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酒の肴を独断偏見でエブリデー更新。関西3県境の北摂(兵庫東北部、大阪北端、京都南部)に生息※敬称は略。

阪神淡路大震災の記憶

2014-01-17 | 日記
地の底から、ゴーという地鳴り。
その瞬間、体を突き上げた。
自動車のドアを勢いよく閉めた時のような、空気切り裂くバシーンという音が耳に響く。
年末年始の飲み過ぎが災いして風邪気味で発熱。
ベッドで寝ていた体がその瞬間、宙に浮き上がった。
19年前の早朝5:46だった。
6000人を超える犠牲者を出し、数十万人の人生を変えた。
神戸市東公園で17日、6343基の竹灯籠が鎮魂の火を灯した。
孤独死などで、多数の方々が震災後も亡くなっている。
関連死を含めると、その数は膨らむ。
人生でもう2度と経験することはない。
当時は、そう思った。
阪神淡路大震災。
陣痛を起こし、エレベーターの止まったマンション17階から命からがら病院に運ばれ、出産した兵庫区の妊婦さんは今頃どうしているのだろう。
当時生まれた赤ちゃんはもう、高校を卒業、社会人か大学生になっている。
高速道路が倒れ、街が焼き尽くされた。
我輩45歳。家人44、長女21、末娘14。
家族はみな無事だった。
住んでいたのは京阪神地域だったが、震源地からは離れていた。
岩盤の硬い地域で被害は、奇跡的に最小限にとどまった。
壁にヒビが入った程度ですんだ。
だが、水と火がなければ、どれだけ不便かを思い知らされた。
トイレを流すにも事欠いた。
風呂は近隣のゴルフ場まで行って並んだ。
人は不思議だ。
辛かったはずなのに、19年も経つと何とかなったと懐かしい思い出になってしまっている。
それも、家族みんなが無事だったからこそだ。
震災直後、取材で現場を歩いた(写真上は6階がつぶされた神戸市役所)。
神戸市内には神戸北部の岩盤の硬い地域をかろうじて運行していたJR福知山線で三田駅回り。
神戸電鉄(写真=三田駅)で神戸市内に入った。
瓦礫で足の踏み場もなかった。
自転車も走行は無理だった。
東京からの応援部隊は、交通遮断のため自転車を購入。
取材活動しようとしたが、パンクの連続であきらめた。
「人生観が変わりました」といわしめる現場の惨状だった。
(写真上は中山寺参道)
だが、人はそれでも乗り越える。
崩壊した家屋のそばの、少しばかりの空き地で炊き出し。
被災者の姿はたくましさを感じた。
真冬の寒空に火は温かくしてくれる。
一方で、恐ろしい火ともなる。
長田の街はまる2日、燃え続けた。
消火する水は不足し、消防車の行く手を瓦礫が遮る。
なす術がない。
2011-3-11-14:26
火より怖かったのは水だった。
東日本大震災のあの津波だ。
当時は東京に赴任中。
人生で2度も大震災に遭遇するとは思わなかった。
新聞記者として、現場に居合わせた幸運すら感じた。
そして、いま、南海トラフ大地震、第2関東大震災が30年以内にやってくるのは確実と言う時代にいる。
来年初夏に産まれる予定の孫には、経験しては欲しくない。


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