ラザロの復活の話です。
最後の過ぎ越しが近付いていた頃。ご自分が贖いとなって最後の敵である死を無にきたすという、イエスご自身の死も近付いていた頃。
「あなたが愛情(フィリア)を抱いてくださる者が病気です」とあるので、それまでにイエスが復活させた人たちとは、イエスとの関係性が違うことがわかる。人間イエスとしては、すぐにでも病気を治したいと思ったかもしれないけど、「この病気は死のためのものではなく神と子の栄光のため」と言われ、遠くからでも癒せるのにそうなさらず、なお2日そのまま留まられる。
イエスは「彼らを愛して(アガペー)おられた」とある。フィリアとアガペーでは出てくる行動が違うってことなんだろうなぁ。愛情を抱く者の死を、癒す手立てをお持ちなのに、ただ待っているのってどんな思いだったんだろうなぁ・・・
マルタがまずイエスを出迎えに行ったのは、ユダヤ人たちがいっぱい来ていて、特にマリアを慰めていたのもあるんだろうな。マルタがイエスに「ここにいてくれたら死ななかったでしょう」と言ったときは、幾分非難口調だったかも(心の声「なんですぐ来て癒してくれなかったのよぉ。ひどいじゃないのぉ。終わりの日に復活することぐらい知ってるわよぅ」みたいなw)。それに答えてイエスは、ご自分が復活であり命であることを信じるようにと言われ、マルタは信じてるとは言うけど、すぐに復活が起きるとは思ってなかったんだろうな。
マリアは同じ言葉をひれ伏してから言ってるから、悲しみと嘆きの方が強かったのかな。だからか、それに対するイエスの反応がマルタの時とは全く違う。ユダヤ人たちも泣き悲しんでいるのをご覧になって、新世界訳では「霊においてうめき、また苦しみを覚えられた」(33節)となってる。
黒崎註解によると、「霊においてうめき」で用いられてるギリシャ語はエンブリマオマイで、専ら憤怒の情(マルコ14:5)を表す。厳しく戒める意味(マタイ9:30マルコ1:43)に用いられている。単に愁傷の意味ではなく何かに対する反対の激情を意味する、とある。「苦しみを覚える」はタラッソーで、心騒ぎ(ヨハネ12:27、13:21のイエスの霊肉が苦闘の状態であるのと類似)。
他の訳では、「激しく感動し、また心を騒がせ」「心に憤り、かつ興奮して」「心になげき、激して」「心に憤りを覚え、興奮して」「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」などとなっている。
ものみの塔ではこの部分、イエスが心から深い同情心を表され涙したとしているけど・・・それがどうもピンとこなかった理由が少し分かった気がする。
イエスは憤っていたんだね。これほど人々を苦しめる死というものに対して。ずーっと人類史の最初から死を見てきたけど、この時は状況がちがった。あえて死ぬにまかせた友人。死に対しての人間の無力さも実感したのかもしれない。だから涙を流された。ご自分の感情ゆえの涙だったと捉えた方が自分的にはしっくりくる(同情心もあっただろうけど)。これからご自分が行おうとしている贖いの死が、人間にとってどれほど価値のあるものかも改めて実感されたかもしれない。(大げさに泣いてるユダヤ人や、不信仰なユダヤ人に対しては、別の意味での憤りもあっただろう)
死後4日経つと肉体も腐り、3日間近くをさまよっていた霊も離れて、完全に死んだとユダヤ人の間では信じられてたとか。だからイエスは4日後に来たんだね。復活はありえないと思われた死後4日経ったラザロが、イエスの声を聞いて復活した。
信じるなら神の栄光を見る。
神の栄光を見てから信じるのではなく。見ても信じない者が多い中で、信じる者は神の栄光を見る。
さて。ずっと疑問に思ってることがある。
死の苦しみを経験した者を復活させて、もう一度死の苦しみを経験させるというのはどうなんだろうと。
死は思ってるほど苦しいものではないのかなぁ。まぁ・・生きてるから苦しいのであって死んでしまえば苦しくはないだろうけど、死に至るまでの痛みや苦しみは2度も経験したくないよねぇ。そこんところどうなんだろう。
まぁ、若いうちは未来があるから復活はいいことかな・・・年取ったら、また死ぬのに復活って・・いやだよねぇ・・・(産みの苦しみと同じかなw産んでしまえば覚えてないっていうw)
最後の過ぎ越しが近付いていた頃。ご自分が贖いとなって最後の敵である死を無にきたすという、イエスご自身の死も近付いていた頃。
「あなたが愛情(フィリア)を抱いてくださる者が病気です」とあるので、それまでにイエスが復活させた人たちとは、イエスとの関係性が違うことがわかる。人間イエスとしては、すぐにでも病気を治したいと思ったかもしれないけど、「この病気は死のためのものではなく神と子の栄光のため」と言われ、遠くからでも癒せるのにそうなさらず、なお2日そのまま留まられる。
イエスは「彼らを愛して(アガペー)おられた」とある。フィリアとアガペーでは出てくる行動が違うってことなんだろうなぁ。愛情を抱く者の死を、癒す手立てをお持ちなのに、ただ待っているのってどんな思いだったんだろうなぁ・・・
マルタがまずイエスを出迎えに行ったのは、ユダヤ人たちがいっぱい来ていて、特にマリアを慰めていたのもあるんだろうな。マルタがイエスに「ここにいてくれたら死ななかったでしょう」と言ったときは、幾分非難口調だったかも(心の声「なんですぐ来て癒してくれなかったのよぉ。ひどいじゃないのぉ。終わりの日に復活することぐらい知ってるわよぅ」みたいなw)。それに答えてイエスは、ご自分が復活であり命であることを信じるようにと言われ、マルタは信じてるとは言うけど、すぐに復活が起きるとは思ってなかったんだろうな。
マリアは同じ言葉をひれ伏してから言ってるから、悲しみと嘆きの方が強かったのかな。だからか、それに対するイエスの反応がマルタの時とは全く違う。ユダヤ人たちも泣き悲しんでいるのをご覧になって、新世界訳では「霊においてうめき、また苦しみを覚えられた」(33節)となってる。
黒崎註解によると、「霊においてうめき」で用いられてるギリシャ語はエンブリマオマイで、専ら憤怒の情(マルコ14:5)を表す。厳しく戒める意味(マタイ9:30マルコ1:43)に用いられている。単に愁傷の意味ではなく何かに対する反対の激情を意味する、とある。「苦しみを覚える」はタラッソーで、心騒ぎ(ヨハネ12:27、13:21のイエスの霊肉が苦闘の状態であるのと類似)。
他の訳では、「激しく感動し、また心を騒がせ」「心に憤り、かつ興奮して」「心になげき、激して」「心に憤りを覚え、興奮して」「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」などとなっている。
ものみの塔ではこの部分、イエスが心から深い同情心を表され涙したとしているけど・・・それがどうもピンとこなかった理由が少し分かった気がする。
イエスは憤っていたんだね。これほど人々を苦しめる死というものに対して。ずーっと人類史の最初から死を見てきたけど、この時は状況がちがった。あえて死ぬにまかせた友人。死に対しての人間の無力さも実感したのかもしれない。だから涙を流された。ご自分の感情ゆえの涙だったと捉えた方が自分的にはしっくりくる(同情心もあっただろうけど)。これからご自分が行おうとしている贖いの死が、人間にとってどれほど価値のあるものかも改めて実感されたかもしれない。(大げさに泣いてるユダヤ人や、不信仰なユダヤ人に対しては、別の意味での憤りもあっただろう)
死後4日経つと肉体も腐り、3日間近くをさまよっていた霊も離れて、完全に死んだとユダヤ人の間では信じられてたとか。だからイエスは4日後に来たんだね。復活はありえないと思われた死後4日経ったラザロが、イエスの声を聞いて復活した。
信じるなら神の栄光を見る。
神の栄光を見てから信じるのではなく。見ても信じない者が多い中で、信じる者は神の栄光を見る。
さて。ずっと疑問に思ってることがある。
死の苦しみを経験した者を復活させて、もう一度死の苦しみを経験させるというのはどうなんだろうと。
死は思ってるほど苦しいものではないのかなぁ。まぁ・・生きてるから苦しいのであって死んでしまえば苦しくはないだろうけど、死に至るまでの痛みや苦しみは2度も経験したくないよねぇ。そこんところどうなんだろう。
まぁ、若いうちは未来があるから復活はいいことかな・・・年取ったら、また死ぬのに復活って・・いやだよねぇ・・・(産みの苦しみと同じかなw産んでしまえば覚えてないっていうw)