第0015号
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~予言の書・序章「人類滅亡」まで~(第0011号・第0012号参照)
~≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その1~(第0014号参照)
・『予言の書・序章「人類滅亡」まで』
・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その2
・ジプシー問題(イスラーム世界の盛衰)
ジプシー問題は、本来≪・・・・・=「ハインリッヒ・グレルマン」が提唱したジプシー の“インド起源説”などによると、“《9~10世紀ごろ》”の1000年以上前にやインド北西部の「現在のパキスタン南東部の“《シンド地方》”」や「ラージャスターン地方の“ジャイサルメール(ジャイサルメル)”」を脱出したと考えられていて。
その“《ジプシー集団》”は初期イスラム教の西暦632年~661年【・・・=アラブのクライシュ族であった『ムハマンド』の病死後に行なわれたアラブの慣例であった選挙で「アブー・バルク」が初代正統カリフに選任された西暦632年から第四代正統カリフの“アリー”《・・=『ムハマンド』のいとこであり『ムハマンド』の末娘「ファーティマ」の夫:『シーア派』は“アリー”の子孫だけが真のカリフであり神聖な存在であるとしていて「ムアーウィヤ」をカリフの簒奪者(サンダツシャ)と見なしている:『スンニ派』は“クルアーン”(・・=初代正統カリフ「アブー・バルク」による第一回目の編纂作業に引き続き第三代正統カリフ「ウスマーン」の命によって第二回目の編纂作業が行なわれた時に完成した、『ムハマンド』の秘書だった「ザイド・イブン=サービト」らによって“1冊の ムスハフ”に編集・文書化された「クライシュ族の方言であった“アラビア語”」によるコーランで、ウスマーン本と呼ばれる:大天使ジブリールより「神から託された啓示」を与えられた最後の預言者『ムハマンド』が文盲だったために散在していたと言われる“クルアーンの原文”や“試作されたムスハフ”は全て焼却されて現在は一切存在していない=・・)と“スンナ”(・・=『ムハマンド』の言行を“スンナ”と呼び、その“スンナ”を『ムハマンド』の慣行として後世に何度も編纂(ヘンサン)された『ムハマンド』の言行録が“ハディース”である:イスラム教において“クルアーン”は『絶対』であっても、イスラーム法の実施においては“クルアーン”の補完が役割のはずの“ハディース”の“スンナ”が“クルアーン”よりも優先される時がある:ユダヤ教やキリスト教を敬(ウヤマ)うはずの“クルアーン”の内容に旧約聖書と矛盾する所があるとユダヤ人から嘲笑(チョウショウ)された事への『ムハマンド』の「“クルアーン”と相反する‘ユダヤ人への徹底した敵対行為’」などが“スンナ”となっていて、時代々々のスルタンなどが強引に“スンナ”の解釈を政治利用したため=・・)に従う人々の宗派であり、『シーア派』を人間である“アリー”を崇めていると批難している=・・》が暗殺された661年=・・・】の『ムハマンド』の教えを直接受けていた4人の正統四カリフによる正統カリフ時代と西暦661年~750年の「クライシュ族の一門ウマイヤ家のムアーウィヤ」が「“アリー”暗殺後の複数のカリフ擁立(ヨウリツ)を制して唯一の」カリフとなってからの「アラブ人優遇の“アラブ帝国”」のウマイヤ朝による西暦651年のペルシャの滅亡とその後の北西インドへの進出(東方において西暦712年には北西インドの“《シンド地方》”を占領したが、西方において西暦725年にはイベリア半島やフランス南部にまで進出)によるインド北西部の混乱によって“《流浪を始めた》”が。
西暦750年~1258年の10世紀以降には分裂を続けた「イスラム教徒に平等の“イスラーム帝国”」のアッバース朝(・・・・=“《9~10世紀ごろ》”より『イスラム“《神秘主義》”(スーフィズム)』が権力と癒着して官僚化していくアッバース朝のウラマーとそれによるイスラム教の形式化に危惧し、恍惚状態(コウコツジョウタイ)の時のファナーによって得られる神様からの直接的知識の方がウラマーの“クルアーン”や“スンナ”についての間接的知識に優先するとして広まり、聖者信仰やその墓詣でが行われ、“スーフィズム”自体も呪術化し超能力者化していくものの、その後の世界的イスラム信仰拡張の原動力となり、イスラム世界拡大の牽引役となったのだが、“《15~16世紀ごろ》”には「一般信徒の生活が成熟し社会の繁雑化も進み、生活をより豊かにしようと思い“正しい”事をしようと考えてみても、今何が起こっているのかが分からず、何をしたらいいのかも分からない時代になってきてしまい《今起こっている事態に対して自らの理性を尊重して合理的に現実的対応して行く事が簡単な事ではなくなり、さらにはその難しい事にどれ程取り組んでも“正しい”効果がそれ程望めないようになってしまったために》、そんな目に見えない不安や怖れの広まりに呼応するように《自分の行いの“正しさ”の白黒だけではあっても明白に分かる教義に憧れて「“クルアーン”や“スンナ”を厳格に守る事によってのみ、苦しい現世での穢(ケガ)れが祓(ハラ)われて死後に天国へ行ける」とする》イスラム原理主義的教義がもてはやされだした」ために“スーフィズム”に歯止めがかけられてしまって、イスラム世界も徐々に衰退へと向かい始めた:“《ジプシーもそんなイスラム世界の変化と衰退を感じてキリスト教世界へと移動を始めた》”のかもしれない:現在においてもイスラム原理主義の始祖でありワッハーブ運動にも影響を与えたとされる西暦780年~855年生存の「アフマド・イブン・ハンバル」によって、アッバース朝の第七代カリフ「マアムーン」の{“クルアーン”や“スンナ”にとらわれず『自らの理性に信頼を寄せる“合理主義”』を主張する「ムータズィラ(ムゥタズィラ)派」の公式教義としての採用}への反抗が行われ、『イスラム“《神秘主義》”』への批判もすでに行なわれていた・・・・=)の領域へと移動するが。
モンゴル系民族による西暦1206年~1368年のモンゴル帝国や西暦1370年~1507年のティムール帝国の脅威にさらされながら、その中でイラン・イラクを小集団になって西へと次々と移動し。
“イスラーム帝国”であった西暦1169年~1250年の「英雄サラディン」が興したアイユーブ朝や西暦1250年~1571年の「アイユーブ朝で奴隷の身分だったバフリー・マムルーク軍団」がクーデターで興した(アイユーブ朝の宮廷女奴隷だった「シャジャル・アッドゥッル」がイスラム史上初の女性スルタンとして初代スルタンとなった)マムルーク朝や西暦1299年~1922年のトルコ遊牧民の「オスマン」が興したオスマン朝から始まるオスマン・トルコ帝国を縦断するように西アジアから北アフリカや東・中央ヨーロッパへと広く移動していき、そして『定住民社会からジプシーなどと呼ばれる“流民”の一群』と現代の学者に分析されたように、“《15~16世紀ごろ》”までにキリスト教世界であった西・南ヨーロッパ各地へと小集団で広まり。
初めは“キリスト教からイスラム教に改宗した事があるという罪を償うエジプト人の巡礼者と名乗る一団”として各地に出現していたが、しだいに男性は傭兵や馬の売買をし・女性は占いをして生計を営みながら本格的に移動しだしてくると、その特異な身なりやきつく激しい性質や遊動的生活様式や、活動的で言葉巧みなジプシー女性の華やかさや高い出生率や、“穢(ケガ)れと清浄”の概念に深く根ざした独特の“《神秘主義》”的精神性や外部の人間を穢れと見る排他性や、盗みや詐欺に罪悪感を抱かない“たちの悪さ”【・=19世紀以降の話しだが、キリスト教徒でもないのに「ジョルジュ・ビゼー」のオペラ『カルメン』の中で{イエスが磔(ハリツケ)に架かる時に打ち付けられるはずだった釘を盗んだ“ジプシーの女”や、心臓を貫くはずだった釘を飲み込み無くしたと嘘をついた“ジプシーの鍛冶屋”によって、ジプシーは神様から盗みや詐欺が許された}というエピソードが在るのを言いふらして盗みや詐欺を反省する事がない・・・しかしフランスのサント・マリー・ド・ラ・メールの教会の地下礼拝堂で5月の24日4時から25日4時まで行なわれる「ユダヤ人からの迫害から小船で逃れれてきた3人のマリアと共この地へ来たエジプト人侍女の」“黒いサラ”を守護聖女として信仰するジプシーの巡礼は、キリスト教徒が驚くほど熱心に行なわれている。だがそれは『イスラム“《神秘主義》”(スーフィズム)』が行なう恍惚状態の時のファナーに近いモノかもしれない!=・】などによって次第に厄介者扱いされだした時代=・・・・・≫
以来のキリスト教世界であったヨーロッパ各地の定住民社会におけるジプシーへの差別や迫害であり。「文献上は14世紀ごろから存在していたジプシーの奴隷制が19世紀中ごろまで続いてしまったルーマニアの前身であるワラキアとモルドヴァの両公国と、そこに隣接する東・中央ヨーロッパ地域のハンガリーやポーランドやボヘミヤと、バルカン半島とその周辺地域:オスマン・トルコ帝国の領域(ウイーンにまで迫っていた“イスラーム帝国”の勢力圏)」を除くヨーロッパ各地(キリスト教世界の領域内)で、400年余りの時間を掛けて多くの土地で《定住民社会との半遊動生活での「各種の職人や楽士などとして生計を立てていけるような」経済的な結びつき》を緩(ユル)やかに築いてきていて、1841年発表の『ジンカリ - スペインのジプシーの物語』から始まる「ジョージ・ボロー」による一連の作品の中の“ロマン主義的なジプシー像”に近いジプシーの存在が、19世紀を迎える頃には「ヨーロッパ各地でジプシーへの{同化政策や不妊処置・国外追放や強制労働などの過酷な}弾圧が行われ、定住民社会からの根強い反発や不満もあったが」ある程度は許(ユル)されたはずだったが。
18世紀から工業化が進み交通の便が飛躍的に向上したおかげで、西・南ヨーロッパの各都市は農業地域から移住してきた人々で溢れ出す流民化が進行する状況にあり、彼らを救うためにヨーロッパ各国にイギリスの“救貧法”の影響を受けた制度が普及しだしていたが、まだ制度的に不安定でその理念がまだ定着しきれていない時期でもあった19世紀という時代に、パリ1848年革命(フランス二月革命)の波及を受けて、ルーマニアにおけるジプシーの奴隷制が1863年のアメリカ合衆国の奴隷解放宣言の後“ついに”1864年に正式に廃止され。それをキッカケにして1866年には東・中央ヨーロッパやバルカン半島とその周辺地域で奴隷やそれに近い扱いを受けてきた“ヴラフ系ロマ(ルーマニア語の影響が強いロマニ語方言を使うジプシーの事だが、大移動に加わったジプシーの総称としても使われる:“《イスラム世界に取り残されていたジプシー集団》”)”のジプシーが「=イギリス・フランスが衰退したオスマン・トルコ帝国に協力した1853~56年のクリミア戦争で敗北したロシア帝国がその立て直しのためにバルカン半島方面への南下を加速させていて、そしてさらに衰退していたオスマン・トルコ帝国が1877~78年のロシア帝国との戦争に大敗してルーマニアやセルビアやモンテネグロの独立を承認してしまったために、バルカン半島とその周辺地域へのロシア帝国の進出をついに許(ユル)してしまったので、その“《混乱と脅威に押し出される形》”で=」大挙して西・南ヨーロッパや南・北アメリカ大陸へと大移動する『カルデラリの大侵攻』が始まってしまい。“ヴラフ系ロマ”が大勢で流入してきた西・南ヨーロッパの各地・各都市の多くで“救貧法”の制度が地方行政の財政を圧迫しているのはジプシーのせいだと次々と声が上がり出して、ジプシーの排斥運動が定住民社会の中で激化してしまい、ジプシーの国外追放や同化の強制を国策の急務とする国が急増していき、“400年以上も昔から暮らしていたジプシー”と新しくやって来た“ヴラフ系ロマ”を一緒くたにしたジプシー狩りが当たり前に行なわれだして、ジプシーが長年を掛けて築いてきた《定住民社会との半遊動生活での「各種の職人や楽士などとして生計を立てていけるような」経済的な結びつき》が崩壊していき。20世紀に入ってからも状況はさらに悪化していって、ナチスによるジェノサイド(絶滅政策)であるユダヤ人へのホロコーストと同様のジプシーへのポライモス(喰らい尽くすこと)が行なわれてしまうにいたり、ヨーロッパにおけるジプシーの居場所がほとんど奪い去られてしまって。戦争が終結した後には、“昔から暮らしていたジプシー”と“ヴラフ系ロマ”とが同じような目で見られるようになっていて、そして《定住民社会との半遊動生活での「各種の職人や楽士などとして生計を立てていけるような」経済的な結びつき》の再建も近代化が進んだ社会の中では難しくなってしまい、さらにはユダヤ人のような戦後補償もジプシーは自身の不正行為によってポライモスに見舞われたとして近年までまったく省(カエリ)みられる事も無かったために。いまだに何百万人もの“多種類のジプシーグループ”がヨーロッパやアメリカ大陸の各地で自立出来ずに孤立させられ、同じ地域内の違う種類のジプシーグループ間で分裂を深めたまま貧困にあえいでいる現状にあって。
現代のジプシー問題の主要テーマは、定住者住民などへの“人道的対策”の支援急増によって招いてしまった、行政の財政困難の打開策として、問答無用のジプシー狩りや同化政策・強制労働などの非人道的対策を暴走させてきた、“人道支援の矛盾”や“ジプシー定義の一様性の問題”を踏まえて、ヨーロッパやアメリカ大陸の各地のそれぞれの地域を舞台にして、“昔からジプシーと呼ばれていた”グループと“ヴラフ系ロマ”のグループと“定住者住民の流民がジプシー化してしまった”グループとを分けた視点を“最低でも”持った上で。定住民社会全体と定住者住民の一人々々が納得出来て・行政の財政負担を必要としない、各種のジプシーグループの「それぞれの地域でのそれぞれのジプシーグループらしい自立」と「広範囲での同一ジプシーグループとしての団結」と「すべてのジプシーグループを包括する世界的ネットワークの形成」の為の対策を、どうやったら効果が上がる形で遣り遂(ヤリト)げられるのかという事になっていて。
『「排他的で独特な神秘主義」に固執し「たちの悪さ」がめだち「遊動生活様式」を好み「出生率の高さ」が際立つ』という一様なジプシー像しかも持たずに、既存の「短期的な視点で目先の効率を優先させる結果重視の“お粗末な”人道支援」をどれ程つぎ込みいつまで続けてもお金と時間の無駄であるのは明白であると知ったかぶり、「ジプシー自身が変わるまでジプシーを放置して置く事がジプシーのためでもある」などと言い捨ててしまっては。定住民社会や定住者住民と各種のジプシーグループとの間のそれぞれの溝をさらに深めてしまうばかりか、それぞれのジプシーグループが“互いを敵視し合う”悪循環に「さらに拍車を掛ける」事になってしまうだけなのである。
・余談-1
:イスラム世界が【『神の絶対的存在』の上に成り立つ「自らの理性に信頼を寄せる“合理主義”」の独善的矛盾や機能的限界に気付いて、“現実への責任”から目をそらさない“強い自己覚悟”】を宗教の枠に捉われずに大衆の思想として獲得して、スーフィズムを擁(ヨウ)して地球上を席巻していた時代のように全ての人種・民族・宗教を取り込めるキャパシティーを回復させられたならば、世界の覇権(ハケン)をアメリカ合衆国を盟主とする“民主主義”思想のキリスト教圏から取り返せるはずで。そうすれば今後のジプシーの主な移動先は、Uターンするようにイスラーム圏となるかも知れませんね。
・余談-2
:日本などでもお馴染みの一般的な昔話や民話、キリスト教世界の童話や逸話などに摺(ス)り込まれている教訓は、たいてい「誠心誠意の真心で事に取り組めば、神の御加護が得られて、必ず良い結果に現(アラワ)れるものだ」というかなり古い性質のモノを主体にしてあり、「神が創造してくれた自らの理性を信頼し、《自分が望み努力するならば出来ない事は無い》と信じて事に取り組めば、自(オノ)ずから良い結果を導き出せるものだ」という少しだけ古いぐらいの近代的な性質のモノは限定的な形でとどめてあって、【『神の絶対的存在』に裏打ちされた「神への畏敬の念と誠心誠意による御加護」への依存】という、昔から現代に至るまでの「主な人間による地域的集団としての村社会の中で絶対的に受け入れられてきた」どちらかというと古い体質が主に身に付くように仕組まれているモノなのだが。
ジプシーの昔話に摺り込まれている教訓は、たいてい「神が創造してくれた自らの理性を信頼し、《自分が望み努力するならば出来ない事は無い》と信じて事に取り組めば、自ずから良い結果を導き出せるものだ」という、少しだけ古いぐらいの近代的な性質のモノばかりで、【『神の絶対的存在』の裏付けによる「自らの理性への信頼から生じる“合理主義”」への過信】という、現代でもなかなか受け入れられないような「特殊な事情の職人の立場にいた人間達による非地域的集団としての職業社会の中で培(ツチカ)われ、伝承されて来た」“合理主義”な体質が特出(トクシュツ)して身に付くように仕組まれているモノで。ジプシー独特の神秘主義というのは、イスラム教スーフィズムが全盛の時代の「職人システムの名残(ナゴリ)」を今に伝えてくれているのかも知れない。
~~~第0017号へ続く~~~
~~~第0015号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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~予言の書・序章「人類滅亡」まで~(第0011号・第0012号参照)
~≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その1~(第0014号参照)
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・≪【予言】≫第4項『民主主義』(1)その2
・ジプシー問題(イスラーム世界の盛衰)
ジプシー問題は、本来≪・・・・・=「ハインリッヒ・グレルマン」が提唱したジプシー の“インド起源説”などによると、“《9~10世紀ごろ》”の1000年以上前にやインド北西部の「現在のパキスタン南東部の“《シンド地方》”」や「ラージャスターン地方の“ジャイサルメール(ジャイサルメル)”」を脱出したと考えられていて。
その“《ジプシー集団》”は初期イスラム教の西暦632年~661年【・・・=アラブのクライシュ族であった『ムハマンド』の病死後に行なわれたアラブの慣例であった選挙で「アブー・バルク」が初代正統カリフに選任された西暦632年から第四代正統カリフの“アリー”《・・=『ムハマンド』のいとこであり『ムハマンド』の末娘「ファーティマ」の夫:『シーア派』は“アリー”の子孫だけが真のカリフであり神聖な存在であるとしていて「ムアーウィヤ」をカリフの簒奪者(サンダツシャ)と見なしている:『スンニ派』は“クルアーン”(・・=初代正統カリフ「アブー・バルク」による第一回目の編纂作業に引き続き第三代正統カリフ「ウスマーン」の命によって第二回目の編纂作業が行なわれた時に完成した、『ムハマンド』の秘書だった「ザイド・イブン=サービト」らによって“1冊の ムスハフ”に編集・文書化された「クライシュ族の方言であった“アラビア語”」によるコーランで、ウスマーン本と呼ばれる:大天使ジブリールより「神から託された啓示」を与えられた最後の預言者『ムハマンド』が文盲だったために散在していたと言われる“クルアーンの原文”や“試作されたムスハフ”は全て焼却されて現在は一切存在していない=・・)と“スンナ”(・・=『ムハマンド』の言行を“スンナ”と呼び、その“スンナ”を『ムハマンド』の慣行として後世に何度も編纂(ヘンサン)された『ムハマンド』の言行録が“ハディース”である:イスラム教において“クルアーン”は『絶対』であっても、イスラーム法の実施においては“クルアーン”の補完が役割のはずの“ハディース”の“スンナ”が“クルアーン”よりも優先される時がある:ユダヤ教やキリスト教を敬(ウヤマ)うはずの“クルアーン”の内容に旧約聖書と矛盾する所があるとユダヤ人から嘲笑(チョウショウ)された事への『ムハマンド』の「“クルアーン”と相反する‘ユダヤ人への徹底した敵対行為’」などが“スンナ”となっていて、時代々々のスルタンなどが強引に“スンナ”の解釈を政治利用したため=・・)に従う人々の宗派であり、『シーア派』を人間である“アリー”を崇めていると批難している=・・》が暗殺された661年=・・・】の『ムハマンド』の教えを直接受けていた4人の正統四カリフによる正統カリフ時代と西暦661年~750年の「クライシュ族の一門ウマイヤ家のムアーウィヤ」が「“アリー”暗殺後の複数のカリフ擁立(ヨウリツ)を制して唯一の」カリフとなってからの「アラブ人優遇の“アラブ帝国”」のウマイヤ朝による西暦651年のペルシャの滅亡とその後の北西インドへの進出(東方において西暦712年には北西インドの“《シンド地方》”を占領したが、西方において西暦725年にはイベリア半島やフランス南部にまで進出)によるインド北西部の混乱によって“《流浪を始めた》”が。
西暦750年~1258年の10世紀以降には分裂を続けた「イスラム教徒に平等の“イスラーム帝国”」のアッバース朝(・・・・=“《9~10世紀ごろ》”より『イスラム“《神秘主義》”(スーフィズム)』が権力と癒着して官僚化していくアッバース朝のウラマーとそれによるイスラム教の形式化に危惧し、恍惚状態(コウコツジョウタイ)の時のファナーによって得られる神様からの直接的知識の方がウラマーの“クルアーン”や“スンナ”についての間接的知識に優先するとして広まり、聖者信仰やその墓詣でが行われ、“スーフィズム”自体も呪術化し超能力者化していくものの、その後の世界的イスラム信仰拡張の原動力となり、イスラム世界拡大の牽引役となったのだが、“《15~16世紀ごろ》”には「一般信徒の生活が成熟し社会の繁雑化も進み、生活をより豊かにしようと思い“正しい”事をしようと考えてみても、今何が起こっているのかが分からず、何をしたらいいのかも分からない時代になってきてしまい《今起こっている事態に対して自らの理性を尊重して合理的に現実的対応して行く事が簡単な事ではなくなり、さらにはその難しい事にどれ程取り組んでも“正しい”効果がそれ程望めないようになってしまったために》、そんな目に見えない不安や怖れの広まりに呼応するように《自分の行いの“正しさ”の白黒だけではあっても明白に分かる教義に憧れて「“クルアーン”や“スンナ”を厳格に守る事によってのみ、苦しい現世での穢(ケガ)れが祓(ハラ)われて死後に天国へ行ける」とする》イスラム原理主義的教義がもてはやされだした」ために“スーフィズム”に歯止めがかけられてしまって、イスラム世界も徐々に衰退へと向かい始めた:“《ジプシーもそんなイスラム世界の変化と衰退を感じてキリスト教世界へと移動を始めた》”のかもしれない:現在においてもイスラム原理主義の始祖でありワッハーブ運動にも影響を与えたとされる西暦780年~855年生存の「アフマド・イブン・ハンバル」によって、アッバース朝の第七代カリフ「マアムーン」の{“クルアーン”や“スンナ”にとらわれず『自らの理性に信頼を寄せる“合理主義”』を主張する「ムータズィラ(ムゥタズィラ)派」の公式教義としての採用}への反抗が行われ、『イスラム“《神秘主義》”』への批判もすでに行なわれていた・・・・=)の領域へと移動するが。
モンゴル系民族による西暦1206年~1368年のモンゴル帝国や西暦1370年~1507年のティムール帝国の脅威にさらされながら、その中でイラン・イラクを小集団になって西へと次々と移動し。
“イスラーム帝国”であった西暦1169年~1250年の「英雄サラディン」が興したアイユーブ朝や西暦1250年~1571年の「アイユーブ朝で奴隷の身分だったバフリー・マムルーク軍団」がクーデターで興した(アイユーブ朝の宮廷女奴隷だった「シャジャル・アッドゥッル」がイスラム史上初の女性スルタンとして初代スルタンとなった)マムルーク朝や西暦1299年~1922年のトルコ遊牧民の「オスマン」が興したオスマン朝から始まるオスマン・トルコ帝国を縦断するように西アジアから北アフリカや東・中央ヨーロッパへと広く移動していき、そして『定住民社会からジプシーなどと呼ばれる“流民”の一群』と現代の学者に分析されたように、“《15~16世紀ごろ》”までにキリスト教世界であった西・南ヨーロッパ各地へと小集団で広まり。
初めは“キリスト教からイスラム教に改宗した事があるという罪を償うエジプト人の巡礼者と名乗る一団”として各地に出現していたが、しだいに男性は傭兵や馬の売買をし・女性は占いをして生計を営みながら本格的に移動しだしてくると、その特異な身なりやきつく激しい性質や遊動的生活様式や、活動的で言葉巧みなジプシー女性の華やかさや高い出生率や、“穢(ケガ)れと清浄”の概念に深く根ざした独特の“《神秘主義》”的精神性や外部の人間を穢れと見る排他性や、盗みや詐欺に罪悪感を抱かない“たちの悪さ”【・=19世紀以降の話しだが、キリスト教徒でもないのに「ジョルジュ・ビゼー」のオペラ『カルメン』の中で{イエスが磔(ハリツケ)に架かる時に打ち付けられるはずだった釘を盗んだ“ジプシーの女”や、心臓を貫くはずだった釘を飲み込み無くしたと嘘をついた“ジプシーの鍛冶屋”によって、ジプシーは神様から盗みや詐欺が許された}というエピソードが在るのを言いふらして盗みや詐欺を反省する事がない・・・しかしフランスのサント・マリー・ド・ラ・メールの教会の地下礼拝堂で5月の24日4時から25日4時まで行なわれる「ユダヤ人からの迫害から小船で逃れれてきた3人のマリアと共この地へ来たエジプト人侍女の」“黒いサラ”を守護聖女として信仰するジプシーの巡礼は、キリスト教徒が驚くほど熱心に行なわれている。だがそれは『イスラム“《神秘主義》”(スーフィズム)』が行なう恍惚状態の時のファナーに近いモノかもしれない!=・】などによって次第に厄介者扱いされだした時代=・・・・・≫
以来のキリスト教世界であったヨーロッパ各地の定住民社会におけるジプシーへの差別や迫害であり。「文献上は14世紀ごろから存在していたジプシーの奴隷制が19世紀中ごろまで続いてしまったルーマニアの前身であるワラキアとモルドヴァの両公国と、そこに隣接する東・中央ヨーロッパ地域のハンガリーやポーランドやボヘミヤと、バルカン半島とその周辺地域:オスマン・トルコ帝国の領域(ウイーンにまで迫っていた“イスラーム帝国”の勢力圏)」を除くヨーロッパ各地(キリスト教世界の領域内)で、400年余りの時間を掛けて多くの土地で《定住民社会との半遊動生活での「各種の職人や楽士などとして生計を立てていけるような」経済的な結びつき》を緩(ユル)やかに築いてきていて、1841年発表の『ジンカリ - スペインのジプシーの物語』から始まる「ジョージ・ボロー」による一連の作品の中の“ロマン主義的なジプシー像”に近いジプシーの存在が、19世紀を迎える頃には「ヨーロッパ各地でジプシーへの{同化政策や不妊処置・国外追放や強制労働などの過酷な}弾圧が行われ、定住民社会からの根強い反発や不満もあったが」ある程度は許(ユル)されたはずだったが。
18世紀から工業化が進み交通の便が飛躍的に向上したおかげで、西・南ヨーロッパの各都市は農業地域から移住してきた人々で溢れ出す流民化が進行する状況にあり、彼らを救うためにヨーロッパ各国にイギリスの“救貧法”の影響を受けた制度が普及しだしていたが、まだ制度的に不安定でその理念がまだ定着しきれていない時期でもあった19世紀という時代に、パリ1848年革命(フランス二月革命)の波及を受けて、ルーマニアにおけるジプシーの奴隷制が1863年のアメリカ合衆国の奴隷解放宣言の後“ついに”1864年に正式に廃止され。それをキッカケにして1866年には東・中央ヨーロッパやバルカン半島とその周辺地域で奴隷やそれに近い扱いを受けてきた“ヴラフ系ロマ(ルーマニア語の影響が強いロマニ語方言を使うジプシーの事だが、大移動に加わったジプシーの総称としても使われる:“《イスラム世界に取り残されていたジプシー集団》”)”のジプシーが「=イギリス・フランスが衰退したオスマン・トルコ帝国に協力した1853~56年のクリミア戦争で敗北したロシア帝国がその立て直しのためにバルカン半島方面への南下を加速させていて、そしてさらに衰退していたオスマン・トルコ帝国が1877~78年のロシア帝国との戦争に大敗してルーマニアやセルビアやモンテネグロの独立を承認してしまったために、バルカン半島とその周辺地域へのロシア帝国の進出をついに許(ユル)してしまったので、その“《混乱と脅威に押し出される形》”で=」大挙して西・南ヨーロッパや南・北アメリカ大陸へと大移動する『カルデラリの大侵攻』が始まってしまい。“ヴラフ系ロマ”が大勢で流入してきた西・南ヨーロッパの各地・各都市の多くで“救貧法”の制度が地方行政の財政を圧迫しているのはジプシーのせいだと次々と声が上がり出して、ジプシーの排斥運動が定住民社会の中で激化してしまい、ジプシーの国外追放や同化の強制を国策の急務とする国が急増していき、“400年以上も昔から暮らしていたジプシー”と新しくやって来た“ヴラフ系ロマ”を一緒くたにしたジプシー狩りが当たり前に行なわれだして、ジプシーが長年を掛けて築いてきた《定住民社会との半遊動生活での「各種の職人や楽士などとして生計を立てていけるような」経済的な結びつき》が崩壊していき。20世紀に入ってからも状況はさらに悪化していって、ナチスによるジェノサイド(絶滅政策)であるユダヤ人へのホロコーストと同様のジプシーへのポライモス(喰らい尽くすこと)が行なわれてしまうにいたり、ヨーロッパにおけるジプシーの居場所がほとんど奪い去られてしまって。戦争が終結した後には、“昔から暮らしていたジプシー”と“ヴラフ系ロマ”とが同じような目で見られるようになっていて、そして《定住民社会との半遊動生活での「各種の職人や楽士などとして生計を立てていけるような」経済的な結びつき》の再建も近代化が進んだ社会の中では難しくなってしまい、さらにはユダヤ人のような戦後補償もジプシーは自身の不正行為によってポライモスに見舞われたとして近年までまったく省(カエリ)みられる事も無かったために。いまだに何百万人もの“多種類のジプシーグループ”がヨーロッパやアメリカ大陸の各地で自立出来ずに孤立させられ、同じ地域内の違う種類のジプシーグループ間で分裂を深めたまま貧困にあえいでいる現状にあって。
現代のジプシー問題の主要テーマは、定住者住民などへの“人道的対策”の支援急増によって招いてしまった、行政の財政困難の打開策として、問答無用のジプシー狩りや同化政策・強制労働などの非人道的対策を暴走させてきた、“人道支援の矛盾”や“ジプシー定義の一様性の問題”を踏まえて、ヨーロッパやアメリカ大陸の各地のそれぞれの地域を舞台にして、“昔からジプシーと呼ばれていた”グループと“ヴラフ系ロマ”のグループと“定住者住民の流民がジプシー化してしまった”グループとを分けた視点を“最低でも”持った上で。定住民社会全体と定住者住民の一人々々が納得出来て・行政の財政負担を必要としない、各種のジプシーグループの「それぞれの地域でのそれぞれのジプシーグループらしい自立」と「広範囲での同一ジプシーグループとしての団結」と「すべてのジプシーグループを包括する世界的ネットワークの形成」の為の対策を、どうやったら効果が上がる形で遣り遂(ヤリト)げられるのかという事になっていて。
『「排他的で独特な神秘主義」に固執し「たちの悪さ」がめだち「遊動生活様式」を好み「出生率の高さ」が際立つ』という一様なジプシー像しかも持たずに、既存の「短期的な視点で目先の効率を優先させる結果重視の“お粗末な”人道支援」をどれ程つぎ込みいつまで続けてもお金と時間の無駄であるのは明白であると知ったかぶり、「ジプシー自身が変わるまでジプシーを放置して置く事がジプシーのためでもある」などと言い捨ててしまっては。定住民社会や定住者住民と各種のジプシーグループとの間のそれぞれの溝をさらに深めてしまうばかりか、それぞれのジプシーグループが“互いを敵視し合う”悪循環に「さらに拍車を掛ける」事になってしまうだけなのである。
・余談-1
:イスラム世界が【『神の絶対的存在』の上に成り立つ「自らの理性に信頼を寄せる“合理主義”」の独善的矛盾や機能的限界に気付いて、“現実への責任”から目をそらさない“強い自己覚悟”】を宗教の枠に捉われずに大衆の思想として獲得して、スーフィズムを擁(ヨウ)して地球上を席巻していた時代のように全ての人種・民族・宗教を取り込めるキャパシティーを回復させられたならば、世界の覇権(ハケン)をアメリカ合衆国を盟主とする“民主主義”思想のキリスト教圏から取り返せるはずで。そうすれば今後のジプシーの主な移動先は、Uターンするようにイスラーム圏となるかも知れませんね。
・余談-2
:日本などでもお馴染みの一般的な昔話や民話、キリスト教世界の童話や逸話などに摺(ス)り込まれている教訓は、たいてい「誠心誠意の真心で事に取り組めば、神の御加護が得られて、必ず良い結果に現(アラワ)れるものだ」というかなり古い性質のモノを主体にしてあり、「神が創造してくれた自らの理性を信頼し、《自分が望み努力するならば出来ない事は無い》と信じて事に取り組めば、自(オノ)ずから良い結果を導き出せるものだ」という少しだけ古いぐらいの近代的な性質のモノは限定的な形でとどめてあって、【『神の絶対的存在』に裏打ちされた「神への畏敬の念と誠心誠意による御加護」への依存】という、昔から現代に至るまでの「主な人間による地域的集団としての村社会の中で絶対的に受け入れられてきた」どちらかというと古い体質が主に身に付くように仕組まれているモノなのだが。
ジプシーの昔話に摺り込まれている教訓は、たいてい「神が創造してくれた自らの理性を信頼し、《自分が望み努力するならば出来ない事は無い》と信じて事に取り組めば、自ずから良い結果を導き出せるものだ」という、少しだけ古いぐらいの近代的な性質のモノばかりで、【『神の絶対的存在』の裏付けによる「自らの理性への信頼から生じる“合理主義”」への過信】という、現代でもなかなか受け入れられないような「特殊な事情の職人の立場にいた人間達による非地域的集団としての職業社会の中で培(ツチカ)われ、伝承されて来た」“合理主義”な体質が特出(トクシュツ)して身に付くように仕組まれているモノで。ジプシー独特の神秘主義というのは、イスラム教スーフィズムが全盛の時代の「職人システムの名残(ナゴリ)」を今に伝えてくれているのかも知れない。
~~~第0017号へ続く~~~
~~~第0015号先頭へ~~~
ちび猫のコメント参照
次回につづく。
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