道楽人日乗

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映画「哭声/コクソン」

2017-03-15 12:44:19 | 映画感想

ナ・ホンジン監督

のどかな韓国の田舎で一家惨殺事件が連続して起きる。まるで悪霊にと取り憑かれたようだ。時を同じくしてこの村に現れた初老の日本人が怪しい。警察官ジョングは部下と共に謎の日本人(國村隼)の住む古びたハンオク(韓屋)を訪ねる。勝手に上がり込んだ彼の部屋にあったただならぬ呪術の痕跡に恐れをなし、帰ってきた國村に三日以内にこの村から出て行けと脅し、激高して國村の飼い犬を殺す。ジョングの幼い娘にも異変が現れていたのだ。

悪霊が憑いて除霊する、ゾンビが現れて退治する、吸血鬼と闘う。など、ジャンルホラーにはお話の型があり、見る側もある意味安心して鑑賞するものだ。この作品はその定型を破り、何だかわからないうちに惨劇にみまわれ何だかわからないまま破滅に瀕するという「状況」を作り出そうとしている。悪霊払いの話のようでもあるが、ゾンビみたいなのも出てくるし、憑き物払い師は3人も出て一見対立しているように見える。ジャンルとして整理された現代のホラーで、一定の水準にありながら何だかわからない混沌を生み出すのは簡単ではない。その狙いは先鋭的で、多くの観客は混乱の渦中にある。作り手の意図はかなり成功しているのではと思う。

それにしても、あまりに何だかわからないとおさまりが悪いので、以降ネタバレありで、鑑賞後自分の思考の流れをそのまま書いていこうと思う。

第1の解釈 転移する悪霊
映画「コクソン」見る前は柳町光男監督の「火まつり」をもっとエンタメに振ったようなお話なのかなと思っていたが、実際見てみるとむしろ「エクソシスト3」を連想。悪霊は居場所を次々と変え、そのつど登場人物の関係性が変化・逆転する。
直後、僕は悪霊憑きの話と理解していた。だだしそれは一対一の関係ではなく、憑きものは何度も憑依の先を変える。祈祷師に悪霊が憑けば自身が悪魔払いの対象になる。悪霊は使い魔のような依代となる人間をつくり、その者に惨劇を起こさせていた。この意味で「エクソシスト3」を連想した。
イサムというのは、日本に留学経験のある、キリスト教の若い助祭。ジョングの同僚の甥であったことから、謎の日本人の捜査に通訳としてかり出される。彼は後にゾンビのような生ける死体に頬をかまれてしまう。終盤、イサムは思いつめた顔をして一人で車を走らせ、謎の洞窟の中に國村を見つける。彼の手のひらには穴があり(聖痕?)、問答の末、國村はカメラを取り出しイサムの写真を撮った後、悪魔の姿になり彼を襲う。
この場面はイサムが魂をのみこまれてしまう直前に「キリストの復活」から想起した、信仰への疑念による悪夢的幻想と解釈した。

エクソシスト3を見た時、僕は以下のように書いていた。「悪魔を身に引き受け自死したカラス神父の肉体は、悪魔によって復活させられ、シリアルキラーの魂が移植されていた。カラス神父の精神の残滓は15年、脳内?で、闘い続けていたのだ。劇中の怪奇なお婆さんは精神の病につけこまれ悪魔に道具のように操られていたというわけ。現実世界に干渉するためになんらかの肉体を必要とするようだ。」このお話とどこか対応するように思う。

お人好しの警官、主人公ジョングは、お人好しでどこか抜けて、臆病なくせに直情的でキレやすい。韓国映画でよく見るタイプの人物として安心して見ていた。だが彼に魔がやどった瞬間はなかったか?娘への愛情は普遍的なものだとしても、彼が破滅を早めたとも言える。定型的人物に対する批判と、人の心をよぎる魔を垣間見せる。そういうテーマの映画なのかしら。

第2の解釈 吸血鬼の一族
ここで全く違う可能性に気がついた。もしかしたら悪霊ではなくバンパイヤ物なのか? 國村が獣の肉を喰らう場面に惑わされてきたが、これを彼の二重性の表れではないかと考えた。人の血を吸う代わりに山の獣の血で乾きを癒やす。冒頭の釣り針に虫を刺す場面は、餌をまいている、ということの象徴か。彼は誰かを追ってきたのか?

國村が追ってきたのは祈祷師?この二人は純血にちかい?特異存在で、通常の犠牲者が腫れ物まみれの死者として復活するのとは異なるということだろうか。数々の家庭内惨劇は再生した感染者が血液を欲した故?
現地の人々がふんどしを「おむつ」としか認識できないのにたいして、祈祷師がふんどしをしているのをことさら見せる場面があるのは、彼の日本滞在経験を示している、のかもしれない。國村は自らを怪物に変えた祈祷師を殺すため韓国に、この村に来た。彼をおびき寄せるために事件を起こした。一応の整合性はつく。たくさんの写真の意味は、写真に写らない人間を探していたということ?

白衣の女性は、人間側のバンパイアハンターということになるのだろう。(そうだとするなら何故とどめを刺さないのかがわからないが)石を投げていたのは石打を連想させ、鶏が三度鳴くというのはキリスト故事に関係あるのかもしれないがよくわからない。
結末、イサムは既に感染体であり、映像はイサムの主観を反映していた。イサムの実の姿はすでに人にあらず。國村に写真を撮られ鎮められるべき対象になっていた。
第1の解釈とは逆に、洞窟の場面は現実でバンパイヤの再生が始まった國村が、イサムの目の前で真の姿を現した。混乱のきわみでイサムはそこに、悪魔と聖者を同時に見てしまう。

冒頭、警官ジョングがみた場面、柱に寄りかかった腫れ物だらけの男と、背後の部屋の惨劇。映画の結末では柱に寄りかかる娘の背後の部屋で、ジョングはそっくり同じ場面の中におさまっていた。(つまり同じ事が起った。それはまた繰り返すということ)ジョングの娘は病院で体はがねじれた時に既に死し他のものになってしまったのだろう。

國村は写真を使い復活を阻止していた? 祈祷師も写真をとるのは、歩き回る死人が世間にうじゃうじゃ蔓延したら彼等にとって不都合なため、念を送り鎮める行為は必須であり、依り代として現場から物を盗ってきては足が着くことから写真を撮る手法が定着したのかもしれない。
冒頭示された鳥の巣のような物のあるゴミだらけの部屋は、被害者家族が、やがて事件を起こす変わり果てた身内をかくまっていたということなのだろうか。

キリスト教の教養がなくいろいろわからないことがあり、解釈が漫画っぽくてお恥ずかしい。吸血鬼なのに日光を浴びてもいいのだろうかとも思う。もう一度見たら違うこと考えるかもしれない。

コクソン その2
コクソン その3
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