が伝えている。ケンタッキー州にあるベリア大学のジェフリー・リチー准教授が、2011年の東北大震災に見舞われた人々が見せた忍耐強さを、宗教的観点から論じている。
 宗教学の准教授で、同大学のアジア研究プログラムの責任者であるリチー氏はまず、日本の『ゴジラ』やマンガ『アキラ』に見られるように、日本人の災禍に対する考えは、日本の伝統的な宗教文化に見られるような荒ぶる神としての姿に根付いている、と述べる。そして、本居宣長の『古事記伝』に記した「神(古事記伝では「迦微」)」についての論述を引用して、日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないものだ、とする日本人の宗教観を示した。
 だからこそ震災が起きた時に、一神教のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者が持つような「震災は神の裁きなのか」という問いではなく、「震災をどう受け止めるべきなのか、震災はどう自分の内面のためにあるのか」という問いを、伝統的な宗教観をもつ日本人は抱きがちになるのではないか、とリチー准教授は問いかける。
 西洋の基準からしてみれば、信仰心がないように見え、また日本人の自覚としても宗教に対する信仰心はないとしている人でも、人智を超えたものを畏れ敬う気持ちが日本人の中にあることは、以上の3つの記事からは示されているようだ。
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*結論的に言えば「神道」は、日本列島と言う大自然が生み出した<宗教>です。
「精神革命論」と言って書き綴っていますが、その結論的なことは、
”NHKのニュースなので、嘘かも知れない。” 08月18日 に書いたように、危機後の回復をもたらす「パワー」の有無を持つ持たないに至ります。
前回のブログでは「近代」を経験した国・国民とそうでない国・国民について書きました。
二つレールが敷かれています。一つは長く未来に向かって伸びていますが、もう一つには転轍機があって、前へ進む線路と右に大きく回って後ろへ戻る線路があります。未来に向かう線路にもこの先にいくつもの転轍機が現れるでしょう。
その転轍機が「精神」の在りようだと思うのです。
二つのレールは同じ高さではなく、段差があります。先程の転轍機で前に進む線路は、高い位置にある線路に合流するのです。
「精神の革命」を経ないと未来につながる線路には行けないのです。その「精神の革命」をエンジンに例えました。古いエンジンから新しいエンジンに切り替わらなければ、その段差を登れないのです。
そのエンジンの切り替えが何によるのかを言うことなんですね。
それは洋の東西を問わず宗教的戒律の中にあって、それを守って生活するかしないかの問題になるわけです
ではその戒律とはどういうものかといえば、「十戒」であり、「山上の垂訓」であり、仏教の戒律、イスラム教やヒンズー教にもある戒律です。
問題はその戒律を守る思いから生まれてくる「禁欲的生活態度」や、「道徳的生活態度」がどこで実践されるのか、だれが実践するのかと言うことにあります。
この二つの生活態度と言うのは、いかに「自分の心を自己コントロールできるか」、《自己制御》の実践です。一つの目的に向かっての《自己制御》です。この自己制御は、道徳な「善」を行い「悪」を行わないと言うことで、「心理的な緊張感」=「苦痛」をもたらします。
「神の命令でそのような態度をとる」のと、神の命令ではなくて「人間が当たり前にとるべき態度」として日常に「禁欲的生活態度」や、「道徳的生活態度」が行われているのでは違います。後者は無自覚であり、躾の範疇にあって、習性となっているものです。ですからそこには「心理的緊張」はありません。
その相違を私は指摘したいし、その相違こそ日本文明を作り出した日本人の根底にある「生き方」なのだと思うのです。

人間が何物かの「欲望」の虜になって行動することが「当たり前である社会」を生み出してしまう。それを変えないと、「持続可能な成長」ができなくなってしまう。そう思うのですね。
『欲望の資本主義』(東洋経済)の中で、スティグリッツが、
「世界中でかなりの割合の人々が、われわれの考える標準的な暮らしのレベルに至っていないことです。彼らの生活水準を引き上げるためには、経済成長が必要だと私は考えます。公平な世の中を実現するために、成長は絶対に必要です。」
そしてそれは「物質的な成長に限定せず」に、人々の所得を増やす活力のある経済を目指すと言うことを前提にします。私は同意します。
そういう世界を作るためには、「格差を生む」資本主義は《制約》されないといけないでしょう。
したがって、この本の副題にあるように『ルールが変わる時』にあると思うのです。それは人間の《マインド》の変革なしには起こりえないものだと言えるでしょう。
<「禁欲的生活態度」や、「道徳的生活態度」がどこで実践されるのか、だれが実践するのか>
「近代文明」がその答えを表します。近代は「禁欲的生活態度」+「道徳的生活態度」を《現世的社会の中で》、《一般の市民》が《実践した》きわめてレアな時代だったのです。
そこに現れたのが「神の命に従って「自己制御」をする人々の共同体なのです。
仏教もヒンズー教も、また儒教も、その教えは<自己制御>の方法論を説くものでした。
ヒンズー教と仏教は、それを人里離れた場所で「実践」することをめざします。儒教はそれを「君主」に求めました。
キリスト教も同様に「修道院」と言う限られた世界において実践することを求めていたのですが、それらはヒンズー教においてはヨギー(修験者)とか仏教でも僧侶とかが《遁世的に》宗教的《達人》をめざしました。
孔子は《君主》に理想主義的課題を求めた結果、現実とのギャップから「形式的な」プラグマティズム的発想をうみだしました。「メンツ」を立てると言う発想です。マキャベリが説いた「リアリズム」とはまったく違うものでした。

ダライラマが「幸福論」(『新しい千年期の倫理』)の中で、精神革命を訴え、さらにダライラマは「宗教に由らずに」道徳的生活態度を獲得することを「精神革命」で求めていると言えます。
近代が生み出したのは「遁世的ではなくて」、生きている現実の世で「宗教的達人」になることを求めるのです。
『普通の人が<宗教的達人>を目指した暮らし方をこの世の中でする』、そういう生活態度を持つ人たちを作り出した時代が《近代》なのです。その時代では、そういう態度で暮らすことが「習性」となって躾られた人々が集団で現れたのです。
合理的な資本主義はそういう人々を土台に生まれたのですが、その「近代の」資本主義が、大きくなるにつれて、お金に支配される、お金を求めることが目的となった人々にとってかわられるようになりました。
中国の貨幣経済は、むかしから「資本主義」ですが、常に「資本」は独占されていました。またその資本を分け持つ人々は「近代」を知りません。近代的生活態度を経験することがなかったのです。
西欧人や日本人は、その影響を受けながら、20世紀を過ごしてきたのですが、その「習性」が「欲望」の前に晒されているのが現代だと思うのです。

2017-08-14 13:55:36(アメーバーブログ)



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