・弁のおもとは、
笑いながらいった
「とても文学に関心がおありなの、
定子姫は
古い歌もよくご存じで、
とくにあなたのおうちは歌人の家、
というので敬意を払っていらしたわ
あなたのひいおじいさま、
深養父どのの歌、
<夏の夜は
まだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月宿るらむ>
も、
『面白いわ
頓智のある、あたまのいい方が、
楽しんで作った歌だわ』
とおっしゃっていたわ
定子姫は、
ご自分のお好みを持って、
いらっしゃる方なの」
弁のおもとは、
定子姫が自慢のようであった
「あなたのお父さまに、
『心がわりした女に、
人に代わってよんだ歌』
があるでしょう
<契りきな
かたみに袖をしぼりつつ
末の松山波越さじとは>
あのお歌を、
定子姫はお手元の歌集に、
お選びになったのよ
あなたの歌もそのうち、
お目にかければ?」
「そんな・・・
あたしは歌はなぜか、
だめなの」
私は赤くなってしまった
私は歌について、
これといった好みも原型も、
できていなかった
何となく、
書きためた雑文のようなものは、
あったけれど
唐の書物は、
外国のことばかりであり、
物語のたぐいは、
荒唐無稽なおとぎ話が多い
東三条の大臣、
(道隆、道兼、道長の父、兼家)
の夫人の一人が、
二、三十年前夫婦仲を克明に記した、
手記を書かれたのが、
「蜻蛉日記」として世に、
広まっていた
私もそれを読んだけれど、
あまりに狭い世界の、
息づまるような深刻さに、
ついていけなかった
しかし世間の女たちには、
たいそう評判で、
乳姉妹の浅茅など、
「くり返しくり返し読みましたわ
あんなに身分の高い北の方でも、
ご苦労は絶えないのですわねえ」
などといっていた
夫、兼家の夜離れを恨み、
夫の顔色や言動に、
一喜一憂する、
美しい歌が点在して、
いかにも女の手になる、
物語ではあるのだが、
読み終えて心の底によどむのは、
やりばのないうっとうしさ、
暗さであるような気がされる
作者(道綱の母)は、
その正体を見据えて、
そこから真実を構築しよう、
というのではなく、
あるがままになまで書いている、
気が私にはされるのであった
うちの子供たち、
小鷹や小隼が何の気なしに、
いう言葉の面白いのと同じである
何より私は、
体質的にこういう、
低俗趣味は好かないのである
怨念も嫉妬も、
どこか美しく昇華していなければ、
私には快く受け取られなかった
子供の乳母たちが、
喜んで話題にする「落窪物語」
という流行小説も私には、
あき足りなかった
この作者は男なのか女なのか、
世に名は出ないけれど、
何となく下品な小説である
女のもとへ忍んでいく、
貴公子が雨でずぶぬれになるのは、
いいとして、牛の糞の上に、
尻もちをついたり、
読むのに堪えない
それに食べもの、道具、
反物などの布地、
金銀珠玉のたぐいなど、
克明に書きたて、
作者のいやしい物質的欲望の、
底しれぬ貪欲ぶりを、
ほのめかせている
文章もあさましく、
深みがない
乳母たちが争って、
貸し借りして読んでいるのに、
悪いけれど何となく、
教養の低い人種の愛読する、
もののような気がされるのであった
同じ継子いじめの物語でも、
「住吉物語」の方が、
まだしも古めかしくおっとりしている
「だから、
あたしが書きためたものは、
『自分が読みたいけれど、
どこにもないから、
仕方なく自分で書いた』
というようなものなの」
私は弁のおもとに、
そう説明した
「それ、
歌でも物語でもないとすると、
どういう風なものなの?」
「ほんの思いつきの、
走り書きなのよ」
といったら、
弁のおもとは、
「その内、ぜひ見せて」
といった
私はそのうち、
使いに持たせると、
約束した
(次回へ)