碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『拾有七年』を読む  (37)

2015年11月15日 16時31分58秒 | 『拾有七年』を読む

   ebatopeko

 

       『拾有七年』を読む  (37)

     

        (故郷の眺望と旧知との再会) その4

 

   (前回まで) 

 『拾有七年』は、米子の生んだジャーナリスト碧川企救男の紀行文である。庶民の立場をつらぬいた彼は、日露戦争時においても、民衆の立場からその問題性を鋭くつき、新聞紙上で反戦を主張した。

 碧川企救男は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)を出て、東京専門学校(現早稲田大学)に進学したのであった。それから17年ぶりの明治四十五年(1912)、開通したばかりの山陰線を通って、郷里鳥取の土を踏んだ。その紀行文である。

  碧川企救男が米子に着いたのは朝の九時半であった。彼の家のあった天神町の西にあった内町に向かった。内町には西村家があり、兄(碧川熊雄)の嫁である「なをの」の里であった。

 西村氏とは、米子最初のキリスト教の信者になった碧川企救男の父真澄につづいて二番目の信者となった西村佐司衛の家である。佐司衛の長男で「なをの」の弟である西村卯はのち東京帝大独法を出て検事となり、やがて大審院(今の最高裁)の検事となった。昭和20年に退官し勲二等を受けている。

 次男の徳吉は、のち尾高町の医師中村家の養子となり、東京帝大を出て「聖路加病院」に勤めた。そしてのちアメリカ赤十字病院の外科部長となり、第一次世界大戦では、ベリア出兵に参加し傷病兵の治療にあたった。


 

  (以下今回)
 
 僕の育った家(注:碧川企救男の紀行文である『十有七年』であり、育った米子の町に17年ぶりに帰った)の事を書いた序でに僕の家の近所の人々の消息をも少し語らして呉れ給へ。

 僕は、留(注:今は碧川企救男の家が引っ越して、西村家に託して貸し、家のこと一切をまかせている「留夫婦」のことで、企救男が郷里に帰るについて最も首を長くしていた夫婦のことであった)

の案内で旧居が、今空き家になっているのを見ると、直ぐ三、二日この旧居に寝起きすることに決して、蒲団を運ばして十七年前に僕の居間であった二階の一室に仮寝の座敷を定めて、久々に近所の人と杯を挙げて祝しあった。

 僕は先ず「あまがえや」の爺さんの為に祝杯を挙げた。「あまがえや」の爺さんは今年八十二になる。僕の家の向側に住んでいた彼はむしろ世の不幸なる男であった。二三人の娘を持っていたが、いづれも不幸にして早く婿と死別して、小さい孫を連れて皆実家なる爺さんの家に帰って来た。

 十七年前の爺さんの家の困惑と混雑は今でも見えるようである。十三を頭に五人の孫が皆、此の爺さんと寡婦のおのぶさんにすがってる。爺さんは毎日甘酒の荷を担いで稼ぐ、おのぶさんはひねもす織械(はた)に対して、桟(おさ)の音を止めぬ。

 爺さんの額の汗は孫の着物となり、おのぶさんの桟(さん)からは子供の日々の食物が織り出(いだ)される、むしろ悲惨である。しかも爺さんは平然として稼いだ。彼の全身はすべて孫の為に犠牲になっている。

 爺さんが時々小舟にこの孫共を載せて遊ばしているのを見て、近所の人々は賽(さい)の河原だと言って暗涙を流した。僕もよくその賽の河原をみた、そして人の親の厚い情けに感じた。

 しかし、爺さんの苦心は遂に成功した。十七年の後の今は、この孫たち悉(ことごと)く大きくなって、一番末のが徴兵に行ってるばかりで、他は悉く一家の稼ぎ人となり、爺さんとおのぶさんに日々の所得を渡している。

 精勤な爺さんは、しかし未だ「あまがえや」を辞めぬ。八十二の年になっても彼は毎日荷を担いで米子の町を隅から隅まで歩いているのである。恐らく彼の呼び売りの声は彼の死ぬまで続くであろう。



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