http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
より
小中華思想(しょうちゅうかしそう)とは主に朝鮮で唱えられた中華思想(華夷思想)の一変種であり中華文明圏の中にあって、漢族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想。自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想である。この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明への同化の程度によって文化の高低が判断されるものであった。
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「日清戦争」で日本を援助したユダヤ人マーカス・サミュエル
●1894年に「日清戦争」が勃発すると、「シェル石油」の創業者であるイギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルは、日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。
イギリス系ユダヤ人のマーカス・サミュエル
(1853~1927年)
世界初の「タンカー王」であり
「シェル石油」の創業者である。
1894 甲午農民戦争が起こる(東学党の乱)
1894 日清戦争が始まる
1895 下関条約が締結される
1895 三国干渉
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(左)アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。
日露戦争の時、日本を資金援助した。 (中央)「クーン・ローブ商会」
(右)司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)。
この本にヤコブ・シフが登場している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%83%BC
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マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)とは、アメリカ合衆国のインディアンに対する民族浄化と黒人の奴隷使役によって進められた白人種の西部開拓を正当化する標語。「明白なる使命」や「明白なる運命」などと訳出される。
概要
1845年、ジョン・オサリヴァンが用いたのが初出である。この際は、合衆国のテキサス共和国の併合を支持する表現として用いられ、のちに合衆国の膨張を「文明化」・「天命」とみなしてインディアン虐殺、西部侵略を正当化する標語となっていった。19世紀末に「フロンティア」が事実上消滅すると、合衆国の帝国主義的な領土拡大(米西戦争やハワイ併合など)や覇権主義を正当化するための言葉となった。
1890年にフロンティア消滅が確認され、太平洋に進出したアメリカは、1898年の米西戦争の勝利でグァム島とフィリピンを獲得し、ハワイを併合し、次の獲物である支那大陸に進出しようとした。
ところが、この時期には支那(当時は清国)は既に他の列強にて分割されており、後の祭りでアメリカが入っていける地域はほとんど残っていなかった。香港と揚子江沿岸のめぼしい地域はイギリスが押さえ、ベトナムから広東まではフランスが押さえていた。また、日露戦争後の三国干渉によって山東半島はドイツが押さえ、遼東半島はロシアの手にあった。支那大陸沿岸の主要な港は西欧列強によって独占されていた。
支那の「生体解剖」
当時のアメリカはイギリス、フランス、ドイツ、ロシアよりも後進国であったため、なすすべがなかった。せいぜい上海のような大都市の租界に入れるだけだった。
このような状態において1899年、アメリカの国務長官・ジョン・ヘイはイギリス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、フランスの6ヶ国に対して「門戸解放宣言」と呼ばれる通牒を発した。この骨子は、支那に租借地や勢力範囲をもつ列国が、その中の条約港や他国の既得権益に対して干渉しないこと、またその勢力範囲において関税や鉄道運賃の面で他国に不利な待遇を与えないこと - を謳ったものである。要するに、支那における「勢力範囲の存続を前提として」その中での通商上の機会均等の原則を提唱したものといっていい。もっと簡単に言うと、「俺にも支那の権益の分け前をよこせ」と宣言したという傲慢なたわごとにすぎないものだった。
翌1900年、北清事変(義和団事変)が発生し、各国連合軍が出兵して清国分割の危機が激化すると、ジョン・ヘイは再び第二次の門戸開放通牒を列国に送った。
第二次門戸開放通牒
門戸開放宣言があったからといって何も変わりやしなかったのだが、日露戦争によってこの情勢が変化する。
ポーツマス条約により、遼東半島の租借権がロシアから日本に移り、満洲鉄道(満鉄)も日本の所有になった。
白人先進国に対しては何もすることができなかったアメリカだが、有色人種の日本ならば何とかなると考え、日本の権益を侵食して支那大陸に進出することにした。日露戦争でロシアを追って満州に権益をもった日本だが、今度は日本と支那の関係に日米関係が絡み合うかたちになった。その先駆が鉄道王・ハリマンの対日交渉だった。
桂・ハリマン仮条約
このたわごとにすぎなかった門戸開放宣言は1921年のワシントン会議でアメリカの策略により明文化されてしまう。
ワシントン会議(1921年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%A8%88%E7%94%BB
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オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、War Plan Orange)は戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。カラーコード戦争計画のひとつであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別視していたわけではない。しかしながら、最終的には原爆投下の原動力となった側面は見逃すことは出来ない。計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%A8%88%E7%94%BB
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ホワイト計画:アメリカ合衆国国内における内乱を想定していた。後にガーデン・プロット計画へと発展している。計画の一部は1932年のボーナスアーミー派遣の際に利用された。最も懸念されていたのは国内の共産主義者による蜂起であった。
グレイ計画:西インド諸島諸国を扱う。
パープル計画:中央アメリカ諸国およびロシアを扱う。
グリーン計画:親アメリカ政権を樹立するためにおこなうメキシコ侵攻をあつかう。1946年になり公式に凍結された。
ゴールド計画:フランスおよびカリブ海のフランス領を扱う。
ブラック計画:ドイツとの戦争を扱う。最重視されたケースは、ドイツがフランスおよびカリブ海のフランス領を占領し、これを拠点にしてアメリカ東海岸への侵攻を開始した場合を想定していた。
インディゴ計画:アイスランド侵攻を扱う。1941年にデンマークがドイツに占領された際に、アメリカは実際にアイスランドを占領している。
ブラウン計画:フィリピンの暴動鎮圧を扱う。
イエロー計画:中国での戦争を扱う。日中戦争における北京の防衛および上海の確保が目的とされていた。
バイオレット計画:中国国内の内乱への介入を想定していた。
オリーブ計画:スペインとの戦争を扱う。
シルバー計画:イタリアとの戦争を扱う。
エメラルド計画:レッド計画と関連したアイルランド侵攻を扱う。
タン計画:キューバへの介入を扱う。
シトロン計画:ブラジルとの戦争を扱う。
レモン計画:ポルトガルとの戦争を扱う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3
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1930年代後半、第二次世界大戦の機運が高まってくると、世界はナチス・ドイツを中心とする枢軸国と、イギリスを中心とする連合国に2極化しつつあった。その為、それまで国家、もしくは国家連邦ごとに想定されていたカラーコード戦争計画は古くさいものとなり、元々実戦用のシミュレーションというよりも、将兵の訓練用に制定されたものであったこと、さらには新兵器である航空機の飛躍的進歩により、役に立たないものと化しつつあった。
そこで、まず国家相互の関係を整理したうえで、複数の国家と、アメリカが戦争状態になることを想定した、レインボー・プランを策定した。想定は1から7までの番号で分けられており、その内日本・ドイツ・イタリアの3ヶ国(正確には、その先進3ヶ国とそれに同調するやや規模の小さい国家)を仮想敵国としたものがナンバー5だったと言われている。
他にも、カラーコード戦争計画時代のものを引き継いだイギリスを仮想敵としたもの、また、ソ連を仮想敵としたものも存在したと言われている。日・独・伊も不可分であったわけではなく、ドイツの先制攻撃による単独開戦、またはドイツとイギリスが同盟国となった場合の大西洋方面での開戦の想定もされていた。
制定は1939年と言われているが、真偽は定かではない。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html
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1. 概 要
1949年日本占領連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本での翻訳出版を禁じた衝撃の書。戦後50年記念出版(帯書きより)。
1.パールハーバーは青天の霹靂ではなかった。アメリカは、さしたる被害なしに日本に第一撃を仕掛けるように画策した。
2.原爆投下は必要なかった。それは日本に対して使ったのではなく、ソ連との政治戦争で使用したのだ。
3.終戦直後、「アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもない」と主張したアメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズ。日米関係が軋む今日、日本人必読の書!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AA%AC
真珠湾攻撃陰謀説(しんじゅわんこうげきいんぼうせつ)は1941年12月8日(現地時間は7日)の大日本帝国海軍の真珠湾攻撃を、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本や、終戦後のアメリカでも唱えられていた。現代では第31代大統領やマッカーサーなどのルーズベルト非難が明らかになっている。
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/F6.htm
より
大西洋横断に成功したリンドバーク大佐が、南太平洋の激戦地で前線を視察して書いた「リンドバーク第二次大戦日記」には「米軍は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない」「海兵隊は日本軍の投降を滅多に受け付けない」「敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった」と書かれています。また、太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは「我々は捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、未だ息のあるものを他の死体とともに穴に投げ入れ・・・」と書いています。ジョン・ダワー教授の「人種偏見」には「日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百、何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦長は、この虐殺をを公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を送られている」と書かれています。連合軍が捕虜を一人もとらずに虐殺した例は枚挙に暇がないのです。(以上ジュピター出版「世界が裁く東京裁判」より)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html
より
アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
沖縄本島には千二百隻の艦船に分乗する十七万人のアメリカ軍が来攻した。
わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。
―――――――
以下、マックス・ヘイスティングス著(イギリスの歴史作家)
「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」
ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
―――
一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。
とくに沖縄戦がそうだった。
クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。
地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、
やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、
何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、
丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、
「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」
と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。
女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、
手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C
より
勢力均衡モデル
勢力均衡モデル(Balance of power model)とは、一つの勢力(国家、国家群)が強大化した場合、その他の国々は連合化や軍事力の増強などによって、勢力を拮抗しようとする現象のモデルである。
この勢力均衡モデルはさらに「二極型勢力均衡モデル」と「多極型勢力均衡モデル」がある。二極型勢力均衡モデルとは、二つの勢力のみが主に勢力を均衡させようとするものであり、冷戦期の米国とソ連の関係がこれにあたると考えられているが、歴史的には稀な場合である。多極型勢力均衡モデルは、複数の勢力が同時に勢力を拡張し、均衡させようとするものである。歴史的にはこの場合が多く、第一次世界大戦や第二次世界大戦はこのモデルに合致すると考えられている。
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