夜が明けて2日目、私たちは早朝6時前に豊実駅を出発した。
ここまでは勢いで来たため、日本海といってもどこへ行くか具体的な場所を決めていなかった。そこで、出発前に相談し最終目的地を新潟市「関屋浜」に決めた。
前日の走行距離は105㎞、日本海まで残りは約80㎞である。(今回のバイクによる実測距離より)
出発後は、そのまま459号線を走った。
この道路は、津川で49号線に合流するため、その方が戻る手間がなく効率的だったからである。
阿賀野川・磐越西線と並走しながら、割りと急こう配の下り坂をいいペースで走って行った。
順調に、鹿瀬 → 津川と走り抜け予定通り49号線に合流。
途中のコンビニで朝食を食べ、新潟の平野部を快調に飛ばして海を目指した。
ここまで来ると新潟は目前。
自然とペダルを漕ぐスピードもテンションも上がってくる。
休憩時間を削り、早く海に着こうと頑張って走った記憶が残っている。
新潟市内を走り、10時過ぎだったと思う。
私たちは、ついに目的地である日本海「関屋浜」に辿りついた。
到着後は、達成感と疲労からしばらく動けず、防波堤からぼーっと海を眺めていた。
その時、私たちが休んでいた隣の場所に出店を出していた一人の男性に声をかけられた。
「どこから遊びに来た?」
「自転車で福島から。」
その返事に唖然としていたが、「よく来たな~、これやるから食って行け。」と言われ人数分の焼きとうもろこしをもらった。
気持が落ち着いてくると、色々とやらなければならないことに気づく。
初めに、近くの防風林にテントを設営し宿泊場所を確保した。
そこに荷物を片付けたら、次は近くの食堂へ昼食を食べに行った。
午後からは、各自好きに時間を過ごした。
私は海に入って泳いだことは覚えているが、詳細はあまり覚えていない。
3日目、各々自由に過ごしながらも、午後からは帰りの段取りを話あっていた。
来た時に走った時間から考えると、早朝に出発すればその日の内に家に帰れるのではないかという結論になった。
もし無理でも、猪苗代あたりまでは行けるだろう。
その時は、猪苗代湖で1泊し次の日帰ればいいという事になった。
4日目、出発前に、日本海に来た記念にと貝殻と海岸の砂をビニール袋につめバックに入れた。そして、前日決めた予定通り朝5時に出発した。
帰りは、ひたすら49号線を帰るだけである。
安田辺りのコンビニで朝食を取り、来た道をひたすら走り続ける。
そして、昼前には県境を越え福島に戻ってきた。
その後も順調に走り続け、午後5時過ぎに猪苗代湖に到着。
ここで、今日中に帰るかの最終確認をした。
猪苗代湖から自宅近辺まではずっと下りのため、1時間半程度で帰れるだろう。
日も長い時期だし、無理してでも帰ろうという事になった。
もしかすると、「なんとしてでも家に帰りたい」という、ホームシックに似た感情があったのかもしれない。
全員が、家に帰りたがっていた。
猪苗代湖を出発し、磐梯熱海温泉からは会津街道へ入る。ここで49号線とはお別れだ。
最後は、各自宅へ向けて流れ解散。
私は、午後7時前に自宅へ到着した。
この日の帰宅は無理ではないかと考えていたが、1日で新潟から帰ってきたのである。
こうして、当初の計画より1日短かい行程で、自転車で新潟まで行ってくるという旅は終わった。
旅の目的だった「日の入りを見る」が達成できたかは残念ながら覚えていない。
友人の記憶だと、曇っていて見えなかったとのことである。
家に、当時の旅行で使った地図が残っている。
あらためて見ると、よくこんな地図1枚で行ってこれたなと思うほどのざっくりした内容だ。
今思えば、本になっている地図くらい買っていけよと思うが、無事に行ってきたのだから良しとしよう。
この旅が、私の人生に与えた影響はとても大きい。
これがなかったら、大人になって北海道へツーリングに行ったり、野宿しながら旅行したりなんてはしなかったと思うし、旅行自体に興味を持たなかったかもしれない。
ふとした時に、行き当たりばったりの無計画旅行に出たくなるのもこのせいだろう。
1991年 夏
その旅の思い出は、今も色あせること無く心に輝いている。
ここまでは勢いで来たため、日本海といってもどこへ行くか具体的な場所を決めていなかった。そこで、出発前に相談し最終目的地を新潟市「関屋浜」に決めた。
前日の走行距離は105㎞、日本海まで残りは約80㎞である。(今回のバイクによる実測距離より)
出発後は、そのまま459号線を走った。
この道路は、津川で49号線に合流するため、その方が戻る手間がなく効率的だったからである。
阿賀野川・磐越西線と並走しながら、割りと急こう配の下り坂をいいペースで走って行った。
順調に、鹿瀬 → 津川と走り抜け予定通り49号線に合流。
途中のコンビニで朝食を食べ、新潟の平野部を快調に飛ばして海を目指した。
ここまで来ると新潟は目前。
自然とペダルを漕ぐスピードもテンションも上がってくる。
休憩時間を削り、早く海に着こうと頑張って走った記憶が残っている。
新潟市内を走り、10時過ぎだったと思う。
私たちは、ついに目的地である日本海「関屋浜」に辿りついた。
到着後は、達成感と疲労からしばらく動けず、防波堤からぼーっと海を眺めていた。
その時、私たちが休んでいた隣の場所に出店を出していた一人の男性に声をかけられた。
「どこから遊びに来た?」
「自転車で福島から。」
その返事に唖然としていたが、「よく来たな~、これやるから食って行け。」と言われ人数分の焼きとうもろこしをもらった。
気持が落ち着いてくると、色々とやらなければならないことに気づく。
初めに、近くの防風林にテントを設営し宿泊場所を確保した。
そこに荷物を片付けたら、次は近くの食堂へ昼食を食べに行った。
午後からは、各自好きに時間を過ごした。
私は海に入って泳いだことは覚えているが、詳細はあまり覚えていない。
3日目、各々自由に過ごしながらも、午後からは帰りの段取りを話あっていた。
来た時に走った時間から考えると、早朝に出発すればその日の内に家に帰れるのではないかという結論になった。
もし無理でも、猪苗代あたりまでは行けるだろう。
その時は、猪苗代湖で1泊し次の日帰ればいいという事になった。
4日目、出発前に、日本海に来た記念にと貝殻と海岸の砂をビニール袋につめバックに入れた。そして、前日決めた予定通り朝5時に出発した。
帰りは、ひたすら49号線を帰るだけである。
安田辺りのコンビニで朝食を取り、来た道をひたすら走り続ける。
そして、昼前には県境を越え福島に戻ってきた。
その後も順調に走り続け、午後5時過ぎに猪苗代湖に到着。
ここで、今日中に帰るかの最終確認をした。
猪苗代湖から自宅近辺まではずっと下りのため、1時間半程度で帰れるだろう。
日も長い時期だし、無理してでも帰ろうという事になった。
もしかすると、「なんとしてでも家に帰りたい」という、ホームシックに似た感情があったのかもしれない。
全員が、家に帰りたがっていた。
猪苗代湖を出発し、磐梯熱海温泉からは会津街道へ入る。ここで49号線とはお別れだ。
最後は、各自宅へ向けて流れ解散。
私は、午後7時前に自宅へ到着した。
この日の帰宅は無理ではないかと考えていたが、1日で新潟から帰ってきたのである。
こうして、当初の計画より1日短かい行程で、自転車で新潟まで行ってくるという旅は終わった。
旅の目的だった「日の入りを見る」が達成できたかは残念ながら覚えていない。
友人の記憶だと、曇っていて見えなかったとのことである。
家に、当時の旅行で使った地図が残っている。
あらためて見ると、よくこんな地図1枚で行ってこれたなと思うほどのざっくりした内容だ。
今思えば、本になっている地図くらい買っていけよと思うが、無事に行ってきたのだから良しとしよう。
この旅が、私の人生に与えた影響はとても大きい。
これがなかったら、大人になって北海道へツーリングに行ったり、野宿しながら旅行したりなんてはしなかったと思うし、旅行自体に興味を持たなかったかもしれない。
ふとした時に、行き当たりばったりの無計画旅行に出たくなるのもこのせいだろう。
1991年 夏
その旅の思い出は、今も色あせること無く心に輝いている。
若いときの無謀なバカ旅行(褒めてます)は一生の財産ですよね。私もそういうのあります。
でも若いってそーゆー事だよなw
今じゃシャワートイレがないとウ○コもできないもんなぁ。
しかしアレよ。
阿賀野川沿いの景色もキレイなんだろうなぁ…
嗚呼…旅に出たい(遠い目)
あざーす!
若い時は、冒険したくなりますよね~。
自分で言うのも何ですが、いい体験したと思ってます。
○J.Jさん
年取ると、だんだんと楽なこと覚えますからね。
今は、こんなことできません。
紅葉の時期に、また行ってみたいですね。
川との景観がすてきでした。