道楽人日乗

ツイッターのまとめ。本と映画の感想文。
いいたい放題、自分のための備忘録。
本読むのが遅く、すぐ忘れてしまうので。

映画「キングコング髑髏島の巨神」

2017-03-30 16:44:15 | 映画感想

ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督

「地獄の黙示録」を思わせる舞台設定と聞いて、がぜん見たくなりました。
段取りを極力減らし、冒頭たちまちコング登場! 思わせぶりは無い。現代の映画はこうだ。
なるほど、凶暴トカゲも出てくるが、要するに、この映画はコング対 狂人大佐なのだ。

男や女、肌の色、生物相、髑髏島原住民など、いろんなポリコレに気を遣ったあげく、矛盾や悪をサミュエル・L・ジャクソンが一身に引き受けて堂々の大芝居である。箱庭的なお行儀のよい狂気と怪獣祭り。コングと美女の愛が大分希薄な表現だったが、一体どんな人がどんないちゃもんを付ける事が可能なのかと思う。
コングは恐ろしいが憎めない。夕日を背に立つ姿はまさに偉丈夫。 落ち着いた時の顔は大仁田厚さんに似ていると思えた。

スタッフロールが出ても席をたたずアレを確認。ああやっぱりなー。血は沸くが、無茶な接ぎ木のようにも思える。

なんだかんだ言っても、3Dに目が慣れた後は怪獣対決を楽しく見ました。映画は普通の上映に限るよ。それにしても、だ。どうして吹き替えをプロの声優がやらないのか。あの面子!
近所での大きい画面の字幕上映はIMAXしかなくて嫌いな3D上映を2600円払って見た。プンスカである。

映画「太陽の蓋」

2017-03-29 08:39:42 | 映画感想

佐藤太監督

大震災発生から原発事故に至る過程を、当時の政権内部、首相官邸内でそれを取材する新聞記者、若い原発作業員とその家族を対比して描く。舞台劇の様な会話主体の地味な展開、静かな音楽。え、あの場面は無いの?吉田所長は出ないの?等々不満はあるが当時の記憶が甦り結局ドキドキしてしまう。

電力会社の不手際が重なり事態が悪化、官邸に情報が上がらず、しびれを切らした菅さんが現地視察、対策本部を電力会社本店に移転、700人の現地作業員を引き上げるというのを、怒鳴りつけて止めた、というお話のように見える。総理の行動に否定的な台詞も劇中にあるが、印象としてはそんな感じだ。

映画は原発クライシスを中心に描かれる。
現実では津波の被害にあった多くの人々の救出もあったはずだ。中露の戦闘機の領海接近と自衛隊のスクランブル発進という、米空母ロナルド・レーガン派遣にかくれたドラマもあったと聞く。一面ではとらえきれない巨大な現実があった。全てが一度に襲ってきた官邸はどんな状態だったのだろう。当然かも知れないが、そこらへんはこの映画では描かれていない。

主な舞台の一つが官邸地下なので「シン・ゴジラ」とイメージが重なるが、比較するとドラマの切迫感や絶望感は薄く感じる。日本崩壊の危機なんだからゴジラに負けるはずがないのだ。新聞記者を物語の進行役にすえたところも古くさい感じがする。
お話で描かれる危機の焦点は、より映画向きな2号炉のエピソードではなく(決死隊で圧力バルブ解放に挑むもことごとく失敗、炉そのものの壊滅的爆発寸前にメルトダウンが発生し内圧が下に抜けた)、使用済み燃料が保存されていた4号炉だった。大量の水が近くになく空だき状態が続いていたら、東日本に人が住めなくなる未曾有の事態が起こる危機が目前にあった。ほんとうに何度も日本列島が破滅寸前だったのは現実だ。恐ろしい。

映画「モアナと伝説の海」

2017-03-28 14:07:07 | 映画感想

ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ監督

美しい島モトゥヌイに危機が迫る。少女モアナは海の意思に選ばれ禁じられた外洋への航海に旅立つ。いたずら者の英雄マウイが盗んだ、女神テ・フィティの心(宝石)を返すために。ディズニー映画には珍しくお話とテーマが未整理でわかりにくい。後半はモアナとマウイの二人でドラマが進行するので(マッドマックス椰子とか絡むけど)、ちょっと眠くなった。歌と映像はいい。

マウイによって創命の女神テ・フィティの心が盗まれた。そのため闇が生まれ、人間にに心が宿ったという神話はそれとして、心を返しに行くとはどういうことか? 人間の心はなくならないの? モアナたちの祖先が大航海民族だったいにしえの時代にも、闇が世界にじわじわ広がっていたということなの? 冒険の成果で島に安定がもたらされた予定調和はいいとして、皆で島を出て行くのは何故なの?
侵略や征服もなく、美しい島で満ち足りて暮らしてゆくのもそれはそれでいいと思う。遙かな外洋へ乗り出していった偉大な祖先の血が甦ったというのはわかるけれど、物語世界には異質な、西洋的な価値観が接ぎ木されているようで違和感を持った。

主人公モアナの可愛さ。動きの面白さ。海の美しさ。マンタの神々しさ。光線と空気の臨場感等々、素晴らしい。主題歌「どこまでも」の耳に残るメロディ。見所は充分にある。吹き替えで鑑賞したのだが、モアナの声をあてた屋比久知奈さんのアクセントが微妙になまっていて(沖縄なまり?)それがとてもいい感じだった。

映画「コクソン」 その3

2017-03-22 19:26:11 | 映画感想
ひきつづきネタバレです。
(その2追記の解釈を暫定最終解釈?にします)


第4の解釈 邪教蔓延
3番目の解釈は、なんだかんだで作品にちりばめられた罠にいちいちひっかかってしまったようだ。そこで、もっと素直にもう一度考えてみることにした。ここ数日、道を歩きながら、車を運転しながらもずっとこの映画のことを考えている。他の映画を見ることができない。いや、正直に告白する。二度目を見てきた。14日に初見、感想書いていたらわけがわからなくなって18日に再見。普段買わないパンフレットも買った。それからさらに4日たってこの文を書いている。またしても細部や前後関係を忘れてしまったが、いずれDVDで見返す事ができるまでは今のまま頑張るほかはないのだ。

今回の方針
登場人物にはすべからく二重性があり、正邪が判別しにくい。そこで物語の中の出来事=ファクトに注目しそこに原点を置くことにした。
そんなこと言いながらも、まず注目したのはこれ。
祈祷師の示した瓶の中にカラスの死体。

1.祈祷師が現れ「この家は悪霊に憑かれておる。ほれソコを見てみい」なんて言いカラスの死体が出てきたりしたら、典型的イカサマ師という宣言みたいなものだ。加えてこの祈祷師は目の前で本当の驚異を起こす力はないことを示している。小者だ。そして仕込みを行った協力者がいる。

2.下手人体内からキノコ成分が検出されたというのは、幻覚云々ではなく警察発表の事実だ。この地に幻覚キノコを蔓延させている奴、奴等がいる。目的は何か。村落なのでテロ活動とは思えない。宗教活動ではないか? 次々続く家庭内大量死は何のため? 脱会・裏切りは死ということなのか?

見たまま素直に考えれば國村も邪教の徒である。映画で祈祷師と國村は直接顔を合わせていない。
祈祷師はジョングからの「怪しい日本人」という伝聞だけで國村という人間を特定し、あまつさえ「殺」まで送れるのか。國村の所持物すら持っていないのだ。
故に祈祷師の派手な祈祷フェスティバルは、デタラメもしくは別の目的があったのだ。
祈祷師が履いていたふんどしも、デビル國村と共通する。
國村と祈祷師はグルなのか? なにかあれば、毎回どこかのおばあさんが出てきて祈祷師に頼めという。すでにこの地の村人達の中、主婦やおばあさん達の間に、キノコの幻覚を利用した邪教がはびこっているのではないだろうか。國村は呪術担当である。

3.赤目(ふんどし)のデビル國村の登場場面は3カ所しかない。
1.ジビエ肉屋が山で見た。
2.ジョングがムミョンに導かれ焼け跡で見た。
3.助祭イサムが洞窟で見た。
2.は悪夢だったことが示される。1.肉屋は山で滑落・気絶の後、デビル國村を目撃するが具体的被害をうけていない。これも悪夢のようだ。
3.のイサムが見た最凶悪なデビル國村も悪夢の可能性がある。病床に伏していたイサムの状況は、1・2と共通性がある。

4.白い服の女=ムミョンとは何者か。ラストの鶏三度の場でギョングを止められず、悲しく叫ぶムミョンの目が青く光っていた。人間じゃないのかしら。
第2の焼け跡現場で、ムミョンはジョングに「刺されて死んでゆくおばあさんを私は見ていた」(僕の記憶あいまい)と語りかけていた。ジョングは「目撃者」だと思い込むが、目撃者というより「当事者」と言うべきだろう。彼女は事件現場にいた。そして無傷である。彼女は亡者、霊なのか。
霊なら何故ギョングに向かって石を投げることが出来たのか? これもギョングの夢の起点がムミョンの登場からだとすれば問題ない。同席していた同僚は早々聞き込みに追いやられ排除されている。
ジョングの悪夢にかぎってムミョンという異なる存在が「混在」していることになる。ムミョンがジョングに見せた夢ということ?

主な三人の関係はこうなる。國村(邪教の徒)、祈祷師(邪教の徒)、ムミョン=白服の女(対立する存在)

第1の事件は、商売の上手くいかない朝鮮人参売りの夫婦がコロされた。この事件だけ他と様相が異なる。被害者夫が離れた納屋でコロされ油紙に包まれた後、妻のいる家に運ばれ、そこで妻もコロされた。家ではなく納屋の方に呪いの枯れ草(キンギョソウ ドクロで検索)が置かれていた。(はじめ稲穂かと思った)

毒キノコ健康食品によってヤク中にさせられた男が、旦那を呼びだし殺害(だったっけ?)。遺体を油紙に包む迄の意識はあったわけだ。旦那包みを担いで彼の家へ行き妻もサツガイ。発見された時は瘡まみれで意識をなくしていた。口封じだ。この間でなにかあった? 納屋にあった鳥かごみたいな物はまだよくわからない。

第2の事件
は「おばあさんが、祈祷師を呼ぼうとしたら、それをいやがって事件が起きた」と誰かが言っていた(僕の記憶あいまい)。第1の事件が及ぼした恐怖が、毒キノコ健康食品を使用する他の家に破滅をもたらした。火災が起き周囲が停電。夜の警察に自首しようとしたオカミさんをジョングが目撃。オカミさんは、邪教の徒に吊された。(キノコ呪法をかける余裕がなかった)
ムミョンはこの事件の火災で死んだ娘?コロされた被害者の一人で、巫女体質をもっていた娘が霊となって邪なる徒を滅ぼそうとしていた、のかしら。

そもそも、ジョングの娘はただの病気で苦しんでいたのをジョングが早とちりしたのではないかと思う。思春期にさしかかり父親に反抗していただけなのを悪霊の仕業と誤解、おばあの勧めにしたがって悪の祈祷師を引き入れてしまったのだ。娘を信じてやれなかった。
初めに味覚が変わって嫌いだった魚を食いだしたのは(そういうことがあるのか知らないが)ホルモンバランスの変化のため。暗黒落書きは父親ジョングの疑心暗鬼、あるいは國村の呪結界に影響された心が生んだ妄想ではないかと思う。

派手な祈祷スタイルは、祈祷師はそもそも呪術担当じゃない小者なので、國村とちがって専門じゃないから。それでも一度目の祈祷で娘に恐怖をうえつけ、二度目の祈祷で心を壊した。ジョングの娘は國村ではなく祈祷師が担当したのだ(靴は別人の物)。真相をかぎまわるジョングをいずれ排除する為だろう。結末場面、ムミョンの攻撃でゲロした祈祷師が去った跡に髪飾りが落ちていたのは無論、祈祷師が落としたもの。祈祷フェスティバルの時、呪いに使ったのだ。祈祷師は呪いを急ぎ完結させようとしていたのか。
ラストシーンで祈祷師が現場の写真を撮り始めたのは、國村が死んでしまったことを関知したうえで自分が引き継ぐという意味。彼の車に娘の写真が多数あったのは呪術のためというよりロリコンだったのでは。

さかのぼって、祈祷師が空をみつめて「愚かな、エサを腹に入れたのか」と言う場面。祈祷師は憑かれた娘を家に入れたジョングに言っていると思ったが、これは國村に対して言った言葉だった。どういう事か?

山道を歩いていた國村が、車に乗って死亡していた第4の事件?の下手人(死体)を見ておびえる場面があった。何者かがキノコ死者を操り國村のもとに迫ろうとしている。國村は敵対者に、一世一代の呪術で死人返し(適当に命名)を行うことを決意。ニワトリ買ってきて水ごりして挑んだ必殺の呪法。
映画では祈祷フェスティバルと同時期に進行するので誤解するが、國村がいきなり苦しんだのは、彼自身の呪いがムミョンから返された為。息を吹き返し床に伏せ目を閉じる國村。開け放たれた戸口の外に、ムミョンが静かに現れた。見つけた。この男だ。
死人返しは失敗、蘇生した死人は翌朝、國村の所に来てしまう。國村をコロしにだ。ところが殴り込みに来たジョング一味と鉢合わせになり、こいつらと死闘に。が、突然死人は突然活動限界を迎える。罪のないジョング一味を殺そうとしたので、ムミョンが引導を渡したのかも知れない。

一部始終をおびえて見ていた國村は、ムミョンの姿を見(國村としては初対面)、正体を知らずに追いかけるが、断崖に誘導され道路に落下、ジョングの車に当たり、死亡。ジョングは國村を助ける気も葬る気もなく彼を谷底に捨てる。

「おろかな…」と言った祈祷師は、このとき来ていたおばちゃん二人(信者)から、逃げ帰った者どもの顛末を報告され、國村の命運を知ったのだ。(前後関係が間違ってるかも知れない)


台詞の向けられた対象を勘違いする。それはもう一つあって、時をさかのぼるが、
病院内で、落雷を受けたジビエ肉屋の病床脇で彼の妻が「漢方薬を飲んでいたから助かった」というのは落雷のことを言ったのかと思うと笑うが、そうではなくて毒キノコ健康食品に頼らずに済んだ、あるいは毒素にやられずにすんだとしみじみ言った言葉だったのだ。
ジョングが焼き肉屋での食事の翌朝、体が麻痺して起きられないのはキノコを盛られたのか。店には首筋にキノコ腫れのある女がいた。この後ジョングは漢方による治療をうけている。

ジョングの治療と同時刻、彼の娘がとなりのおばあさんを刺したのは、夢に現れる男と同一視してしまった錯乱によるもの。あるいは、隣のばあさまもキノコ講の一味で、娘に何か怪しい呪法をかけようとしたのだろうか。

このお話では実に多くの人が、恐ろしい幻に翻弄される。人々に恐怖を与え狂わせる邪教徒の呪力がこの村で猛威をふるっていたのか。しかし前にも書いたが赤目のデビル國村が画面上に映像で現れるのは3度。しかもどれも「妄想夢」と思われる。3番目に登場した國村がとりわけこってり邪悪なのは、助祭イサムが信仰に疑念を持っていた反動であると思う(前の二人より物を考える人だった)。ジョングのように「はっ」と目をさまし、夢だったのかという場面が省略されているのだ。
デビル國村は死なず本当の魔人になったのだと言う解釈もじゅうぶんありえる(その場合鹿喰いデビル國村も実在? 魔力充実故の行為?)。
だが、今のところ僕は國村は激突事故で死んだと思っている。
他の人の夢に出た恐ろしい男の幻が、すべてデビル國村であったとは限らない可能性も指摘しておきたい。ただし、ジョングの同僚は山の家で惨劇写真を見ている。事件を起こす前にデビル國村を見たかも知れない。錯乱し、奥さんがデビル國村に見えたので刺したのだろう。

ジョング達が初めて國村の住む山の家を捜索した時みつけた彼の持ち物「能面」「図鑑」「和綴じの春画」などの目くらましの馬鹿馬鹿しさに、呪い部屋にあった縛られた悪魔像、床に放置された十字架、そして鴨居の上の老夫婦?の写真なども見過ごしてしまうが、高々と掲げられている二人は教祖ということを示している。悪魔崇拝の淫祠邪教の徒なのだ。

ムミョンが最期に仕掛けた鶏三度の罠とはなんだったのだろうか。
おびえて車でソウルに逃げようとしていた祈祷師の逃走を諦めさせた。地図で見るとソウルは韓国の上と下くら離れている。カラスの糞?攻撃で祈祷師は車をを止めたが、攻撃は止んだ。祈祷師の命が奪われることはなかった。ジョングの娘がムミョンの念を止めたのだ。娘は家の周囲をまわって呪いを妨害する者へ念を発していた(髪飾りはこの時落ちた?)。つまり祈祷師の呪いの発現は迫っている。祈祷師は携帯電話で、ジョングを娘の元にいてやれと説得する。邪魔なジョングの死を願う故だ。

ムミョンはそんなジョングに鶏が三度鳴くまで入ってはいけない、家族コロしが起きる、と警告する。

以下の解釈は、まだ不満足なのだが、こういことなんだろうか?
家の中にいたのは、娘、母、祖母の三人だ。鶏は二度まで鳴いて、母と祖母が死んだことを伝えた。三番目に鳴くとき、娘によってコロされるのは戻ってきた祈祷師の筈だった。祖母と母すでに死んでしまっていたが、ジョングだけでも救おうとしたということなのか?

ギョングの家の門に吊された髑髏姿の種子になったキンギョソウは、呪いの完結を祈祷師に伝え、ムミョンの力が及ばなかった事を確信した祈祷師はジョングの家に入っていく。



●ジョングの娘が見た男とは誰だったのか? まだよくわからない。「壁から男の人が現れる」と初めて娘が言って泣くとき、一瞬、障子を背景にシルエットの人物が写る。これが誰なのかよくわからなかった。気になるから、DVDがレンタルされたら要確認か……。もっとシンプルな解釈を思いつくだろうか。そういえば、本稿ではムミョンは霊であり物理的接触が出来ない前提だが、ラストでジョングの手を握っていたよな……あれどういうことなのかしら。む、む、むむむ矛盾か。もう疲れた(憑かれた)よ。


●パンフレットから得られたヒントは、とりあえずキンギョソウだけ。キゾー先生の文章は教会神父の言に真実があるような意味かと取れたが、僕の中でそれ以上生かせなかった。監督インタビューでナ・ホンジンは「エンディングから慰めを感じてもらいたい」と言っている。なんのこっちゃである。
ネットで調べたところコクソンは「昔、韓国のキリスト教徒への迫害を本格的に加え始めた震源地」なのだそうだ。谷城(コクソン)旅行~谷城の隠れ名所「メタセコイア並木道」~ http://ameblo.jp/jnkorea/entry-12205558464.html
なぜ、この地なのかという理由なのかもしれない。

●韓国語はわからないが、カットされた結末らしい。(一分五十秒程から)
https://youtu.be/62bt5ZdRJ7w  これからすると國村は明確に復活したのだから、魔人決定。祈祷師は仕える者。ムミョンは地元の守り神?精霊?犠牲者の魂?ということがあきらか。これはなら悩むことはなかった。映画がぐんとこじんまりしてしまう。カットして正解だ。この映像から逆算して、この項を作り直せば正解ということになるのか? それじゃむなしいよ。

●エガちゃんが、この映画を10回見た上で、こんな解釈をするのはオレくらいだ! と言ってあげた黒幕の名前が、監督がインタビューで答えた名前だったそうだ。誰だろう。刺された隣のオバアか? そもそも監督ってインタビューでこんな事ずばり答えるのか?(「映画秘宝」当該記事を読みました。エガちゃんは祈祷師を意外な黒幕としてあげていた。なんだ、つまらん)

コクソン その1
コクソン その2

映画「コクソン」 その2

2017-03-19 08:13:31 | 映画感想

ネタバレです。
(その2追記の解釈を暫定最終解釈?にします)

第3の解釈 聖人降臨(挫折)
ネットで散見するインタビューなどでナ・ホンジン監督は、山の中の男(國村氏)をキリストに、コクソンという地をエルサレムになぞらえたと繰り返し言っている。結末の手のひらの聖痕などもあり、彼はキリストの再来、あるいは新たな聖者であると考える人もいるようだ。だが、赤い目をして鹿喰ってる怪物と聖人が何故両立するのか。僕にはどうにもわからないのだ。

同じ顔をした國村氏が二人いる、としたらどうだろう。赤目の男は、聖者國村を貶める、悪霊(祈祷師)の偽りの姿と解釈してみた。悪魔なので姿形は変えられるのだ。ジョングの目の前で祈祷師が服を着替え、履いていたふんどしをことさら見せる場面があった。ちょっとわざとらしいけれども祈祷師と、赤目の鹿喰い・デビル國村が同一というヒント(??)なのか?

主な三人の関係はこうなる。國村(聖者)、ムミョン=白服の女(聖者の弟子)、祈祷師(悪魔)。

イエス國村が降り立ったコクソン村。ここでは悪魔が魂喰いの猛威を振るっている。ムミョンは悪魔によって家族をなくしたが自らの命は國村に助けられた。後発の事件で、魂を喰われんとする被害者を救い、そこから(使徒)となる助力者を生み出す努力をしているのだが、コクソン村では全て失敗。警官ジョングに望みを託すのだが、結末のペトロの否認の試練?を通過できず、これも失敗する。

山の中の家は、祈祷師の出張アジトだった。写真や悪魔祈祷の遺物は祈祷師のもの。國村はそこで祈祷師を待ち構えていたのだ。あるいは既に闘いはすんで悪魔は黒犬に閉じ込められていた?(ジョングが解放してしまった)。
國村が走行車に飛び込み瀕死の有様になるのは、悪魔を油断させおびき寄せるため。ラストシーンは、助祭イサムに憑依して(信仰への疑念につけこんだ)、洞窟までやってきた悪魔に、映し鏡のように悪魔の姿になって見せ、悪魔がやっていた霊喰いの行為(写真を撮るという映画表現)そのもので、悪魔を飲み込んだ(滅ぼした)のだ、という風に結末を解釈してみた。

検索して知ったことだが、ペトロの否認とは弟子ペトロにキリストが「あなたは明け方の鶏が鳴く前に、私を三度知らないというだろう」と預言し、そのとおりペトロはイエスの逮捕の現場から逃げ出してしまうという故事らしい。映画では鶏が三度鳴くとなっておりちょっと違うんだけれども、ようするに偽りなく神を信じきることができるのかということなんだろうか。

ムミョンが、ジョングに石を投げる場面がある。ペトロはイエスから「ケファ」と呼ばれていたらしく、これには岩とか石という意味があったそうだ。ジョングに使徒ペトロにあたる役割を期待したということなのだろうか?それとも「罪なき者は石を投げよ」からきているのかしら。

教会の若い助祭イサムに、ジョングが「変わった名だな本名か?」と聞く。字幕でわざわざイサムの名にかぶせて「2・3」とでる。韓国語の「1.2.3」は「イル・イ・サム」だ。では23に何か意味があるのかと「キリスト教 23の意味」で検索してみるとhttps://matome.naver.jp/odai/2140484723192683201「物事を支配する奇妙な数字『23』の謎」というWEBページに「西洋では、23 は 13 と同様に凶兆を表す数字であると、アレイスター・クロウリーやウィリアム・S・バロウズがその著書で主張している。」と書いてあった。23も縁起が悪い数字なのか。しらなかった。イサムが凶兆を背負っていたという伏線なのか?

イエス國村が車に身を投げてた捨て身作戦(復活前提だが)のとき、ムミョンは遠くから見守っていた。思いついてマグダラのマリアを検索してみると「イエスに従った女性」「悔悛した罪の女」「亜使徒」とあり、そしておお「イエスの死と復活を見届ける証人」と書かれている。(wikiです)

これでいける!と、この時点で僕は有頂天になって、ツイッターではしゃいでしまった。やったぞ、おいらもやっとわかったぞ。
韓国の田舎、コクソン村にキリストが再臨した話なのか。そんな壮大な!
くどいので省略するが、気になっていた象徴や細部の辻褄が、この説でぴたりぴたりはまっていく。

なんとなくブルガーコフの小説「巨匠とマルガリータ」を連想したのは、聖者の計り知れぬ計画のため、無情にも捨て駒のようにあつかわれる人間たち、という点に共通を見たのか。
全知全能なら咳払い一つで悪魔など消し飛ぶのでは?とも思うのだけど、意外と不便な全能者像は、ロン・カリー・ジュニアの小説「神は死んだ」に描かれている。「神が、紛争のさなかのスーダン・ダルフール地方に現地のディンカ族の若い女性の姿で再臨する」というお話。

と、矛盾に気がついた。この解釈だと、イエス國村が車道に身を投げる前、ゾンビ顛末のあと彼を追ってきた村人たちへの卑屈な態度が説明がつかない。彼の復活の証人である筈のムミョンを追いかける場面も矛盾する。死体に祈りをかけて何をしようとしていたのか?ただ復活を止めるルーティン? ラストのデビル國村も必要以上に邪悪な感じがする。

結局、矛盾が解決出来ず、この3番目の解釈はご破算にした。はしゃいだツイッターの書き込みは恥ずかしいので削除した。あほ丸出しである。2番目の解釈としてあげた「吸血鬼説」も、別の話をつくってしまう様で子供っぽくもあって大概だが。それにしても、もう映画の前後関係や細部の記憶があいまいになってしまった。

コクソン その1
コクソン その3

 


追記 2018年9月28日

「2000年前に人類の前に立ったもの、それは聖も悪も併せ持つ正真正銘の異物であり、ユダヤの人々は長い年月と天才たちの知恵をかたむけて神と悪魔という概念に分化させた。…コクソン村に再び現れたそれは、はじめて見る人々には再び異物にしか見えない」しかしそれだと映画後半、國村隼の村の精霊に対しての必要以上に?弱々しい卑屈な態度が説明がつかない気がして、結局放棄したというのが上の文の流れでした。

でも、鑑賞から時間をおいた今になって思えば、國村隼演じる存在はゴッドではなく、ゴッドのように振る舞っているだけの卑小な西の(西洋の)妖怪みたいな感じくらいに考えられます。案外それでいいように思います。水木しげる的世界くらいに。ゴッドとして考えるから隘路にはまってしまったのかな(ゴッドでは唯一絶対の存在になってしまう故)と。カットされたラストというのがようつべに上がっています。https://youtu.be/62bt5ZdRJ7w  (「コクソン感想 3でも言及」1分50秒ほどから)まさにカットして正解で、これを見る限り、妖怪大ゲンカの果ての気だるい結末的な感じ。ただし國村隼の演じた「何か」は、現状ではゴッドでは無い西のチンピラ精霊だとしても、さまざまな地場の神々を喰らってゆくゆくはゴッド的になるという考えもあるのかもしれません。キドッキョ(基督教)という地場的キリスト教のお国柄ですし、ゴッドの捉え方に許容度があるのかもしれません。


映画「哭声/コクソン」

2017-03-15 12:44:19 | 映画感想

ナ・ホンジン監督

のどかな韓国の田舎で一家惨殺事件が連続して起きる。まるで悪霊にと取り憑かれたようだ。時を同じくしてこの村に現れた初老の日本人が怪しい。警察官ジョングは部下と共に謎の日本人(國村隼)の住む古びたハンオク(韓屋)を訪ねる。勝手に上がり込んだ彼の部屋にあったただならぬ呪術の痕跡に恐れをなし、帰ってきた國村に三日以内にこの村から出て行けと脅し、激高して國村の飼い犬を殺す。ジョングの幼い娘にも異変が現れていたのだ。

悪霊が憑いて除霊する、ゾンビが現れて退治する、吸血鬼と闘う。など、ジャンルホラーにはお話の型があり、見る側もある意味安心して鑑賞するものだ。この作品はその定型を破り、何だかわからないうちに惨劇にみまわれ何だかわからないまま破滅に瀕するという「状況」を作り出そうとしている。悪霊払いの話のようでもあるが、ゾンビみたいなのも出てくるし、憑き物払い師は3人も出て一見対立しているように見える。ジャンルとして整理された現代のホラーで、一定の水準にありながら何だかわからない混沌を生み出すのは簡単ではない。その狙いは先鋭的で、多くの観客は混乱の渦中にある。作り手の意図はかなり成功しているのではと思う。

それにしても、あまりに何だかわからないとおさまりが悪いので、以降ネタバレありで、鑑賞後自分の思考の流れをそのまま書いていこうと思う。

第1の解釈 転移する悪霊
映画「コクソン」見る前は柳町光男監督の「火まつり」をもっとエンタメに振ったようなお話なのかなと思っていたが、実際見てみるとむしろ「エクソシスト3」を連想。悪霊は居場所を次々と変え、そのつど登場人物の関係性が変化・逆転する。
直後、僕は悪霊憑きの話と理解していた。だだしそれは一対一の関係ではなく、憑きものは何度も憑依の先を変える。祈祷師に悪霊が憑けば自身が悪魔払いの対象になる。悪霊は使い魔のような依代となる人間をつくり、その者に惨劇を起こさせていた。この意味で「エクソシスト3」を連想した。
イサムというのは、日本に留学経験のある、キリスト教の若い助祭。ジョングの同僚の甥であったことから、謎の日本人の捜査に通訳としてかり出される。彼は後にゾンビのような生ける死体に頬をかまれてしまう。終盤、イサムは思いつめた顔をして一人で車を走らせ、謎の洞窟の中に國村を見つける。彼の手のひらには穴があり(聖痕?)、問答の末、國村はカメラを取り出しイサムの写真を撮った後、悪魔の姿になり彼を襲う。
この場面はイサムが魂をのみこまれてしまう直前に「キリストの復活」から想起した、信仰への疑念による悪夢的幻想と解釈した。

エクソシスト3を見た時、僕は以下のように書いていた。「悪魔を身に引き受け自死したカラス神父の肉体は、悪魔によって復活させられ、シリアルキラーの魂が移植されていた。カラス神父の精神の残滓は15年、脳内?で、闘い続けていたのだ。劇中の怪奇なお婆さんは精神の病につけこまれ悪魔に道具のように操られていたというわけ。現実世界に干渉するためになんらかの肉体を必要とするようだ。」このお話とどこか対応するように思う。

お人好しの警官、主人公ジョングは、お人好しでどこか抜けて、臆病なくせに直情的でキレやすい。韓国映画でよく見るタイプの人物として安心して見ていた。だが彼に魔がやどった瞬間はなかったか?娘への愛情は普遍的なものだとしても、彼が破滅を早めたとも言える。定型的人物に対する批判と、人の心をよぎる魔を垣間見せる。そういうテーマの映画なのかしら。

第2の解釈 吸血鬼の一族
ここで全く違う可能性に気がついた。もしかしたら悪霊ではなくバンパイヤ物なのか? 國村が獣の肉を喰らう場面に惑わされてきたが、これを彼の二重性の表れではないかと考えた。人の血を吸う代わりに山の獣の血で乾きを癒やす。冒頭の釣り針に虫を刺す場面は、餌をまいている、ということの象徴か。彼は誰かを追ってきたのか?

國村が追ってきたのは祈祷師?この二人は純血にちかい?特異存在で、通常の犠牲者が腫れ物まみれの死者として復活するのとは異なるということだろうか。数々の家庭内惨劇は再生した感染者が血液を欲した故?
現地の人々がふんどしを「おむつ」としか認識できないのにたいして、祈祷師がふんどしをしているのをことさら見せる場面があるのは、彼の日本滞在経験を示している、のかもしれない。國村は自らを怪物に変えた祈祷師を殺すため韓国に、この村に来た。彼をおびき寄せるために事件を起こした。一応の整合性はつく。たくさんの写真の意味は、写真に写らない人間を探していたということ?

白衣の女性は、人間側のバンパイアハンターということになるのだろう。(そうだとするなら何故とどめを刺さないのかがわからないが)石を投げていたのは石打を連想させ、鶏が三度鳴くというのはキリスト故事に関係あるのかもしれないがよくわからない。
結末、イサムは既に感染体であり、映像はイサムの主観を反映していた。イサムの実の姿はすでに人にあらず。國村に写真を撮られ鎮められるべき対象になっていた。
第1の解釈とは逆に、洞窟の場面は現実でバンパイヤの再生が始まった國村が、イサムの目の前で真の姿を現した。混乱のきわみでイサムはそこに、悪魔と聖者を同時に見てしまう。

冒頭、警官ジョングがみた場面、柱に寄りかかった腫れ物だらけの男と、背後の部屋の惨劇。映画の結末では柱に寄りかかる娘の背後の部屋で、ジョングはそっくり同じ場面の中におさまっていた。(つまり同じ事が起った。それはまた繰り返すということ)ジョングの娘は病院で体はがねじれた時に既に死し他のものになってしまったのだろう。

國村は写真を使い復活を阻止していた? 祈祷師も写真をとるのは、歩き回る死人が世間にうじゃうじゃ蔓延したら彼等にとって不都合なため、念を送り鎮める行為は必須であり、依り代として現場から物を盗ってきては足が着くことから写真を撮る手法が定着したのかもしれない。
冒頭示された鳥の巣のような物のあるゴミだらけの部屋は、被害者家族が、やがて事件を起こす変わり果てた身内をかくまっていたということなのだろうか。

キリスト教の教養がなくいろいろわからないことがあり、解釈が漫画っぽくてお恥ずかしい。吸血鬼なのに日光を浴びてもいいのだろうかとも思う。もう一度見たら違うこと考えるかもしれない。

コクソン その2
コクソン その3

ドラマ「ミスター・ロボット」S1

2017-03-15 08:48:19 | ドラマ感想

MR ROBOT シーズン1予告編

セキュリティ会社オールセーフに勤める地味な社員エリオットはその実凄腕ハッカーだ。プライベートでは小悪党の秘密を暴いては通報する日々。ある夜幼なじみの上司アンジェラに呼び出され、クライアントの超巨大企業「Eコープ」への大規模攻撃を壊滅寸前に防ぐ。ハッキングの痕跡の中に犯人の刻印「f・ソサエティ」を見つけた。彼等を追うエリオット自身が「f・ソサエティ」にスカウトされる。

聡明な内面を持つが、孤独感に部屋の隅で一人泣くエリオットは次第に薬へ依存し、現実感が混濁する。人類最大の権力「Eコープ」を粉砕し1%の占有する富を解放せんとするf・ソサエティに勝算はあるのか?実在企業や有名人が実名で厳しく批判されるひりひりするドラマ展開だ。面白い面白い。

Eコープ内部では、地位確保に破れた技術者タイレルがエリオットに接触を図る。巨大権力の本当の中枢にいる者が馬鹿な筈もなく、老獪な知恵で立ちはだかる。その余裕はどこからくるのか。
10話をかけて革命の端緒と顛末が描かれ、ある結末を見るが、なおドラマが始まったばかりという感がつよい。脚本の巧みに感嘆。
今そこにある社会の矛盾、エリオットの実存、古典的復讐譚が絡み合いその行く末は見えない。放置された伏線も多々ある。シーズン2を渇望する。

f・ソサエティのリーダーとエリオットが海岸の手すりに座り会話する場面で、もしや…。とは思ったが、ここまでエリオットの妄想に踏み込んだ展開になるとは正直思わなかった(ネタバレを避けまわりくどく言ってます)。伏線らしきものは確かにあったが整合性はとれているのだろうか。

そういえば、エリオットは自らのハッキングで裁いた者、去って行った者、死んだ者などのデータをパソコン上から消去、CD-ROM(DVD?)に焼きつけファイルに納めている。墓標のコレクションのように。このあたり、ドラマ「デクスター」の血液のコレクションを思い出したが、デクスターとの類似はもう一つあったわけだ。→幻の父

コンピュータ無知の僕でも、ハッキングの描写、モニターに映るプログラムの列など、描写の迫真性は伝わってくる。それにしても、漢字のブログラム言語??があるなんて知らなかった。

題名の意味、80年代ぐらいの(今となってはふるくさい)未来的ロゴの意味は早々にわかる。ロボットそのものは登場しないのだが、このドラマの世界でのAIはどういう状態なのか。登場しないのかも知れないが。

映画「お嬢さん」

2017-03-06 20:19:40 | 映画感想

パク・チャヌク監督

がサラ・ウォーターズの「荊の城」を、19世紀半ばのロンドンから日本統治下の朝鮮におきかえ映画化。原作未読。貧民街の泥棒集団で育った娘スッキは、藤原伯爵を名乗る詐欺師に、令嬢秀子を誘惑し相続分を奪う計画に加担しろと命ぜられ、侍女・珠子として上月家の豪邸へあがる。

なるべく前情報無しに見るつもりが原作者はたしか○○と聞いたっけなんて思い出した為、意外な展開が、まだ底があるぞ程度には見えてしまう。しかしこの映画の魅力はそんなことより和洋折衷の大邸宅などの怪しげな美術、えげつなく無残すぎて笑ってしまうエログロナンセンスだ。(恐怖の地下室の可笑しさ) ゴシックロマンの世界がこんなにも見事にアジアに置き換えられているのに感嘆するしかない。画面構成の美しさ、奇っ怪さに堪能する。

しかし、ついこの間見た「京城学校 消えた少女たち」でも日本統治下の、異世界的な映像を見たばかり(この36年間がファンタジックな幻想生活を描きやすい時代なのだろうか)パク・チャヌク監督なら、もっと先を見せてほしいと思ってしまう。三幕構成でどんでん返しを繰り返す語りも、それほどまでには尖っていない。期待しすぎだろうか。(ちなみに、木造の洋館は韓国映画「箪笥」「ベストセラー」に登場する、「いつものあの建物」ではなかった)

もうひとつ、放送禁止的エロ言葉が連発されるので、言葉責め的ドキドキ感にひそかに身もだえしてしまう。子役がオ○○コなんてずばずば言うもんだからなおさらだ。いかに日常での放送禁止言葉狩りが、わが身に染みついているのかと思う。
秀子を演じたキム・ミニは容貌と体ともに素晴らしく綺麗に撮られていて一瞬松たか子にも見える。ええっ35歳なんですか。珠子を演じたキム・テリも綺麗だが(こちらは26歳)、化粧をおさえ演技もあわせて下女感を出していた。
男たちは妄想に溺れ身を滅ぼし、女達は実利肉体に生きる。悲惨なのだけど、そのあざとさに大笑いだ。コメディ的要素もあると思う。

最後に、もうひとつ。主題にかかわること。
冒頭の字幕が早すぎ、設定を追うのに苦労する。ドラマの7割ほどをしめるかもしれない日本語会話が発音が変すぎて聞き取りにくい。だが早々に主な登場人物はほぼ全員、自分の立場を偽る何らかの「偽者」であることがわかってくる。偽者達が嘘をつき偽物を取引するという状況だ。とすると変な日本語も主題の一環と取れなくもない気がしてきた。

韓国の観客は統治下での「偽者」のドラマにどんな含意をくみ取るのだろう。監督の意図はこんなところにもあるのだろうか。

ドラマ「精霊の守り人 悲しき破壊神」7話を見てのつぶやき

2017-03-05 12:17:00 | ドラマ感想
ドラマ版は、原作の「神の守り人」のパートが7話で一段落。
ドラマでは「神の守り人」の魔神と、シリーズの末尾に現れる最大の敵、覇権国家「タルシュ」が(ドラマ進行中に)同居する世界なので、力の均衡としては全き非対称。どんなにおどろおどろしい帝国が現れようと、魔神で一掃じゃないの? とは当然思うところ。
ところがル・グインの「オメラスから歩み去る人々」の様な命題があらわれ?そうもいかない。一人の少女(魔神を宿したアスラ)の犠牲の上での平和、それでいいのか?ということ。
そういうことらしいのだけど、ドラマでは「タルシュにそなえるため」という呪術師シハナの台詞によって、怖い帝国に魔神で備えよという問題にちょっとかすった程度だ。
。TVドラマだからこんなのでいいのかどうか、なんだかとてもモヤモヤする。
原作では、アスラは安易に目覚めることなどなかったような気がするが、ドラマでは目覚めてめでたしめでたし。バルサにはすぐ次の仕事、という感じ。あの面白い「神の守り人」が、こじんまりしてしまった感があり、正直残念だ。
破壊的な力が生活世界と重ね合うように偏在している恐ろしさは、「ゲーム・オブ・スローンズ」のほうがわかりやすいし凄みがある。「守り人」シリーズの世界でもそれは表現可能なはずなのに、いまいち感があってはがゆい。脚本の世界観にもっと厳しさがあればと思う。

原作では、困難な命題が解決すると、次々に困難な世界が開けてくる感覚だった。そうそうにタルシュ帝国を登場させるのはやむなきとは思うものの、面白さが段階的に増していく感覚はなくなったなあ。

映画「特捜部Q Pからのメッセージ」

2017-03-03 01:24:30 | 映画感想

ハンス・ペッテル・ムーランド監督。

海辺で手紙入りの壜が見つかった。6、7年前に書かれ、誤字もあり、かすれた文面は誘拐され助けを求めるものだった。連れ去られたのは子供か? 名前の頭文字はP。コペンハーゲン警察未解決事件専門捜査班、特捜部Qのカールとアサドが今回も困難な捜査に乗り出だす。
同じ頃、神父を名乗る男が幼い姉弟を連れ去った。だが両親は何故か堅く口を閉ざす…。

原作既読だが、5年前でほとんど覚えておらずハラハラしながら鑑賞。映像化三作目。一番よくまとまっているように思う。無神論者のカールが、ある宗教を信じる人達の中での事件を、自ら心を痛め、アサドと宗教観でぶつかりながら、悲劇を目撃し、苦闘の果てにどんな心境に至ったか。それも見所でした。

それぞれの感想にも書いたが、前2作は原作の凄みともいうところが端折られていて、TVの2時間サスペンス的仕上がりが如何にも残念だった。今回はいいですよ。カールのラストの台詞も主題に対してくどくない。「狩人の夜」とか「天国と地獄」とかちょっと思い出しました。映画のローセは結局地味なままなんだな。

漫画「ど根性ガエルの娘」2巻迄

2017-03-02 18:22:42 | 漫画感想

大月悠祐子著。

大作家の子息とゆかりのある食卓を囲み、在りし日の作家の姿を聞く田中圭一先生の「ペンと箸」。その第八話「ど根性ガエル」の回はわけても感動的な回だった。そこに登場しない長女、漫画家となった悠祐子さんが、自らの手で家族の記憶を描いた作品。ネットで公開されて評判となった「衝撃の15話」に驚愕し、叙述する行為の重層性と業を考えさせられた。…傑作かもしれない。

2巻末の座談会での著者の言葉「人が壊れて、心が迷子になっちゃうというのは、世の中にいっぱいあることで、大なり小なりいろんな思いをしている人がたくさんいる」(引用)そのことを素直に描いた漫画だと思っていた。それでも充分興味深いが本作はもう一段踏み込んでみせる。

2巻の収録は12話迄、現状14・15話がネット上で読むことが出来る。第一話からの全てが違う表情を見せるという評価は確かにその通り。前述の「ペンと箸」で感動していた焼き肉のエピソードにも背筋が凍る。なんだこれは!
確かに現実とは一つの視点で語りつくせぬもの、関係した人の目線の数だけドラマがあるだろう。作者にはもう少し突き放して描いてほしいと思うところもあった。

いやしかし、この漫画の最も感動的なところは多分そのほかにあって、「それでも家族なのだ」という想い(願い)が一貫して流れているところだとおもう。

さらに娘さん(作者)の視点をもまだ疑うことができる。もう一段のちゃぶ台返しの可能性も残されてはいる。

弟さん夫婦はご両親と同居されているの…?


漫画「ど根性ガエルの娘」3巻



映画「ラ・ラ・ランド」

2017-03-01 20:27:15 | 映画感想

デミアン・チャゼル監督

映画「ラ・ラ・ランド」があまりに素晴らしくて頭の芯がボーッとしている。夢を追いかける若く貧しい男女の、つかの間の喜びと失望。これだけでも充分に過去の記憶をゆさぶられ、胸があつくなる。美しい画面、音楽と動きに陶然とする。

この映画のすごみはその先にまっていた。
時を経て、その夢に手をかけた時、彼女と彼が得たものと失ったもの…。それがほんの数分の魔法のような叙述で浮かび上がるその瞬間!
映画が始まってから、次々繰り出される技法に感心していたら、とんでもない高みにまでいざなわれていた感じだ。

「ジャズは言葉の伝わらない同士が、心を通わす手段なんだ」正確じゃないけれどこんな感じの台詞があった。それが終盤にこのように画面にあふれでるとは。幕切れも鮮やかだ。
切なさに体がしびれるよう……。
だが、人生はつづく。映画から受け取るのは励ましのメッセージだ。

ミュージカルなんてあまり見つけないので迷ったが、この映画を見てほんとによかった。

映画「帰ってきたヒトラー」

2017-03-01 11:48:56 | 映画感想

デヴィット・ヴェント監督。

現代ドイツに、自決直前までの記憶をもったヒトラーが突然現れる。理屈づけはなく、公園の片隅にとにかく現れるのだ。
彼は親切なキオスクの主人に助けられ、環境の激変に戸惑いながら徐々に状況を認識していく。そこに、売れないテレビマンのヨアヒムが特異なコメディアンとして目をつけ、クビになったばかりのテレビ局にヒトラーおじさんを連れて行き、トーク番組に出演させると、大ヒット。ヨアヒムは謎のコメディアンを利用して起死回生を計るが、策士策におぼれて…。

良きにつけ悪しきにつけヒトラーおじさんは並の人間ではないわけで、現状況はかつてのドイツににていると見きわめ、不気味な行動にではじめる…。と、いう展開は素朴であたりまえな感じ。では平凡でつまらないかというと全然そんなことはない。実際の撮影はどうなのかわからないが、まるでフェイクドキュメンタリーのように、市井の人に交わりその反応を引き出していくさまはとてもスリリングで面白い。冗長とはちっとも思わない。たしかドイツではナチス式敬礼をすると罪に問われると聞いたけど、そこでコレをやるというのがすごい。

メディアの力を知り抜いているヒトラーおじさんは、どのように現代のメディアに対峙するのか。ネオナチと出会ったとき何が起こるのか。自分の死後の歴史からなにを学ぶのか。興味ある命題が次々にあらわれる。物語の枠が素朴であろうと(あればこそ)、とてもおもしろかった。
原作は未読。

映画「隻眼の虎」

2017-03-01 10:54:38 | 映画感想

パク・フンジョン監督。

1925年日本統治下の朝鮮、峻険な霊峰チリに山の神と恐れられる大虎がいた。捕獲命令を受けた地元猟師らはことごとく絶命。引退し息子と二人ひっそりと暮らすかつての凄腕猟師マンドクは再三の依頼を頑なに断り続ける。彼には忘れることの出来ない凄惨な過去があった。

人知の及ばぬ自然の摂理を体現した虎と、受け継がれた経験則と畏怖をもって立ち向かう猟師達とのドライな闘いが見られると思うと、あにはからんや。無慈悲な殺戮を繰り返す虎に、マンドクは一見不可解な迄に感情移入し、虎もそれに答える。中盤で明かされる過去の事件はある意味定番だが、新たな悲劇的事件の後、マンドクがいよいよ虎狩りにのりだしてからの後半はファンタジー的?展開に。映画「デス・ハント」的な追う者と追われる者の畏敬の表現かとも思ったが、子虎との思い出とかにいたると人獣の交感もいささか度を超してくる。前半はそれなりに渋かったのに…どうしてそうなるの。

悲劇の遠因をつくったのは明らかにマンドクだし、一方的な思い込みに何故虎が答えるのか、後半こうもベタベタな展開になるのかわからなかったが、あることに気づくと「ああ、またこれか」と疑問は氷解。

「かつて固く結ばれていた者達が時を経て分かたれ、敵同士となり闘うも、死を前にその絆を再び見いだす」という「物語の型」が韓国映画では繰り返し描かれている(たとえば「友へ チング」など。北と南に分かたれた国の社会的背景が影響しているのだろうか)。不可解な展開もその「型」をあてはめるときれいに解ける。ここで結ばれていたとされるのは(ちょっと変化球だが)「自然と人間」か。あとは実に型どおりの進行となる。子虎を育てたのは自然と共にあった状態の独特?な表現。 分けたのは日本軍か近代化というところか。マンドクと大虎それぞれの子供をみまう死の相似。避けてきた闘いに至ると双方傷つき、やがて太極図のように横たう。ほんと、ベタやなあ。

しかし、虎との闘いみたいな話にまでその「型」を盛るかね。
監督は「新しき世界」のパク・フンジョン。「隻眼の虎」は本国でR指定で460万人の大ヒットだとか。やっぱりツボなんだね。

軍の指揮官は大杉漣がおそらく日本人俳優ただ一人で孤軍奮闘の好演。この将校なんだか王族のように獣を収集しているように冒頭で描かれるが、趣味ならなおさら、戦でもなく虎退治で兵を大量に死なせては指揮官もただではすまないだろう。あちらの人たちはどう思おうと、王族じゃないんだから。