道楽人日乗

ツイッターのまとめ。本と映画の感想文。
いいたい放題、自分のための備忘録。
本読むのが遅く、すぐ忘れてしまうので。

映画「コクソン」 その2

2017-03-19 08:13:31 | 映画感想
ネタバレです。

第3の解釈 聖人降臨(挫折)
ネットで散見するインタビューなどでナ・ホンジン監督は、山の中の男(國村氏)をキリストに、コクソンという地をエルサレムになぞらえたと繰り返し言っている。結末の手のひらの聖痕などもあり、彼はキリストの再来、あるいは新たな聖者であると考える人もいるようだ。だが、赤い目をして鹿喰ってる怪物と聖人が何故両立するのか。僕にはどうにもわからないのだ。

同じ顔をした國村氏が二人いる、としたらどうだろう。赤目の男は、聖者國村を貶める、悪霊(祈祷師)の偽りの姿と解釈してみた。悪魔なので姿形は変えられるのだ。ジョングの目の前で祈祷師が服を着替え、履いていたふんどしをことさら見せる場面があった。ちょっとわざとらしいけれども祈祷師と、赤目の鹿喰い・デビル國村が同一というヒント(??)なのか?

主な三人の関係はこうなる。國村(聖者)、ムミョン=白服の女(聖者の弟子)、祈祷師(悪魔)。

イエス國村が降り立ったコクソン村。ここでは悪魔が魂喰いの猛威を振るっている。ムミョンは悪魔によって家族をなくしたが自らの命は國村に助けられた。後発の事件で、魂を喰われんとする被害者を救い、そこから(使徒)となる助力者を生み出す努力をしているのだが、コクソン村では全て失敗。警官ジョングに望みを託すのだが、結末のペトロの否認の試練?を通過できず、これも失敗する。

山の中の家は、祈祷師の出張アジトだった。写真や悪魔祈祷の遺物は祈祷師のもの。國村はそこで祈祷師を待ち構えていたのだ。あるいは既に闘いはすんで悪魔は黒犬に閉じ込められていた?(ジョングが解放してしまった)。
國村が走行車に飛び込み瀕死の有様になるのは、悪魔を油断させおびき寄せるため。ラストシーンは、助祭イサムに憑依して(信仰への疑念につけこんだ)、洞窟までやってきた悪魔に、映し鏡のように悪魔の姿になって見せ、悪魔がやっていた霊喰いの行為(写真を撮るという映画表現)そのもので、悪魔を飲み込んだ(滅ぼした)のだ、という風に結末を解釈してみた。

検索して知ったことだが、ペトロの否認とは弟子ペトロにキリストが「あなたは明け方の鶏が鳴く前に、私を三度知らないというだろう」と預言し、そのとおりペトロはイエスの逮捕の現場から逃げ出してしまうという故事らしい。映画では鶏が三度鳴くとなっておりちょっと違うんだけれども、ようするに偽りなく神を信じきることができるのかということなんだろうか。

ムミョンが、ジョングに石を投げる場面がある。ペトロはイエスから「ケファ」と呼ばれていたらしく、これには岩とか石という意味があったそうだ。ジョングに使徒ペトロにあたる役割を期待したということなのだろうか?それとも「罪なき者は石を投げよ」からきているのかしら。

教会の若い助祭イサムに、ジョングが「変わった名だな本名か?」と聞く。字幕でわざわざイサムの名にかぶせて「2・3」とでる。韓国語の「1.2.3」は「イル・イ・サム」だ。では23に何か意味があるのかと「キリスト教 23の意味」で検索してみるとhttps://matome.naver.jp/odai/2140484723192683201「物事を支配する奇妙な数字『23』の謎」というWEBページに「西洋では、23 は 13 と同様に凶兆を表す数字であると、アレイスター・クロウリーやウィリアム・S・バロウズがその著書で主張している。」と書いてあった。23も縁起が悪い数字なのか。しらなかった。イサムが凶兆を背負っていたという伏線なのか?

イエス國村が車に身を投げてた捨て身作戦(復活前提だが)のとき、ムミョンは遠くから見守っていた。思いついてマグダラのマリアを検索してみると「イエスに従った女性」「悔悛した罪の女」「亜使徒」とあり、そしておお「イエスの死と復活を見届ける証人」と書かれている。(wikiです)

これでいける!と、この時点で僕は有頂天になって、ツイッターではしゃいでしまった。やったぞ、おいらもやっとわかったぞ。
韓国の田舎、コクソン村にキリストが再臨した話なのか。そんな壮大な!
くどいので省略するが、気になっていた象徴や細部の辻褄が、この説でぴたりぴたりはまっていく。

なんとなくブルガーコフの小説「巨匠とマルガリータ」を連想したのは、聖者の計り知れぬ計画のため、無情にも捨て駒のようにあつかわれる人間たち、という点に共通を見たのか。
全知全能なら咳払い一つで悪魔など消し飛ぶのでは?とも思うのだけど、意外と不便な全能者像は、ロン・カリー・ジュニアの小説「神は死んだ」に描かれている。「神が、紛争のさなかのスーダン・ダルフール地方に現地のディンカ族の若い女性の姿で再臨する」というお話。

と、矛盾に気がついた。この解釈だと、イエス國村が車道に身を投げる前、ゾンビ顛末のあと彼を追ってきた村人たちへの卑屈な態度が説明がつかない。彼の復活の証人である筈のムミョンを追いかける場面も矛盾する。死体に祈りをかけて何をしようとしていたのか?ただ復活を止めるルーティン? ラストのデビル國村も必要以上に邪悪な感じがする。

結局、矛盾が解決出来ず、この3番目の解釈はご破算にした。はしゃいだツイッターの書き込みは恥ずかしいので削除した。あほ丸出しである。2番目の解釈としてあげた「吸血鬼説」も、別の話をつくってしまう様で子供っぽくもあって大概だが。それにしても、もう映画の前後関係や細部の記憶があいまいになってしまった。

コクソン その1
コクソン その3
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 映画「哭声/コクソン」 | トップ |  映画「コクソン」 その3 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。