第0086号
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第0061号【ちび猫が見付けた『普遍性』の自由議論(2)】参照
第0067号【ちび猫が見付けた『サル山と神秘主義』の自由議論(1)】より
第0080号【ちび猫が見付けた『サル山と神秘主義』の自由議論(2)】より
第0090号【ちび猫が見付けた『女と男の更新』の自由議論(2)】へ続く
平成27年度版(1)
*理想の男女関係と、“適切”な男女との違い。【6月29日・月】
男女の関係で人間は大きな勘違(カンチガ)いをしていて、≪『神』が示した男女の在り様が理想であり、男も女もその理想を目指すべきである≫と盲信し、さらには≪男も女もその理想を異性に要求すべきである≫と狂信していまして。世界中で、人間社会に於いては、『神』を用いたペテンが横行しているのです。
そもそも男女の関係の在り様には、従わなければならない縛りなどは存在せず、対等であり平等であって、≪男が男を演じる必要はないし、男が女に女を演じさせる必要もないし、女が女を演じる必要などないし、女が男に男を演じさせる必要などもない≫というのに。人間社会に於いては、『神』が示した男女関係の理想が{ゴリ押しをしてもいい}正義だとされているので、{勘違いをしたまま}『神』の名を使った性犯罪が横行してしまうのです。
男は男として幸せである為に“適切”な男であり、女も女として幸せである為に“適切”な女であるのであって。『神』の言う男女の関係の在り様によって、それが歪められてはならないのですが。性的行動についても、≪男の場合には、女性にして欲しい事を“適切”に提供してもらう対価として、“適切”な性行動を女性に提供するモノ≫であり、≪女性の場合には、男性に“適切”な性行動を提供してもらう対価として、男性が欲しがっている事を“適切”に提供するモノ≫であるだけなのに。{そうであるにも拘らず}人間社会では『神』を持ち出しさえすれば“適切”を欠くことが正当化されてしまう為に、[セクハラ]や[痴漢]や[ストーカー]や[DV]などの性犯罪が、{無自覚なペテン行為として}理想の名の下に横行する事になるのです。
*正しい男女関係が性犯罪関係となる。【6月24日・水】
権力者が既存の『神』の絶対性に依存していて、知識人が新たに『神』を求めたとしても、それはただ絶対性の存在の表面だけが違うだけで、その人間性はどちらも変わらない。人間の中にもゴク僅(ワズ)かだが、そんな人間性ではない人類としての在り様を模索(モサク)する者もいるのだが、身勝手な知識人の傲慢(ゴウマン)な独善に撹乱(カクラン)されて、道を見失ってしまう。
男性が男の役目を果たし、女性が女の役目を果たす事で、人間社会が繁栄すると信じてしまえば。人は自分の性の窮屈(キュウクツ)さに喘(アエ)ぎ、異性へはその償(ツグナ)いを求めて攻撃をしてしまう。故に、各種の性犯罪が頻発し、社会の安全と繁栄が衰退して行くのです。
男性が女性に女としての役割を求めず、女性が男性に男としての役割を求めず、様々な男性と女性とによって無限大に様々な男女が成立する事で、男女関係の機能が成り立つものなので。男性も女性も一様な男女関係を求めれば、男女関係の機能が失われ、性犯罪の男女関係になってしまうだけのです。故に、知識人の正論に耳を貸す男女があれば、それが社会の不安定分子となり、人の営みを崩壊(ホウカイ)へと導いてしまうのです。
男性も女性も男女の【部分】であり、その男女も大きな男女関係の【部分】でありまして。その無限大に大きな男女関係が存在する事で、男女の機能が発揮され、男性が男となれ、女性が女となれるのでありますから。知識人の言う正しい男女関係を、一律に男女が求めてしまう事を止めるコトが、人間が人類に戻る{欠かすコトの出来ない}大事な一歩なのです。
*男女の性欲強迫症による悲劇の繰り返し。【6月21日・日】
[核エネルギー]や[生体科学]などに於ける進歩や兵器開発などで問題が起こるたびに、《『神の領域』を人が侵したからだ》という話しが{何所(ドコ)からともなく}現れ、人はそれを当然の事だと{『神』を畏(オソ)れて}受け入れ、簡単に他者へと{『神』に阿(オモ)って}広めてしまって、多くの人間たちの間で広く囁(ササヤ)かれるのですが。まさにそれこそが、人間の過ちの{典型的な}見本であり、その過ちは人間の男女関係に於ける犯罪までも、[正義]や[良心]の名の下に横行させているのです。
[因習]的に[宗教]的に[世俗]的に{愛を騙って}男女に性欲を強要するような、《生活の情報》や《風俗の物語》や《公的な発表》などの『可笑しな話し』が巷(チマタ)に溢れていて。人間は子供の頃から{恋愛願望から始まる}性欲強迫症に落ちいっていて、そしてそのまま大人になっていくと、その強迫観念による自分の{性欲暴走などの}問題を【自分の性】の暴走とスリ替えて{一般論であるかのように}考えてしまい、さらにはその責任を異性に転嫁してしまうものだから。ついには、【自分の性】と【異性という存在】との『精神的』な対立関係を{躊躇(チュウチョ)なく}肯定してしまう様になり、身近な異性を[正義]や[良心]の名の下に}攻撃する様になって、[セクハラ]や[ストーカー]や[DV]などの性犯罪を{人間はいとも簡単に}実力行使してしまう様になるのです。
人間が抱いてしまう{子供の頃の恋愛願望から始まる}性欲の強迫観念は凄(スサ)まじいモノであり、その縛りから開放される為には、男女ともに《【自分の性】は異性で発情する必要はない》し《【自分の性】は異性を発情させる必要もない》と思える上に、《異性は【自分の性】で発情する必要はない》し《異性は【自分の性】を発情させる必要もない》とまで認識し、そしてそれを異性と共感できる事が必要なのですが。人間は性犯罪の問題を、近代に於ける人間の{開放的な}精神性が《『神の領域』を人が侵したからだ》という話しのモノだと{絶対的に}信じ込んでいて、{形だけの}ストイックさの[競争]や[強要]に『血マナコ』になっているので、性犯罪の増加はもとより凶悪化も止まらず、悲劇が{何時(イツ)までも}繰り返されるのです。
*男女双方についての性欲の強迫観念からの開放。【6月19日・金】
人間は、様々な性関係の情報に{無自覚なまま}踊らされていて、性欲強迫症に陥ってしまっているだけなのだが。人間とは、その男も女も、その{強迫観念の}想いだけで簡単に発情してしまうものであり。そしてその{性欲の}強迫観念が強い人ほど、自分の欲情に恐れ慄(オノノ)いてしまい。欲情が{制御できずに}発動するカギとなる異性という存在を、{無意識のうちに}遠のけようとしてしまうモノでありまして。
そして、その{異性への}拒絶意識こそが、男女の不協和音関係のキッカケとなっているモノでありますから。男も女も「男も女も発情などしなくてもいいのだ(!)」と{意識して}納得し、性欲の強迫観念から{自分も異性も}開放されて、欲情の発動リスクが下がる事によって。{男女とも}男と女の協調関係に、ようやく着手する事ができるのです。
*男の本音と女の本音と人々の安心。【6月19日・金】
地球人の【男性】の目には、【女性】というモノが、[可愛いモノ]・[美しいモノ]・[男の食い物でしかないモノ]とか、[目障りなモノ]・[足手まといなモノ]・[男にとっての澱(オリ)でしかないモノ]に見えていて。【女性】の目には【男性】というモノが、[甘えられる庇護者みたいなモノ]・[引っ張ってくれる頼(タヨ)れるモノ]・[女のパトロンでしかないモノ]とか、[お金で男になれると思っている馬鹿なモノ]・[ワガママが男らしさだと思っているアホなモノ]・[女を縛る枷(カセ)でしかないモノ]に見えていて。
そして、その溝(ミゾ)が埋まる事がないまま{可笑しな}近代化が進み、過激なフェミニストの女性が台頭してきている地域がある反面、女性が奴隷のように売買されている地域も珍しくなく。そして、それについての事を「プラスとマイナスでバランスが取られている」と言うコトで、『精神安定剤』代わりとしていて。そしてそれによって、大多数の男女が『したり顔』をしつつ、現状での《『絵に描いたモチ』のような安心》を手に入れるコトが出来ているのです。
《『絵に描いたモチ』のようなモノ》というのは、地球人にとってはけっこう重要であり。物事の付加価値というのは、《『絵に描いたモチ』のようなモノ》により発生しているモノでありまして。
{権威によって示された}特定の方向での『出来栄え』でのランク付けや、{同じ方向であるにも関わらず}同じ様な方向性で『真新(マアタラ)しさ』が抱けた時の[驚き]と[新鮮さ]で、そのモノの価値(差別)が決められていて。【更新する無限大に多様な全体】で物事が{平等に}見られるコトはなく、【部分解禁】されたモノの【部分】としての暴走が、そのモノの価値として{差別的に}認識されていまして。
大多数の男女が抱いている現状での《『絵に描いたモチ』のような安心》というのは、{権威によって示された}特定の方向性に向かう{価値の争奪戦の}競争にみんなで参加している時の《織り込み済みの差別の中で抱く安心感》に依拠(イキョ)した幻想でしかなく。『男尊女卑』や『フェミニズム』による、一方向にだけ進むように男女を囲う柵(サク)としての{価値や差別を明確化する}機能が、{公(オオヤケ)に知られる事もなく}果たされている結果なのです。
地球人(人類)に於ける男女の本来の姿を、【更新する無限大に多様な全体】によって{『神は死んだ』が如く}総ての縛りを取っ払って表現すると、『人間は終った』となり。人類としての新しい{様々な}一歩を、各人が{個別に}踏み出していてもよさそうであったのですが。これまでに様々な賢者たちが、その[合図]や[ヒント]や[カギ]を残してきていたにも拘(カカワ)らず、ことごとく歪められて{人間が望む(!)ように}理解されていて。{人類が人間である事によって生み出される}価値や差別から作られた『既得権益』に人間がぶら下がる《人の営み》が、延々と続いてきたのです。
そこで、地球人(人間)に、新たな提案をするとなると、≪展示会やコンクールで、優秀賞を取ったモノが副賞で何らかの特典が与えられるのは、既存の《人の営み》による名残(ナゴリ)であり、それまでも排除してしまおうとするのは、『本末転倒』でありますが。ただし、だからと言って展示に差別があるような事は、決してあってはなりませんから。それと同じ様に男女に於いても、『力持ちで賞』とか『お利巧で賞』とか『美人で賞』とか『家事が得意で賞』とかで何らかの特典が得られるのはかまわないのですが。そこから、《男女の差別》や《同姓内での格差》が起こるような事は、決してあってはならないのです≫となるのですが。
しかしまあ、この道理を理解してしまっては、人間では居られないかもしれませんし、既存の《人の営み》にもマズ馴染めませんから、初めから無理な話しであるのかもしれません。
*『男女の自由』の多様さで判る人類の進歩。【6月17日・水】
男性の一方的な想いが女性を傷つけてしまう『罪』がまかり通っている“普通”が怖ろしいので、婚期を逃した男性は、「女性が幸せであってほしいと願う」という男性たちを代表しての『贖罪(ショクザイ)』の意思を持って、死に至るまで独身であってもいいと簡単に思うのですが。
同じ様な意味で、風俗譲たちも、女性特有の想いが男心を傷つけてしまう『過ち』がまかり通っている“普通”が怖ろしかったので、《男性本意の風俗を放置する》という女性たちを代表しての『贖罪』の意思を持って、風俗業に従事してもいいと簡単に考えてしまうのです。
“普通”の家庭では、夫は男性の“罪”で家庭内の女性を縛り、妻も女性の“過ち”で家庭内の男性を縛りつけていて、その行為は家庭内の同姓に、“普通”は継承されてしまうものなのですが。
それが嫌な男性は『男の罪』を背負って結婚をせず、女性は『女の過ち』の償いに風俗業に従事するのです。
かくして独身男性は増え続け、私生児を生む女性も増え続け、日本の出生率はドンドン減り続けてしまうのであった。
婚姻により築かれる“普通”の家庭という形式が、夫にとっても妻にとっても、息子にとっても娘にとっても、婿(ムコ)にとっても嫁(ヨメ)にとっても、縛られるだけの居心地の悪い場所を作り出しているという事に誰もが目を瞑(ツム)ってしまい。
崩壊が進む家庭の再建が日本には必要だと誰もが口にするばかりで、日本に於ける“普通”の家庭が崩壊していく事の理由(必然性)に真剣に向き合わず、“普通”の家庭という形式の[堅苦しさ]や[多様性の無さ]や[排他性]の問題について{自己保身で}誰も触れようとしないのですが。
男女の在り方の理想が“普通”の家庭に在ると言われれば言われるほど、男性も女性も結婚など出来なくなり、{小さな古い全体の“普通”に固執する}日本を崩壊へと進めてしまうだけなのです。
100年も前に【ニーチェ】が『神は死んだ』と“号砲”を鳴らしてくれたのですから、人間は{小さな全体(伝統)も含めて}モット自由な存在であらねばならず、男女の在り方も{古い全体(伝承)と一緒に}モット多様な在り様であらねばならないのです。
全体が制限を受けてしまっていると、その【部分】でしかない人間の在り様が個別に進化しても、それはウイルスや細菌が薬品耐性を獲得するのと一緒で、全体を脅かす存在にしか見られず、排除の対象になってしまい、全体と進化とで対立(ケンカ)をしてしまうだけなのですが。【更新する無限大に多様な全体】を体現しる『生きた水』から製作(育成)される【薬品耐性水】の中では、《ウイルスや細菌による薬品耐性の獲得》も【更新する無限大の多様性からなる全体】の【部分】として取り込まれて、{無限大の全体の中での旧来の全体と同列で}有用な働きモノとして活用されるように。【更新する無限大に多様な全体】の【部分】としての人類の在り様を、{『神は死んだ』という“号砲”を合図に}人間が取り戻すコトが出来ていれば、{[信仰]や[風習]や[男女の在り様]が各地で違うように}人間の[個人]や[社会]や[男女]の在り様が個別(様々)に進化したとしても、無限大の全体の中で{それまでの全体であった}古いモノと{これから}進化して行くモノとが多様性の中で平等に有効活用されて、{『神』によって制限されていた}【更新】がようやく始まるのです。
木更津の『庭師の雨ふり作陶展』で見た、旧来の『小さく固まった全体』に捉われない《全てを{平等に}包容する多様な展示》のような、男女の自由な在り様の多様さが、今後の人類の行く末を左右する指針になるのです。
*『夜の街』で飼いならされた男たちの男社会。【6月10日・水】
レストランでの食事には、テーブルマナーが欠かせませんし、タバコを吸うにしても、喫煙マナーを守る必要があります。それと同じ様に、男性向けの『飲み屋』や『風俗店』を利用する時であっても、{男社会では}それなりのマナーが{お客である}男性に求められているのは、【ちび猫】にも分かります。
しかし【ちび猫】は、女性を前にすると、《ただヤリタイ(!)、ひたすらヤリタイ(!!)》としか思えないので。【ちび猫】にとっては、女性が接客する『飲み屋』は、我慢するだけの“苦痛”を味わう店でしかありませんし。お酒を飲んでから行く『風俗店』は、気晴らしになる程度の“シラケ”る店でしかありません。
可笑しな“マナー”の縛(シバ)りと、無制限に近いアルコール漬けによって、“牙”を抜かれた《飼いならされた男たち》がうごめき、女性たちがその監視役を担わされている『夜の街』なのですが。そんな[不自由]や[不条理]や[不合理]が“嫌い”で、【ちび猫】はどうしても、『飲み屋』や『風俗店』では楽しめないのです。
『飲み屋』や『風俗店』に行くのよりも、家でのんびり『赤ずきんチャチャ』や『カスミン』や『ARIA(アリア)』や『かみちゅ!』などのアニメを観たり、本棚で目に付いた『やじきた学園道中記』や『赤ちゃんと僕』や『のだめカンタービレ』や『ねこむすめ道草日記』などの漫画や、『しにがみのバラッド』や『吉永さん家のガーゴイル』などのライトノベルを読んだりしている事の方が、【ちび猫】にとっては比較にならないほどストレスの解消になるのですが。しかし、人間には付き合いというモノがあるので、【ちび猫】はこれまでの人生に於いて、好きなアニメや漫画につぎ込めた金額の何十倍ものお金(たぶん収入の20%ほど)を、ストレスの溜まる『飲み屋』や『風俗店』につぎ込んできてしまっているのです。
アニメや漫画が好きだとオタクと思われて、インドア派だと勝手に決め付けられてしまいますが。【ちび猫】は昔からオートバイが好きで、日本中をツーリングしてきましたし、今は軽自動車の【プチフランソワーズ】しか乗っていませんが、夜中にちょくちょく100㎞以上のチョイ乗りをしますし、時には一日に1000㎞以上の遠出をする事もあるのです。
あと、{独身なので}よくホモではないかと言われてしまうのですが、【ちび猫】的には≪仕事先で若い娘さんとつい不用意に目が合ったり、会話をしたりしてしまって、しばらくはドキドキしてしまって仕事が手につかなくなってしまう事が時々あり、その自己処置に困っているというのに、何を言うんですか≫という感じです。
今は[電気]と[通信]の『資格試験』の勉強に一生懸命なのですが、これも自分の抜け落ちていた《男としての“牙”》を再生させるチャレンジでありまして、この弛(タル)んだ{男たちに“牙”を失わせる}男社会にカツを入れる為の準備段階なのです。
*【ちび猫】の苦痛と幸い。【6月9日・火】
【ちび猫】は、{男性向けの}風俗や水商売のサービスが“苦痛”でありまして、ソープランドやピンサロはもちろんキャバクラやスナックに至るまで、今までに色々と行って{20代~30代の頃に“付き合い”などで}多額のお金をつぎ込んできましたが、ただの一度も楽しいと思えた事がありませんでした。
男性としての一般的な性欲は普通に有るハズだと思っているのですが、それを“コントロール”して{接客してくれる}女性と接するのがどうも苦手でありまして。近づいて来(コ)られるぐらいなら{どうにか}平静も保(タモ)てて、男性らしい行動を{上手く}装(ヨソオ)えるのですが、触ったり{触られたり}する段階以上のサービスになると、{誰かとの“付き合い”でその場に行っているので}その場から逃げ出したい衝動を“抑える”のに必死になってしまって、楽しくないどころか“苦痛”でならなかったのです。
特に“嫌い”であったのが、数人で行く{お触りが出来る}キャバクラ系の店で。入店した瞬間から帰りたい気持ちを抑えるのに必死となり、たいていは2時間か3時間で開放されるのですが、帰りには割り勘だと言って2万~3万円(多い時には5万円)も支払わされるのですから、{ちょくちょく誘われていましたから}タマッタモノではありませんでした。
そして、飲み会の後に誘われて行く風俗店では、お酒に酔っていて何も出来ないのに、{裸の女性の前で}タバコをふかして3万~5万円(多い時には10万円)も請求されるものですから、{断り切れなくて時々行く程度でしたが}この産業がなぜ繁盛するのかさっぱり分かりませんでした。
しかし、本当にその存在が不思議で、どうしてこんなにも男たちがその店へ行くのかが不思議でならないのが、普通の{女性のママさんやホステスがいる}スナックでありまして。並みのウイスキーとお菓子のようなオツマミで、我慢をして女性の話し相手をしているだけで、1万円前後のお金を請求されるのですから、【ちび猫】にとっは{今に至っても}まったく理解不能な店であります。
そんな【ちび猫】が、最近になって特に気になっているのが、『童貞女子』という存在でありまして。20代(それも前半)の女性が、これほどまでに[情熱的]であり[開放的]であり[先鋭的]であって、男社会と無縁のような自由を人として満喫しているとは、まったく想像も出来なかったので。【ちび猫】もようやく、『童貞女子』関連の本を読み、『BL』の漫画を購入し、『アイドルオタク』の実態に目を向け始めていて、これからは女性の本質をもっとチャント見ていこうと思っているところであります。
また、『童貞女子』関連の本を探している時に、男性向け風俗の“矛盾”を女性の視点から容赦なく突いている本にも巡り合えたので、良い援軍を得たと喜んでいるしだいでありまして。男性社会に媚(コ)びない女性たちの在り様を、もっと紹介する事が出来るのが、いまの【ちび猫】の“幸い”でもあるのです。
*性産業と『童貞女子』との隔絶。【6月1日・月】
男性向けの[エロ本]や[AVビデオ]や[キャバクラ]や[風俗店]には、沢山の女性が登場して来まして、その時に男性は女性に触れ、女性を『理解』するのですが。この時に{少しですが}問題が二つありまして、一つ目が売り手側の女性が『女性像』を演技していて、買い手側の男性の要望に答えようとして《まったくのウソ》を付加価値のあるモノとして提供している事であります。そして二つ目が、男性が女性を『理解』するのに、『女性像』の【型】を{初めから}持ってしまったまま、その範疇(ハンチュウ)での女性の『理解』を目指してしまっていて、女性の真実の部分を{たとえ}見聞きしたとしても、それを《用の足せないモノ》として{情報の中から}排除してしまって、結局は{旧態依然の}一様な『女性像』を繰り返し『理解』してしまっているという事であります。
そして、こういった{問題を抱えた}性産業が、{ホストクラブなどの一部を除いて}たいていが〔男性世界〕の為にあり、男性が思い描く『女性像』の演技を女性にしてもらう為に多くの男性が高額の支払いをしてくれて、けっこう優良で大きな産業形態をなしているモノだから。女性の真実の部分の姿や本音などは、たいていが《用の足せないモノ》として{問答無用で即座に}蚊帳の外に出されてしまっているのですが。その上さらには、『アイドルオタク』や『乙女ゲームオタク』や『腐女子』や『童貞女子』などの、『女性の本質』に触れられるキッカケとなるハズの〔女性世界〕の景色を垣間見せてくれるドアも、{男性に気を使うのが面倒な彼女たちによって}堅く閉ざされていて。【型】にはまった{《用を足す》という下心丸出し}の男性には、{〔男性世界〕を拒む女性の存在など}とうてい『理解』出来ませんし、{ましてや}近づく事など決して許されないのです。
この〔男性世界〕と〔女性世界〕との隔絶(カクゼツ)は、互いの理解を阻み、男女の愛憎による殺人事件が頻発(ヒンパツ)する事態を惹(ヒ)き起こしているのですが。その本質は、〔男性世界〕が生み出した性産業の{男性が《用を足す》ための}閉鎖性と、〔女性世界〕に垣間見える『アイドルオタク』や『乙女ゲームオタク』や『腐女子』や『童貞女子』などの{男性に聖域を侵させない為の}閉鎖性による、互いの“無理解”でありまして。この事の解決には、【更新する多様な全体】の【知識機能】に裏打ちされた『理解』の【全面解禁】が欠かせず、一筋縄では行きそうにありません。
*卑劣な男性と男尊女卑による日本の可笑しさ。【5月27日・水】
男性というのは、その多くが女性を不必要に評価し、必要以上に期待してしまっていて。その挙げ句の果てには、《思い通りにならなかった事》の八つ当たりを{男性の庇護の下で恵まれているハズだと思い込んで}女性にぶつけては、{男性である事により恵まれない中でも、自分はよく頑張っていると}英雄気取りになり、判官贔屓(ホウガンビイキ)を気取っている、とっても“みっともない”生き物です。
また、『嫌韓』や『中国蔑視』にも、{女性には賛同する気になれない}男性特有の{同じ様な}論理が顕著に表れていて。{止(ヨ)せばいいのに}【日本国(日本人)】の民主主義の成熟度や民度の高さを過剰に意識し、【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】を無理して過剰に評価してしまい、自己欺瞞(ギマン)による勝手な期待を抱いてしまっていて。挙げ句の果てには、反日運動が{日本の支援による}恵まれた環境下での《身勝手な傲慢》だと{日本を悲劇の主人公に仕立て上げて}嫌悪し、反発して、【日本国(日本人)】には反日運動と対決する道理があると{正義漢ぶって}言っているのです。
男尊女卑が厳然と存続している日本社会にあって、女性がどれ程苦労をしているのかという事を、男性は直ぐに忘れてしまって。男性の側の身勝手な感情の捌(ハ)け口を求めて、{男性の苦労のおかげで恵まれているハズの}女性を八つ当たりの対象にしているだけの弱い者イジメを、男性の尊厳を守る為の戦いだと鼓舞(コブ)しているのとまったく同じ用に。【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】が筋金入りの【反日国家(反日民族)】だという事を簡単に忘れてしまって。民主的で民度の高い【日本国(日本人)】の振りをする事のストレスの発散先を求めて、{日本の援助があってこその発展を無自覚で享受しているハズの}抗日活動に熱を上げている【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】の事を《盲目なお馬鹿たち》と見下して毛嫌いしているだけの卑劣な言動を、【日本国(日本人)】の気概(キガイ)を示しているのだと鼓舞しているのです。
【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】は筋金入りの【反日国家(反日民族)】であり、【日本国(日本人)】は男性特有のいやらしさを隣国に躊躇(チュウチョ)なく暴走させるような【下衆(ゲス)】でありまして。日本の政治家や社長に女性の姿が圧倒的に少ないのが、日本社会の可笑しさを象徴しているというのに、男性たちが何時までたっても{我先(ワレサキ)にと}自己防衛に走ってしまう為、【日本国(日本人)】が何時までも卑劣なままであり、{歪んだ【日本国(日本社会)】の構成が何時までも男性中心で変わらず}残念でなりません。
*真実の女性の視線。【5月13日・水】
今の日本のインターネットなどでよく目にする、《日本に対する韓国の姿勢》というのは、{男性から見た}男性が女性を見る視線を模(モ)したモノであり。《日本に対する中国の姿勢》というのは、{男性から見た}女性が男性を見る視線を模したモノであります。
それは、「女性には敵(カナ)わないけれど、近くに居ると威張っていないと気が済まない」という男性の感情を《韓国の姿勢》に投影したモノであり、「本当は強いのに弱い振りをして援助を上手に引き出し、『離れた所に立って“ケッタクソ悪く”思っているであろう男性』を見て、ホクソ笑んでいる女性の姿」の想像図を《中国の姿勢》に投影したモノでありまして。韓国には{日本の}男性が《男性というモノ》に抱く“哀れみ”をダブらせ、中国には{日本の}男性が《女性というモノ》に抱く“忌々(イマイマ)しさ”をダブらせて、『感情のガス抜き』や『憂さ晴らし』をしているモノなのです。
そしてそれらは、日本の男性たちが、韓国を哀れみ見下しながら、自分の《男性という立場》を慰(ナグサ)め、中国を忌々しく思い反発しながら、自分が《男性という立場》によって抱え込んでしまうストレスを発散しているモノでありますから。{同じ日本人ではあっても}女性には、ほとんど理解できない考え方であり、思いつかない認識なのです。
そのため{日本の}女性は、『韓流』に抵抗が無く、『韓流スター』の追いかけに夢中になれますし。中国の『宇宙開発』や、中国主導の『アジアインフラ投資銀行』に、{日本の}女性は無頓着でいられるのです。
そして問題なのは、上昇志向の強い{主導的立場に立つ事の出来た}女性が、男性たちにゴマをするかのように男性の『建て前論』に賛同し、男性たちの動向に[無理解]で[無頓着]な一般的な女性の在り様を否定的に評価してしまう事でありまして。そのために、可笑しな{男性主体の}日本社会が、男女が共同参画する一枚岩なモノとして、公式に承認されてしまうのです。
そしてこの事は、日本のほとんど総ての問題の根底をなしている、重要な事象でもありまして。女性に頭の上がらない男性による『感情のガス抜き』や『憂さ晴らし』により日本社会の重要な決定が{可笑しな方向に向かって}なされているのに、大半の女性がそれに賛同していなくても、声が大きいエリート女性を{上手く言いくるめて}女性の代表者として決定に参加させるパフォーマンスだけで、{男女が共同参画する}日本人の総意によるモノだという承認が、公然と与えられてしまっているのです。
そしてそんな日本だからなのか、可笑しな男性社会の片棒を担ぐような{反女性的な}言動をする女性が、社会から注目を浴び。男性の一部からではあるが、理解し難い賞賛を浴びて。《男性主導の{可笑しな}日本社会の『建て前論』に理解が出来ず、関心も持てない多くの女性の気持ち》を踏みにじる一握りのエリート女性による『女性蔑視』が、『日本に於ける女性の活躍』として持て囃(ハヤ)されていて。
そして、そんなエリート女性の{次から次の}台頭によって、大多数の《一般女性が独立独歩で活躍し、自由に発言をする機会》が未(イマ)だに奪われたままであり、改善の方法がまったく見いだせないのであります。
*スリットから素足を見せる大人の女性。【5月4日・月】
【天野 こずえ】先生の『ARIA(アリア)』というマンガ本を読んでいると、そこに登場するヒロインの【水無 灯里】たち『ウンディーネ(観光ゴンドラの女性水先案内人)』が、その制服の『スリット』を大きく広げて素足を見せているシーンが多々あるのですが。『ウンディーネ』というのは、ゴンドラを操りながら観光案内もするという難しい仕事をこなすために、[機能性]と[ファッション性]を兼ね備えた制服を纏(マト)い、決して下着を見せないという《大人の着こなし》を身に着けていまして。時々ある下着を見せてしまうような{バイクの後ろに立ち乗りしたり、お酒に酔って足を広げてしまったりする}状況の時には、《子供っぽい》ような、ちょっと“恥かしい”事をしているという表現が使われています。
そうでありますから、エスカレータなどで女性の後ろから下着を盗撮したとして、{有名人やそれなりに地位のある}男性が痴漢行為でちょくちょく検挙されていて、それがテレビニュースなどでも報道されているのですが。それは女性にして見れば、女性の《子供っぽさ》に興味を示されて、しかも意図的に女性の“恥かしい”失敗シーンを撮影されている訳でありますから。かなりショックな出来事になります。
確かに男性の個人的『性的嗜好』も、それなりに尊重されなくてはならないのかもしれませんが。頑張って生きている立派な女性(少女や幼女も含む)を、{男性の勝手で}意図的に“貶(オトシ)めて”しまうような非社会的行為が、時々でも起こってしまう現実を前にして、憤(イキドオ)りを禁じえません。
また、「男好きな馬鹿女が巷(チマタ)に溢れ、その処理を男たちが{浪費によって}引き受けてくれている」とか、「性的欲求でしか行動できないのが女なので、男たちが社会を形成する役割りを{精神を病んでまで}担ってくれている」などの発言が、女性の側からのモノとして発信されているのを時々目にするのですが。
こういった発言の殆(ホト)んどが、本当に女性の側から発信されているのかと考えるのも馬鹿らしいデタラメであるにもかかわらず。どうしてだか男生たちは、この手の『お話し』が大好きであり。女性側からの発言という形をとって発信されていると、{結構な金額の}お金を出して〔成人向け〕の週刊誌や漫画を買い、インターネットの有料サイトの購読をしてしまうものだから。経済を潤(ウルオ)わせる少しばかりの貢献と『表現の自由』の大義名分が付加されて、こういったバカバカしい『お話し』が後を絶たずに捏造(ネツゾウ)されてしまうのです。
そしてこれが問題なのは、この手の《成済(ナリス)まし発言》が、男性たちの『男尊女卑』な[思考]と[感情]と[習慣]の根拠にされてしまい。女性をターゲットにした男性による非社会的行為が、常態化してしまう事でありまして。それが女性の社会進出の機会を、大きく削(ソ)いでしまっているのです。
しかし何と言ってもイチバンに問題なのは、女性自身がそういった『お話し』を聞いているうちに、何時の間にか『男尊女卑』を無意識に受け入れてしまう事でありまして。本来は優秀なハズの社交的な女性が、自由が阻害された{男性主体の}状況を何の疑問も抱かずに安易に受け入れてしまい、何の『自立の手段』も手に入れる事なく男性の『引き立て役』に甘んじてしまって。「様々な可能性を広げながら最低限のレベルで生計を立てる」という生き方に有効な[水商売]や[風俗]などでの{一時的なアルバイトにしておくベキ}女性専用の仕事が、{その派手さによって}ドップリと浸(ツカ)って脱け出せないまま、ほとんど本職になってしまっていて。多くの女性が、その可能性を潰(ツブ)して{男性社会の為に}一生を送っているのです。
『ARIA(アリア)』に限らず、女性が女性に向けて描いた{小説やマンガなどの}作品を読んでもらえれば解るように、女性とは本来、好奇心旺盛で豊な感性を持った{社会にとっての}優良な人材であるのですが。それを良しとしない了見の狭い男性たちによる、『八つ当たり』でしかない“憎悪”の蔓延(マンエン)によって、女性の生き方が強制的に歪められていて。女性潰しが横行し、潰された女性が見せ物となっている[水商売]や[風俗]が繁盛しているのです。まったく夢も希望も無い世界であります。
*セクシー【ちび猫】とは。【4月28日・火】
『場面緘黙症』の《発声困難》による【ハタ迷惑な沈黙】への秘策として作られた、当ブログの副題「セクシー【ちび猫】=奮闘記」から派生したのが、セクシー【ちび猫】でありまして(当ブログ第0075号の『セクシー【ちび猫】=奮闘記【4月日28・火】』参照)。
今後はそういった事情もあり、このページに於(オ)いても、もうちょっとセクシーに取り組む(?)つもりであります。何と言っても、セクシー【ちび猫】ですからね(笑)。
*純粋な女性と男性の関係と人類の立ち位置の回復【4月8日・水】
『節度』ある[不倫]や、『ルール』と『マナー』を守っての[淫行]や、『合意』の範囲での[痴漢行為]や、[バイブ]・[ロータ]・[電マ]・[ダッチハズバンド]・[乳首バイブ、乳首ポンプ]や[ウィバイブ、オルガスター、ヴァジャイナ・ラブマッサージャ]や[アナルパールやアナルビーズ、アナルディルドやアナルバイブ]のような日本的小物だけではなくアメリカ的な[ファッキング・マシーン]なども含んだ『女性用大人のオモチャ』の一般化が、法的にも習慣的にも認められ、悪質な抜け道が作られる事なく真摯(シンシ)に守られ、対等な立場の女性と男性によって尊重されるなら。
《嫌な興奮》である〔イク興奮〕に、男性が追い立てられて、{通り魔事件やストーカー事件やDVなどのような}異性や周囲への悪意が暴走する事による『嗜虐(シギャク)』に至ってしまう事態や。『結婚』や『出産』や『育児』に、女性が急(セ)き立てられて、{男性嫌悪や堕胎(ダタイ)や無理心中などのような}『ヒステリー』や『自虐』や『鬱(ウツ)』に陥(オチイ)る事による『破綻的決断』に至ってしまう事態が無くなり。
《好い興奮》である〔官能的な興奮〕をする事の大切さへの理解が広まり、女性にも男性にも等しく認識されて。それによって、そこから新しい女性と男性の関係の在り様が、{次々と}模索(モサク)され始めるのだと思うのです。
また、『人工授精』や『代理出産』などが一般化し、『SEX』自体の意味が純粋に女性と男性の関係によるモノとなってしまったとしても。そこからまた別の女性と男性の関係が、新しく{次々と}始まるのではないかと思いますし。
そして、女性と男性の関係がドンドン多様になって行くほど、人類を縛(シバ)り続けてきた、{半端な【部分解禁】であったが為に}分裂していた『理念』や『標語』が一体的なモノに統合されて行き、【多様な全体による更新】が何時までも続く『人類としての志』が『人の営み』の中で形成されて行って。本当の意味での人類の姿である、[多様な可能性]や[全体としての機能]や[更新という役割り]が、{多様化し、一体化し、更新を手に入れて}ようやく出現し、{人間であるという縛を断ち切って}人類の立ち位置が回復するのだと思うのです。
*女性向け『性情報誌』が担う役割り【4月7日・火】
男性の主な性感帯が『ペニス』に集中していると言うと、男も『乳首』や『アナル』でも感じると反論する人もいるかもしれませんし、確かに男の『乳首』は{時には}痛いぐらいに好く感じますし、『アナル』に浣腸をしての排泄行為はとても感動的ではあるのですが。
たとえそうであったとしても女性の性感帯は、足の[つま先]~[内モモ]や[付け根]や、[乳房全体]や[乳首]や[乳首の周り]や、顔の[唇]や[口の中]や[耳]や、『クリトリス(陰核)』の[亀頭]や[亀頭の周り]や、『膣』の[膣口]や[Gスポット]や[ポルチオ]や、『アナル』の[挿入行為]や[排泄行為]・・・と多様であり。自分の性感帯を[ペニス]一辺倒で考えてしまう一般的な男性が陥りがちな、《嫌な興奮》である〔イク興奮〕の呪縛(ジュバク)による≪「単調な性的衝動」や、「一様な性的行動」や、「男尊女卑な志向」や、「異性(女性)への八つ当たり」などの≫『男の発想』を血なまこになって実施しようとする衝動はなさそうで。考えただけでも、{女性から見た}性行為が《好い興奮》である〔快楽の興奮〕を多様に、個性的に求めるモノであり、とても楽しそうに感じられて、何時(イツ)もとてもうらやましく思っていました。
そんなおり、最近の女性向け『性情報誌』を読むと、明らかに『男の発想』が持ち込まれていて、女性に“擬似的な男性化”をさせての≪『クリトリス』か『膣』での〔イク興奮〕による{一括(ヒトクク)りにした}“オーガズム”の追求や、[性的行動(性的調教願望)]や[性的衝動(性的公開願望)]の達成が、今の女性の大きな関心事である≫という偏向した内容が多く、女性の折角の多様性が失われてしまったのかと心配しつつ。
また、≪『男の発想』から捏(コ)ね繰(ク)り出された男女平等を掲(カカ)げる『可笑しな男社会』に阿(オモネ)っての紙面作りに{わざと}見せるコトによって、女性の{男社会の中での}社会進出の障害を取り除き、地位向上を目指すモノ≫であると推察(スイサツ)するコトも、出来なくはなくはないのですが。しかし、いくら女性の社会進出が進み、地位向上が実現しても、このままでは『男の発想』の問題衝動が解決しないままであり、結局は『可笑しな男社会』が存続してしまうだけでありまして。そんな女性の苦労が仇(アダ)となって、かえって『男の発想』の問題衝動を深刻化させ、『可笑しな男社会』を見直すチャンスが潰(ツイ)えてしまい。男性による女性への『支配的性調教』や『痴漢的性公開』の欲求が、際限なく{暴走しながら}肥大化して、〔世界〕に衝撃を与えたいという『野望』に形を変えて{世界秩序の混迷が深まるように}発散されていて。そして、そんな『野望』に乗り遅れた{小市民の}男たちが、身近な女性たちに『悪さ』をして発散する状況が{ドンドン進行して}広まっていると、さらに心配しているしだいです。
さらに言えば、男性の持っている性感帯が『ペニス』という一様なモノであっても、{多様な性感帯を持っている}女性特有のモノと思われがちな《好い興奮》である〔快楽の興奮〕が、本当はもっと自由に{多様に}感じられてもいいハズのモノなのですが。意欲的で開放的な女性向け『性情報誌』に比べて、男性向けの『エロ情報誌』は超保守的であり。男性への、《嫌な興奮》である〔イク興奮〕を『やっつけ仕事』で済ませる為の、可笑しな情報提供が主眼に置かれていて。これは言い過ぎなどでは無く、『エロ情報誌』は、男性を【エロ情報という麻薬】による“麻薬漬け”にしているのです。
そして、この“麻薬漬け”による呪縛が、『男の発想』を生み出し、『可笑しな男社会』を形成していて。少しかもしれないが、最近の女性向け『性情報誌』が、≪女性特有の性的嗜好と言って、『クリトリス』か『膣』(もしくは『乳首』や『アナル』)での「イク」・「イク」を{一様に}連発し、女性の『性的調教願望』や『性的公開願望』を{一律に}強調≫して『男の発想』に阿(オモネ)って、それに加担し始めているのですが。自由で無限に更新されるハズの女と男の関係が、それによってさらに硬直を強めているように見えてならないのです。
女と男の関係がどう在るベキかが、[宗教]や[科学]や[常識]などで語られ、硬直してしまった為に、人類の進化が止まって久しいが、このままではそれがマダマダ続いてしまいそうに思えてならないのです。
*女と男の『人類としての志』【4月5日・日】
{女性向けの}本からの情報によるものではあるのですが、女性の『性的嗜好』の成熟度は一般的に高く、性器や性感帯が多様で複雑である事にもよるのでしょうが、《嫌な興奮》とも言える〔イク興奮〕への拘(コダワ)りは薄く、《好い興奮》である〔快楽な興奮〕の方に関心が向いていて、個々の『性的嗜好』が個性的で{何か}楽しそうなのですが。
一方の男性は、一般的に『性的嗜好』は未熟だと言わざるを得ず、{男性向けの}エロ情報誌の内容はどれを見ても一律ですし、しかも何十年も前から一様で、呆れて笑ってしまうほどで。しかもその内容が、《嫌な興奮》でしかない〔イク興奮〕を如何(ドウ)にかして早く済ませてしまおうとする{やっつけ仕事的な}モノばかりのため。その相手をしないといけない女性にとっては、{性交が}とても詰まらない作業だろうし、何より女性が可哀相(カワイソウ)でなりません。
男性の中にも、《好い興奮》である〔快楽な興奮〕に関心を向けて、ゆっくりとした興奮を継続して楽しんでいる人が、全く居ない事はないと思いますし。女性の中でも、集中して多いという訳ではないだけで、〔イク興奮〕に個性として拘っている人が、そう少なくはないのでしょうが。ただ、たいていの男性が、《嫌な興奮》でしかない〔イク興奮〕を『やっつけ仕事』で済ませてしまおうと焦っていて。[痴漢(チカン)]や[淫行(インコウ)]や[強姦(ゴウカン)]などの『性犯罪』や、交際相手の女性を暴行してしまう『ドメスティックバイオレンス(DV)』や、交際を断られた女性に執着する『ストーカー行為』や、不特定の女性への逆恨みによる『通り魔犯罪』などに、どうしても走りやすい傾向にあるのです。
男性の問題は、男性自身の精神的未熟さを自覚できていない{お子様だという}事であり、{女性の問題は、男性の精神的未熟さに気付いていない{危機意識の薄い}事でありますが。この問題は、『性的な問題』に止(トド)まらず、『人の営み』に関わる多くの問題の原点になっていて。『男女平等』や『男女差の認識』などの『標語』や、思想的な『男女の分担』や宗教的な『男女の区別』などの『理念』を掲げても、多くの問題の解決を先送りにするだけであり、結局は問題の煩雑(ハンザツ)さが増しているだけでありまして。
精神的に未熟なままの男性が、女性の成熟さを学ぶコトは、{男性の性器の機能が一律であるという科学的定義への盲信があるので}そう容易(タヤス)くはないですし。精神的な成熟に励んできた女性が、未熟な男性を支援するコトは、{女性が性感帯を個別に開発している個人主義者であるので}そう容易くはなく。その影響により、物事を特定の『理屈』で捉(トラ)えてそれ以上は広くも深くも考えられない男性の性格や、物事の認識を自分の気分や都合である主観によって変える事に抵抗が無い女性の性格による、可笑しな男性主導の社会が成立してしまい。様々な分野での破綻を、そう簡単には回避できない事態が、延々と惹(ヒ)き起こされているのです。
そもそも『人類としての志』とは、「人(女と男)とは、“こう”在るモノ」というような普遍的な先入観に捉(トラ)われず、人類の進化した姿を{多様な全体の更新によって}組み上げて行くモノであり。男性が、男性の性器の機能は一律なモノだと信じる必要はなく、女性も、女性は性感帯を個別に開発しているだけの個人主義者である必要はなくて。
男性がもっと《好い興奮》である〔快楽な興奮〕に目が向いて、ゆっくりとした興奮を継続して楽しむゆとりが出来れば、特定の『理屈』に拘(コダワ)らずに物事を広く深く考究して行けるだろうし。女性がもっと、男性の精神的未熟さに目が向いて、男性が成熟するための支援に乗り出すゆとりが出来れば、物事の認識を客観的な必要に応じて【更新】する《男性の先回り》を、抵抗なく行なえるだろうと思うのです。
男性はよく女性への性的調教の必要性や、男性の性への不当な扱いへの不満などを口にし、女性への攻撃性を暴走させてしまう事があるのですが。明らかにそれらは、未熟な男性が《嫌な興奮》である〔イク興奮〕を早く済ませたり、《嫌な興奮》の感覚から逃れたりするための身勝手であり。現実には男性が成熟した女性に{見下げられて}付き合ってもらっていて、女性はそれで苦労をする事があっても、けっこう我慢をしてあげているようなのです。
そして、そんな可笑しな女と男のもたれ合いこそが、現代社会の深刻な諸問題の、重要な核心部分であったのです。
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第0061号【ちび猫が見付けた『普遍性』の自由議論(2)】参照
第0067号【ちび猫が見付けた『サル山と神秘主義』の自由議論(1)】より
第0080号【ちび猫が見付けた『サル山と神秘主義』の自由議論(2)】より
第0090号【ちび猫が見付けた『女と男の更新』の自由議論(2)】へ続く
平成27年度版(1)
*理想の男女関係と、“適切”な男女との違い。【6月29日・月】
男女の関係で人間は大きな勘違(カンチガ)いをしていて、≪『神』が示した男女の在り様が理想であり、男も女もその理想を目指すべきである≫と盲信し、さらには≪男も女もその理想を異性に要求すべきである≫と狂信していまして。世界中で、人間社会に於いては、『神』を用いたペテンが横行しているのです。
そもそも男女の関係の在り様には、従わなければならない縛りなどは存在せず、対等であり平等であって、≪男が男を演じる必要はないし、男が女に女を演じさせる必要もないし、女が女を演じる必要などないし、女が男に男を演じさせる必要などもない≫というのに。人間社会に於いては、『神』が示した男女関係の理想が{ゴリ押しをしてもいい}正義だとされているので、{勘違いをしたまま}『神』の名を使った性犯罪が横行してしまうのです。
男は男として幸せである為に“適切”な男であり、女も女として幸せである為に“適切”な女であるのであって。『神』の言う男女の関係の在り様によって、それが歪められてはならないのですが。性的行動についても、≪男の場合には、女性にして欲しい事を“適切”に提供してもらう対価として、“適切”な性行動を女性に提供するモノ≫であり、≪女性の場合には、男性に“適切”な性行動を提供してもらう対価として、男性が欲しがっている事を“適切”に提供するモノ≫であるだけなのに。{そうであるにも拘らず}人間社会では『神』を持ち出しさえすれば“適切”を欠くことが正当化されてしまう為に、[セクハラ]や[痴漢]や[ストーカー]や[DV]などの性犯罪が、{無自覚なペテン行為として}理想の名の下に横行する事になるのです。
*正しい男女関係が性犯罪関係となる。【6月24日・水】
権力者が既存の『神』の絶対性に依存していて、知識人が新たに『神』を求めたとしても、それはただ絶対性の存在の表面だけが違うだけで、その人間性はどちらも変わらない。人間の中にもゴク僅(ワズ)かだが、そんな人間性ではない人類としての在り様を模索(モサク)する者もいるのだが、身勝手な知識人の傲慢(ゴウマン)な独善に撹乱(カクラン)されて、道を見失ってしまう。
男性が男の役目を果たし、女性が女の役目を果たす事で、人間社会が繁栄すると信じてしまえば。人は自分の性の窮屈(キュウクツ)さに喘(アエ)ぎ、異性へはその償(ツグナ)いを求めて攻撃をしてしまう。故に、各種の性犯罪が頻発し、社会の安全と繁栄が衰退して行くのです。
男性が女性に女としての役割を求めず、女性が男性に男としての役割を求めず、様々な男性と女性とによって無限大に様々な男女が成立する事で、男女関係の機能が成り立つものなので。男性も女性も一様な男女関係を求めれば、男女関係の機能が失われ、性犯罪の男女関係になってしまうだけのです。故に、知識人の正論に耳を貸す男女があれば、それが社会の不安定分子となり、人の営みを崩壊(ホウカイ)へと導いてしまうのです。
男性も女性も男女の【部分】であり、その男女も大きな男女関係の【部分】でありまして。その無限大に大きな男女関係が存在する事で、男女の機能が発揮され、男性が男となれ、女性が女となれるのでありますから。知識人の言う正しい男女関係を、一律に男女が求めてしまう事を止めるコトが、人間が人類に戻る{欠かすコトの出来ない}大事な一歩なのです。
*男女の性欲強迫症による悲劇の繰り返し。【6月21日・日】
[核エネルギー]や[生体科学]などに於ける進歩や兵器開発などで問題が起こるたびに、《『神の領域』を人が侵したからだ》という話しが{何所(ドコ)からともなく}現れ、人はそれを当然の事だと{『神』を畏(オソ)れて}受け入れ、簡単に他者へと{『神』に阿(オモ)って}広めてしまって、多くの人間たちの間で広く囁(ササヤ)かれるのですが。まさにそれこそが、人間の過ちの{典型的な}見本であり、その過ちは人間の男女関係に於ける犯罪までも、[正義]や[良心]の名の下に横行させているのです。
[因習]的に[宗教]的に[世俗]的に{愛を騙って}男女に性欲を強要するような、《生活の情報》や《風俗の物語》や《公的な発表》などの『可笑しな話し』が巷(チマタ)に溢れていて。人間は子供の頃から{恋愛願望から始まる}性欲強迫症に落ちいっていて、そしてそのまま大人になっていくと、その強迫観念による自分の{性欲暴走などの}問題を【自分の性】の暴走とスリ替えて{一般論であるかのように}考えてしまい、さらにはその責任を異性に転嫁してしまうものだから。ついには、【自分の性】と【異性という存在】との『精神的』な対立関係を{躊躇(チュウチョ)なく}肯定してしまう様になり、身近な異性を[正義]や[良心]の名の下に}攻撃する様になって、[セクハラ]や[ストーカー]や[DV]などの性犯罪を{人間はいとも簡単に}実力行使してしまう様になるのです。
人間が抱いてしまう{子供の頃の恋愛願望から始まる}性欲の強迫観念は凄(スサ)まじいモノであり、その縛りから開放される為には、男女ともに《【自分の性】は異性で発情する必要はない》し《【自分の性】は異性を発情させる必要もない》と思える上に、《異性は【自分の性】で発情する必要はない》し《異性は【自分の性】を発情させる必要もない》とまで認識し、そしてそれを異性と共感できる事が必要なのですが。人間は性犯罪の問題を、近代に於ける人間の{開放的な}精神性が《『神の領域』を人が侵したからだ》という話しのモノだと{絶対的に}信じ込んでいて、{形だけの}ストイックさの[競争]や[強要]に『血マナコ』になっているので、性犯罪の増加はもとより凶悪化も止まらず、悲劇が{何時(イツ)までも}繰り返されるのです。
*男女双方についての性欲の強迫観念からの開放。【6月19日・金】
人間は、様々な性関係の情報に{無自覚なまま}踊らされていて、性欲強迫症に陥ってしまっているだけなのだが。人間とは、その男も女も、その{強迫観念の}想いだけで簡単に発情してしまうものであり。そしてその{性欲の}強迫観念が強い人ほど、自分の欲情に恐れ慄(オノノ)いてしまい。欲情が{制御できずに}発動するカギとなる異性という存在を、{無意識のうちに}遠のけようとしてしまうモノでありまして。
そして、その{異性への}拒絶意識こそが、男女の不協和音関係のキッカケとなっているモノでありますから。男も女も「男も女も発情などしなくてもいいのだ(!)」と{意識して}納得し、性欲の強迫観念から{自分も異性も}開放されて、欲情の発動リスクが下がる事によって。{男女とも}男と女の協調関係に、ようやく着手する事ができるのです。
*男の本音と女の本音と人々の安心。【6月19日・金】
地球人の【男性】の目には、【女性】というモノが、[可愛いモノ]・[美しいモノ]・[男の食い物でしかないモノ]とか、[目障りなモノ]・[足手まといなモノ]・[男にとっての澱(オリ)でしかないモノ]に見えていて。【女性】の目には【男性】というモノが、[甘えられる庇護者みたいなモノ]・[引っ張ってくれる頼(タヨ)れるモノ]・[女のパトロンでしかないモノ]とか、[お金で男になれると思っている馬鹿なモノ]・[ワガママが男らしさだと思っているアホなモノ]・[女を縛る枷(カセ)でしかないモノ]に見えていて。
そして、その溝(ミゾ)が埋まる事がないまま{可笑しな}近代化が進み、過激なフェミニストの女性が台頭してきている地域がある反面、女性が奴隷のように売買されている地域も珍しくなく。そして、それについての事を「プラスとマイナスでバランスが取られている」と言うコトで、『精神安定剤』代わりとしていて。そしてそれによって、大多数の男女が『したり顔』をしつつ、現状での《『絵に描いたモチ』のような安心》を手に入れるコトが出来ているのです。
《『絵に描いたモチ』のようなモノ》というのは、地球人にとってはけっこう重要であり。物事の付加価値というのは、《『絵に描いたモチ』のようなモノ》により発生しているモノでありまして。
{権威によって示された}特定の方向での『出来栄え』でのランク付けや、{同じ方向であるにも関わらず}同じ様な方向性で『真新(マアタラ)しさ』が抱けた時の[驚き]と[新鮮さ]で、そのモノの価値(差別)が決められていて。【更新する無限大に多様な全体】で物事が{平等に}見られるコトはなく、【部分解禁】されたモノの【部分】としての暴走が、そのモノの価値として{差別的に}認識されていまして。
大多数の男女が抱いている現状での《『絵に描いたモチ』のような安心》というのは、{権威によって示された}特定の方向性に向かう{価値の争奪戦の}競争にみんなで参加している時の《織り込み済みの差別の中で抱く安心感》に依拠(イキョ)した幻想でしかなく。『男尊女卑』や『フェミニズム』による、一方向にだけ進むように男女を囲う柵(サク)としての{価値や差別を明確化する}機能が、{公(オオヤケ)に知られる事もなく}果たされている結果なのです。
地球人(人類)に於ける男女の本来の姿を、【更新する無限大に多様な全体】によって{『神は死んだ』が如く}総ての縛りを取っ払って表現すると、『人間は終った』となり。人類としての新しい{様々な}一歩を、各人が{個別に}踏み出していてもよさそうであったのですが。これまでに様々な賢者たちが、その[合図]や[ヒント]や[カギ]を残してきていたにも拘(カカワ)らず、ことごとく歪められて{人間が望む(!)ように}理解されていて。{人類が人間である事によって生み出される}価値や差別から作られた『既得権益』に人間がぶら下がる《人の営み》が、延々と続いてきたのです。
そこで、地球人(人間)に、新たな提案をするとなると、≪展示会やコンクールで、優秀賞を取ったモノが副賞で何らかの特典が与えられるのは、既存の《人の営み》による名残(ナゴリ)であり、それまでも排除してしまおうとするのは、『本末転倒』でありますが。ただし、だからと言って展示に差別があるような事は、決してあってはなりませんから。それと同じ様に男女に於いても、『力持ちで賞』とか『お利巧で賞』とか『美人で賞』とか『家事が得意で賞』とかで何らかの特典が得られるのはかまわないのですが。そこから、《男女の差別》や《同姓内での格差》が起こるような事は、決してあってはならないのです≫となるのですが。
しかしまあ、この道理を理解してしまっては、人間では居られないかもしれませんし、既存の《人の営み》にもマズ馴染めませんから、初めから無理な話しであるのかもしれません。
*『男女の自由』の多様さで判る人類の進歩。【6月17日・水】
男性の一方的な想いが女性を傷つけてしまう『罪』がまかり通っている“普通”が怖ろしいので、婚期を逃した男性は、「女性が幸せであってほしいと願う」という男性たちを代表しての『贖罪(ショクザイ)』の意思を持って、死に至るまで独身であってもいいと簡単に思うのですが。
同じ様な意味で、風俗譲たちも、女性特有の想いが男心を傷つけてしまう『過ち』がまかり通っている“普通”が怖ろしかったので、《男性本意の風俗を放置する》という女性たちを代表しての『贖罪』の意思を持って、風俗業に従事してもいいと簡単に考えてしまうのです。
“普通”の家庭では、夫は男性の“罪”で家庭内の女性を縛り、妻も女性の“過ち”で家庭内の男性を縛りつけていて、その行為は家庭内の同姓に、“普通”は継承されてしまうものなのですが。
それが嫌な男性は『男の罪』を背負って結婚をせず、女性は『女の過ち』の償いに風俗業に従事するのです。
かくして独身男性は増え続け、私生児を生む女性も増え続け、日本の出生率はドンドン減り続けてしまうのであった。
婚姻により築かれる“普通”の家庭という形式が、夫にとっても妻にとっても、息子にとっても娘にとっても、婿(ムコ)にとっても嫁(ヨメ)にとっても、縛られるだけの居心地の悪い場所を作り出しているという事に誰もが目を瞑(ツム)ってしまい。
崩壊が進む家庭の再建が日本には必要だと誰もが口にするばかりで、日本に於ける“普通”の家庭が崩壊していく事の理由(必然性)に真剣に向き合わず、“普通”の家庭という形式の[堅苦しさ]や[多様性の無さ]や[排他性]の問題について{自己保身で}誰も触れようとしないのですが。
男女の在り方の理想が“普通”の家庭に在ると言われれば言われるほど、男性も女性も結婚など出来なくなり、{小さな古い全体の“普通”に固執する}日本を崩壊へと進めてしまうだけなのです。
100年も前に【ニーチェ】が『神は死んだ』と“号砲”を鳴らしてくれたのですから、人間は{小さな全体(伝統)も含めて}モット自由な存在であらねばならず、男女の在り方も{古い全体(伝承)と一緒に}モット多様な在り様であらねばならないのです。
全体が制限を受けてしまっていると、その【部分】でしかない人間の在り様が個別に進化しても、それはウイルスや細菌が薬品耐性を獲得するのと一緒で、全体を脅かす存在にしか見られず、排除の対象になってしまい、全体と進化とで対立(ケンカ)をしてしまうだけなのですが。【更新する無限大に多様な全体】を体現しる『生きた水』から製作(育成)される【薬品耐性水】の中では、《ウイルスや細菌による薬品耐性の獲得》も【更新する無限大の多様性からなる全体】の【部分】として取り込まれて、{無限大の全体の中での旧来の全体と同列で}有用な働きモノとして活用されるように。【更新する無限大に多様な全体】の【部分】としての人類の在り様を、{『神は死んだ』という“号砲”を合図に}人間が取り戻すコトが出来ていれば、{[信仰]や[風習]や[男女の在り様]が各地で違うように}人間の[個人]や[社会]や[男女]の在り様が個別(様々)に進化したとしても、無限大の全体の中で{それまでの全体であった}古いモノと{これから}進化して行くモノとが多様性の中で平等に有効活用されて、{『神』によって制限されていた}【更新】がようやく始まるのです。
木更津の『庭師の雨ふり作陶展』で見た、旧来の『小さく固まった全体』に捉われない《全てを{平等に}包容する多様な展示》のような、男女の自由な在り様の多様さが、今後の人類の行く末を左右する指針になるのです。
*『夜の街』で飼いならされた男たちの男社会。【6月10日・水】
レストランでの食事には、テーブルマナーが欠かせませんし、タバコを吸うにしても、喫煙マナーを守る必要があります。それと同じ様に、男性向けの『飲み屋』や『風俗店』を利用する時であっても、{男社会では}それなりのマナーが{お客である}男性に求められているのは、【ちび猫】にも分かります。
しかし【ちび猫】は、女性を前にすると、《ただヤリタイ(!)、ひたすらヤリタイ(!!)》としか思えないので。【ちび猫】にとっては、女性が接客する『飲み屋』は、我慢するだけの“苦痛”を味わう店でしかありませんし。お酒を飲んでから行く『風俗店』は、気晴らしになる程度の“シラケ”る店でしかありません。
可笑しな“マナー”の縛(シバ)りと、無制限に近いアルコール漬けによって、“牙”を抜かれた《飼いならされた男たち》がうごめき、女性たちがその監視役を担わされている『夜の街』なのですが。そんな[不自由]や[不条理]や[不合理]が“嫌い”で、【ちび猫】はどうしても、『飲み屋』や『風俗店』では楽しめないのです。
『飲み屋』や『風俗店』に行くのよりも、家でのんびり『赤ずきんチャチャ』や『カスミン』や『ARIA(アリア)』や『かみちゅ!』などのアニメを観たり、本棚で目に付いた『やじきた学園道中記』や『赤ちゃんと僕』や『のだめカンタービレ』や『ねこむすめ道草日記』などの漫画や、『しにがみのバラッド』や『吉永さん家のガーゴイル』などのライトノベルを読んだりしている事の方が、【ちび猫】にとっては比較にならないほどストレスの解消になるのですが。しかし、人間には付き合いというモノがあるので、【ちび猫】はこれまでの人生に於いて、好きなアニメや漫画につぎ込めた金額の何十倍ものお金(たぶん収入の20%ほど)を、ストレスの溜まる『飲み屋』や『風俗店』につぎ込んできてしまっているのです。
アニメや漫画が好きだとオタクと思われて、インドア派だと勝手に決め付けられてしまいますが。【ちび猫】は昔からオートバイが好きで、日本中をツーリングしてきましたし、今は軽自動車の【プチフランソワーズ】しか乗っていませんが、夜中にちょくちょく100㎞以上のチョイ乗りをしますし、時には一日に1000㎞以上の遠出をする事もあるのです。
あと、{独身なので}よくホモではないかと言われてしまうのですが、【ちび猫】的には≪仕事先で若い娘さんとつい不用意に目が合ったり、会話をしたりしてしまって、しばらくはドキドキしてしまって仕事が手につかなくなってしまう事が時々あり、その自己処置に困っているというのに、何を言うんですか≫という感じです。
今は[電気]と[通信]の『資格試験』の勉強に一生懸命なのですが、これも自分の抜け落ちていた《男としての“牙”》を再生させるチャレンジでありまして、この弛(タル)んだ{男たちに“牙”を失わせる}男社会にカツを入れる為の準備段階なのです。
*【ちび猫】の苦痛と幸い。【6月9日・火】
【ちび猫】は、{男性向けの}風俗や水商売のサービスが“苦痛”でありまして、ソープランドやピンサロはもちろんキャバクラやスナックに至るまで、今までに色々と行って{20代~30代の頃に“付き合い”などで}多額のお金をつぎ込んできましたが、ただの一度も楽しいと思えた事がありませんでした。
男性としての一般的な性欲は普通に有るハズだと思っているのですが、それを“コントロール”して{接客してくれる}女性と接するのがどうも苦手でありまして。近づいて来(コ)られるぐらいなら{どうにか}平静も保(タモ)てて、男性らしい行動を{上手く}装(ヨソオ)えるのですが、触ったり{触られたり}する段階以上のサービスになると、{誰かとの“付き合い”でその場に行っているので}その場から逃げ出したい衝動を“抑える”のに必死になってしまって、楽しくないどころか“苦痛”でならなかったのです。
特に“嫌い”であったのが、数人で行く{お触りが出来る}キャバクラ系の店で。入店した瞬間から帰りたい気持ちを抑えるのに必死となり、たいていは2時間か3時間で開放されるのですが、帰りには割り勘だと言って2万~3万円(多い時には5万円)も支払わされるのですから、{ちょくちょく誘われていましたから}タマッタモノではありませんでした。
そして、飲み会の後に誘われて行く風俗店では、お酒に酔っていて何も出来ないのに、{裸の女性の前で}タバコをふかして3万~5万円(多い時には10万円)も請求されるものですから、{断り切れなくて時々行く程度でしたが}この産業がなぜ繁盛するのかさっぱり分かりませんでした。
しかし、本当にその存在が不思議で、どうしてこんなにも男たちがその店へ行くのかが不思議でならないのが、普通の{女性のママさんやホステスがいる}スナックでありまして。並みのウイスキーとお菓子のようなオツマミで、我慢をして女性の話し相手をしているだけで、1万円前後のお金を請求されるのですから、【ちび猫】にとっは{今に至っても}まったく理解不能な店であります。
そんな【ちび猫】が、最近になって特に気になっているのが、『童貞女子』という存在でありまして。20代(それも前半)の女性が、これほどまでに[情熱的]であり[開放的]であり[先鋭的]であって、男社会と無縁のような自由を人として満喫しているとは、まったく想像も出来なかったので。【ちび猫】もようやく、『童貞女子』関連の本を読み、『BL』の漫画を購入し、『アイドルオタク』の実態に目を向け始めていて、これからは女性の本質をもっとチャント見ていこうと思っているところであります。
また、『童貞女子』関連の本を探している時に、男性向け風俗の“矛盾”を女性の視点から容赦なく突いている本にも巡り合えたので、良い援軍を得たと喜んでいるしだいでありまして。男性社会に媚(コ)びない女性たちの在り様を、もっと紹介する事が出来るのが、いまの【ちび猫】の“幸い”でもあるのです。
*性産業と『童貞女子』との隔絶。【6月1日・月】
男性向けの[エロ本]や[AVビデオ]や[キャバクラ]や[風俗店]には、沢山の女性が登場して来まして、その時に男性は女性に触れ、女性を『理解』するのですが。この時に{少しですが}問題が二つありまして、一つ目が売り手側の女性が『女性像』を演技していて、買い手側の男性の要望に答えようとして《まったくのウソ》を付加価値のあるモノとして提供している事であります。そして二つ目が、男性が女性を『理解』するのに、『女性像』の【型】を{初めから}持ってしまったまま、その範疇(ハンチュウ)での女性の『理解』を目指してしまっていて、女性の真実の部分を{たとえ}見聞きしたとしても、それを《用の足せないモノ》として{情報の中から}排除してしまって、結局は{旧態依然の}一様な『女性像』を繰り返し『理解』してしまっているという事であります。
そして、こういった{問題を抱えた}性産業が、{ホストクラブなどの一部を除いて}たいていが〔男性世界〕の為にあり、男性が思い描く『女性像』の演技を女性にしてもらう為に多くの男性が高額の支払いをしてくれて、けっこう優良で大きな産業形態をなしているモノだから。女性の真実の部分の姿や本音などは、たいていが《用の足せないモノ》として{問答無用で即座に}蚊帳の外に出されてしまっているのですが。その上さらには、『アイドルオタク』や『乙女ゲームオタク』や『腐女子』や『童貞女子』などの、『女性の本質』に触れられるキッカケとなるハズの〔女性世界〕の景色を垣間見せてくれるドアも、{男性に気を使うのが面倒な彼女たちによって}堅く閉ざされていて。【型】にはまった{《用を足す》という下心丸出し}の男性には、{〔男性世界〕を拒む女性の存在など}とうてい『理解』出来ませんし、{ましてや}近づく事など決して許されないのです。
この〔男性世界〕と〔女性世界〕との隔絶(カクゼツ)は、互いの理解を阻み、男女の愛憎による殺人事件が頻発(ヒンパツ)する事態を惹(ヒ)き起こしているのですが。その本質は、〔男性世界〕が生み出した性産業の{男性が《用を足す》ための}閉鎖性と、〔女性世界〕に垣間見える『アイドルオタク』や『乙女ゲームオタク』や『腐女子』や『童貞女子』などの{男性に聖域を侵させない為の}閉鎖性による、互いの“無理解”でありまして。この事の解決には、【更新する多様な全体】の【知識機能】に裏打ちされた『理解』の【全面解禁】が欠かせず、一筋縄では行きそうにありません。
*卑劣な男性と男尊女卑による日本の可笑しさ。【5月27日・水】
男性というのは、その多くが女性を不必要に評価し、必要以上に期待してしまっていて。その挙げ句の果てには、《思い通りにならなかった事》の八つ当たりを{男性の庇護の下で恵まれているハズだと思い込んで}女性にぶつけては、{男性である事により恵まれない中でも、自分はよく頑張っていると}英雄気取りになり、判官贔屓(ホウガンビイキ)を気取っている、とっても“みっともない”生き物です。
また、『嫌韓』や『中国蔑視』にも、{女性には賛同する気になれない}男性特有の{同じ様な}論理が顕著に表れていて。{止(ヨ)せばいいのに}【日本国(日本人)】の民主主義の成熟度や民度の高さを過剰に意識し、【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】を無理して過剰に評価してしまい、自己欺瞞(ギマン)による勝手な期待を抱いてしまっていて。挙げ句の果てには、反日運動が{日本の支援による}恵まれた環境下での《身勝手な傲慢》だと{日本を悲劇の主人公に仕立て上げて}嫌悪し、反発して、【日本国(日本人)】には反日運動と対決する道理があると{正義漢ぶって}言っているのです。
男尊女卑が厳然と存続している日本社会にあって、女性がどれ程苦労をしているのかという事を、男性は直ぐに忘れてしまって。男性の側の身勝手な感情の捌(ハ)け口を求めて、{男性の苦労のおかげで恵まれているハズの}女性を八つ当たりの対象にしているだけの弱い者イジメを、男性の尊厳を守る為の戦いだと鼓舞(コブ)しているのとまったく同じ用に。【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】が筋金入りの【反日国家(反日民族)】だという事を簡単に忘れてしまって。民主的で民度の高い【日本国(日本人)】の振りをする事のストレスの発散先を求めて、{日本の援助があってこその発展を無自覚で享受しているハズの}抗日活動に熱を上げている【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】の事を《盲目なお馬鹿たち》と見下して毛嫌いしているだけの卑劣な言動を、【日本国(日本人)】の気概(キガイ)を示しているのだと鼓舞しているのです。
【韓国(韓国人)】や【中国(中国人)】は筋金入りの【反日国家(反日民族)】であり、【日本国(日本人)】は男性特有のいやらしさを隣国に躊躇(チュウチョ)なく暴走させるような【下衆(ゲス)】でありまして。日本の政治家や社長に女性の姿が圧倒的に少ないのが、日本社会の可笑しさを象徴しているというのに、男性たちが何時までたっても{我先(ワレサキ)にと}自己防衛に走ってしまう為、【日本国(日本人)】が何時までも卑劣なままであり、{歪んだ【日本国(日本社会)】の構成が何時までも男性中心で変わらず}残念でなりません。
*真実の女性の視線。【5月13日・水】
今の日本のインターネットなどでよく目にする、《日本に対する韓国の姿勢》というのは、{男性から見た}男性が女性を見る視線を模(モ)したモノであり。《日本に対する中国の姿勢》というのは、{男性から見た}女性が男性を見る視線を模したモノであります。
それは、「女性には敵(カナ)わないけれど、近くに居ると威張っていないと気が済まない」という男性の感情を《韓国の姿勢》に投影したモノであり、「本当は強いのに弱い振りをして援助を上手に引き出し、『離れた所に立って“ケッタクソ悪く”思っているであろう男性』を見て、ホクソ笑んでいる女性の姿」の想像図を《中国の姿勢》に投影したモノでありまして。韓国には{日本の}男性が《男性というモノ》に抱く“哀れみ”をダブらせ、中国には{日本の}男性が《女性というモノ》に抱く“忌々(イマイマ)しさ”をダブらせて、『感情のガス抜き』や『憂さ晴らし』をしているモノなのです。
そしてそれらは、日本の男性たちが、韓国を哀れみ見下しながら、自分の《男性という立場》を慰(ナグサ)め、中国を忌々しく思い反発しながら、自分が《男性という立場》によって抱え込んでしまうストレスを発散しているモノでありますから。{同じ日本人ではあっても}女性には、ほとんど理解できない考え方であり、思いつかない認識なのです。
そのため{日本の}女性は、『韓流』に抵抗が無く、『韓流スター』の追いかけに夢中になれますし。中国の『宇宙開発』や、中国主導の『アジアインフラ投資銀行』に、{日本の}女性は無頓着でいられるのです。
そして問題なのは、上昇志向の強い{主導的立場に立つ事の出来た}女性が、男性たちにゴマをするかのように男性の『建て前論』に賛同し、男性たちの動向に[無理解]で[無頓着]な一般的な女性の在り様を否定的に評価してしまう事でありまして。そのために、可笑しな{男性主体の}日本社会が、男女が共同参画する一枚岩なモノとして、公式に承認されてしまうのです。
そしてこの事は、日本のほとんど総ての問題の根底をなしている、重要な事象でもありまして。女性に頭の上がらない男性による『感情のガス抜き』や『憂さ晴らし』により日本社会の重要な決定が{可笑しな方向に向かって}なされているのに、大半の女性がそれに賛同していなくても、声が大きいエリート女性を{上手く言いくるめて}女性の代表者として決定に参加させるパフォーマンスだけで、{男女が共同参画する}日本人の総意によるモノだという承認が、公然と与えられてしまっているのです。
そしてそんな日本だからなのか、可笑しな男性社会の片棒を担ぐような{反女性的な}言動をする女性が、社会から注目を浴び。男性の一部からではあるが、理解し難い賞賛を浴びて。《男性主導の{可笑しな}日本社会の『建て前論』に理解が出来ず、関心も持てない多くの女性の気持ち》を踏みにじる一握りのエリート女性による『女性蔑視』が、『日本に於ける女性の活躍』として持て囃(ハヤ)されていて。
そして、そんなエリート女性の{次から次の}台頭によって、大多数の《一般女性が独立独歩で活躍し、自由に発言をする機会》が未(イマ)だに奪われたままであり、改善の方法がまったく見いだせないのであります。
*スリットから素足を見せる大人の女性。【5月4日・月】
【天野 こずえ】先生の『ARIA(アリア)』というマンガ本を読んでいると、そこに登場するヒロインの【水無 灯里】たち『ウンディーネ(観光ゴンドラの女性水先案内人)』が、その制服の『スリット』を大きく広げて素足を見せているシーンが多々あるのですが。『ウンディーネ』というのは、ゴンドラを操りながら観光案内もするという難しい仕事をこなすために、[機能性]と[ファッション性]を兼ね備えた制服を纏(マト)い、決して下着を見せないという《大人の着こなし》を身に着けていまして。時々ある下着を見せてしまうような{バイクの後ろに立ち乗りしたり、お酒に酔って足を広げてしまったりする}状況の時には、《子供っぽい》ような、ちょっと“恥かしい”事をしているという表現が使われています。
そうでありますから、エスカレータなどで女性の後ろから下着を盗撮したとして、{有名人やそれなりに地位のある}男性が痴漢行為でちょくちょく検挙されていて、それがテレビニュースなどでも報道されているのですが。それは女性にして見れば、女性の《子供っぽさ》に興味を示されて、しかも意図的に女性の“恥かしい”失敗シーンを撮影されている訳でありますから。かなりショックな出来事になります。
確かに男性の個人的『性的嗜好』も、それなりに尊重されなくてはならないのかもしれませんが。頑張って生きている立派な女性(少女や幼女も含む)を、{男性の勝手で}意図的に“貶(オトシ)めて”しまうような非社会的行為が、時々でも起こってしまう現実を前にして、憤(イキドオ)りを禁じえません。
また、「男好きな馬鹿女が巷(チマタ)に溢れ、その処理を男たちが{浪費によって}引き受けてくれている」とか、「性的欲求でしか行動できないのが女なので、男たちが社会を形成する役割りを{精神を病んでまで}担ってくれている」などの発言が、女性の側からのモノとして発信されているのを時々目にするのですが。
こういった発言の殆(ホト)んどが、本当に女性の側から発信されているのかと考えるのも馬鹿らしいデタラメであるにもかかわらず。どうしてだか男生たちは、この手の『お話し』が大好きであり。女性側からの発言という形をとって発信されていると、{結構な金額の}お金を出して〔成人向け〕の週刊誌や漫画を買い、インターネットの有料サイトの購読をしてしまうものだから。経済を潤(ウルオ)わせる少しばかりの貢献と『表現の自由』の大義名分が付加されて、こういったバカバカしい『お話し』が後を絶たずに捏造(ネツゾウ)されてしまうのです。
そしてこれが問題なのは、この手の《成済(ナリス)まし発言》が、男性たちの『男尊女卑』な[思考]と[感情]と[習慣]の根拠にされてしまい。女性をターゲットにした男性による非社会的行為が、常態化してしまう事でありまして。それが女性の社会進出の機会を、大きく削(ソ)いでしまっているのです。
しかし何と言ってもイチバンに問題なのは、女性自身がそういった『お話し』を聞いているうちに、何時の間にか『男尊女卑』を無意識に受け入れてしまう事でありまして。本来は優秀なハズの社交的な女性が、自由が阻害された{男性主体の}状況を何の疑問も抱かずに安易に受け入れてしまい、何の『自立の手段』も手に入れる事なく男性の『引き立て役』に甘んじてしまって。「様々な可能性を広げながら最低限のレベルで生計を立てる」という生き方に有効な[水商売]や[風俗]などでの{一時的なアルバイトにしておくベキ}女性専用の仕事が、{その派手さによって}ドップリと浸(ツカ)って脱け出せないまま、ほとんど本職になってしまっていて。多くの女性が、その可能性を潰(ツブ)して{男性社会の為に}一生を送っているのです。
『ARIA(アリア)』に限らず、女性が女性に向けて描いた{小説やマンガなどの}作品を読んでもらえれば解るように、女性とは本来、好奇心旺盛で豊な感性を持った{社会にとっての}優良な人材であるのですが。それを良しとしない了見の狭い男性たちによる、『八つ当たり』でしかない“憎悪”の蔓延(マンエン)によって、女性の生き方が強制的に歪められていて。女性潰しが横行し、潰された女性が見せ物となっている[水商売]や[風俗]が繁盛しているのです。まったく夢も希望も無い世界であります。
*セクシー【ちび猫】とは。【4月28日・火】
『場面緘黙症』の《発声困難》による【ハタ迷惑な沈黙】への秘策として作られた、当ブログの副題「セクシー【ちび猫】=奮闘記」から派生したのが、セクシー【ちび猫】でありまして(当ブログ第0075号の『セクシー【ちび猫】=奮闘記【4月日28・火】』参照)。
今後はそういった事情もあり、このページに於(オ)いても、もうちょっとセクシーに取り組む(?)つもりであります。何と言っても、セクシー【ちび猫】ですからね(笑)。
*純粋な女性と男性の関係と人類の立ち位置の回復【4月8日・水】
『節度』ある[不倫]や、『ルール』と『マナー』を守っての[淫行]や、『合意』の範囲での[痴漢行為]や、[バイブ]・[ロータ]・[電マ]・[ダッチハズバンド]・[乳首バイブ、乳首ポンプ]や[ウィバイブ、オルガスター、ヴァジャイナ・ラブマッサージャ]や[アナルパールやアナルビーズ、アナルディルドやアナルバイブ]のような日本的小物だけではなくアメリカ的な[ファッキング・マシーン]なども含んだ『女性用大人のオモチャ』の一般化が、法的にも習慣的にも認められ、悪質な抜け道が作られる事なく真摯(シンシ)に守られ、対等な立場の女性と男性によって尊重されるなら。
《嫌な興奮》である〔イク興奮〕に、男性が追い立てられて、{通り魔事件やストーカー事件やDVなどのような}異性や周囲への悪意が暴走する事による『嗜虐(シギャク)』に至ってしまう事態や。『結婚』や『出産』や『育児』に、女性が急(セ)き立てられて、{男性嫌悪や堕胎(ダタイ)や無理心中などのような}『ヒステリー』や『自虐』や『鬱(ウツ)』に陥(オチイ)る事による『破綻的決断』に至ってしまう事態が無くなり。
《好い興奮》である〔官能的な興奮〕をする事の大切さへの理解が広まり、女性にも男性にも等しく認識されて。それによって、そこから新しい女性と男性の関係の在り様が、{次々と}模索(モサク)され始めるのだと思うのです。
また、『人工授精』や『代理出産』などが一般化し、『SEX』自体の意味が純粋に女性と男性の関係によるモノとなってしまったとしても。そこからまた別の女性と男性の関係が、新しく{次々と}始まるのではないかと思いますし。
そして、女性と男性の関係がドンドン多様になって行くほど、人類を縛(シバ)り続けてきた、{半端な【部分解禁】であったが為に}分裂していた『理念』や『標語』が一体的なモノに統合されて行き、【多様な全体による更新】が何時までも続く『人類としての志』が『人の営み』の中で形成されて行って。本当の意味での人類の姿である、[多様な可能性]や[全体としての機能]や[更新という役割り]が、{多様化し、一体化し、更新を手に入れて}ようやく出現し、{人間であるという縛を断ち切って}人類の立ち位置が回復するのだと思うのです。
*女性向け『性情報誌』が担う役割り【4月7日・火】
男性の主な性感帯が『ペニス』に集中していると言うと、男も『乳首』や『アナル』でも感じると反論する人もいるかもしれませんし、確かに男の『乳首』は{時には}痛いぐらいに好く感じますし、『アナル』に浣腸をしての排泄行為はとても感動的ではあるのですが。
たとえそうであったとしても女性の性感帯は、足の[つま先]~[内モモ]や[付け根]や、[乳房全体]や[乳首]や[乳首の周り]や、顔の[唇]や[口の中]や[耳]や、『クリトリス(陰核)』の[亀頭]や[亀頭の周り]や、『膣』の[膣口]や[Gスポット]や[ポルチオ]や、『アナル』の[挿入行為]や[排泄行為]・・・と多様であり。自分の性感帯を[ペニス]一辺倒で考えてしまう一般的な男性が陥りがちな、《嫌な興奮》である〔イク興奮〕の呪縛(ジュバク)による≪「単調な性的衝動」や、「一様な性的行動」や、「男尊女卑な志向」や、「異性(女性)への八つ当たり」などの≫『男の発想』を血なまこになって実施しようとする衝動はなさそうで。考えただけでも、{女性から見た}性行為が《好い興奮》である〔快楽の興奮〕を多様に、個性的に求めるモノであり、とても楽しそうに感じられて、何時(イツ)もとてもうらやましく思っていました。
そんなおり、最近の女性向け『性情報誌』を読むと、明らかに『男の発想』が持ち込まれていて、女性に“擬似的な男性化”をさせての≪『クリトリス』か『膣』での〔イク興奮〕による{一括(ヒトクク)りにした}“オーガズム”の追求や、[性的行動(性的調教願望)]や[性的衝動(性的公開願望)]の達成が、今の女性の大きな関心事である≫という偏向した内容が多く、女性の折角の多様性が失われてしまったのかと心配しつつ。
また、≪『男の発想』から捏(コ)ね繰(ク)り出された男女平等を掲(カカ)げる『可笑しな男社会』に阿(オモネ)っての紙面作りに{わざと}見せるコトによって、女性の{男社会の中での}社会進出の障害を取り除き、地位向上を目指すモノ≫であると推察(スイサツ)するコトも、出来なくはなくはないのですが。しかし、いくら女性の社会進出が進み、地位向上が実現しても、このままでは『男の発想』の問題衝動が解決しないままであり、結局は『可笑しな男社会』が存続してしまうだけでありまして。そんな女性の苦労が仇(アダ)となって、かえって『男の発想』の問題衝動を深刻化させ、『可笑しな男社会』を見直すチャンスが潰(ツイ)えてしまい。男性による女性への『支配的性調教』や『痴漢的性公開』の欲求が、際限なく{暴走しながら}肥大化して、〔世界〕に衝撃を与えたいという『野望』に形を変えて{世界秩序の混迷が深まるように}発散されていて。そして、そんな『野望』に乗り遅れた{小市民の}男たちが、身近な女性たちに『悪さ』をして発散する状況が{ドンドン進行して}広まっていると、さらに心配しているしだいです。
さらに言えば、男性の持っている性感帯が『ペニス』という一様なモノであっても、{多様な性感帯を持っている}女性特有のモノと思われがちな《好い興奮》である〔快楽の興奮〕が、本当はもっと自由に{多様に}感じられてもいいハズのモノなのですが。意欲的で開放的な女性向け『性情報誌』に比べて、男性向けの『エロ情報誌』は超保守的であり。男性への、《嫌な興奮》である〔イク興奮〕を『やっつけ仕事』で済ませる為の、可笑しな情報提供が主眼に置かれていて。これは言い過ぎなどでは無く、『エロ情報誌』は、男性を【エロ情報という麻薬】による“麻薬漬け”にしているのです。
そして、この“麻薬漬け”による呪縛が、『男の発想』を生み出し、『可笑しな男社会』を形成していて。少しかもしれないが、最近の女性向け『性情報誌』が、≪女性特有の性的嗜好と言って、『クリトリス』か『膣』(もしくは『乳首』や『アナル』)での「イク」・「イク」を{一様に}連発し、女性の『性的調教願望』や『性的公開願望』を{一律に}強調≫して『男の発想』に阿(オモネ)って、それに加担し始めているのですが。自由で無限に更新されるハズの女と男の関係が、それによってさらに硬直を強めているように見えてならないのです。
女と男の関係がどう在るベキかが、[宗教]や[科学]や[常識]などで語られ、硬直してしまった為に、人類の進化が止まって久しいが、このままではそれがマダマダ続いてしまいそうに思えてならないのです。
*女と男の『人類としての志』【4月5日・日】
{女性向けの}本からの情報によるものではあるのですが、女性の『性的嗜好』の成熟度は一般的に高く、性器や性感帯が多様で複雑である事にもよるのでしょうが、《嫌な興奮》とも言える〔イク興奮〕への拘(コダワ)りは薄く、《好い興奮》である〔快楽な興奮〕の方に関心が向いていて、個々の『性的嗜好』が個性的で{何か}楽しそうなのですが。
一方の男性は、一般的に『性的嗜好』は未熟だと言わざるを得ず、{男性向けの}エロ情報誌の内容はどれを見ても一律ですし、しかも何十年も前から一様で、呆れて笑ってしまうほどで。しかもその内容が、《嫌な興奮》でしかない〔イク興奮〕を如何(ドウ)にかして早く済ませてしまおうとする{やっつけ仕事的な}モノばかりのため。その相手をしないといけない女性にとっては、{性交が}とても詰まらない作業だろうし、何より女性が可哀相(カワイソウ)でなりません。
男性の中にも、《好い興奮》である〔快楽な興奮〕に関心を向けて、ゆっくりとした興奮を継続して楽しんでいる人が、全く居ない事はないと思いますし。女性の中でも、集中して多いという訳ではないだけで、〔イク興奮〕に個性として拘っている人が、そう少なくはないのでしょうが。ただ、たいていの男性が、《嫌な興奮》でしかない〔イク興奮〕を『やっつけ仕事』で済ませてしまおうと焦っていて。[痴漢(チカン)]や[淫行(インコウ)]や[強姦(ゴウカン)]などの『性犯罪』や、交際相手の女性を暴行してしまう『ドメスティックバイオレンス(DV)』や、交際を断られた女性に執着する『ストーカー行為』や、不特定の女性への逆恨みによる『通り魔犯罪』などに、どうしても走りやすい傾向にあるのです。
男性の問題は、男性自身の精神的未熟さを自覚できていない{お子様だという}事であり、{女性の問題は、男性の精神的未熟さに気付いていない{危機意識の薄い}事でありますが。この問題は、『性的な問題』に止(トド)まらず、『人の営み』に関わる多くの問題の原点になっていて。『男女平等』や『男女差の認識』などの『標語』や、思想的な『男女の分担』や宗教的な『男女の区別』などの『理念』を掲げても、多くの問題の解決を先送りにするだけであり、結局は問題の煩雑(ハンザツ)さが増しているだけでありまして。
精神的に未熟なままの男性が、女性の成熟さを学ぶコトは、{男性の性器の機能が一律であるという科学的定義への盲信があるので}そう容易(タヤス)くはないですし。精神的な成熟に励んできた女性が、未熟な男性を支援するコトは、{女性が性感帯を個別に開発している個人主義者であるので}そう容易くはなく。その影響により、物事を特定の『理屈』で捉(トラ)えてそれ以上は広くも深くも考えられない男性の性格や、物事の認識を自分の気分や都合である主観によって変える事に抵抗が無い女性の性格による、可笑しな男性主導の社会が成立してしまい。様々な分野での破綻を、そう簡単には回避できない事態が、延々と惹(ヒ)き起こされているのです。
そもそも『人類としての志』とは、「人(女と男)とは、“こう”在るモノ」というような普遍的な先入観に捉(トラ)われず、人類の進化した姿を{多様な全体の更新によって}組み上げて行くモノであり。男性が、男性の性器の機能は一律なモノだと信じる必要はなく、女性も、女性は性感帯を個別に開発しているだけの個人主義者である必要はなくて。
男性がもっと《好い興奮》である〔快楽な興奮〕に目が向いて、ゆっくりとした興奮を継続して楽しむゆとりが出来れば、特定の『理屈』に拘(コダワ)らずに物事を広く深く考究して行けるだろうし。女性がもっと、男性の精神的未熟さに目が向いて、男性が成熟するための支援に乗り出すゆとりが出来れば、物事の認識を客観的な必要に応じて【更新】する《男性の先回り》を、抵抗なく行なえるだろうと思うのです。
男性はよく女性への性的調教の必要性や、男性の性への不当な扱いへの不満などを口にし、女性への攻撃性を暴走させてしまう事があるのですが。明らかにそれらは、未熟な男性が《嫌な興奮》である〔イク興奮〕を早く済ませたり、《嫌な興奮》の感覚から逃れたりするための身勝手であり。現実には男性が成熟した女性に{見下げられて}付き合ってもらっていて、女性はそれで苦労をする事があっても、けっこう我慢をしてあげているようなのです。
そして、そんな可笑しな女と男のもたれ合いこそが、現代社会の深刻な諸問題の、重要な核心部分であったのです。
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