はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

山靴の夢 北アルプス編 第6章 アルプス大縦走 室堂・薬師岳・針ノ木峠

2016年09月04日 | 短歌
第6章 北アルプス大縦走  目次
  全行程
ⅰ 憧憬・薬師岳 アクシデント 
ⅱ 五色ヶ原へ8月9日
ⅲ 薬師岳をめざす 8月10日
ⅳ 高天原へ 8月11日
ⅴ 野口五郎小屋へ 8月12日 
ⅵ 船窪小屋へ 8月13日 
ⅶ 針ノ木峠 8月14日 


今回歩いたコース

全行程 2000年8月8日~14日 立山から針ノ木峠
1 8月8日  22:30新宿6:50
2 8月9日  室堂着7:55-8:10一ノ越8:40-45浄土山10:15-30獅子岳12:15五色山荘8月
3 8月10日 5:20五色山荘6:00-05とび山7:35-45越中沢岳8:25-40休息9:05-10スゴの頭9:43-48スゴ乗越10:30-11:10スゴの小屋12:22-25間山14:30北薬師岳15:55-16:05薬師岳16:55山頂小屋
4 8月11日 5:30薬師小屋5:55薬師平6:40-7:00太郎平小屋7:40-50沢出会い9:18-10:00薬師沢小屋10:50-11:00A沢出会い11:15-18B沢出会い11:40-45B沢トラバース12:10-15C沢出会い12:45-50D沢13:00E沢14:00峠14:30-40沢に出会う15:00高天原小屋
5 8月12日 5:15高天原小屋6:10-15水晶池6:20-30水晶池分岐8:25-9:10岩苔乗越9:58-10:30水晶小屋11:20-252700mのピーク11:50-12:15東沢乗越14:00真砂分岐14:55野口五郎岳15:10野口五郎小屋
6 8月13日 5:30野口五郎小屋6:55三ツ岳7:30-50烏帽子岳8:40大池9:05岩峰乗越9:10-15雨沢岳9:45 乗越10:35-50不動岳11:30無名ピーク13:00-102490m地点14:10-15船窪岳15:33-40分岐15:45船窪小屋
7 8月14日 5:15船窪小屋5:30七倉岳6:15-20コル7:20-30北葛岳8:08-20北葛乗越10:05-30蓮華岳11:28-12:10軒ノ木峠13:05雪渓終り13:40大門沢小屋14:50-55扇沢15:25大町駅(15:30特急あずさで帰宅)



ⅰ 憧憬・薬師岳 アクシデント 
8月8日  22:30新宿6:50

1998年の夏、友人のご夫婦と唐松岳から不帰の峰を通り白馬岳への2泊3日の山旅をした。その時に白馬岳手前あたりからアキレス腱が痛み出して耐えられなかったが、数を数えてひたすら歩く。村営小屋へたどり着いて一安心した。翌日白馬岳から小蓮華岳から白馬大池を経て栂池へ抜けた。その時もアキレス腱が傷んだ。
その翌週に、一人で立山に向かった。薬師岳から針ノ木、さらに種池小屋まで縦走するつもりで出かけた。ところが室堂から一ノ越を越え竜王岳まで来たときに、アキレス腱が痛み出して動けなくなった。ここから先に進めば、もう戻れないだろうと考えた。逃げ道がないのだ。五色ヶ原まで行けば黒部ダムに戻る道はあるが大変だ。
「戻る!」
そう決断した。そして左足を引きずりながら室堂まで何とか戻る。そして黒部ルートを抜けて大町に出て、特急電車に乗り、帰宅して、翌日外科医に行ってみてもらった。
「先生、どうですか?」
「アキレス腱周辺炎症炎すね。」
「先生、山行ってもいいですかね?」
「う~ん、一年はダメだね」
「えっ、一年も!」
「今年、はダメですね、一年は我慢しないと治りませんよ」
なんということでしょう。やれやれという思いであったが、1999年はついに医者の言うことを聞いて一年間は我慢することにした。しかし、翌年の8月、一年を経て友人の横山さんと鷲羽・水晶。烏帽子開けへの縦走をしたが、その年はそれで終わった。
2000年に入り、私の運命も変わった。サラリーマン人生を終えて、独立して仕事を始めることになった。会社勤めの時間の拘束から解放されて、5月の連休に九州の山を登った。そしてその夏、いよいよ前回のリベンジで北アルプス大縦走を企てた。
北アルプスの室堂から白馬岳までの稜線を全部つなぐ企画だ。以前に妻と有峰ダムから太郎平から黒部五郎岳から三俣蓮華岳と笠ヶ岳の稜線を歩いた。さらに友人の横山さんと去年、双六から烏帽子へ、鷲羽と水晶岳を登っている。1993年に種池から鹿島槍、五龍岳、唐松岳と歩いた。今回は室堂から薬師岳を越え、太郎平から薬師沢に降り、雲の平から針ノ木、さらに鳴沢岳を越えて種池まで歩き通すことを考えた。一週間はかかるだろう。しかし前回のリベンジを果たすべく、8月8日の夜新宿から夜行バスで室堂への直通バスに乗った。


ⅱ 五色ヶ原へ8月9日
8月9日  室堂着7:55-8:10一ノ越8:40-45浄土山10:15-30獅子岳12:15五色山荘8月
午前5時。立山インターへ、劔岳と立山のシルエットが夜明けの空に美しい。10年前の時も同じような空模様だった。室堂の天気がもてばいいのだが、と思っていた。全体に雲が多い。
室堂に到着したのは午前6時60分。予定より1時間以上早く到着した。さすが2500mもあるから肌寒い。登山支度をして、明るくなった室堂に出る。天気は大丈夫だ。立山三山や浄土山、別山乗越から大日岳の稜線もくっきりと見えている。しかし雲は多く、薄日がさすていどだ。
「さていくか」と一ノ越へ道を歩き出す。午前7時。一昨年と同じ道を歩く。ここの道は何度目かな。穏やかな斜度の道が一ノ越まで続いている。一人で歩くと足が速くなる。時間が速いのでそれほど多くの登山はいなかった。石の敷かれた整備されている道を黙々と歩き、午前7時55分に一ノ越につく。一ノ越からの展望はまた一段と素晴らしいものがある。右に図体のでかい薬師岳があり、黒部五郎と、その脇に笠ヶ岳が小さく見えて、さらに穂高や槍ヶ岳まで見えるのだが、今日は雲の中だ。展望がさほどない中で休憩をとる。8時10分に一ノ越の小屋の石垣の脇を通り竜王岳に向かう。
竜王岳は黒々とした岩山だが、見た目よりやさしいルートがついていて、竜王と浄土山の鞍部につくとそこには富山大学の立山研究所がある。ここで一息入れる。鞍部から獅子ヶ岳までは極めてアルペン的風貌の道である。一昨年はこの鞍部歩き出して鬼岳東面を登り、巻き道の残雪の光景を見てあきらめたのだった。
今日の目的地は五色ヶ原だ。一日でスゴ乗越まで歩くのは、室堂の出発が遅いので無理だと判断していた。それで五色ヶ原で、小屋泊まりの予定だからのんびりである。しかし天気は少し心配である。
稜線のところどころに残雪があり、雪の上をトラバースする箇所がある。特に鬼岳の残雪のトラバースは長く神経を使った。
そして獅子岳の登りに取りつく。時間的には竜王岳の鞍部で休んだだけでその後歩き通す。10時15分に獅子岳山頂に着くが、つらい登りであった。山頂を踏むころになって薄日が差す。振り返ると浄土山や竜王岳がくっきりと見える。行く手に五色ヶ原のマットを敷いたような緑の原が見える。
この時はまだデジカメが出始めたころであったと思うが、自分は一眼レフのフイルムカメラであったので、写真を撮るのも多くはなかった。この日獅子ヶ岳方面から見た五色ヶ原の画像はない。ただ平らな原が広がっている光景は穏やかに見えた。原の中に小屋が二つぽつんと見える。手前は五色ヶ原ヒュッテで、奥が五色ヶ原山荘だ。
獅子の山頂からは、ザラ峠を目指して下る。この下りも急斜面である。2700mから2400mへ一気にくだる。五色ヶ原山荘には12時15分に到着。
小屋で受け付けをして部屋に上がる。まだ早い時間なので客はいない。ヒュッテの方は素泊まりのみの小屋。
五色ヶ原は天気が良ければ散策したかったのだが、あいにく午後から雨になり、雷も鳴る。今回はアキレス腱も大丈夫なようであるがふくらはぎが幾分痛い。登山の初日はいつも具合が悪い。今日はここで泊りにして正解だったかもしれない。部屋に荷物を置き少し横になる。
午後2時を過ぎて、少し天気は回復してきたが、長野県側は明るいが、富山県側は雲が覆っていて悪い。部屋の窓から正面に針ノ木岳が見える。薬師岳は黒い雲の中だ。
「お風呂がありますから、3時以降にご利用ください」と小屋の人に言われていた。この小屋には風呂があるのだ。
3時過ぎてからお風呂に入る。こんな贅沢はない。しかし、この縦走の中でここの一泊の記憶は剥落しているのだ。それはやはり後の日々のことが強烈であったからだろう。
トイレは水洗で清潔だ。携帯は圏外で使えない。
「薬師の方の小屋はやっていますか?」と小屋の人に尋ねる。
「やってますよ」との答え。
明日も行動に肩の小屋が営業しているかは大事なのだ。ガイドブックには休業とあったからだ。小屋で確認がとれたので明日は天気次第ではあるが、薬師の肩の小屋を目指すことにした。
夕食後玄関のストーブを囲んで宿泊の人たちとおしゃべりをする。小屋での楽しいひと時だ。
「小屋の人が言っていたけど、太郎平の小屋は四畳半に6人だそうですよ」
「こっちでよかったですねぇ~」
などと、貸切みたいな今日の小屋をみんなで喜んだ。
一人で暗くなった部屋で明日からのことを思うと、体のことは気にならなかった。天気だけがきになった。
この年で55歳になった。仕事も一人で始めて、思っていた以上に何とかなっている。暮らしの不安があったら山など登っていられない。運の良いことだと思う。妻とも話していて、山だけは行ってもいいことになった。百名山だけはやりたかった。妻と一緒に歩いたのはわずかに3年ほどしかないが、月に一度は登っていたので37か38回登った。しかし私がスキーを始めてから、妻はいかなくなった。
妻が言うには、山に行くと顔がむくんでくるのだそうで、高山病の一種ではないかと思い、山には行かないと言い出した。あれから7年が経つ。一人で山を歩き始めてはいるが、それほど熱心ではない。年に数度行く程度になっていた。
自分にとって山は青春なのだ。その思いが断ち切れないでいる。綿々として山とはつながっていたいと思うのだ。一生かけて百名山をやれればいいと考えた。あるとき、北アルプスの稜線を全部つないで歩いてみたいと思った。百名山とは別の課題として考えたのだ。一昨年は薬師岳に登る目的だったが、今回は稜線をつなぐ目的なのだ。それを考えて実行する気になって出かけてきた。うまくできるといいのだが、と考えているうちに眠った。


ⅲ 薬師岳をめざす 8月10日
8月10日 5:20五色山荘6:00-05とび山7:35-45越中沢岳8:25-40休息9:05-10スゴの頭9:43-48スゴ乗越10:30-11:10スゴの小屋12:22-25間山14:30北薬師岳15:55-16:05薬師岳16:55山頂小屋

五色ヶ原山荘を5時20分に出発する。天気は曇りである。いつまでもつかわからない天気だ。ぼやっとした道を歩かねばならない。鳶山への道を登る途中から五色ヶ原と背景の竜王などの山を入れた構図でカメラのシャッターをきったが、光のない原の色はあざやかではない。鳶山に40分ほどで着くがガスにかこまれだした。予報では晴れであったが、期待薄だ。ここから越中沢岳まで一時間半の道のりであったが、はっきりと展望はなし。こまめなアップダウンが続いていい加減いやになる。嫌になった理由はほかにもある。道の歩きづらさだ。大小の岩の道であったことだ。
この越中沢岳の上り下りの繰り返しは、視界のない中、手探りで歩くようで疲れた。このコースを歩く人は少ない。雨が落ちてこないのが救いだった。
越中沢岳に7時35分に到着。小さな道標が山頂であることを示す。先行していた人とであぃ、写真のシャッターを押してもらう。ここで10分休憩してスゴの頭に向かう。天気さえよければ印象も違うのだろうに。

越中沢岳
越中沢岳の山頂からスゴの頭までのアップダウンもかなりきつい。ガイドブックにもざらざらした砂礫地とゴロゴロした岩道を何度も上り下りすると書かれている。たしかにそういう印象であった。スゴの頭とあるけれど、ピークを踏むことなく西側を巻いてスゴ乗越に至る。この下りもしんどいものであったが、この時から天気が次第に明るくなってきて、乗越に着いた時は9時43分で、ここで5分休んだ。ここからスゴ乗越小屋の赤い屋根が見えた。
小屋へは登り返さないといけない。小屋は近いと思えたけれど、乗越から40分は歩かされた。10時30分に樹林帯の中にある小屋についた。
小屋の前にベランダがあり、テーブルとイスがあった。そこへザックを下して休憩する。
「こんにちは」
「ああ、ご苦労さん」と年配の小屋の人。
「乗越からずいぶん歩かされて、見えていたのに遠かった」
「まあまあ、休んでください。今日はどちらまで?」
「ここにお昼に着くようならここへ泊り、昼前なら薬師小屋まで頑張るつもりでいます。大丈夫ですよね?」
「行けますよ」と親父さんの返事。
「北アルプスの稜線を室堂から白馬までつなぎたいので、やって来たけど、越中沢岳の山もアップダウンが多くててこずりました。」
そんな会話から、このご主人が日本の近代登山に大きな影響を与えた田部重治の研究をされていて、論文も書いているのだということを知った。
田部重治は明治の人で、富山の出身。「山と渓谷」という雑誌があるが、そのもとになったのではないかと思われる随想集「山と渓谷」を昭和4年に出版している。大学教授で文学博士。山と文学とを結び付けて昭和の登山史を作った人の一人だ。
「ご主人の出身はどちらですか、芦峅ですか」と伺うと
「私は大山村で、芦峅寺村ありません。」
「あっ、あの長次郎の・・」
「新田次郎さんが劔のことをかかれたでしょう。新田さんとも会いましたね。長次郎はどことなく臆病な案内人と記録されているんですがね、本当にとうじはね剱岳は登っては行けない山だったんですよね。明治の終わりまで、その考えは続いていたから、案内するのは大変なことだったですよ。」
「そんなだったですかね・・」と私。
「それにね、柴崎さんが登ったのは2度目の時で、最初に登ったのは長次郎なんですよ」
「えっ、それじゃ、最初の登山者は宇治長次郎ではないですか」
「まあ、そういうことかな」
ご主人と30分も話し込んでしまう。
「あっ、時間です。出かけます。ありがとうございました。とても楽しいお話でした。」
山と文学、北アルプス黎明期の登山物語は、私にもその余韻が残っているように思えてならない。単なるスポーツではないという思いが強いのだ。
11時10分に小屋を出た。ここから、間山まで樹林帯を歩き出す。ここから大変な試練の道が待ち受けていたのも知らずに。
12時に雪渓にお花畑に到着。少し行くと稜線の平坦地にでる。小さな池がある。ここからは樹林帯を抜けていく。あいにくと天気が悪くなり、薬師の姿は見えない。砂礫帯の道をひたすら登り続けるのだが、つらい。間山には12時22分に着いたが、少し立ちどまる程度で北薬師に向かう。間山の山頂にも池があった。
ここから北薬師岳までが長かった。
下り坂の天気を気にしながら展望のない道を黙々と歩く。この稜線を歩いている人は私と、あと数人しかいない。何も考えずに足を前に出すだけ。2時間黙々と歩いてやっと北薬師岳に着く。この時に雨が降り出した。すばやく雨具を見に着ける。
北薬師の山頂は砂礫の広い頂である。ここへ来て初めて薬師岳が大きな双耳峰であることを見た。雨でかすむ視界に大きく優雅な吊り尾根を見る。その先に薬師岳のピークが黒々とみ得る。やっと薬師岳の肩に取りついたような感じであった。
「ふーっ、遠いなぁ」と呟く。
深田久弥も書いている、
『越中沢山を越えて薬師の稜線に取り掛かってから頂上まで、実に長かった。この膨大な山は、行けども行けどもなおその先にあった。それは薬師北嶺とよばれるもので、本峰までそれから大きな岩のゴロゴロした長い道のりを行かねばならなかった』
しかし左手を見下ろすと、そこには昔氷河があったのではないかと言われた大きなカールが広がっている。残雪がところどころに雪渓になっている。金作谷カールだ。つ吊り尾根はこのカールのヘリを歩くのだが、雨具を付けていざ歩き始めたら道を失って、あれこれ探して時間をロスした。

薬師岳遠望
ここから薬師岳の本峰までは岩稜帯の道で、遠目に見たものとは違い、後立山の稜線と同じくらいにつらいものがあった。特に岩場のくだりには神経を使う。歩く人もいない。1時間20分もかかって本峰の祠にたどり着く。祠は大きいつくりだから、かなり手前から見えて、それが見えた時は「あーっ、来た!」という感じで、その時は足が言うことを聞かないので、前へ足を出すのが精一杯という雰囲気だった。

金作谷カール
祠の前にどさっと倒れこむ。午後3時55分。雨は収まっている。雨具の前をはだけたままで倒れこんでいた。ちょうどそこへ登山者が現れたので、
「すいませんが、写真お願いできますか」とお願いする。
「そのかっこでいいですか?」
「はっー、もう構いませんから」ということで、多分今までとった写真の中で一番だらしない写真が撮られたのだ。

薬師岳到着・・
それでも2924mの薬師岳に登ったという実感はあった。あいにくの天気で展望は全くないがやむを得ない。この山の大きさを体感したのだ。1990年に折立から初めて眺めた薬師岳についに到達した。
夏の日の午後4時はまだ明るい内だが、夕立などの天気の変化が起こる時間帯だし、雲が厚いので薄暗く感じられる。展望はなかった。
山頂にとどまったのはほんの10分ほどである。暮れなずむ夕刻、早く小屋にたどり着きたかった。小屋がやっていなかったら太郎平まで歩かねばならない。一抹の不安を覚えながら砂礫の道を見下ろす。太郎平方面への道というか姿のなんと優しいこと。今までの岩場混じりの稜線とは打って変わって、坊主山を下るような眺めだ。ガスがあえるので遠くまで視界がない中を踏み跡を外さぬように、駆け下るように下りていく。楽だ。のぼりではばてていた足も下りでは元気を回復してくれている。
50分もくだり降りて小屋の屋根を見た時は、さすがにほっとした。まもなく5時である。
「こんにちは、お世話になります」とかすれた声で私。
「お一人ですか?」
「はい」
「今日はどちらからですか?」
「五色ヶ原からです」
「よく来られましたね、どうぞ」
と小屋の人と話しながら泊まりの手続きをする。この小屋には美人の女将さんがいるとガイドブックで見たことがある。
この小屋は小さいが、今日は客も少ないせいかのんびりしている。玄関で靴を脱ぐと、解放された感じがして、この瞬間がたまらない。部屋に上がり荷物を置き、ふっーとため息をつく。今日一日の緊張感から解放される。
夕食は間もなくであった。そういえば今日は昼飯をまともに取っていない。腹もすいている。腹を空かせてあの薬師の上りは辛い。
食堂で夕食いなる。味噌汁に具がない。文句も言わず平らげて部屋で横になる。
一つ大きな百名山の山を越えた。
さすがに五色ヶ原から薬師の小屋まで二日分のコースを一日で歩いたことには満足感があった。小屋は静かであり落ち着ける。この夜は多分早めに寝たのだと思う。
明日の天気をきにしつつ。外に出ることはなかったが、ガスが小屋を取り巻いていた。

ⅳ 高天原へ 8月11日
8月11日 5:30薬師小屋5:55薬師平6:40-7:00太郎平小屋7:40-50沢出会い9:18-10:00薬師沢小屋10:50-11:00A沢出会い11:15-18B沢出会い11:40-45B沢トラバース12:10-15C沢出会い12:45-50D沢13:00E沢14:00峠14:30-40沢に出会う15:00高天原小屋

薬師岳の小屋は、私が参考にしていたガイドブック1992年版では、肩休憩所の扱いで、宿泊の案内がなかったのだ。もとは山頂小屋があったが荒廃してなくなり、その小屋がガイドブックに紹介されていたから、コースとしては、スゴ乗越小屋泊りで、薬師から太郎平で一日という案内になっていた。それが2000年には営業小屋となっていたのだ。
小屋はこじんまりしていたが、居心地は悪くなかった。疲れもあってゆっくり寝ていたと思う。朝一番の食事をして午前5時30分に小屋を飛び出した。
天気は相変わらずぱっとしない。小屋の周囲も雲にまかれた中を下り、間もなく薬師平のテント場に着く。15~5張のテントがあった。ここには水が流れていて気持ちのいい場所だ。小屋はテント場からそれほど遠くはないところにあったように思えたが、このテント場は太郎平小屋の管理するテント場なのだ。
1991年に妻とここでテントを張って、黒部五郎岳に登ったことがある。その時以来であるが夏の早朝のすがすがしい気分になれて楽しい。ここで背の高い男の子だと思ったのだが女性だったYさんと出会う。キャップをかぶって刈り上げたヘアースタイルで大きな荷物を担いでいる。てっきり男の子だと思ったら、信州大学の女学生だと後でわかった。ここで25分ほど休んでいる。何をしていたのかは覚えていない。テント場を6時20分に出て太郎平小屋へ6時40分に着く。
今日は雲の平へ行くのが目的であった。雲の平は、その昔伊藤新道という道が高瀬川の湯俣から三俣蓮華へ至る道を通って、雲の平に行くのが二十代のころ描いていた夢であった。しかし1990年代には伊藤新道は廃道になっていていた。
以前太郎平から黒部五郎岳をへて三俣蓮華まで歩いたので、今回は雲の平を経由して烏帽子に行くルートを考えていた。太郎平からは雲の平が展望できるはずであったが、全くのガスで何の展望もえられなかった。Yさんと一緒に歩いてきた。
7時に太郎平小屋を出て、薬師沢に向かう。彼女は有峰から太郎平へ上がり、高天原へ行き、そこから槍ヶ岳まで縦走するのだという。天気が回復してきて昨日とは違う夏の空になってきた。
薬師沢への道は稜線の道を分ける道標に従い、左に降りていく。40分ほど樹林帯を下ると沢に出た。薬師沢の源流の左股をわたる。ここで10分ほど休む。沢の出会いからしばらく下ると、道は穏やかになりところどころに湿原のある木道の明るい熊笹のカベッケガ原というところに出る。ここは気に入った。ここは素晴らしい。黒部の森が美しいと実感させられる。越中沢岳が見えて大きい。
やがてしばらして黒部川の水流の音とともに薬師沢の小屋が現れる。9時18分に到着。小屋の前のテーブルで大休憩。コーヒーなど沸かしてゆっくりする。
「雲ノ平の小屋はどうですか、混んでいますか?」と小屋の人に聞く。
「かなり混んでいますね。」との答え、
脇からよその登山者が
「夏は混んで混んで、おまけにトイレ臭くて最悪だった」
などというので、雲ノ平に行く気負いを削ぐ。
一緒に来たYさんは
「私、高天原に行くので先に出ますから」と言って大きな荷物を担ぐと別れていった。
しばらくどうしようか考えあぐねたが、混んでいる雲ノ平の小屋は嫌だし、高天原は行くチャンスもないかもしれないと思った。また以前から高天原の温泉にも入ってみたいとも思っていたからここで方針を変えた。Yさんと一緒に歩くのも面白いだろう。
午前10時長い休憩を切り上げて、Yさんの後を追うことにする。立派な二階建ての小屋を背に黒部川にかかるしっかりとした吊り橋を渡る。沢筋に沿って道があるが、雲の平へは尾根筋の道を行く。この登りもかなりきついらしい。
黒部川を下流に向かって歩く。黒部川とはいえ、まだ源流に近いエリアであるから大きな沢のような流れである。石につけられた赤ペンキをたよりにYさんの後を追う。
A沢の手前でYさんの後姿を見る。
「おーい」と大きな声で叫ぶ。一瞬驚いたような顔を見せて彼女は立ち止まってくれた。彼女のところまで行く。
「雲の平ではないのですか?」
「やめたよ、相当混んでいるようなので、方針変更。かなり急いで後を追ったんだ。追いついてよかったよ。」
「声がしたので驚きました」と彼女。
10時50分A沢の出会いで休憩する。黒部川にそって河原の岩の上を歩き、時には巻き道を巻いたりしながらA沢に至る。右手から大きな沢が黒部川本流に流れ込んでくる。
ここからB沢までは河原伝いで15分ほど。大きくB沢と大きな石に赤ペンキで書かれ、右に沢を登る矢印がつけられている。

B沢分岐
「この沢を登るようだね」
「そうですね」
と二人で確認し合って沢の中を登る。水は中央を流れ左右の石の上を拾いながら登る。ほぼ100m位登り返すと、再び赤ペンキで左の樹林の中へ入るように指示される。この日の一番つらい登りがこのB沢からの登りであろう。取りつこうとするときに上から5~6人の中高年のグループが下ってきた。
「こんにちは、どちらからです?」
「雲の平からですよ」
「小屋はどうですか?」
「一畳に3人かな、ともかく混んだね」
「これから高天原へ行きます。雲の平に行かなくてよかったかな、気を付けて」
と言葉を交わして見送る。樹林帯の道はまっすぐに直登するのだ。時々木などにつかまりながら登る。「大丈夫?」と振り返る。
「はいっ」と若い声が返ってくる。
この子が男の子で自分の息子だったら、楽しいのになぁ、などと思ったりもしながら、久しぶりに若い人と歩く。30分以上登り続けてやっと直登が終わり、等高線にそったトラーバス道に出る。
「きつかったね、この登り、一息入れよう」
「そうですね。」と言いながら涼しい顔をしている。
水を飲んで、5分ほどして歩き出す。ここから高天原峠までC、D沢と小さな沢を越えていく。しかしまだ登り道が続く。C沢でお昼になったが、そのまま歩く。E沢に午後一時に着く。ここから高天原峠への登りが再び始まる。樹林帯であるから展望もなくひたすらの登り道だ。それでも200mほど登ると道が緩やかになった。
「ここで休むか」と言ってザックを下ろして水を飲む。しかし、峠はそこからすぐだった。右から雲の平の道が下りてきて、樹林の中で出会う。峠というような雰囲気ではなく、雲ノ平への支尾根の末端という感じ。道標があるので横目で見ながら休まず通過する。ここで単独の人に出会う。この人は薬師沢小屋に向かう。
高天原からひたすら樹林の中を下る。30分ほど下ると沢に出る。岩苔小谷の沢だ。ここから高天原山荘に至る道は黒部の美しい森を眺められる道として推奨したい。薬師岳の姿が木々の上にある。

きれいな森の中

高天原の池塘
「森の中を抜けると」という表現が当てはまるような池塘のある原に忽然と出る。楽しい道だ。池塘にお花畑が、文句なく美しい庭園だ。
澄んだ水の流れとお花畑を見ながら歩くと高天原山荘が現れる。午後3時10分。いい時間に着
いた。
小屋の前は開けているが大きくはない。
「はい、ご苦労さん」と言ってYさんと顔を見合す。瞳が大きく色白でかわいいが、外見は男の子だ。
「宿泊お願いします。今日は混んでいますか?」
「いいえ、それほどではありません」と小屋の人。
混雑せずにゆっくりできるといい。宿泊は二階になる。50人ほどの定員ということで小屋は大きくない。荷物を置いてしばらく休んで4時ごろに露天風呂に行く。温泉は温泉沢の出会いにあるようで、小屋から15分ほど歩かないといけない。平らな道を行くと、葭簀で囲われた脱衣所と女性用の風呂は別に作られている。男性用の風呂は露天で半径4mほどの丸い湯船だ。温泉は乳白色で肌にやさしい。二人ほど先客がいた。

「気持ちいい!」と歓声を上げて肩まで湯に浸かる。山で浸かる湯は最高だ。温泉に来た他の人に湯船につかる自分の写真を撮ってもらう。温泉に浸かって遊んでいた。30分くらいはいただろうか。5時ごろ小屋に戻る途中で夕立に会う。再び体が濡れてしまった。小屋の夕食はてんぷらだった。食事はまあまあだったが、味噌汁の具が麩であって、なんとなく「なぁんだ」というがっかり気分になった。
食事を終えて一休みして、再び温泉に行く。ライトをつけて暗い道をゆく。温泉場にも明かりはないが、白い湯気が立ち込めており、月明かりの下で再び露天の風呂に入る。昨日の薬師岳に精力を使い果たしたかのような思いは嘘のようになって、この静寂の中で、白い湯気を空かして黒い空を見上げる。明日は天気に違いない。こぼれんばかりの星々を見上げてみる。幾人かの人も夜の温泉にやってきてにぎやかになる。
頃合いを見て湯から出て、満天の星を眺めながら小屋に戻る。いい気分だ。
信州大学のYさんと明日のことを話す。朝は一緒に出ることにした。彼女はワリモ乗越から槍ヶ岳へ向かう。私は水晶小屋へ向かうことになる。
小屋はこじんまりしていて昔と変わらないようだ。2階の寝床には9時の消灯前に布団の中に潜り込んで、窓から差し込む月明かりをぼんやり見ているうちに眠りに落ちた。


ⅴ 野口五郎小屋へ 8月12日 
  8月12日 5:15高天原小屋6:10-15水晶池6:20-30水晶池分岐8:25-9:10岩苔乗越9:58-10:30水晶小屋11:20-252700mのピーク11:50-12:15東沢乗越14:00真砂分岐14:55野口五郎岳15:10野口五郎小屋

朝4時には周りの客がガサゴソと動き出すので目を覚ます。まだ薄暗い中で出発の準備を始めている。朝食は4時半ごろから食べられる。私も1階の食堂で食事をとり、5時15分に小屋を出た。

高天原山荘でYさんと
「よく眠れたかい?」
「ええ、ぐっすり」屈託ない返事が返ってきた。
もう夏の5時は十分に明るい。昨日の道を右に分けて、まっすぐにワリモ乗越に向けて歩き出す。樹林の中の道を50分ほど行くと水晶池と書かれている小さな木標がある。左の細い踏み跡の道がある。
「行って見よう」とYさんを誘う。5分ほどのところに静かな池が現れた。わりと大きい。水面に水晶岳が写っている。黒々として見えて、別名黒岳と呼ばれるのにふさわしい感じである。本来の名前が黒岳で、今の水晶岳は後からつけられたのだと思う。

水晶池と水晶岳
昭和16年の「日本アルプスの旅」には水晶小屋と「赤岳」の記載があるが「黒岳」の表記がない。深田久弥は「黒岳」と呼び、山頂の累々とした岩=水晶を指して六方石山という古名を紹介している。黒岳の別名が水晶岳で、この名前は魅力的で、この名を本命にしたいと彼は書いている。今ではそうなった。
5分ほど水辺で写真を撮り、再び登山道に戻る。後発の人たちがやってきて、池へ立ち寄っていく。ここで10分ほど休憩して、我々はザックを背負いワリモ乗越への道をゆく。1時間ほど登ると樹林帯を越えて、黒部の源流の一体に出る。岩苔乗越へまっすぐ突き上げるように道はつづき、水源の小川が流れ、岩が散在し、明るいお花畑があちらこちらにあり、鷲羽岳への稜線が青空の下に線を描く。振り返ると越中沢岳のアップダウンを強いられた山稜が大きく見えてくる。
「彼氏いるんでしょ?」
「はい」
「山行かないの?」
「藪漕ぎが好きなんです」
「渋いね」
「行く山が違うので、中々一緒に行くことがないんです」
「そうなんだ。難しいね」
「ええ」と登りながらの会話。大学の先輩のようだけど、あまり深くは聞かないようにした。
風景の美しさとは別に、滑らかな登りのように見える道も、登るとかなり距離があり、斜度もあり、稜線が近づいてこない。二人してゆっくりと登っていくしかない。ただ晴天に恵まれて気分は爽快だ。小さな水の流れを何本も越えながら、やっと岩苔乗越に着いたのは8時25分だった。
乗越には三俣山荘から登ってきた人たちでにぎわっている。ここから形のいい鷲羽岳が正面にあり、その先に西鎌尾根と槍ヶ岳が見えて、北アルプスのヘソにいるように思える。眼下には雲の平が広がっており、祖父岳を通って雲の平に通じる道が分かれている。
黒部の現流域は岩苔乗越の南面、祖父岳と鷲羽岳、ワリモ岳にはさまれたところの幾筋の水流がそれである。いつか歩いてみたいと思った。中年のグループが声をかけてきた。
「いいわね、親子で山に登って」
「えっ」
「息子さん?」
「あっ、違います。この子女の子ですよ」
「えっ、だって、あらごめんなさいね、てっきり・・」

 越中沢岳                     

薬師岳  
 
 水晶岳                        

槍ヶ岳遠望(野口五郎岳)  

「そう見えるでしょう、私も間違えたんですよ」
「親子じゃないの?」
「親子ならうれしいですけどね、太郎平で出会ったんですよ。昨日は高天原で、今日は彼女は槍ヶ岳へ縦走して、私は野口五郎の小屋へ向かうので、ここでお別れです」
「あら、そうなんですか・・・」と驚いた様子。
二人が仲良く登ってきたので、そう見えたのだろう。
Yさんは、ここで別れた。
「ありがとうございました。気を付けて」
「あなたもね」
彼女の連絡先は手帳に書いてもらった。幾枚かの写真を送るために。
「若い人はいいわね」とは先ほどの中年の女性。
「そうですね。ほんとに自分の子供ならうれしんですけどね。いい子でしょ?」
そんな他愛もない会話をして岩苔乗越で45分ほど休んだ。
ここから水晶小屋へ道をとる。夏の稜線歩きは風があると気持ちがいいが、ないとカンカン照りになると大変だ。ワリモ乗越を越えて水晶小屋に10時前に着く。この稜線は以前年配の横山さんと一緒に歩いている。その時は水晶岳を往復したのだ。その時の水晶小屋と様子は少しも変わっていない。平屋の小さい小屋だ。設備もよくないが戦前からある小屋なのだ。
小屋の前で休んでいたら、大阪から来た三人の中年グループが来た。高天原に泊まっていた人たちだ。結局この人たちとおしゃべりして30分の休憩となった。
小屋から三人と一緒に歩き出す。ご主人と奥さんとお友達だという。奥さんは昭和12年生まれだという。「足が遅いの」とこぼしながら歩いている。
「ストック使わないのですか?使った方がいいですよ」と話す。
東沢乗越への下りは、赤茶けた崩落の激しい岩稜で苦労するので、
「このストック使ってみてください」と言って、二本を奥さんに渡す。
ストックの使い方や、岩場での歩き方など、あれこれ講釈しながら東沢乗越へ。
「あら、やっぱりストック使うと安定するわ、楽だわ」と奥さん。
「これからは使ってみてください」とストックメーカーの回し者を演ずる。
途中の2700mのピークまで50分。ここからさらに乗越まで25分。おしゃべりしながら歩くので、気分的には楽であった。
東沢の乗越に11時50分に着く。ここで25分ほど休んだ。今日は野口五郎の小屋までなので、わりとのんびりである。
乗越から真砂岳へ登る稜線は砂礫の道で山頂を踏まずに巻いていく。湯俣への分岐に午後2時前に着く。ここで3人とは別れる。
「後程、小屋でお会いしましょう。先に行きます」と挨拶して一人で歩き出す。三人は真砂の分岐で仲間を待つと言う。
真砂岳も2862mあり、高度は高いのだが険しさがないので高さを感じない。
雲が出てきているが快適だ。小一時間歩いて3時前に野口五郎岳に到着。ここから眺める槍ヶ岳は気分がいい。野口五郎岳も2982mあり、八ヶ岳の赤岳と同じくらいの高さがあるのに、稜線上のコブのようで損をしている。
この稜線は白い砂礫の道が続いていて歩きやすい。野口五郎から烏帽子小屋までは3時間ほどだが、無理せずここで泊ることにする。山頂の眼下に小屋が見える。山頂から15分ほど下って野口五郎小屋に着く。

この小屋には無線電話があるので、妻に電話をする。今日で4日が過ぎている。心配させないためにも元気だと伝えたが、「そう、気を付けてね」とそっけない。まあ、いつものことだ。
夜は大阪の人たちのグループと話が盛り上がった。小屋はその日満員になり、一つの布団に二人という状況だった。たまたま高天原から登ってきた人の隣が空いたので、そちらに移動した。少し余裕があり、いびきにも悩まされずに眠れた。



ⅵ 船窪小屋へ 8月13日 
 8月13日 5:30野口五郎小屋6:55三ツ岳7:30-50烏帽子岳8:40大池9:05岩峰乗越9:10-15雨沢岳9:45 乗越10:35-50不動岳11:30無名ピーク13:00-102490m地点14:10-15船窪岳15:33-40分岐15:45船窪小屋
 
野口五郎の小屋を朝一番、5時半に出る。多くの人は烏帽子から高瀬へ下ったり、双六方面に行く人たちでゆっくりしている。
たまたま東京の江東区に住むという男性と烏帽子まで歩くことになった。
三岳の途中に大きな雪渓が残っていて、その雪渓の端を道が通っている。雪渓の解ける水が飲めるようになっている場所があった。この山も柄は大きいのだが、砂礫の道で感じが優しくて歩いていて楽しい。7時前に山頂を通過して烏帽子岳に7時半に着く。しかし、天気はガスで周囲の眺望はない。烏帽子のとがった岩が白い霧の中にぼうっと見える。
江東区の男性は山頂まで来て、高瀬へ下るために小屋の方へ戻っていく。
この烏帽子岳から船窪と針ノ木への道は、北アルプスの中で登山者のもっと少ないエリアだろう。
烏帽子岳から南沢岳へ向かう一帯に池塘がひろがり、お花畑があってさらに池があることなど知られていない。ここは四十八池があると言われ烏帽子田圃と言われている。残念ながらガスの中ですっきりしないが、晴れていたらきれいだろう。
烏帽子岳から1時間ほどのところに池があった。
ここから南沢岳へ取りつくのだが、人ひとりいない道になった。
ここから先、道は樹林の中につけられているが、右側の高瀬側は赤い土がむき出し状態で切れ落ちている。落ちたら止まりそうもない雰囲気だ。南沢岳の直前の岩峰の登りは結構きつかった。
山頂には三角点がある。そこから南沢乗越へ30分ほど下る。この南沢の乗越はもろ切れ落ちたガレた姿が見えて迫力満点。一人でぽちぽち歩いているのもなんとなくさみしいものがある。さらに50分ほど同じような道を登って不動岳に着く。不動岳は2601mで、ここから2239mまで下るのだ。北アルプスの稜線でもっと低いエリアだと思う。山頂は何もないが広いので15分ほど休憩。そこからだらだらと下り、一つのピークの手前で木の間から黒部湖が見えた。不動と船窪の間には3つのピークがあるというが、2459mの道標のあるピークで10分休憩する。
ここで単独行の女子に出会う。若い子だ。
「どこから、今日は」
「烏帽子小屋を4時半に出たんですけど、足が遅くて・・」
私が烏帽子を出たのは7時半だから、3時間も前に出ているのに追いついたから、かなり遅い。
「どうぞ先に行ってください」と彼女が言うので一人で歩き出す。
この道標の高さは船窪岳と同じ高さだが、そこから一時間かかって船窪岳に至る。その間で、大きな白人男性と日本人女性のペアとばったり出会った。平の渡しから針ノ木谷を登って船窪へ出てきたという。
正直わけもわからないので、多くは語らず、私は船窪小屋へ向かう。その夜彼らは小屋には現れなかったから、烏帽子まで抜けたのだろうか。時間は午後2時前であっただろうか。
船窪岳で少し休んだ。望は何もない。ここから船窪乗越まで下り、小屋へは登る。この登りもきつかった。テント場が見えてほっとしたが、そこからもかなり歩かされて、鐘の音が聞こえたので小屋が近いと知る。ずーと視界の利かないガスの中を歩いてきた。4時前に小屋に到着。
船窪小屋はこじんまりしているがきれいで気持ちのいい小屋だ。手前の広間と奥に寝る部屋のある二段になっている。
我ながら、よくぞ歩いて頑張ってきたと自分で感動していた。
船窪乗越付近から左足のヒザとアキレス腱が少し痛み出したので、無理しないで七倉へ降りることも考えた。船窪から針ノ木まで6時間という。再チャレンジも考えたが、頑張って行くことにした。
小屋の夕食は、あざみと雪笹の天ぷらで美味しかった。味噌汁の具も十分あり、小屋の食事はここが一番だ。仙人池ヒュッテの次に気に入った小屋がこの小屋だった。またぜひ来たい。
この夜も十分に寝ただろう。それほど混んではいなかったからのんびりできた。

南沢岳付近

黒部湖が見える


ⅶ 針ノ木峠 8月14日 
8月14日 5:15船窪小屋5:30七倉岳6:15-20コル7:20-30北葛岳8:08-20北葛乗越10:05-30蓮華岳11:28-12:10軒ノ木峠13:05雪渓終り13:40大門沢小屋14:50-55扇沢15:25大町駅(15:30特急あずさで帰宅)

船窪小屋の早い時間に食事をして、午前5時には出かける支度を済ませる。天気は大丈夫そうだ。
今日の行程は北アスルプスのなかでもっとも登山者が少ないところなのだ。果たして何人の人に出会うだろうか。
船窪小屋は稜線から下ったところにあるので、ふたたび分岐まで戻り、七倉岳へむかう。
針ノ木から種池まで歩こうかと思ったが、昨夜寝ながら家が恋しくなって、針木から下ることにした。そう思いつつも最後のコースなので気を緩めずに歩くことに。北葛乗越付近から蓮華へ上りがかなり道が悪いと書いてあるから、要注意かな。七倉岳には夏の朝の爽快な気分のなかで歩く。富士山が遠望できたし、槍や穂高もみえる。

槍・穂高

富士眺望

滝雲

モルゲンロート

ゴジラの背
北葛岳に雲が湧いて、北葛乗越付近に滝雲が現れている。見事な眺めで写真を撮る。なかなか見られない光景だ。七倉岳からコルへ下る。多分この付近が北アルプスの稜線で2500mを切って、一番低い箇所になると思う。高さがないから爽快感もなく、樹木の中を歩かされたりするので人気がないのだ。北葛岳まで2時間、誰にも会うことがない。そもそも船窪から蓮華へ向かったのが私一人のようなのだ。北葛岳で10分ほど休憩して、ここから北葛乗越へむかう。雲の中を歩くようになり、途中でモルゲンロートを見る。雲の白色の中に私の姿が映し出されて光臨のある仏像のような影ができるのだ。珍しいので写真を撮る。一人ぼっちとはこういう状態をいうのだろう。北葛岳から一時間半ほどとぼとぼ歩いての乗越につく。ここですこしのんびりと休む。
目の前に蓮華岳の険しそうな岩の尾根が覆いかぶさるように迫ってくるからだ。息を整えて、蓮華岳の上りに挑まなければならない。岩の鎖とハシゴの連続で、結構緊張する。ここで唯一初めて人に出会う。道を手直ししている小屋の人だろう。「ご苦労様です」と声をかけ、挨拶して通り過ぎる。
ゴジラの背のような岩稜線が、ビッと走っている。この山は山頂間近になると険しさも失せて丸みを帯びてくる。コマクサの群生地もある。蓮華岳の山頂でも休む。蓮華に登ってきた登山者にカメラのシャッターを押してもらう。ガスにからまった針木岳を向かいに見て、峠の小屋まではなだらかな下り道を下る。
11時30分前に針ノ木峠の小屋に到着。大休止して昼飯を食べる。何を食べたかは忘れた。ラーメンでも作ったかもしれない。針木に登る人達と言葉を交わした。午前中は人に出会っていない。だから人のいる世界に戻ってきた感じで、私の長い山の旅もほぼ終了したみたいな感じになった。
本来なら、針ノ木を越えて、途中の新越小屋で一泊して種池に出て扇沢に下るつもりでいたが、だらしのないもので、針ノ木の峠で人に出会ったら急に里恋しくなってしまった。長らく風呂にも入っていないし、家に帰りたくなった。
針ノ木からスバルや鳴沢岳の稜線は改めて来ることにして、雪渓を下ることにした。
振り返れば正面に剱岳があって、出発した立山と向かい合っている。ここからは黒部湖は見えない。私としては、若い時の山の合宿で一週間山に入り込んでいた時期もあったが、それ以来一番長い山旅になった。この際山への未練もなく、妻が恋しくなって、峠からの雪渓を下って下界に戻ることにした。
やはり、歳のせいだと思う。もう少し若かったなら、種池まで行っただろう。
でも55歳、う~ん、やはり一人でいると、夜行5泊6日は限度だろう、と自分を言い聞かせて、だらしない自分を納得させて下ることにした。
峠から大門沢の小屋まで一気に下ってしまった。
雪渓は30分ほどで降りた。アイゼンは使わなかった。織りきった時に雪渓にガスがかかって、降りてくる登山者の姿がムードがあって、写真を撮る。わりといいと思う。まだフィルムカメラであるから、やたらと撮れないのが辛いところだった。
針ノ木雪渓は北アルプスの三大雪渓と言われるが、小屋から雪渓への取り付きまでかなり夏道を行き、雪渓に入ってからは30分ほどで下ってしまい、あっけなく終った。
あとは大門沢小屋の前を通り、扇沢に戻れば文明と出会う。大門沢小屋と言うのは、扇沢ができた現在、中途半端な位置にある小屋になっているが、その昔は、大町から歩いて、ちょうど一日分の距離で、この針ノ木峠を利用するには必要な小屋であったのだという。
扇沢の駅に着いたのは2時55分で3時のバスに飛び乗り、大町の駅に着くと、ホームに特急がいて、そのまま飛び乗った。下界の世界に引き戻されるのはほんの一瞬で終わった。(完)

針ノ木雪渓幻想

針ノ木雪渓

北アルプス大縦走


後書き(2016.9.3)
早いもので、この時から16年が過ぎた。あっという間の歳月だ。55歳の時に思いきって歩いた。このコースの圧巻は何と言っても五色ヶ原から薬師岳だろう。これはよく歩いた。今となっては無理かもしれない。スゴの小屋に泊まるのも悪くない。薬師岳の大きさは歩いたものにしかわからないだろう。北峰にたどり着いてから南峰まで1時間歩かされる。眼下の金作谷カールは圧巻だ。できた多もう一度このコースを歩いてみたいと思う。
薬師平から高天原のコースも実に面白いコースで、雲の平に抜けて行ってもよかったかもしれない。近年小屋も新築されてきれいになった。2度行き損ねている。
高天原の温泉は良かった。
裏銀座のコースは穏やかで好きだ。山は天気に恵まれたら天国になる。
Yさんはもうお母さんになって、それでも山を歩いているかもしれない。
烏帽子から南沢、船窪お抜けて針ノ木までのコースは、北アルプでは最も歩く人のいないコースだけあって、山好きにはたまらない魅力がある。船窪小屋も数ある小屋の中でも、小屋に泊まることを目的にして来てもいい小屋だと思っている。
私の山の思い出のなかでもこのコースは格別の思い出がある。残念だったのは、まだビデオ撮りもなく、カメラもでデジカメではなかったので写真が少なかったことだ。
このgooブログの使い勝手がわかれば、今後もこのブログをつかって山の旅の想い出を綴っていきたい。
余裕が出来たらもう一度挑戦してみたいコースだ。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。