むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「1」 ⑦

2024年08月26日 08時38分41秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・それにしても、
「遠くて近いものは男女の仲」
と今の私が思うのは、
いったん別れた則光と、
三十になってまた、
かかわりを持とうとは、
思いもしなかったからだ

尤も則光も、
思いがけないことだったろう

別れてからは、
交渉なく暮らしていたので、
互いに宮中に仕える身になってから、
再会した時は、
正直、なつかしい気がした

大喧嘩をして、
憎しみあって、
別れたというのではなく、
逃げたというのでもないので、
私は則光を見た時、
情愛の濃い男きょうだいに、
めぐりあった気がしたのであった

彼は蔵人である

これは天皇の側近にお仕えして、
あちこちへ連絡に行くので、
定子中宮の女房たちのもとへも、
たびたび来た

則光は私のことを、
情愛の深い女きょうだいとは、
思えないようであった

宮中の局に私がいた時、
ここは細殿で、
清涼殿への通り道だから、
殿上人の往来が繁く、
昼も夜も沓音がする

この細殿の局は、
よその御殿と違い、
部屋が狭く、
いくつも区切った部屋が、
続いていて物音はつつぬけである

声高く笑うことも出来ないで、
夜昼ともに気をつけないと、
いけない

その沓音がふと止って、
ひそやかに戸を叩く者がある

私は声を殺して黙っていた

昼間、登華殿ですれちがいざま、

「元気かい?」

といった則光に違いない

こちらは火桶の火箸を使うにも、
用心して音を立てないように、
しているのだが、
それさえ気配でわかるらしく、

「いるんだろう?
おい、海松(みる)子」

とはては低い声で名を、
呼んでしまい、
あたり四方に知れ渡ってしまう

声で則光とわかるばかりでなく、
私の名前、海松子と呼ぶのは、
彼しかいない

則光をこんな公舎ともいうべき所へ、
招き入れたらどんな噂が立つやら、
私は仕方なく戸を開けた

則光が嬉しそうに入ろうとして、
彼方から一群の人々が、
やってくるのを見つけ、
途方にくれてたたずんでいる

私はこういう時、
機転の働く女で、
咄嗟に大きく戸を開け放ち、
殿上人の一団を迎え入れる風を、
みせた

人々はここへ入ろうと、
思っていなかったらしいが、
私が戸を開けたので、
次々立ち止まり、

「やあ、今夜はここで、
夜明かししようじゃないか」

「狭いのでもう座れません」

「あとから来た人は立って」

「おとなりの局の人も起こしなさいよ」

と女房たちを起こす

「いったいどうなさったんですの
こんな夜遅くまで」

「管弦のお遊びの流れです
同じ夜更かしするなら、
みんなで・・・」

という騒ぎになってしまい。
六位の蔵人や公達が、
あとからあとから来たので、
則光は失望して帰ってしまった

でも、おかげで、
私と則光の噂は立たずに、
まぎれてしまった

則光は私に絶えず、
言い寄っていた

むろん今は彼も、
新しい妻があり、
私と再婚したいという、
気もないのであった

私も二度と彼を夫にする、
気はない

家庭をつくり、
子供を育ててゆく気なんか、
なくなっている

私は父の遺産を、
もらえなかったかわりに、
父の生前、
則光と住むようにと、
小さい邸を三条にもらっていた

則光はべつに邸を持っていたので、
父にもらった邸で、
則光と住んだことはなかった

私はそこに長く住み、
女住まいだから荒れている

そこへ則光は、
ひそかに来るようになった

邸は築地など破れて、
池も淀み、水草が繁って、
庭は蓬でおおわれている

そういう古びて、
荒れた邸である

「ずいぶん草ぼうぼうだな
藪蚊がひどいだろう、夏は」

といったきりだった

父が死に、
則光のもう一人の妻が死に、
そうしたことが、
再び私と則光を結び付けた

私は則光と別れるきっかけを、
失った

則光はその頃、
母を亡くした子供を育ててほしい、
といった

ことわるほどの、
積極的人生への姿勢を、
そのころ私は持っていなかった

どっちだっていい、
と思って承知したら、
則光はさっそく連れてきた

三つくらいの、
わりに可愛い男の子で、
ふっくら肥えている

則光に似て、
のんびりした愛嬌のある、
顔立ちの人なつこい子だったから、
私は安心し可愛く思った

私は子供が珍しいのであった

こんな可愛らしいいきものを、
毎日おもちゃに出来るのかと思うと、
嬉しくて面白くなった

この子の母親が生きていたら、
この子も可愛く思えなかったかも、
しれないけど
母親が亡くなったいま、
おおっぴらに私は可愛がれる

こっちのものにできるから、
可愛いのだ

膝へ抱いたら、
はにかみながら腰をおろした

あまずらの匂いがして、
愛くるしい顔である

子供ってこうも、
肌がきれいで美しく、
清らかなものだったかしら?

「何ていう名前?」

「小鷹(こたか)まる」

とはっきり言った






          


(次回へ)

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