はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

癌入院日記 4月10日

2020年04月12日 | 日記
2008年4月10日(木) 4日目
1:00 目が覚める
2:00  〃    トイレで読書
3:00  〃
4:00  〃    瞑想を試みたけどダメ、眠い
5:00  〃
6:00 目が覚める 今日は眠ることに眠ることに失敗した。
8:00 ヒロに電話する。気分の悪さは治らいい。寝不足だ。今日はすることがないので読書をしよう。
部屋の住人   窓側
        内野さん  阿曾さん
        今井さん  私
        恵沢さん  岸本さん
4時に瞑想を試みて、シャリブーのことを想ったけど、集中ができずに5分と持たなかった。やはり眠い時はダメなのかもしれない。
◎  瞑想について
 瞑想の対象
1 瞑想の対象を確認する
4つの対象
①行いを浄化するための対象
②方便に巧みな対象
③煩悩を浄化するための対象
④普通の対象
貪りのこころに満ちた人は対象として「醜さ」を、
                   ⇒物質的肉体の本質を調べつくす。
怒りに囚われた人は「慈しみのこころ」⇒無明にひたっている人の対象
   ↓                   ↓
慢心を減少させる              十二縁起 
瞑想の対象はなんでもよい
瞑想とは外なる対象を愛で見るのではなく、対象物のイメージを心の中に出現させることを言う。このイメージは「影像」と呼ばれえ、これが瞑想の対象となる。
2 対象との関係 <心をどうやって対象にとどめるか>
ⅰ瞑想すべき対象を導師から教えてもらう。
ⅱその瞑想の対象について繰り返し革新を得るのです。対象は鮮明に観察されなければならない。それは光そのものでできている。
ⅲ 止の状態を養う。対象の影像を一定に定まるように「止」の状態を養う。
  注意深く、対象を見失うことが無いように努める。「正知」を養う「因」になる。
ⅳ 対象を維持している間に必要な2つの特性
 ①対象だけでなく意識の際立った鮮明さ
 ②観察対象の一点に集中していること
対象の鮮明さを防ぐ気の緩み(惛沈「こんちん」)と興奮

Ⅱ 内なる対象の瞑想
自分自身のこころを瞑想の対象に選ぶ。
過去の出来事、未来のことなど考えずに、一切の観念的思考が生起しないように、自分の心をあるがままの状態にしておく。
意識はどこにあるか。
  心の意識と眼識
   ↓
  感覚意識に頼らない。
*心の意識・・修業を続けていくと意識は輝きと知の実体として知覚され、或いは感じられ↓   る。対象の影像をも生起させることができる。
 『フォース』と呼んだもの、または「魂」
意識の実体は間接的原因(縁)がととのえば、いかなる対象の影像をもせきさせることができる。
心は空のままの状態にある。
出逢う→ | ←概念的思考という外的な環境に  
       実態 (自分の心を瞑想する)

朝に瞑想する
「私なるものは何か」

Ⅲ<私>
究極的な本質を識別することうを可能にする3つの瞑想法
 諸現象・・・・物質的要素の集まり
   ・・・・心的要素の集まり 
<私>によって使用される諸現象と諸現象の使用者である<私>
世俗に存在する<私>は、実際には存在しない。 
 非存在性=無我 ⇒人が分析的に《私》なるものを見いだした時にみえるもの。
分析を欠いた世俗的な心に現れる<私>は行為者の集まりの基盤の上に機能する。
→何かによって生起する<私> → 世俗的な真理⇒俗諦
自ら成立した、あるいは独立した<私>は存在しない
(私は世俗的な《私》と結びついて自覚しているだけで、本来の私をつきつめていくと<私>は存在していないことに気付く。これが、⇒<私>なるものの自性を欠いていることが究極の真理(真諦)で、⇒「空性」と言う。
諸現象を同じく自性を欠いている=空
全ての減少は世俗的な《私》となる。
《私》の本質は無であり、空であり、それ自体は非存在のもの
意識の根源にたどり着く、意識の実体そのものと合体するかもしれない。
それで世俗的な<私>が今存在しているわけで、それ故に<憐れみの心>と<菩提心>を起す必要がある。 
                            合体して空になるものに
                            (知恵を養う)
                            (憐れみの心)
                               ↓ 
                              光明の心
光明の心・・・空性と渾然一体となった憐れみの心と菩提心
  ↓
 (空)・・・・ 空性の認識
  ↓
 (一味)あらゆる現象が根源的に同じ本質を有していること 
以上、ダライラマ儲『愛と非暴力』(春秋社)から学ぶ
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10:45 ほたか(長女)にメール。あずさは土曜日の10時には来られないと言うので、ほたかに医師の説明を一緒に聞いてもらいたいとメールした。ほたかは事情をのみこんで都合をつけると言ってくれた。裕子は頑張ってくれているけど、やはり娘たちが支えていて欲しいと思う。あずさはまだ幼い。
11:45 昼食の時間 今日は早いと思う。私にはない。
12:00-12:30 お風呂に入る。湯はぬるめ。湯船に湯が入るまで時間がかかる。頭をあらってさっぱりした。
13:00 仕事の電話が入る
今日は昼過ぎにDVDをみていたが集中できず、待合所に行ったら、今井さんがいたので話をしていたら恵沢さんがきて、3時ごろまで世間話をしていた。
3時半ごろに瞑想を始めたけれど、ラジオの音で集中できなくて、またやり直し。ただ大日如来をイメージしていたら黄金職の仏像がすこし浮かんでききた。その像を維持しようとしたが、ラジオの音で消えてしまった。
岸本さんからのアドバイス、腹帯は2枚あればいい。選択できれば2枚でいいとのこと。ヒロに伝える。
内野さんの奥さんが来て、小声で私に話す。
「2月17日に入院して、3月5日と14日と二回、たんこう胆嚢を手術した。同じ場所を遣ったので治りが悪いみたいで、本人はかなりイラついているの」と言う。
「皆さんとお話しするのは好きでないのでっすみませんね」と言った。
今井さんは富士見市の人で、子供が娘2人で孫6人だという。もと洋服の仕立て屋さんだったけど、途中でやめて西武の下請けで直しの仕事をしていた。少し元気がないのが気になる。
16:15 血圧102-158 高い
17:00 -05 トイレ まだ茶色の水だけになっている。白くならない
食べるものがないから楽しみに欠ける。
今朝の新聞の新医療制度75歳以上の負担増の問題。
もっと取り上げて廃止にさせるべきだ。いつから弱い者いじめをする国になったのか悲しくなる。小泉政権のもたらしたものは発想を変えてしまったと思う。
いつの間にか弱者切り捨ての思想になった。アメリカ追従のつけが出てきた。
こんな国に住むのは本当につらいことだ。貧しい者を救えない政治と言うのはなんだろう。中国と五十歩百歩の政治としか言いようがない。
私がもし状態がわるくて最悪の事態であったとしても、今の様な気持ちでいられるだろうか。今の気持ちを言うならば、医師の言うこと看護師の言うことを素直に聞くだけでる。疑うことをしない。病気についてもなにも疑うことをしないし・・・・
17:45 夕食 :私はなし
18:45 裕子帰る。手術日には娘たちは来られないみたいなので、裕子に頑張ってもらわないといけない。
18:55~19:21 瞑想
少しずつ長くでき猟になる。今日は、目の裏側と言うよりも額の部分、半眼にしていて、目の明りの上、鼻の付ねから上、額に欠けた部分がスクリーンのようになって、そこに黒い巣スクリーンができる。そこに集中していると紫色や、水色、金色の光のようなものが見えた。ただ具体的な映像にはならないが、いろいろな色がまざりあって浮かんで流れていくのだ。
手術の場面を対象にしていたが、対象が得られることはなかったが、代わりに光のようなものを見る。また大日如来を心に思ったが、大きな仏の一部分の様なものを見た。
確かに瞑想を実践すれば凄いものになりそうだ。
私ははっきりはえがけないけれど、今は私の守護神の大日如来が私をまもっているのだという思い抱くことができる。たぶん麻酔をかけられて手術中、意識はあると思うが、多分迷走状態、つまりトランス状態に入っていればいいと思う。途中で点滴を変えに看護師の土佐さんが来たが、瞑想が途切れることはなかった。やはりこれは修練だと思う。
仏教であれ、キリスト教であれこの瞑想はとても素晴らしいことのように思える。
部凶と言うものの本質と言うか、仏教を理解するのに欠かせないことのように思える。
シャリブーの事が心配だけど、今日の新聞にネパールの選挙のことが記事になっている。毛派と与党とさまざまに分かれてかなり激しい状況で、不測の事態となっている。たぶんシャリブーは国内の情勢で動けないのかもしれない。
(*その後、シャリブーとは遂に会うことはなかった。)
隣の阿曾さん、夕刻に医師が来て、土曜日に手術の説明をするという。その際に家族や一緒に住んでいる人は多く集めて欲しいと言っていた。医師は「相談することがあるので」と言っていた。
阿曾さんは末期癌なのだろうか。
恵沢さんは、胃カメラでどこか傷ついたおかで、今日の湯方治療に行って帰ってきてから言う二は、どこか他にも癌があるみたいな話で、医者も癌かどうかわからないと言っているというのだ。阿曾さんは今日は小平の温泉に外出していた。結構多く通っているようで、それが楽しみらしい。
この病院で、自分は思うのだが今のところ大変に運が良いしか言いようがないのだ。手術にしても入院して1週間で行われるし、医師の説明も家族集めてなんて言われていないし、大腸以外のことは心配されていない。
よしんば今回はこれで終わったとしても、再度発生する可能性もあるだろう。またほんとうに自分以上に酷い人が大勢いるように思える。これはやむを得ない事態なのですべてを受け入れて積極的に対処するしかないと思える。ともかく今のところ私はラッキーだと思っている。
私の病院での過ごし方もかなりユニークである。自分は目的的に入院していると思う。本を持ち込み、DVDプレーヤーも持ち込み、時間を過ごす計画を前もって立てている。
こういう入院患者はいないだろう。だから私は与えられた時間を愉しんでいる。(何よりもこうして記録している。)ただ思うように内容を理解できないだけで、先に進まないけど。チベットの死者の書など難しい。でもチベットとの関わりを持ったので知る必要があると思った。
多分、退院までに本を読みきるのはできないだろうが、無為に過ごしたくないので、ビデオやカメラを持ち込んで自分の記録映像を作ろうなどと言うのは変わりものに思われるだろう。
70を過ぎると、ある意味で、「もういいか」みたいな雰囲気が出てきているように思う。本当に気が弱くなるということなのだ。それとやはり楽しみが少ないようになる。
そういう意味で私は自分の今の在り方は、他人に変に思われても自分的には良いと思っている。このような思いを持つようになったのも、大学に行けたおかげであって、両親に感謝している。そう思うとまだ感謝の表し方が足らない。ずーと足らないのだ。
21:30昨夜は眠れなかったけれど、今夜はぐっすり眠れるといいのだが、明日は3時に顔を出してから彫金に行くと言う。
正直 大腸がんの摘出だけで終わることを願う。
韓国のガイドブックを持ってきてもらって気休めに見ているが、確かに料理を食べに出かけてみようと言う気にさせる。「歩き方」を見ていると行くとしたら光州エリアかな。百済の地で日本史との係わりも深い。あとはパンソリを聴いてみたい。映画の題名を忘れたが、パンソリのいい映画があった。
22:35 トイレに起きた。